第28話「善意の王倉開放」
翌年、アレクシアたちは二十二歳になった。
魔王国へ来て五度目の夏、人間国の西部で雨が止まった。
春にまいた麦は穂をつけず、井戸の水位も下がった。王都へ避難民が集まり、パンの値段は十日で二倍になった。
エドガーは王家の穀倉を開いた。
――飢えた者すべてへ、身分を問わず無料で小麦を与える。
命令は、その日のうちに広場へ張り出された。民は王太子の名を呼び、新聞は慈悲深い決断だと褒めた。
最初に列へ並んだ母親が、子どもへ焼きたてのパンを渡す記事も載った。
今日を生き延びた者がいる。その事実まで、後の失敗によって消えるわけではない。
帳冠が送ってきた会議記録には、命令が出る直前のやり取りも残っていた。
『倉庫ごとの量を調べてください』
ベアトリスの発言である。
『避難民の人数、地方へ送る分、来年の種籾も必要です。無料にするなら、受取証を出して二重受給を防がなければ』
『今、目の前で民が飢えている』
『だからこそ、明日も配れる方法を』
『手続きを待つ間にも、子どもは腹を空かせる。まず扉を開くべきだ』
エドガーの署名を見ても、《悪意の帳簿》は動かなかった。
「二人の案を合わせることはできなかったの?」
「最初の一日分だけ先に配り、その間に名簿と在庫を作る。地方倉庫と種籾には最初から封をする。できたはずよ」
どちらか一方が悪かったのではない。急いで救うことと、明日も救えるよう数えることを、対立するものにしたのが失敗だった。
「善意は本物ね」
アレクシアは記録を閉じた。
「ベアトリスの言葉を聞かなかったことも?」
魔王が問う。
「聞いたうえで、正しいと思う方を選んだ。失敗する可能性を理解していないなら、まだ見えないわ」
王倉の前には、長い列ができた。
最初の二日は、飢えた民へ小麦が渡った。三日目から、商人に雇われた者が何度も列へ並び始めた。
名も住所も記録しないため、止められない。
無料の小麦は別の街へ運ばれ、王家の印がついたまま売られた。
配給が続くほど市場から普通の小麦が消え、値段はさらに上がった。
ベアトリスは三日目から受取証を導入しようとした。
しかし、エドガーの側近は「王太子の慈悲に条件をつけるのか」と反対した。
列の途中で規則を変えれば混乱するという理由も添えられた。
変えないことで、混乱は大きくなった。
ただし、エドガー自身が改めたこともあった。
三日目の夕方、彼は供をつけずに広場へ出た。列の長さを見に行ったのではない。
並べずに壁際へ座っている者がいると聞いたからだ。
足の悪い老人と、熱のある子どもを抱えた女がいた。
半日立てる者だけが小麦を受け取れる。命令書のどこにも書かれていない条件だった。
その夜、エドガーは救護院と修道院へ直接運ぶ分を切り分けた。
歩ける者が並ぶ列と、運び先を分けただけの命令である。名簿も受取証も要らない。
翌日から、壁際に座る者はいなくなった。
アレクシアは、その報告を二度読んだ。
自分は列の長さと不正の件数を数えていた。並ぶことのできない者を数えていなかった。
「これは、私には思いつかなかったわ」
「褒めるのか」
魔王が言った。
「事実を言っただけよ」
悪意なら見える。愚かさも、遅れてなら理解できる。
目の前の一人しか見ていない人間が、そこだけは自分より正確に見ていることは、帳簿のどこにも現れない。
問題は、エドガーがこの成功から引き出した教訓だった。
――現場へ行けば分かる。書類を待つ必要はない。
「善意を利用した者は見える?」
ニムが商人の名簿を広げる。
黒い線が、仲買人、荷主、倉庫主へ伸びていた。
「見える。無料の小麦を買い占め、値上がりを待っている」
「王子へは?」
「何も」
アレクシアは人間国の国境交易派へ、買い占めの名簿を送った。
だが、王家の政策へ魔王国が口を出していると疑われ、返事は来なかった。
五日目、王都の王倉が空になった。
地方へ送るはずだった分も、守備隊の冬備蓄も配られていた。残ったのは、来年まく種籾だけだった。
ベアトリスは種籾の倉へ兵を置き、王太子の追加命令がなければ開けないよう封印した。
エドガーは最初、封印の解除を命じた。広場で民が待っているからだ。
「これを食べれば、来年は今年より多く飢えます」
ベアトリスは王太子妃として初めて、夫の命令へ署名しなかった。
農務官と地方領主の証言を集め、種籾を食料へ回した場合の収穫減を数字にした。
翌朝、エドガーは解除命令を引っ込めた。ただし、自分の判断が誤っていたとは公表しなかった。
その判断で、少なくとも次の年の麦は守られた。
だが、今年の不足は埋まらない。
軍部が、王太子へ救いの手を差し出した。
軍の特別会計から金を貸し、人間国の東部と国外から小麦を緊急購入するという。
条件は、返済が終わるまで軍部へ穀物の購入先と輸送路を決める権利を与えること。
「利率は低いです」とニムが契約の写しを読んだ。「でも、軍部が指定した商会以外から買えば全額を即時返済。返せなければ国境税の徴収権まで移ります」
金を借りる契約に見せて、食料と国境を担保に取っている。
「軍が国の食料を握るわ」
アレクシアは契約書を見つめた。
帳簿には、まだ黒い文字がない。
エドガーは、王倉が空になったことを失敗ではなく、それだけ多くの民を救った証拠だと考えている。
足りない分は軍部から借りればよいと、本気で信じていた。
広場へ行けば、民の顔は見える。契約書の三枚目に何が書いてあるかは、行っても見えない。
署名欄には、すでにエドガーの名があった。
民を救うため開いた王倉が、軍部を王の財布へ招き入れていた。




