第32話「記録を消さないでください」
シリルは十二歳になっていた。
姉のベアトリスとアレクシアも、同じように年齢を重ね、二十二歳になっている。
八歳のとき、姉のベアトリスが王子に近づくため、魔族の血を持つ弟を隠しているという噂が広まった。
噂を作ったのはアレクシアだった。
それから四年、シリルは領地の屋敷からほとんど出ていない。
瞬膜を見た家庭教師は辞職した。
鎖骨の鱗を診た医師は、教会へ知らせると家族を脅した。
家はシリルを守るために隠したが、隠すほど噂は真実らしく見えた。
「私の旧派閥へ、噂の撤回を命じます」
アレクシアはフェンへ返書を託した。
「買収した医師の記録は回収して処分する。噂を流した貴族には、私の署名入りで虚偽だったと認めさせるわ」
今度の返事は、三枚あった。
最初の一枚には、ベアトリスの短い言葉だけがある。
――記録を消さないでください。
二枚目には、シリルが診察を断られた日、教師を失った日、教会から調査を受けた日が並んでいた。
三枚目には、こう書かれている。
――あなたが記録を消せば、弟が受けたことまでなかったことになります。
――弟一人を秘密にするのではなく、同じ体質の者が隠れずに生きられる方法を示してください。
「面倒な要求ね」
アレクシアは三枚を机へ並べた。
「断りますか」
セヴランが尋ねる。
「いいえ。正しいから腹が立つのよ」
それでも、アレクシアはすぐに命令を書き直さなかった。
「フェン。もう一度、国境を越えて」
「返書は受け取りました」
「ベアトリスからのね。私が変えるのは、シリルの生活よ。ベアトリスの要求で隠すか明かすかを決めれば、また本人以外が決めることになる」
ベアトリスの三枚の返信は正しかった。正しい要求だからといって、本人の言葉の代わりにはならない。
「十二歳が読める字で書くわ。断る場合の書き方も添えて」
フェンは無言で受け取り、その日のうちに出発した。
五日後、シリル自身の手紙が届いた。
――ぼくの鱗を見た人が怖がるのは、仕方がないと思います。
――でも、ぼくを見ないで決めた人まで、仕方がないことにしないでください。
子どもの字は途中から乱れていた。
最後の一行だけ、書き直した跡がある。
――記録は残してください。ぼくの名前も入れてください。
アレクシアは、その手紙を能力の帳簿とは別の引き出しへしまった。
悪意があるかどうかではない。
シリルが何を望んでいるかを、本人の言葉で残すためだった。
そのうえで、アレクシアは命令を書き直した。
噂の記録は処分しない。誰が、どの命令で、何を広めたかを記録する。
そのすべてへ、アレクシア自身が噂の出所であったという証言を添える。
買収した医師には、診察記録の返還と、教会へ渡した写しの一覧を提出させる。
旧派閥が従わない場合、アレクシアは自分の署名入りの命令書を人間国の裁判所へ公開する。
「これで、あなたは人間国で訴追される可能性があります」
「知っているわ」
「帰国できなくなるかもしれません」
「帰るために国を救っているのではないもの」
命令を受け取った旧派閥から、すぐに反論が届いた。
アレクシアの名誉を守るためには、偽の噂だったとだけ発表し、誰が命じたかは伏せるべきだという。
公爵家まで責任を問われれば、和平交渉で使える人脈を失うとも書かれていた。
「もっともらしいわね」
アレクシアの帳簿には、提案者の名が黒く浮かんでいた。
――被害者のための訂正を装い、旧主の責任と自分の加担を隠そうとしている。
「全員の署名を取って」
「命令に従うという署名ですか」
セヴランが尋ねる。
「違うわ。誰が、どの噂を、誰へ伝えたか。自分がしたことへの署名よ」
次に必要なのは、シリルの体質が呪いや病気ではないという証拠だった。
帳冠が公開した古い通信記録、血冠が復元している王統史、地方の診療記録を集めた。
ルルクが消えかけた文字を再現し、セヴランが年代の違う言葉を整理する。
四百年前の水辺共同体の記録に、同じ症状があった。
――人間の母より生まれた子。鎖骨に鱗。乾いた風を嫌い、水の流れを遠くから知る。目に薄い膜あり。
「シリルと同じです」
記録の余白には、治療法ではなく、成長期の過ごし方が書かれていた。
水分を多く取ること。瞬膜を無理に開かせないこと。冬は尾のない人間用の防寒具を使うこと。
病人の記録ではない。人間族とリザードマン族の間に生まれた子どもの生活記録だった。
同じ記録は一冊だけではなかった。
人間国の古い洗礼簿には「水を好む目の病」と書かれ、魔王国の徴税簿には「人間の家へ住む鱗持ち」と記されている。
別々の国が病気や例外として残した人物を、年代と家族名でつなぐと、同じ血縁が現れた。
「一つの珍しい例では、反論されます」
セヴランが言った。
「だから、暮らしていた人々の連続した記録を出すのよ」
ルルクは、消された名を一人ずつ再現した。
証明したいのは、シリルだけが安全な特別な子だということではない。
彼より身分が低く、記録にも残らなかった子どもが、同じ理由で閉じ込められないことである。
末尾には、記録を代々書き継いだ水門番の家印が残っている。
同じ家印を持つ者が、現在も北の水門で働いていた。
竜血を持たず、寒さで尾を失ったリザードマン族の水門番。
名は、ザハル。




