第30話「悪妃派という国家」
砦冠の軍糧庫を引き継いだ日、ニムは金貨より先に壊れた升を没収した。
「底が厚く作られています。小麦を配るたび、一割ずつ倉庫へ残る升です」
マルザは残された小麦を食用、種、発酵材料へ分けた。
ガランは崩れかけた倉庫を補強し、シェラは火事と盗難を知らせる糸を張る。
ルルクが入出庫の記録を残し、セヴランが商人との契約を書き直した。
六人の仕事が、一つにつながっていた。
ゴブリンが数える。
オークが蓄える。
オーガが守る。
スパイダーが伝える。
スライムが証明する。
悪魔が合法にする。
砦冠家がいなければ止まると思われていた国境の倉庫は、以前より少ない金と人手で動き始めた。
もちろん、最初から順調だったわけではない。
砦冠家と契約していた御者の半数が仕事を拒み、倉庫の鍵が三本紛失した。
地方役人は、ゴブリンの会計官へ報告するくらいなら辞めると言った。
ニムは辞職を止めなかった。その代わり、空いた仕事と賃金を公開した。二日後には、種族を問わず応募者が集まる。
「辞めた三人の後任は、四人来ました」
「余ったのね」
「一人は数える手が速すぎて、こちらが確かめられません。保留にしました」
褒めているのか断っているのか、しばらく判別できなかった。
ガランは倉庫の扉を壊して開けることはなく、鍵の受け渡し記録が整うまで仮の保管所を作った。
急いで古い仕組みを使えば、誰が盗んだかわからない状態まで引き継ぐことになるからだ。
旧離宮には毎日、食料、建築、契約、通信について相談する者が列を作った。
かつてごみが積まれていた裏庭には、雨を防ぐ共同倉庫が建っていた。
玄関広間には相談窓口が並び、穴を板で塞いだ壁には、受け付けた案件と回答期限が張られている。
外から見れば、もう捨てられた離宮ではない。
だが、上等な石へ張り替えるより先に井戸と倉庫へ金を使ったため、廊下の床は今も色の違う板の継ぎはぎだった。
その列を見た貴族が、初めて《悪妃派》という名を使った。
人間の悪女が、弱い魔族を集めて作った怪しい一派。
侮辱のつもりだった。
「覚えやすくていいわ」
アレクシアは看板へその名を書かせた。
――悪妃派・民政相談所。
相談所は、願いを聞くだけの場所にはしなかった。
受け付けた案件、担当者、回答期限を入口へ掲示する。
解決できない相談にも、その理由を書いて返す。
最初の一週間で来た百二十件のうち、解決したのは四十一件。残りの数字も隠さなかった。
「本当に使うのか」
魔王が呆れた顔をする。
「嫌われる名前は、先に自分のものにしたほうが強いのよ」
「経験があるらしい」
「ええ。悪女と呼ばれていましたから」
笑っていられたのは、そこまでだった。
黒冠院が緊急会議を開いた。
血冠の席は保留、砦冠は拘束中である。
帳冠は反対したが、古冠と剣冠は、空席へ代理を立てたうえで魔王の廃位を審議できるか、古い盟約の確認を始めた。
「理由は、私ね」
「私がお前の推薦を受け、旧離宮へ権限を集めたことだ。個々の任命は合法でも、院は全体を王権の拡大と見る」
魔王は否定しなかった。
「あなたを廃位して、血冠の分家から次の魔王を立てる?」
「剣冠はそこまで愚かではない。だが、お前の組織を解体する条件で、別の王族を立てる可能性はある」
アレクシアの組織は、食料、倉庫、通信、建築、契約を扱う。
軍隊ではない。それでも、軍隊を動かすために必要なものを握っていた。
黒冠院から見れば、旧離宮の中に別の国が生まれたのと同じだった。
「院の恐れにも理はあります」とセヴランが言った。「食料も通信も契約も一派が握れば、善意の独裁は作れます」
「私が善意だと信じている間は、帳簿にも出ないものね」
エドガーと同じ罠だった。
「相談所の会計と決定記録を黒冠院へ開示します。各部門の長は私一人では罷免できないようにする」
「廃位審議を止めるためですか」
「それもある。でも、止まらなくても必要よ」
自分の派閥を守るため、自分の力を制限する。以前のアレクシアには選べなかった政治だった。
「私を切れば、あなたの王位は守れる?」
「一時は」
「なら――」
「断る」
「まだ何も言っていないわ」
「自分を追放しろと言う顔をしていた」
「昔からしたい顔と、実際の顔が違うのはあなたでしょう」
「お前もわかりやすくなった」
追放されれば、魔王国で作った仕組みは壊される。残れば、魔王の廃位を招く。
どちらかを選ぶだけでは、七年後を変えられない。
人間国では、砦冠の息子が軍部へ入り込んだ。エドガーは善意の失政を重ね、ベアトリスの進言だけでは止まらない。
アレクシアはこれまで、商人と書状を通じて祖国を動かそうとしてきた。
だが、書状は途中で止められ、言葉は都合よく読み替えられる。
「ベアトリス本人と話します」
「返事をすると思うか」
「思わないわ。だから、返事をしなければならないものを送る」
弟シリルの安全。王子の失政。両国の主戦派がつながっている証拠。
そして、自分がシリルを傷つける情報を握っていることへの謝罪。
ただし、許しを求めるためではなく、今も同じ情報を狙う者がいると知らせるために。
ただし、正式な使節は人間国軍部に止められる。商人はすでに監視されている。通信糸も国境を越えられない。
「誰にも見つからず国境を越え、必ず戻る使者が必要なんだけど」
そのとき、相談所の扉が開いた。
痩せた銀狼族の青年が立っていた。アレクシアたちと同じ二十二歳ほどで、銀色の耳の片方が欠けている。
「人間国へ行ける者を探していると聞きました」
「名前は?」
「フェン」
青年は首元を手で隠した。
「仕事は受けます。ただし、首輪はつけません」
銀狼族の密偵には、逃亡を防ぐ魔法の首輪をつけるのが慣例だった。任務に失敗すれば締まり、命令に背けば居場所を知らせる。
「首輪なしで戻る保証は?」
護衛の一人が問う。
「ありません」
フェンは平然と答えた。
「だから、戻りたくなる契約を出してください」
アレクシアは、彼の首元を隠す手を見た。
「三つ書くわ。前金、任務ごとの上限、そして次の仕事を断る権利」
「断れるのですか」
「断られる側の私が、そう書くのだから」
フェンの耳が、初めて前を向いた。




