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第35話「同行には同意した」

 国境水門の紋章が開いた夜、《七生の黒冠》が鳴った。


 宝珠のない六つのくぼみから、低い音が響く。


 魔王は黒冠を王墓の祭壇へ移し、アレクシアだけを呼んだ。


「水門の紋章は、五つの国家印の一つ《盟印》へつながっている。人間族の印が再び認められ、封じられていた記録が開いた」


「何の記録?」


 魔王は答えなかった。


 黒冠へ触れた瞬間、焼けた王都の匂いが戻った。


 脇腹を刺された痛み。崩れた城壁。シリルを乗せて遠ざかる荷車。


 そして、致命傷を負った魔王の手。


 記憶は言葉だけではなかった。


 魔王の指が震えていたこと。


 自分の血で滑り、何度も手を握り直したこと。


 遠くでシリルを乗せた荷車の車輪が鳴っていたこと。


 死ぬ直前のアレクシアは、何を選ぶか理解していた。


『次があるなら、私と来るか』


 記憶の中の魔王が尋ねる。


『今度こそ、二つの国を救うために』


 アレクシアは彼の手首をつかんだ。


『いいわ。六度目では、私を利用しなさい。私もあなたを利用する』


 忘れていた会話が、今度は途切れなかった。


 最初の宝珠が砕け、世界を魔王の戴冠日へ戻した。


 次に、最後の宝珠が砕ける。


 それは逆行のためではない。


 アレクシアの二十五年間の記憶を魂へ封じ、次の世界へ運ぶために使われていた。


 黒冠の記録には、数字も残っていた。


 四度の失敗を経た、魔王の五度目の世界。そこで生きたアレクシアの一回目。


 そして現在は、魔王にとって六度目の世界だった。


「私の人生は、あなたにとって五回目だったのね」


「そうだ」


「最後の一珠を、私へ使った」


「そうだ」


「なぜ話さなかったの」


「お前が、自分は同意したのだから残らなければならないと思うことを恐れた」


「だから、私が決めるための情報を隠した?」


「それだけではない」


 魔王は黒冠を見た。


「最後の予備を一人の人間へ使ったと黒冠院に知られれば、私は王位を失う。お前を選んだことを、政治的な必要だけに見せたかった」


「私にも?」


「私自身にもだ」


「五つの世界で私が死んだ記録を持ちながら、六つ目でようやく役に立ったから選んだ。そう思わせれば、私が傷つかないと?」


「思っていない」


「では、何を避けたの」


「お前を失うことを恐れて、国の最後の一珠を使ったと認めることだ」


 魔王の声は変わらなかった。ただ、黒冠を持つ指が白くなっていた。


「王が一人を選んだと知られれば、判断を疑われる。お前に知られれば、その情を理由に拒まれるかもしれない。私はどちらも避けた」


「だから私には、正しく選ぶ機会がなかった」


「そうだ」


「私を守るために隠した部分と、自分の王位を守るために隠した部分を、一つにしないで」


 魔王は目を伏せた。


「前者だけなら、まだ善意と言えた。後者を認めたくなくて、私は二つを分けなかった」


「そうでしょうね」


 彼の説明には悪意が見えない。


 だが、アレクシアはもう、それを無罪の証明だとは考えなかった。


 相手を思って隠した情報でも、その情報がなければ相手は選べない。


 嘘ではなかった。


 だから、許せるわけではない。


「同行には同意した」


 アレクシアは一語ずつ告げた。


「服従にも、二度目の拉致にも、情報を隠されることにも同意していない」


「わかっている」


「あの温室で交わした契約を覚えている? 情報を隠した側は、その情報に関する決定権を失う」


「覚えている」


「これから黒冠と過去世界に関する決定は、あなた一人ではできない。私的な関係も、ここで終わりにします」


「婚姻契約は?」


「国家間の契約として残す。幼馴染としてあなたを信じることは、やめるわ」


 魔王は引き止めなかった。


「承知した、アレクシア」


 幼い呼び名ではなかった。


 アレクシアも、彼をアルとは呼ばなかった。


 二人は同じ黒冠へ手を触れていたが、その間には、契約書より遠い距離ができていた。


 魔王は懐から、旧離宮にあるアレクシアの私室へ通じる予備鍵を取り出した。呼びかけても応答がないとき、彼女の身に何かあったと判断して入れるよう、二人だけで決めていた鍵だった。


「それはセヴランへ返して。今後、私室へ入る必要があるなら、私ではなく居館の管理者へ申請して」


「承知した」


 入口で待つセヴランへ、魔王は自分で鍵を渡した。


 私的な信頼を失った結果を、象徴だけで終わらせず制度へ戻すためだった。


 王墓を出ると、古冠が待っていた。


 老女の視線は、魔王が抱える黒冠へ向けられる。


 六つのくぼみが、すべて空であることを初めて見た。


「陛下」


 古冠の声が冷えた。


「国家の最後の安全装置を失った状態で、私情による統治を続けておられたのですか」


 記録の内容は知らない。だが、次がないことだけは悟った。


「黒冠院第一席《古冠》として、陛下の判断能力を審査します」


「記録の内容をご覧になりますか」


 魔王が尋ねる。


「今ここで、あなたが選んだ部分だけを見せられても判断できません」


 古冠は答えた。


「黒冠の管理記録、使用時の立会記録、過去六年の関連命令を封印しなさい。第三者の照合を受けます」


 アレクシアは、古冠の要求が正しいと思った。


 魔王を守るために反対することはしなかった。


 翌朝、魔王廃位の正式審議が始まった。

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