第36話「二つの正史」
魔王の廃位審議が続く間も、共同調査は止めなかった。
アレクシアと魔王は、必要な書類だけを交わした。二人きりで食事をすることも、幼い名で呼ぶこともなくなった。
ベアトリスとの共同調査は一年続いた。
二十三歳で共同調査を始めたアレクシアとベアトリスは、報告書を公表する春には二十四歳になっていた。
最初の人生で国が滅びた年齢まで、あと一年しかない。
最初の三か月は、資料を同じ机へ置くことさえできなかった。
人間国の歴史家は、魔王国の原本へ触れる前に写しを要求した。魔王国の記録官は、人間側が都合の悪い頁を持ち帰ると疑った。
そこでルルクが原本の状態を記憶し、シェラが開封から返却までを両国へ同時に伝えた。
誰が何頁を読んだかまで記録する、ひどく時間のかかる調査になった。
調査室は、国境の旧関所を改めた建物だった。
人間国側の窓からは麦畑が、魔王国側の窓からは湿地が見える。
真ん中に置かれた長机だけが、どちらの国にも属していなかった。
最初に止まったのは、人間国が持つ独立直前の裁判記録だった。
「原本を国境へ運べば、魔族に書き換えられます」
人間国の保管官は、要約した写しだけを机へ置いた。
「要約する者が選んだ記録では、共同調査になりません」
魔王国の記録官が突き返す。だが彼も、中央軍の徴発命令については「現在の防衛に関わる」と原本を出していなかった。
机の向かいから、ベアトリスが尋ねた。
「あなたは、魔王国が隠す原本を信用できますか」
「できません」
「では、人間国が隠す原本を、相手に信用せよとは言えませんね」
保管官は口を閉じた。
アレクシアも、魔王国の記録官へ同じことを告げた。
「相手の罪だけ原本で示し、自分の罪は要約で済ませる報告書なら、今ここで焼いたほうが早いわ」
結局、両国は原本を国境の水門まで運び、保管官本人が立ち会う条件で開封した。
調査団が最初に合意したのは歴史ではなく、互いに同じだけ疑われることだった。
十日ごとに、血冠が復元した王統史も警備付きで届いた。本人が調査会へ出ることは認められていない。
四つ目の箱には、血冠家の先代当主が出した写本命令が入っていた。
――人間領から翌年まく分まで徴発したとの一節は、王統の名誉を損なうため写さないこと。
魔王国にも、血冠家にも不利な文書だった。
アレクシアが理由を尋ねると、返ってきたのは短い書面だった。
――史料を復元せよと命じられた。王統を弁護せよとは命じられていない。
謝罪はなかった。だが、復元された頁には、削除された年代、命令した当主、根拠に使われた法令が一つずつ添えられていた。
血冠が許されたわけではない。ただ、死ねば終わったはずの判決が、今も彼に仕事をさせていた。
「早く答えを出せば、戦争を止められるのでは?」
シリルが尋ねたことがある。
「急いで作った答えは、信じたい側しか信じません」
ザハルが答えた。
「両国が嫌がる証拠まで、同じ手順で確かめる必要があります」
シリルとザハルは旧水路を歩き、両国の歴史家は戸籍、墓地、徴税記録を調べた。
水路の底からは、両国の土器の欠片が同じ層で出た。
シェラの通信糸も水門の管を通り、初めて国境の両側へ同じ文章を届けられるようになった。
人間国の歴史書には、独立戦争の始まりがこう記されている。
――魔族王が人間の穀物を奪い、飢えた民を武力で従わせた。
魔王国の歴史書では、同じ年をこう呼んでいた。
――人間総督が共同穀倉を奪い、八種族を飢えさせて反乱した。
国名の書き方も違っていた。
人間国の歴史書は、自国をエルディア王国と記し、相手を魔王国と呼ぶ。
魔王国の歴史書は、自国を黎明連合王国と記し、エルディア王国という名を一度も使わない。
西部領、または反乱地域とだけ書かれている。
相手の国名を認めないことも、正史の一部だった。
「どちらが正しいの?」
シリルが尋ねた。
「両方です」
人間国の老歴史家が答えた。
「そして、両方とも足りない」
四か月目、独立前の徴税台帳が見つかった。
正確には、一冊の台帳を切り分けた二つの断片だった。
人間国側の断片には、人間領から運び出された穀物の量が残る。
魔王国側の断片には、その穀物を受け取った中央軍閥の名が残っていた。
どちらも、自国に不利な半分だけが欠けている。
「後から組み合わせた偽造品です」
両国の若い歴史家が、ほとんど同時に言った。
ルルクが二枚の切断面を順に包み込んだ。
青灰色の身体の中で、虫が食った小さな穴と、こぼれた油の染みが重なり、切断面を越えて一つにつながった。
ザハルが紙へ残った水分を確かめる。
「同じ倉に、同じ年月置かれていました。少なくとも、戦争の後に別々に作った紙ではありません」
反論するなら、紙ではなく内容へ向き合うしかなくなった。
人間領からの徴発は人口に合わせて増えているのに、議会の席は一つのままだった。
