第19話「人間もまた一種族」
建国盟約には、九つの種族の印が押されていた。
悪魔、オーガ、ゴブリン、銀狼、オーク、リザードマン、スパイダー、スライム。
そして、人間。
原本は、黒冠院の広間の中央へ置かれていた。
地下の書庫から運び出されたばかりで、革の表紙はまだ湿った土の匂いがする。
九つの印は同じ蝋ではなかった。焼き付けた金属の印、糸を編み込んだ印、乾いた粘土をはめた印。
押した者たちが同じ道具を持っていなかったことが、そのまま残っている。
傍聴席は満席だった。黒冠院の席が高い壇に並び、古冠だけが正面に座っている。
「人間は、魔族に支配されていた側ではなかったの?」
人間国では、そう教わった。魔族に虐げられ、神の助けで独立したのだと。
「少なくとも、この盟約が作られた時代には、同じ国の構成種族です」
セヴランは九つの印を順に指した。
印章の形だけでなく、種族ごとに違う文字と暦が併記されている。
同じ出来事の日付が九通りの数え方で一致していた。
「一つの国が後世に作った偽書なら、失われた暦まで正確に合わせる必要があります。少なくとも、簡単に用意できるものではありません」
「では、人間国はどこから独立したの?」
「現在の魔王国の前身である、九種族の連合国家《黎明連合王国》からです。西部の人間領が土地ごと分かれてエルディア王国になり、残った連合が現在の魔王国になりました」
つまり、人間族が魔王国へ外から来たのではない。
もとは同じ国にいた者たちが、独立戦争によって二つの国へ分かれたのだ。
現在の魔王国は旧連合の王家と制度を引き継いでいるため、この建国盟約も今なお国の土台となる。
魔王国はいまも、正式には黎明連合王国を名乗っている。国が割れたのではなく、西部を失っただけだという立場だった。
独立戦争が終わったのは、三百年前である。
「では、なぜ現在の写しから消えているの」
「消した者に聞くべきでしょう」
審理が再開されると、血冠は原本を一目見て言った。
「偽書だ」
「理由を伺っても?」
アレクシアは文書を机へ置いた。
「人間が建国へ参加したという記録は、王統史に存在しない」
「王統史にないから偽物。ずいぶん便利な理屈ね」
「紙もインクも古ければ作れる。人間国が用意した可能性もある」
「私が拉致されると予測して、百年以上前から地下へ隠したと?」
「人間は王統へ入り込む機会を待つ。寿命が短く、数を増やし、婚姻によって土地を奪う種族だ」
言い終えたとき、血冠は手元の紙を見なかった。読み上げたのではない。何度も口にしてきた者の速さだった。
血冠の周りに黒い文字が現れた。
――盟約の内容を知りながら偽書と断じ、王統法の改変を隠す。
彼は知っている。けれど、アレクシアに見える文字は証拠にならない。
「人間族が独立の過程で何も奪わなかったとは言いません」
アレクシアは血冠から目をそらさなかった。
「焼かれた村も、追われた種族もいた。それを裁く記録があるなら公開すべきです。ですが、加害の歴史を残すことと、存在した種族そのものを消すことは同じではない」
「勝った側の人間が言うことか」
「だからこそです。自国に都合の悪い記録も含めて調べます」
その約束が受け入れられたわけではない。だが、少なくとも人間族を無罪にするための裁判ではないと示せた。
「古冠。原本の真偽を調べる時間をください」
「三日認める。その間、婚姻契約の停止は継続する」
「必要ありません」
血冠が立ち上がった。
「偽書を宮廷へ持ち込んだ時点で、この人間は王統を欺いた。直ちに国外へ送還すべきです」
「送還先の人間国では、私は元王太子婚約者よ。両国の外交問題になるわ」
「だからこそ、王統へ入る前に返す」
「あなたが恐れているのは、人間の血? それとも、人間が官職を与えること?」
「同じことだ」
アレクシアは現行の王統法を開いた。
「ここには『純血の王統を守る』とある。純血とは、何の血だけを指すの?」
「初代魔王から続く血だ」
「初代魔王は悪魔族?」
「悪魔族だけではない。銀狼族やオーガ族など、複数の名門家の血を引いていた」
「なら、最初から混ざっている」
傍聴席から小さな笑いが漏れた。
「言葉遊びだ」
「法律は言葉でできているのよ。セヴラン、王統法に『純血』が加わった年代は?」
「西部の人間領が旧連合から独立してから、四十二年後です。それ以前の写本にはありません」
「なぜ、あなたが知っているの」
「私の物置にある写本は、作り直す価値がないと判断されたものです。新しい正本と見比べれば、増えた行が分かります」
出世できなかった悪魔が、誰も読まない棚を読み続けていた。
それだけが、改竄の前を知る手がかりだった。
「国が二つに分かれた後、残った魔王国が人間族を王統から締め出すために加えた定義ということね」
「独立直後ではないのですね」と古冠が言った。
「はい。その四十二年間、資格を否定する定義はありませんでした。『純血』が加わったのは、二度目の国境戦争で人間国への憎しみが高まった年です」
戦争の怒りを利用して、それまで存在しなかった規則を昔からの伝統に見せた。
年月がたつほど、作られた決まりは疑われにくくなる。
血冠の顔から、初めて余裕が消えた。
高い窓から入る光が、机の端まで下がっていた。審理は半日を過ぎている。
傍聴席の後ろで、書記たちが紙を替える音がした。
セヴランは建国盟約の中ほどを開いた。
「さらに、失効の記録がない条文があります」
「読むことを許す」
古冠が言った。
「『建国に名を連ねる各種族は、代表を一名置く。代表は王へ官職者を推薦し、王の承認によって叙任できる』」
セヴランは次の頁を示す。
「さらに、『王の配偶者がその種族に属し、ほかに代表がいない場合、その席を預かる』。人間族代表の席は独立後、空席とされています。しかし廃止はされていません」
「独立によって盟約全体が失効した可能性は?」と古冠が問う。
「失効させれば、現在の王家も、建国八氏族の議席も根拠を失います。現に黒冠院は、この盟約に記された審議権を使い続けています。一つの条文だけを、記録もなく消すことはできません」
「空席なら、この女には関係ない」
「アレクシア様と陛下の婚姻契約を、黒冠院は承認しています」
人間妃へ官職を与える権利はない。
だが、人間族代表には、王へ官職者を推薦する権利がある。
黒冠院がアレクシアを制度へ閉じ込めるために認めた婚姻が、消された席を埋めていた。
ただし、まだ権利が確定したわけではない。
原本が偽物とされれば、アレクシアは証拠を捏造した人間として追放される。
勝てば血冠だけでなく、現在の地位を古い法に頼る貴族の多くが歴史の改変へ巻き込まれる。
「明日、原本の真偽と、王統史が改められた経緯を裁きます」
古冠の声が広間へ響く。
「これは妃一人の婚姻ではない。魔王国が、何を自らの歴史とするかの裁判です」
書記が、その言葉をそのまま議事録へ書き取った。
原本は広間の中央に残された。誰も片づけようとしなかった。




