第25話「王妃ではない政治」
病変穀物が見つかったあと、黒冠院は国境の全面封鎖を求めた。
「拒否します」
アレクシアは会議の場で答えた。
「人間国から来る物をすべて止めれば、武器も毒も入らない」
砦冠が言う。
「薬も塩も入らなくなるわ。困るのは、あなたの倉庫を使えない商人と民でしょうね」
「安全には代えられぬ」
「あなたの商会が安全を害した疑いは、調査中です」
砦冠の首筋にある鱗が、硬く浮き上がった。
アレクシアは商業派と、新しい試験交易路を提案した。
通れる荷車は一日二十台。
荷主、御者、積み地、封印者を別々に記録し、十台に一台は中身を開ける。
検査結果と没収品は、商人にも見える掲示板へ毎日出す。
「十台に一台なら、十一台目へ隠すだけでは?」
商人の一人が尋ねた。
「選ぶのは通過順そのものではありません。朝、商人代表と検問官が別々に数字を引き、足した番号の荷を開ける。どちらか一方では対象を決められないようにします」
「検問官がわざと荷を傷つけた場合は?」
「開封前後を二人の立会人が記録し、国が補償します。検査する側にも値札をつけるのよ」
「密輸が出れば、また商人全体を疑われます」
「だから、潔白な商人にも検査を見張らせるのよ」
商業派は、七日間だけという条件で同意した。
初日の通過は十八台。二日目は二十台。三日目には、検問時間が半分になった。
ニムが数字を整え、マルザが食料を調べ、ルルクが封印の匂いを記録する。
厳しく調べても、何を調べるかが決まっていれば、商人を何日も拘束する必要はなかった。
三日目には、罰金の額をその場の役人が決める習慣もなくした。
違反ごとの金額を掲示し、異議があれば翌日までに別の検査官が見直す。
「前より細かく調べられるのに、前より早い」
不満を言っていた商人が認めた。
「疑うことが問題だったのではなく、疑い方を役人一人の気分へ任せていたことが問題だったのね」
それでも、四日目に一人の荷主が仕事を失った。
封印を三度やり直させられ、約束した納期に間に合わなかった。
開封は規則どおりで、補償も規則どおりに支払われた。
規則どおりに、その男は取引先を失った。
アレクシアは補償額を上げなかった。
「上げれば、次から検査をわざと遅らせる者が現れるわ」
代わりに、遅れた理由と責任の所在を書いた書面を発行させた。取引先へ示せば、契約を切られる前に説明ができる。
「間に合わなかった事実は消えません」
セヴランが言った。
「消さなくていいの。誰のせいで遅れたかが残れば、次は違う話ができる」
そのころ、人間国では、エドガーとベアトリスの結婚式が行われた。
国境商人が運んできた新聞には、白い衣装のベアトリスが写っていた。
「衣装の記事が三段、最初の政策は半段です。……でも、美しい方ですね」
ニムの言葉に、アレクシアは紙面を折った。
「知っているわ」
折る前に、記事は最後まで読んでいた。
王家の系譜、婚約の経緯、教会の祝辞、参列した貴族の名。前の婚約者について書かれた行は、一つもなかった。
破棄された婚約でさえ、国の記録には残るはずだった。
消したのが、拉致された令嬢を思い出したくない王宮か、悪女の名を祝いの紙へ載せたくない教会かは、どちらでもいい。
「私の名はありましたか?」
「ありません」
ニムは数えたことを謝らなかった。数えたものをそのまま言うのが、彼女の仕事だった。
「それでいいわ」
嘘だった。
エドガーの隣に立てなかったことは、もう痛まない。祖国の紙の上から、自分がいた七年ごと消されていることは、まだ痛んだ。
結婚式の翌日、ベアトリスは王太子妃として最初の政策を発表した。
救護院へ配る食料を、寄付した貴族の名ではなく、住民の人数と病人の数で決める。
配給記録を月ごとに公開し、受け取れなかった者の申し立てを受け付ける。
書類の余白には、小さな欄が設けられていた。
――決定によって不利益を受ける者。
アレクシアが、幼いベアトリスへ教えた書式だった。
『善いことを書くだけでは、政策にならないわ。困る者の名前まで書きなさい』
あのころの自分は、ベアトリスを友人だと思っていた。
その知識を与えた口で彼女を傷つけ、弟の秘密を政争に使った。
欄の下には、ベアトリス自身の書き込みもあった。
――寄付の名が出なくなることで、寄付をやめる貴族がいる。その減少分を王太子府が三か月補い、以後は公開予算へ移す。
善意だけでは足りないと、彼女は覚えていた。アレクシアが忘れ、権力争いへ使った教えを。
「王妃になったのは、ベアトリスね」
「まだ王太子妃だ」
魔王が訂正する。
「そういう話ではないわ」
王妃の座を失っても、政治はできる。
国を変えるのは冠ではなく、誰を数え、どの記録を残すかだった。
七日間の試験が終わり、商業派は交易路の継続を求めた。
ところが、最初の正式な輸送隊が出る前夜、仮倉庫が襲われた。
荷物は奪われず、送り状と検査予定だけが焼かれている。襲撃者は、どの倉庫へ何時に記録を集めるか知っていた。
アレクシアは焼け跡の前で足を止めた。
荷を盗む者は、金が欲しい。記録だけを焼く者は、何が起きたのか誰にも言えない状態が欲しい。
新聞から一人の名前を削ることと、倉庫で送り状を焼くことは、規模しか違わなかった。
「二部ずつ作らせていたわね」
「送り状は写しがあります」
ニムが答えた。
「検査予定は、その日の朝に数字を引いて決めるので、写しがありません」
焼かれたのは、翌日どの荷を開けるかを書いた、一日だけの紙だった。
それを焼いた者は、翌日通る荷を知っている。
「計画を知っていたのは?」
「旧離宮、王宮の執務室、商業派の代表、それから黒冠院です」
セヴランが答えた。
ルルクが焼け残った封筒へ身体を広げた。
『甘い香。青い染料。細い糸』
封筒の口から、銀色の糸が一本だけ出てきた。
宮廷の書状を運ぶ、帳冠家の通信糸だった。
「帳冠が襲わせたという証拠?」
「糸を使った者が帳冠とは限りません」とセヴランが答えた。「王宮の通信は帳冠家が管理していますが、黒冠院の各家にも端末があります」
印だけで犯人を決めれば、血冠が盟約を偽書と断じたときと同じになる。
「糸がどこから、どこへ伸びているかを調べます」