中央の軍閥は戦争を理由に制度改革を拒み、人間の村から種籾まで取り上げた。
一方、独立軍の命令書には、占領した町から非人間住民を追放し、土地を人間の兵へ分けるよう記されていた。
人間国の若い歴史家は、その命令書を偽書だと言った。
「独立軍は、自由を求めて戦ったのです。住民追放など、魔王国が後から書き足したに違いない」
老歴史家は紙を光へ透かした。
「この署名は、初代王ハラルド・オルドリックのものだ」
「認めれば、建国の正しさが崩れます」
「正しい理由で始めた戦いに、正しくない命令が混じることはある」
魔王国側でも、中央軍閥が人間領から種籾まで取り上げた記録を隠そうとする者がいた。
徴発と、人間集落への集団処罰を命じたのは、連合軍の鎮圧司令官ドルガである。現在の剣冠家の先祖にあたる。
「命令だけで、実際に奪った証明にはならない」
魔王国の記録官が言うと、部屋の後ろにいた老いたゴブリンが手を挙げた。
徴税所で働いていた者の聞き取り役として呼ばれていた男だった。
「運びました。種籾と知っていて、荷車へ積みました」
「四十年以上前の話を、見たように言うな」
「父の記録です。署名もあります」
男は家に隠されていた作業日誌を差し出した。
表紙は油紙で二重に包まれている。
四十年、誰にも見せずに置かれていた厚みだった。
命令へ逆らえば家族の配給を止めると言われ、村人の泣き声を聞きながら袋を運んだと書かれている。
日誌は一代のものではなかった。
前半は独立戦争のころ、人間領から種籾を運んだ代々の記録である。
後半は四十年前、同じ命令が魔王国内の従属労働の村へ出されたときの、この男自身の記録だった。
徴発される側は、もう人間族ではない。
飢えさせる相手を替えただけで、命令の書式は同じだった。
「百年以上前に終わった話ではありません。同じ紙に、二度書いてあります」
「これを出せば、お前の一族も略奪へ加わったと記録されるぞ」
「加わりました。命令されたことと、運んだことは両方残してください」
若い歴史家たちは黙った。建国者だけを悪人にしても、中央軍閥だけを悪人にしても、この日誌は収まらない。
アレクシアは両方の異議を、報告書から消さなかった。
誰が何を認めたくなかったかも、歴史の一部だからである。
共同墓地には、九種族の名が同じ日に刻まれていた。
墓地は国境の林の中にあった。
大きな石碑には軍人と貴族の名が刻まれ、その後ろの小さな石には、料理人、荷運び、農民、子どもの名が並んでいた。
シリルは一つの家族名を見つけた。
人間の母、リザードマンの父、種族の記載がない二人の子。
四人とも、同じ日に死んでいる。
「この子たちは、どちらの国の犠牲者なの?」
「分かりません」
老歴史家が答えた。
「分からないまま、両方の国が自分たちの死者に数えてこなかった」
魔族に殺された人間だけでも、人間に殺された魔族だけでもない。
制度を変えなかった支配者と、怒りを異種族へ向けた独立派。その双方が、互いの被害だけを正史へ残した。
「人間が増えたから、国が壊れたのではないのね」
シリルが言う。
「増えた人口を、古い一議席へ押し込め続けた。変えるべき制度を変えず、利益を得る者が争いを利用した。それが始まりよ」
アレクシアは答えた。
共同調査団は、二つの正史を消さなかった。
左右の頁へそれぞれ載せ、その下に同じ徴税額、命令書、死者数を置いた。
国ごとの記憶が違っても、証拠まで別々にしないためである。
報告書の題名も、最後まで決まらなかった。
人間側は《独立戦争再検証報告》を求め、魔王国側は《西部反乱共同調査》を譲らない。
ベアトリスが、左右に二つの題名を置くことを提案した。
アレクシアは賛成した。
二つの題名の下へ、同じ副題だけを置いた。
――九種族が失ったものの記録。
報告書が公開されると、人間国の教会が反発した。
魔王国でも、剣冠系の退役軍人が抗議した。
人間族を再び建国種族として扱えば、独立戦争で死んだ魔族を裏切ることになるという。
一方、人間国の国境都市では、自分たちが魔族の子孫でもあると記された頁が焼かれた。
真実が公表されても、すぐに和解が生まれるわけではない。
それでも、焼かれた本と同じ内容が、シェラの通信網と両国の記録庫へ残った。
人間は魔族の支配から神に救われたという教えが、王国の正統性を支えている。
シリルの身体と共同墓地は、その物語を揺るがした。
教会は王宮へ《保護命令》を出した。
――魔族の術により身体と心を汚された王妃の弟を、聖堂で保護しなければならない。
命令書には、保護を解く条件が書かれていなかった。
同じ日、シリルは共同調査団へ短い願いを出した。
――名簿から、ぼくの名前を消さないでください。
十三歳が聖堂へ入る前に守ろうとしたのは、自分の身体ではなく、自分の証言だった。




