第31話「首輪を嫌う使者」
フェンは、狼の姿になれなかった。
銀色の耳と尾はある。嗅覚も人間より鋭い。
だが、同族のように四本の脚で走ろうとすると、右腕だけが獣へ変わり、身体の均衡を崩してしまう。
「だから、群れでは落ちこぼれです」
フェンは平然と言った。
「国境を越えられるという根拠は?」
「速く走る必要はありません。見張りが眠い匂いをさせる時間と、怖がっている場所がわかります。誰も通りたがらない道ほど、私には安全です」
アレクシアは国境図を広げた。
人間国では、病気だった国王が退位し、エドガーが王となっていた。
ベアトリスは王妃となったが、アレクシアからの書状は軍部に止められている。
「ベアトリスへ、これを直接渡して」
密書には、砦冠の嫡男と人間国軍部の通信記録、病変穀物の売買記録、国境での会談の申し入れを入れた。
セヴランが契約書を差し出す。
「使者の帰還を保証する首輪型契約です。居場所を記録し、命令された期限を過ぎると――」
「つけません」
フェンは最後まで聞かなかった。
「裏切らない証明が必要よ」
「首輪をつければ、裏切れない証明にはなります。裏切らない証明にはなりません」
「敵国で捕まれば、書状を奪われる」
「そのときは燃やします」
「帰ってこなければ?」
「死んだか、帰らないと決めたかです。首輪で引き戻される使者の言葉を、誰が信用しますか」
用意された首輪を、フェンは指先でつまんで机の端へ寄せた。
「軽いな」
「走る邪魔にならない造りです」とセヴランが答えた。
「では邪魔ではないわけだ」
「つけますか」
「つけません」
銀狼族の地方群は、名門の斥候部隊へ人を出すたび、逃亡を防ぐ首輪をつけられてきた。
フェンの欠けた耳は、幼いころ契約を外そうとして傷ついたものだった。
「首輪なしで任務へ出た者は、これまでいないの?」
「います。でも、帰らなければ裏切り者、帰れば首輪がなくても従う便利な者として、次の任務へ送られました」
「あなたは、何を変えたいの」
「帰ってきた者が、次の仕事を断れるようにしたい」
フェンは欠けた耳へ触れた。
「一度役に立ったら、一生使われる。俺の群れでは、それを名誉と呼びます。俺は、任務を終えて帰ることと、次も命令されることを分けたい」
アレクシアは、首輪をつけた彼がベアトリスの前へ立つ姿を想像した。
人を道具として使った過去を謝る手紙が、別の者を道具にして届く。
「首輪型契約は使いません」
セヴランがすぐに文面を破棄した。
「代わりに、正式な使節身分を与える。危険だと判断した場合は、書状を捨てて帰還できる。国境を越えた後の経路は報告しなくていい」
「戻らなくても?」
「捜索はするわ。罰は与えない」
「それなら受けます」
フェンは密書を上着の内側へ縫い込んだ。
七日後、彼は姿を消した。
人間国の巡回兵は一人も彼を見ていない。商人の荷車にも乗らず、川も泳がず、古い獣道を歩いた。
国境の森には、銀狼族がまだ旧連合の斥候だったころの道標が残っていた。
人間にはただの傷に見える木の印をたどり、見張り台の風下を進む。
三日目、山道で人間国の密輸人と出会った。
「魔族の使いなら、荷物を置いていけ」
五人いた。フェンが獣化できないのを見て、簡単に捕らえられると思ったらしい。
フェンは戦わなかった。
彼らの衣服から、酒と疲労と、追手を恐れる匂いを嗅ぎ分けた。
谷の向こうへ人間国の巡回兵がいると嘘をつくと、密輸人たちは自分たちの隠し道へ逃げ込んだ。
フェンは、その後を離れて歩いた。
速く走れなくても、相手が選びたがる道は分かる。
王都では、ベアトリスの救護所へ直接入らなかった。
王妃府の門には軍部の監視がいる。
フェンは配給を受ける人々の列へ混じり、空になった穀物袋の中へアレクシアに教わった暗号の印を残した。
その夜、侍女が裏庭から繋がる王族が使うお忍び用の門を開けた。
「首輪は?」
姿を現したフェンを見て、ベアトリスが最初に尋ねた。
「ありません」
「アレクシアが外したのですか」
「最初から、つけない契約にしました」
フェンは密書を差し出した。
ベアトリスは砦冠の嫡男と軍部の通信を読み、病変穀物の売買記録を二度読み返した。
「これを信じろと、アレクシアは?」
「証拠を調べてほしいと」
「あなた自身は、彼女を信じていますか」
フェンは少し考えた。
「信じる必要がない契約を結びました。だから、今は仕事を続けられます」
その答えを、ベアトリスは嫌わなかった。
帰路では、軍部が国境へ増やした見張りを避けるため、崩れた石切り場を通った。足場が落ち、左脚を岩に挟まれた。
書状を捨てれば身軽になれた。
人間国の町へ降り、別の名で暮らすこともできた。首輪はない。
居場所を知らせる魔法もない。契約上、帰還しないことへの罰もなかった。
それでもフェンは、自分で帰ると決めた。
戻らなければ、名門は「首輪がなければ使者は逃げる」と言うだろう。次に国境を越える者の首へ、また同じ輪がつく。
それ以上に、帰ったあとで次の任務を断れるのかを、自分で確かめたかった。
王都へ入ったことを知る兵は、一人もいなかった。
戻ったのは、それから十二日後だった。
服は泥だらけで、左脚を引きずっていた。だが首には何もなく、自分の足で旧離宮へ帰ってきた。
「ベアトリスは?」
「手紙を読みました。返事です」
王妃の印で封じられた紙には、一文だけ書かれていた。
――弟の安全を証明しない限り、あなたとは会いません。
その下には、もう一つだけ追記があった。
――首輪のない使者を寄こしたことは、交渉を始める最初の理由として記録します。
「傷が治ったら、もう一度行ける?」
アレクシアの問いに、フェンはすぐ答えなかった。
「今日は決めません」
「ええ。そういう契約よ」




