第18話「命令を拒む城壁」
「十二軒を今夜中に取り壊します」
アレクシアは集めた作業員へ命じた。
「住民は旧離宮で受け入れる。家の補償は、裁判に勝ってから血冠家へ請求します」
勝てなければ補償する者はいない。わかっていながら、アレクシアは口にしなかった。
誰も返事をしなかった。
貧民街の家は古い。だが、そこには暮らしている者がいる。裁判に勝つまで住まいを失えと言われて、納得できるはずがない。
「ガラン。始めなさい」
「できません」
「できない理由は?」
「家の壁が隣と支え合っています。十二軒を壊せば、三十軒以上が傾きます」
「なら、三十軒を先に避難させます」
「それでも壊しません」
アレクシアの声が冷えた。
「私の命令を拒むの?」
「はい」
「鉱山であなたを救助係にしたのは私よ」
「だから、家を壊せるようになったわけではありません」
周囲の使用人が息を止めた。
人間国にいたころなら、その場で追放していた。命令へ逆らった一人を許せば、次は全員が逆らう。
アレクシアの意識に、帳簿の頁が開いた。
だが、記された名前はガランではない。
――アレクシア・エルデンブルク。
――婚姻と権限を守るため、三十以上の家族へ住居を失う危険を負わせる。
黒い文字から伸びた線が、目の前の家々へつながっていた。
「私の名前……」
これまで何度も、過去の自分が悪かったと認めてきた。それでも帳簿に、自分が現在選んだ加害を見せられたのは初めてだった。
頁の下に、新しい文字が浮かぶ。
《記帳》
命じた事実は、取り消しても消えない。
けれど、頁の端で伸びかけていた線は止まった。
命令を撤回すれば、命じた責任は残るが、これから生まれる被害までは増えないらしい。
「アレクシア様」
セヴランが呼ぶ。
「……命令を撤回します」
その一言を口にするだけで、喉が痛んだ。
「ガラン。代案があるから拒んだのでしょうね」
「あります。家を支える壁を先に補強します。それから井戸を広げて、横穴を掘ります。時間はかかりますが、家は壊しません」
「審理は明日の正午よ」
「夜明けまでに保管庫へ届きます」
「間に合わなければ?」
「私が責任を負います」
「あなた一人の責任にはしないわ。採用した私の責任でもある」
アレクシアは住民たちへ向き直った。
「勝手に家を壊そうとしました。謝罪します」
許すという声はなかった。当然だった。
「井戸を使わせてください。壊した場所は、元より丈夫に直します。作業中は旧離宮で食事を用意します」
「口約束なら要らないよ」
若いゴブリンが言った。
「明日の裁判に負ければ、あんたは権限を失うんだろう。そのあと誰が直す」
アレクシアは返す言葉を失った。住民たちは、彼女の事情を知らないのではない。
知ったうえで、その事情に生活を賭ける気がないのだ。
「修繕用の木材と費用を、先にこちらへ渡します」
ニムが残りの予算を計算する。
「旧離宮の十日分の食費が減ります」
「それでも渡して。失敗した側が飢えるべきで、家を壊されかけた側ではないわ」
セヴランが契約を書き、井戸を使う範囲、壊した場合の補償、作業を中止させる住民の権利まで記した。
代表三人が署名するまで、誰も道具へ触れなかった。
長い沈黙のあと、年老いたスパイダー族の女性が言った。
「ガランが壁を支えるなら、使っていい」
アレクシアではなく、ガランを信じたのだ。それでよかった。
作業は夜通し続いた。
ガランは家々へ木枠を組み、壁の重さを一本ずつ確かめた。
ニムは必要な板と縄を数え、一本も不足させない。
ルルクは細い隙間へ入り、地下の空気が流れる場所を探した。
アレクシアも泥を運んだ。
手伝ったからといって、謝罪が済むわけではない。
住民は必要な指示だけを出し、彼女へ礼を言わなかった。
アレクシアも感謝を求めなかった。
夜半、井戸の壁が一度崩れた。
「下がってください」
ガランが身体で木枠を支える。腕が震えても、すぐには掘り直さない。土が落ち着くまで待ち、別の角度から支柱を入れた。
「急げば間に合う」と作業員が焦る。
「急げば、この上の家が沈みます」
その言葉で、全員が手を止めた。裁判へ間に合わせるための作業だったはずが、いつの間にか、家を守ることが先になっていた。
夜明け前、井戸の底でガランが手を上げた。
「この向こうです」
最後の石を外すと、冷たい空気が流れ出した。
地下室には、種族ごとに異なる文字で名前が刻まれた石板が並んでいる。
中央の台に、一冊の厚い文書が置かれていた。
セヴランが表紙の埃を払う。
「建国盟約の原本です」
最初の頁には、魔王国の歴史から消された名があった。
――人間族代表。




