第22話「婚約祝いの黒い手紙」
王太子エドガーと、ベアトリスの婚約。
それは前の人生でも起きたことだった。
あのときアレクシアは、自分から王妃の座を奪った女を許さないと誓った。
ベアトリスの弟の秘密を漏らし、彼女の友人を遠ざけ、宮廷で失敗するよう仕向けた。
最後には、王太子とベアトリスが結婚した。そして、国は滅びた。
「顔色が悪い」
魔王が向かいの椅子へ座った。
「王子に未練はないわ」
「聞いていない」
「聞きたそうな顔をしているから答えたのよ」
「私は、そんな顔をしていたか」
「昔からしたい顔と、実際の顔が違うのよ、あなたは」
魔王は書状へ目を落とした。
「祝いを送るのか」
「魔王妃としては、送るべきでしょうね」
「アレクシアとしては?」
答えられなかった。
悲しいのは、エドガーを失ったからではない。
王妃になるはずだった自分、ベアトリスと友人だった自分、何も間違えていないと信じていた自分。
そのすべてが、婚約の一文によって過去になった。
「未練がないなら、悲しんではいけないと思っているのか」
「悲しめば、まだ彼を欲しがっているように見えるでしょう」
「私には、そうは見えない」
魔王は慰めるために手を伸ばさなかった。ただ、書状を彼女から取り上げず、読み終えるまでそこにいた。
「祝いは送ります。人間国へ、私が王子を取り戻すため魔王国を利用していると思わせないために」
「それだけか」
「ベアトリスが選んだ相手との婚約を、今度は邪魔しないためよ」
その夜、国境商人が旧離宮を訪れた。
人間国の生まれだが、荷の八割を魔王国へ運んでいる。両国の検問に名を登録し、旧離宮の裏庭へも荷車で入れる数少ない一人だった。
どちらの国にも属していないから、どちらの手紙も運べる。
彼が差し出したのは、婚約祝いとは別の黒い封筒だった。
表には、人間国にいたころのアレクシアだけが使っていた花の印がある。
「旧派閥からです」
手紙は庭園の植え替えについて書かれていた。
白百合を抜き、温室を閉じ、庭師の家族を遠ざける。
知らない者が読めば、それだけだ。
だが、白百合はベアトリス。温室は彼女を支える宮廷の女性たち。庭師の家族は、弟のシリルを指している。
――命令があれば、婚約発表の前に醜聞を作れる。
――シリルの身体の秘密を、教会へ渡す用意もある。
アレクシアの指が震えた。彼らへ、そのやり方を教えたのは自分だった。
「返事を」
商人が頭を下げる。
「白百合にも、その家族にも手を出してはならない。私の名を使った攻撃も禁じます」
「暗号で書きますか」
「いいえ。誰が読んでもわかる言葉で書いて」
「旧派閥は、あなたが魔族に命じられたと思うでしょう」
「なら、署名も印も入れます。従わない者は、私の派閥ではない」
「公爵令嬢がご自分で書いたと、どう証明します」
商人はなお食い下がった。
旧派閥にとって、アレクシアの命令が変わったと認めるより、魔王に操られたと考えるほうが楽なのだ。
「以前の命令も私が出しました。今度の命令だけ操られたことにはしません」
アレクシアは過去の暗号表も同封した。自分たちが行ってきた工作を隠す道具を、今度は工作を止める証拠にする。
「違反した者は名を公表し、私が与えた役目と資金をすべて打ち切ります」
アレクシアは初めて、自分が作った刃をベアトリスから遠ざけた。
過去が消えるわけではない。それでも、同じ傷を増やさないことはできる。
返書を書き終えると、商人がもう一通の資料を出した。
「王太子殿下が、国境検問を改めるそうです」
「どのように?」
「賄賂の噂がある古参役人を全員罷免し、慈善活動で評判の若い貴族へ任せると」
「国境経験は?」
「ないようです。ただ、王太子殿下は、善良な者へ任せれば民も商人も苦しまないと」
アレクシアは前の人生を思い出した。
検問が緩み、武器と兵が商人に紛れて国境を越えた。最初の衝突が起きるまで、エドガーは改革の成功を信じていた。
「止めなければ」
「陰謀の証拠がありますか」
セヴランの問いに、アレクシアは資料を見つめた。
王太子の署名。新任者の名。改革案に関わった者たち。
《悪意の帳簿》は開いている。
けれど、どこにも黒い文字はなかった。
善意から始まる失敗を、悪意として裁くことはできない。
アレクシアは三通の書状を書いた。
一通目はエドガーへ。前の人生を語らず、罷免する役人の引き継ぎ期間と、新任者へ国境経験者を補佐につけるよう求めた。
二通目はベアトリスへ。婚約への祝いとともに、改革案の危険だけを記した。
謝罪を書きかけたが、外交文書へ自分の救いを求めるのは違うと思い、消した。
三通目は国境商人へ。武器の流入量を毎週報告し、検問が緩んだ事実を数字で残すよう頼んだ。
「どれも、止める権限はありませんね」とセヴランが言う。
「ええ。人間国では私は失脚した元婚約者。魔王国では、敵国から来た妃よ。警告は、嫉妬か脅迫として処理されるでしょうね」
「それでも送りますか」
「悪意が見えないなら、起きる前の罪にはできない。だから、失敗が見えるように記録を残します」
前の人生で祖国を滅ぼした最初の一歩が、また動き始めていた。




