第13話「幼馴染との再契約」
王宮の北庭に、朽ちかけた温室があった。
屋根のガラスは半分が割れ、蔓草が鉄の骨組みへ絡みついている。花壇には何も植えられていない。
「こんな場所、私は知らないわ」
「知らないはずだ。お前の家の庭を写して作らせた。途中でやめた」
魔王は温室の奥へ進んだ。
石壁の一部だけが、周囲より新しい。そこへ手を当てると、魔力の光が走り、隠し戸が開いた。
中に、小さな木箱がある。
アレクシアは蓋を開けた。
木彫りの馬。欠けた青いガラス玉。二人の子どもが描かれた紙。
そして、金髪の少女をかたどった、不格好な木の人形。
「……アルが作ったものよ」
八歳の冬、指に傷を作りながら削っていた。
髪は長すぎ、目はつり上がり、本人よりずっと意地悪そうな顔をしている。
「ひどい出来だから捨てたと思っていたわ」
「お前が怒って投げたから、私が拾った」
「アル」
魔王が振り返る。
「その名で呼ぶのは、あの夜以来だな」
前の人生の終わり、アレクシアは血に濡れた魔王を同じ名で呼んだ。彼も生きていたと認めた。時間が戻ったあとも、その記憶は残っている。
人質として公爵邸へ預けられていた黒髪の少年。アレクシアの周りで唯一、悪意の文字が一度も現れなかった子が、いま目の前にいる魔王だった。
十歳の冬、突然いなくなった。
大人たちは病死したと言った。遺体は魔王国の習慣に従って返したのだと。
アレクシアは一か月泣き、その後、彼の名を口にしなくなった。
「なぜ、この品を魔王国へ持ち帰ったの」
「お前の家を出るとき、ほかに持っていけるものがなかった」
「私に、一度も知らせなかった」
「帰国後は王位争いの中にいた。人間国との私信は禁止された」
「王になってからは?」
「国を救うほうを優先した」
アレクシアは木の人形を箱へ戻した。
「これまでの五つの世界すべてで?」
「すべてで」
「私がどうなるか、知っていた?」
「病死した世界がある。戦争に巻き込まれた世界も、人間国の記録から消息が消えた世界も、私がエドガーを殺した後の粛清で死んだ世界もある」
冷静な報告だった。
「そして、私が覚えている世界で、ようやく役に立ったから迎えに来た」
「そうだ」
胸が痛んだ。
恋しさではない。八歳の自分が、まだどこかで彼を待っていたと認める痛みだった。
「昔の思い出を見せれば、私が拉致を許すと思った?」
「思っていない」
「この温室を見せれば、妃になると?」
「それも思っていない」
「では、なぜ今になってここへ連れてきたの」
魔王は答えるまで時間を置いた。
「お前を選んだ理由に、幼いころの情が含まれているからだ。契約へ署名する前に、政治上の必要だけで選んだのではないと伝えるべきだと思った」
黒い文字はない。
「未来については、まだ隠しているのに?」
「あれは話せない」
「話さない、でしょう」
「……そうだ」
彼は自分の選択を、事情のせいにはしなかった。
「私も、あなたへ隠していることがある」
アレクシアは言った。
「私が《悪意の帳簿》と呼んでいる能力が見せるものすべてを、報告するつもりはない。あなた自身に黒い文字が出たとしても」
「構わない」
「許可を求めているのではないわ」
「知っている」
魔王は木箱の蓋を閉じた。
「一つ聞く。その黒い文字は、何を教えている」
「害だと分かったうえで選んだことよ」
アレクシアは指を三本立てた。
「一つ。誰かが損をすると分かっていて、自分の得を選ぶ人」
「二つ。立派な理由を口にしながら、本当は別のものが欲しい人」
「三つ。調べれば分かるのに、責任を取りたくないから調べない人」
「では、何が見えない」
そこで彼女は少し黙った。
教えれば、避け方を教えることになる。
「本当に知らなかった人。考える前に動いた人。よく調べたうえで間違えた人」
一つだけ、最後まで言わなかった。
害になると気づいてもいない、まっすぐな善意。
それが見えないことは、この男にも渡したくなかった。
昔のアルは、そこで笑った。
いまの魔王は笑わない。
二人とも、あのころの子どもではなかった。
「約束を、契約に書き換えます」
アレクシアは木箱から紙を取り出した。
子どもの字で、こう書かれている。
――ふたつのくにを、なかよくする。
「これは約束であって、契約ではないわ。破っても罰がなく、何をすれば果たしたことになるのかも決まっていない」
「セヴランが聞けば喜びそうだ」
「だから、今度は大人の契約にする。私たちは夫婦になる前に、両国を救う共同事業者。情報を隠した側は、その情報に関する決定権を失う。私を危険から遠ざけるための命令も禁止。互いを犠牲にする計画は、必ず相手の同意を取る」
「最後の条項は、お前も守れ」
「当然よ」
魔王が手を差し出した。
アレクシアは握らなかった。
「まだ一つ」
「何だ」
「レクシィと呼ぶのは、人前では禁止」
「二人のときは?」
「契約に書かなくてもわかるでしょう」
「書いていないことは、セヴランに叱られる」
今度は、ほんの少しだけアルの顔で笑った。
アレクシアは仕方なく、その手を取った。
王宮へ戻ると、血冠から婚姻準備に関する通知が届いていた。
アレクシアへ与えられる居館が決まったという。
王宮の北端。廃棄物置き場に隣接する、二十年間使われていない旧離宮。
使用人として割り当てられたのは、清掃スライムと、雑役や下働きに置かれた者だけだった。
「歓迎されていないようね」
アレクシアは通知を畳んだ。
「好都合だわ」




