第24話「食いしん坊の農務官」
黒い斑点の正体を、王宮の薬師たちは見抜けなかった。
「毒草の粉ではありません」
「虫の卵でもない」
「なら、安全なの?」
三人の薬師が、そろって天井を見た。
安全だと証明できない食料が、すでに八十台も冬の備蓄庫へ入っている。
調べ終わるまで待っていれば、無事な小麦と混ぜられてしまう。
「……使えないわね」
アレクシアの呟きは、小さかったはずだった。
『使えないわね』
足元のルルクが、まったく同じ声で再生した。
薬師たちの顔が青くなる。
「ルルク」
「はい」
「私の声は覚えなくていいの」
『はい』
覚えている。
「食べ物のことなら、食べ物を扱う者へ聞けばいいです」
ニムが連れてきたのは、旧種族街で共同食堂を営むオーク族の女だった。
名はマルザ。太い腕に、洗ったばかりのお玉を一本ぶら下げている。
部屋へ入るなり、彼女はまず鼻から息を吸った。
「王宮って、飯の匂いがしないね」
「毎日三百人分を作っているそうね」
「三百二十人。数を減らさないでくれるかい」
アレクシアは黙って訂正を受け入れた。
「王宮の薬師にもわからなかった物よ」
「薬師は腹を満たすのが仕事じゃないでしょう」
マルザは一粒を割り、匂いを嗅いだ。それから舌先へ触れさせ、すぐに水で口をすすぐ。
「灰熱黴です。寒い倉では眠っていますが、粉にして水を加えると毒を出す」
「食べると?」
「熱と幻覚。ひどければ死にます」
「どうして知っているの」
「十二年前、北の食堂で出たからです。薬師は風土病だと言った。あたしは同じ袋を食べた家だけ倒れたのを覚えていた」
マルザは一粒の断面を紙へ写し、熱を加える前後の匂いを王宮の薬師にも確かめさせた。
自分の舌だけを信じろとは言わない。再現できる方法にして、初めて国の検査へ使える。
「治せる?」
「食べ物には戻せません」
王宮から来た軍糧官が口を挟んだ。
「なら、すべて焼却し、民間の備蓄を軍へ移せばよい」
「嫌だね」
マルザは即座に答えた。
「軍だけ腹いっぱいで、街の子どもを飢えさせるのかい」
「国を守る兵が先だ」
「食べ物を奪われた民から、何を守るつもりだい」
軍糧官の顔が赤くなる。
アレクシアは笑いそうになるのをこらえた。こらえきれていなかったのは、お玉を握り直したマルザの口元だった。
「代案があるのね」
「黴のある小麦は、ほかの穀物から分ける。高い熱を入れてから酸の強い発酵に回せば、食用にはできなくても、消毒液と革なめしの材料になる。空いた分は豆と根菜で埋めます」
「冬までに育つの?」
「畑だけを見れば間に合わない。食堂の地下、使われていない鉱道、鉱山から引いた温水路も使うんです」
食料を畑だけで考えていた役人たちが黙った。
「何を、どれだけ作る?」
マルザは豆、茸、根菜を挙げた。育つ日数、必要な水、食べられる部分の重さまで答える。
「小麦と同じ量にはなりません。でも、同じ腹持ちにはできます。大鍋で煮れば、固い根も食べられる。食料は重さではなく、何人が何日生きられるかで数えるんです」
マルザはさらに、共同食堂ごとの人数と残りの備蓄を暗記していた。数字はニムの記録とほとんど違わない。
「あなたを農務官にします」
「お断りします」
「理由は?」
「あたしを城へ置いて、軍の皿だけ見ろと言うなら、食堂へ戻ったほうがいい」
「市民の備蓄を、軍の都合だけでは徴発しない。命令書に入れます」
「飢えた者へ、種族で順番をつけないことも」
「入れましょう」
「それなら働きます」
「もう一つ」とアレクシアが言った。「あなたが間違っていたとき、誰が止める?」
「各食堂の料理人です。毎週、同じ断面標本を回して、別々に見ます。三人以上の判断が違えば、出荷を止める」
「採用します」
セヴランが条件を書き、魔王が署名した。
アレクシアの帳簿に、新しい頁が開く。
――マルザ。オーク族。農務官。受諾。実績あり。
《叙任》
マルザは鼻を動かし、壁の向こうを指さした。
「三日前の豆の煮物。塩が一つまみ足りない」
旧離宮の厨房から、料理人の悲鳴が聞こえた。
「壁を越えて味見をしないでください!」
「味見じゃないよ。匂いだ」
アレクシアは天井を見た。
「成長した能力を、最初に献立へ使うのね」
「食べ物を粗末にする力なら、いりませんよ」
その日から、北部の備蓄庫は一つずつ封鎖された。
ニムが袋の数を調べ、ルルクが同じ匂いを探し、マルザが汚染の深さを確かめる。
ガランは無事な穀物を移すため、乾燥した仮倉庫を三日で組み上げた。
八十台のうち、六十三台分を食用倉庫へ入る前に止めた。
残りはすでに混ざっていたが、マルザが袋ごとの匂いを分け、被害を最小限に抑えた。
それでも、混ざった小麦の一部は焼くしかなかった。倉庫の前で、冬の食料を失う村人たちが見ている。
「助けた量だけ発表して、捨てた量を隠す役人もいる」とマルザは言った。
ニムは回収量、転用できた量、焼却量、不足する食数を同じ掲示板へ書いた。成功だけを数えれば、次の備えを誤る。
不足分を埋めるため、王宮の宴会は月末まで半分に減らされた。
旧離宮も一日一食を豆の煮込みに替える。
最初に負担を引き受ける者を示して、ようやく北部の食堂は代替作物の栽培に同意した。
だが、マルザの共同食堂へ戻ると、同意していない者たちが待っていた。
「城の役人になった最初の仕事が、うちのパンを減らすことかい」
古くから厨房を手伝うオークの男が、配給表を机へ置いた。
「王宮の宴会が半分になっても、貴族は飢えない。ここで一杯減れば、夜までもたない子がいる」
「わかってるよ」
「わかっていて決めたのか」
「ああ」
マルザは言い訳をせず、鍋の蓋を開けた。
小麦を減らした分、豆と細かく刻んだ根菜を煮てある。
同じ値段で腹持ちが悪くならないよう、王宮へ示した献立より豆を増やしていた。
「今夜だけ食えればいいなら、冬用に取り分けた小麦を全部使う。でも、それをやれば冬の終わりに鍋が空になる」
「農務官になったから、あんた一人で決めるのか」
その問いには、マルザもすぐ答えなかった。
「決めない。各食堂から一人ずつ出して、配給量と代替献立を毎週決める。あたしの食堂にも一票しかない」
「城から命令が来たら?」
「議事録ごと持って城へ怒鳴り込みに行く」
翌朝、共同食堂の壁に、食料評議会の参加者を募る紙が張られた。
役職を得たマルザが食堂を代弁するのではない。
食堂の者たちが、マルザを止められる仕組みだった。
夜、ニムが輸送記録を持ってきた。
「穀物を買ったのは、北部軍の指定商会です」
「誰の商会?」
「砦冠家です」
人間国側の売却許可証には、軍部の印があった。
病変穀物は、偶然安く売られたのではない。
両国で戦争を望む者たちが、同じ荷車を押していた。




