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第33話「尾を失った水門番」

 翌年の雪解け、アレクシアは北の水門へ向かった。


 ザハルは、凍った水路の脇にある小屋で働いていた。


 四十歳ほどのリザードマン族で、右脚を引きずっている。尾は半ばから失われ、古い革で覆われていた。


「尾は、寒さで?」


「水門が凍った夜、氷に挟まれました。意識が戻ったときには切られていた」


「切らなければ命が危なかったのでは?」


「そう聞きました。正しい処置だったのかもしれません」


 ザハルは残った尾へ手を置いた。


「ですが、誰も私へ説明せず、許可も求めなかった。命を救われたことと、身体の欠損を勝手に決められたことは、両方とも真実です」


「寒冷地へ送られた理由は?」


「中央の命令へ逆らったからです」


「何を拒んだの?」


「干ばつの年、ラーヴェ川の水を人間国側の村へ流すなと言われました。水は、川は、国境線を読めないと答えました」


 ザハルはシリルの診療記録を読んだ。


「先祖返りです。珍しくはありますが、異常ではない」


「会わずに断言できる?」


「治療が必要かは、会わなければわかりません。しかし、鱗と瞬膜を取る必要はない」


「本人が取りたいと言ったら?」


 アレクシアが尋ねた。


「危険と負担を説明します。そのうえで決めるのは本人です」


「家族が、見た目を人間に戻してほしいと言ったら?」


「本人の身体です」


 ザハルは迷わなかった。


「あなた自身は、尾を元へ戻せる治療があれば受ける?」


「説明を聞いてから決めます。失ったものを戻したいと思っていると、他人に勝手に決められるのも、かつてあったことと同じです」


 アレクシアは、彼を治水だけの技術者として呼んだのではないと理解した。


 水も身体も、所有者の都合で形を変えてよいものではない。


 その考えが、シリルとの調査には必要だった。


 彼の一族は、旧連合時代から水辺に住む人間族との婚姻を記録していた。


 台帳にはリンデという家名も何度も出てくる。ベアトリスとシリルの家だった。


 独立戦争後、その記録は両国で都合が悪いものとして隠された。


 ザハルは古い地図を広げた。


「この子が感じる水音が正しければ、国境の下に使われていない水路があります」


 フェンが、シリルの描いた地図を運んできた。


 屋敷の床下で聞こえる水の向きと、雨の日だけ強くなる場所が、子どもの字で記されている。


 ザハルはその線を、魔王国側の地形へつないだ。


「旧連合の放水路です」


 調査を始めた三日後、山の雪が一度に解けた。


 水門の水位が上がり、魔王国側の穀倉地帯へ流れ込もうとする。


 辺境軍の代理司令官は、東の堤防を切るよう命じた。その先にあるのは、人間国の二つの村だった。


「切れば、こちらの畑は守れます」


 ザハルが言う。


「人間の村は?」


「夜までに沈みます」


「なら、別の方法を」


「軍は、命令違反なら再び追放すると」


「今回は私も一緒に追放されるわ」


 代理司令官は、アレクシアの異議を人間びいきだと非難した。


「人間国の村を守って、魔王国の穀倉を失えば、冬に死ぬのは我々です」


「だから両方を守る案を六時間だけ試すのよ」


「失敗したら?」


「私の備蓄倉を開きます。足りなければ、私の財産で買う。判断の費用を村へ押しつけません」


 アレクシアは人間族代表として命令へ異議を申し立て、魔王の署名を得た。


 東の堤防を切る命令は、代案を試す六時間だけ停止された。


 ザハルはシリルの地図を頼りに、土砂で埋まった旧放水路を探した。


 ガランが石を外し、シェラの糸が地面の振動を伝える。


 ニムは水門ごとの許容量を計算した。


 最後の石扉だけが動かなかった。


 人間国側から、フェンとシリルが到着した。国境会談のために開かれた検問を、両国の護衛とともに通ってきたのだ。ベアトリスが、その会談の前提として弟の調査を認めた。


 ザハルはシリルの前へ膝をついた。


「目を見てもよいですか」


「はい」


「鱗へ触れても?」


 シリルは少し迷った。


「姉に、何をしたか全部書いて渡すなら」


 それから、自分で襟を開いた。


 ザハルは一つずつ許可を取り、診察した。


 触れた場所と、触れた理由は、そのつど紙へ書き取られた。


 アレクシアが一回目に救い出したときには、本人へ何も尋ねず腕をつかんだことを、シリルは知らない。


 だがアレクシアは覚えていた。


 助けるためでも、選択を奪うことはある。


「この下です」


 十三歳になったシリルが、石扉の左側を指した。


「水が、ここだけ避けて流れています」


 ザハルが泥を払い、隠された取っ手を見つけた。


 二人が同時に触れると、古い水路へ水が流れ込んだ。


 濁流は二つに分かれ、魔王国の穀倉と人間国の村の間を抜けていく。


「ザハル。魔王の承認を得て、あなたを国境治水官へ推薦します。この水路を預けるわ」


「魔王国だけを守れという役目なら、受けません」


「川の両側を守る役目よ」


「水路の記録を私一人のものにしないこと。両岸から見習いを採り、同じ図面を持たせてください」


「国境の軍事情報だと反対されるわ」


「片側だけが知る水門は、戦争になれば武器になります。秘密にするなら受けません」


「その条件も含めて推薦します」


「それなら、お受けします」


 アレクシアの帳簿に、新しい役職が記された。


 ――ザハル。リザードマン族。国境治水官。受諾。実績あり。


 ――沼守リザードマンから、河伯リザードマンへ。


 ザハルは目を閉じ、石扉の向こうに枝分かれする水路を一本ずつ指し示した。


 水が引いた石扉に、大きな紋章が現れた。


 悪魔、オーガ、ゴブリン、銀狼、オーク、リザードマン、スパイダー、スライム。


 そして中央には、人間族。


 九種族が同じ輪の中に刻まれていた。

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