第37話「聖女ではなく王妃として」
「保護命令は受け入れません」
ベアトリスは、教会の使者へ告げた。
「王妃様は、魔族に欺かれておられます」
「共同墓地を掘ったのは人間国の歴史家です。徴税台帳も、独立軍の命令書も人間が残したものです」
「それでも弟君の姿は、民へ不安を与えます。聖堂で清めを受ければ――」
「弟は汚れていません」
教会は、ベアトリスを平民出身の聖なる王妃として持ち上げてきた。
エドガーへ選ばれ、悪女に耐え、民を救う女性。
その物語の中では、彼女の弟に異種族の形質があってはならない。
実際のリンデ家は平民ではない。
国境の川辺に続く古い家であり、旧連合時代の婚姻台帳も残っている。
教会はその家名を語らず、何も持たない娘が選ばれた話にした。
そのほうが、聖女の物語として短くまとまる。
使者の後ろに立っていた若い地方司祭が、ためらいながら口を開いた。
「王妃様。私の教区にも、生まれつき瞳の形が違う子がいます。今回の命令が出てから、親たちは洗礼名簿から子の名を消してほしいと言い始めました」
「何を言いたいのです」
教会の使者が振り返る。
「弟君を呪いと認めれば、似た子をすべて聖堂へ連れていくことになります。私たちには、病気か先祖返りかを見分ける知識もありません」
「だからこそ、教会が保護する」
「家族から引き離すことを、保護とは呼べません」
若い司祭の声は震えていた。それでも言葉を引っ込めなかった。
教会は一枚岩ではない。
王国の正統性を守りたい者、信じてきた教えが崩れるのを恐れる者、目の前の家族を守ろうとする者が、同じ法衣を着ていた。
「私は聖女ではありません」
ベアトリスは王妃の印を机へ置いた。
「間違える一人の人間です。だから、証拠と制度で弟を守ります」
使者は、教会がベアトリスの婚姻を支持したことを思い出させた。
「民は、王妃様が神に選ばれた方だから従うのです」
「私が間違えたときにも従わせるためですか」
「国を一つにするには、疑わないための象徴が必要です」
「疑えない象徴は、国を一つにするのではなく、口を閉じさせるだけです」
エドガーは使者を退室させたあと、声を落とした。
「シリルを一時的に離宮へ移そう」
「名を変えた隔離です」
「民が落ち着くまでだ。君と弟を守りたい」
「六年前も、守るために弟を屋敷へ隠しました。その結果、弟は教育も診察も受けられなかった」
「今度は王家が守る」
「本人の意思を聞かずに?」
エドガーは答えなかった。
その夜、教会の護衛隊がシリルの屋敷を囲んだ。
教会は武器を抜かなかった。
祈りの歌を歌い、白い布を掲げ、シリルを救うために来たと繰り返した。
力ずくで追い払えば、王妃が信徒を弾圧したという形になる。
だが、包囲の外には別の聖職者もいた。
昼間の若い司祭と、国境の診療所で働く修道女たちである。
彼らも祈りの灯を持っていたが、護衛隊へ向けて道を開けるよう求めていた。
「教会に逆らうのですか」
護衛隊長が問う。
「この子を連れ去る命令に逆らいます」
「信仰を捨てると?」
「捨てる訳ではありません。あなた一人に決めさせません」
同じ祈りを口にする者同士が、屋敷の門を挟んで向かい合った。
アレクシアの旧派閥からは、護衛隊長を事故に見せて殺し、シリルを秘密裏に国境へ逃がす案が届いた。
アレクシアは提案者を旧派閥から除名し、計画書そのものをベアトリスへ送った。
「実行させますか」
フェンが尋ねた。
アレクシアは、帳簿へ伸びる黒い文字を見た。
護衛隊長を消せば、教会は魔族による暗殺だと訴える。シリルは一生、逃亡した汚れた子として扱われる。
「いいえ。あなたが表から迎えに行って」
「使者の印を見せ、昼の大通りを通ります」
「襲われたら?」
「逃げません。誰が王妃の弟を襲ったか、全員に見てもらいます」
フェンは王妃の正式な護送状を持ち、正午に屋敷の門を開いた。
シリルは首元を隠さず、歩いて馬車へ乗った。沿道には教会の信徒、新聞記者、都市代表が並んでいる。
護衛隊は手を出せなかった。
一人の司祭が馬車の前へ立った。
「その子は、自分が何をされているか理解していない」
フェンは道を空けるようには訴えなかった。
「本人に聞いてください」
シリルが馬車の窓を開けた。
「議会へ行きます。姉と話して決めました」
「魔族に言わされたのでは?」
「今、ぼくの代わりに答えようとしているのは、あなたということでしょうか」
沿道の記者が、その言葉を書き留めた。
司祭は道を退くしかなかった。
三身分会議で、シリルは自分の目と鱗を公開した。
「私は呪われていません。治してほしいとも、隠してほしいとも言っていません。同じ体質の子が、私より身分が低いという理由で閉じ込められないようにしてください」
ベアトリスは、先祖返りを理由とする拘束と就学拒否を禁じる保護令を提出した。
聖職者席の半数は反対した。
貴族席からも、家の中の教育へ国が口を出すなという声が上がった。
賛成する聖職者の間でも意見は割れた。
「先祖返りと医師が認めた者だけを対象にすべきです」
地方司祭の提案に、国境の修道女が首を振る。
「診察を受けられない貧しい子は、認められる前に連れていかれます」
「では、病気で保護が必要な子まで家へ返すのですか」
どちらも、子どもを守ろうとしていた。だが、何を危険と考えるかが違う。
ベアトリスは、用意していた法案を完璧なものだと主張しなかった。
「拘束と治療を分けます。本人または家族が拒んだ場合、教会だけでは連れ出せない。命に危険があると医師が判断した場合は、都市と聖職者の双方が選んだ審査人へ申し立てる。診察費は王妃府が負担します」
「審査を待てない急病なら?」
「命を救う処置を優先します。ただし、落ち着いた後に、何をしたか本人へ説明する義務を残します」
ザハルが尾を失った経験から、共同調査団へ提出した条件だった。
ベアトリスは、シリルだけを王妃の弟として例外にする案を拒んだ。
「弟だけが助かる法律なら、王家の特権を増やすだけです」
都市代表と、国境の医師たちが賛成へ回った。保護令は大差ではなく、わずかな票差で通った。
同時に、三身分会議の承認を得て、王倉開放後の配給監査、難民救護所、都市代表会議を王妃府の管轄へ移した。
エドガーの善意を補う役ではなく、自分の責任で人間国を動かし始めた。
エドガーは採決結果へ署名した。
だが、議会を出たあとに言った。
「君が私へ相談してくれれば、もっと穏やかな方法を探せた」
「相談しました。あなたは隔離を穏やかな保護と呼びました」
「私は君を敵にしたくない」
「私もです。ですが、同意できないときに言葉を変えてまで、それに従うことはしません」
旧離宮へ戻ったフェンの名が、アレクシアの帳簿で銀色に変わる。
――痩せ狼から、月路銀狼へ。
知らせを受けたのは、旧離宮の旧舞踏室を作り替えた共同地図室だった。
かつて雨に濡れた書類を乾かしていた部屋の壁を、今は両国の水路図と避難路が埋めている。
その直後、国境の通信糸が激しく鳴った。
人間の巡礼団が、魔族に拉致されたという急報だった。




