第1章《太古の継承者編》 第9話《天律の剣》
その事実に気づいてから、レオンはほとんど眠れないまま朝を迎えた。
夜中に熱を持った右手は、家族を起こして確認してもらう頃には普段と変わらない温度へ戻っており、黒い痕も入口で見たときほど濃くはなかった。母のミレアは腫れや皮膚の変色がないことを確認したうえで眠るよう言ったが、一度途切れた仮説の代わりに別の説明を考え始めると、窓の外が白み始めるまで思考を止めることができなかった。
入口へ近づいたから反応したのであれば、距離を取れば収まるはずだった。
実際、昨日の昼まではそう見えていた。
ところが、一時間以上離れた自宅で再び熱を持った以上、少なくとも「古い施設の近くにいることだけ」が条件ではない。施設側で何かが動いた結果を遠くから受け取ったのか、自分の身体に一定時間だけ反応が残ったのか、それとも距離とはまったく別の条件が存在するのか、現時点ではどれも否定できなかった。
レオンは寝台へ腰掛けたまま、窓辺の机に置いてある記録帳を見た。
昨夜追加した記録には、反応が起きた時刻と右手の状態、それから遺跡までのおおよその距離が書かれている。以前なら「遺跡から呼ばれている」とでも書いていたかもしれないが、今はそんな言葉を記録へ残す気にはなれなかった。
呼ばれているように感じることと、本当に何者かが自分を呼んでいることは違う。
その区別を、ここ数日で何度も思い知らされている。
一階から食器の触れ合う音が聞こえてきた。
続いて、薪を割る乾いた音が庭から響く。
普段なら家族が起きるまで寝ていることも珍しくないレオンが、今日は誰より早く服を着替えて階段を下りると、台所ではミレアが朝食用の鍋を火へ掛けていた。
「寝たの?」
息子の顔を見た瞬間、挨拶より先に尋ねられた。
「少しは」
「少しって、どのくらい?」
「二刻くらいだと思う」
「今日は遺跡へ行かないって言われているでしょう」
「分かってる。だから眠くても困らない」
ミレアは鍋を混ぜる手を止め、明らかに納得していない顔を向けた。
「遺跡へ行かなければ休まなくていいという意味ではないわ。身体を治すために休めと言われたんだから、起きて一日中考え事をしていれば同じでしょう」
「でも、右手のことは確認したい」
「それは確認する。昨日話した魂晶師のところにも行くし、村長にも夜の反応を報告するから、あなた一人で結論を出す必要はないの」
レオンは椅子へ座った。
左膝を曲げると、昨日より痛みは弱いものの、まだ鈍い重さが残っている。治療所で言われた通り走れる状態ではなく、仮に遺跡へ同行を許されたとしても、斜面を歩けば途中で誰かに支えてもらうことになるだろう。
「母さん」
「なに?」
「この痣のこと、俺が小さい頃に調べたって言ってたよな」
「ええ」
「どのくらい調べた?」
ミレアは鍋へ視線を戻した。
「村に来た医師には何度か見せたし、あなたが五歳の頃にグランゼから来た魂晶師にも見てもらったわ。病気や呪いではなく、契約石に由来する普通の契約紋とも違うと言われた」
「魂力を流したら?」
「弱い魂力で反応を見る検査もしたけれど、何も起きなかった。本人が痛がるわけでもなく、成長に合わせて広がることもなかったから、それ以上の検査はしなかったの」
「王都とか、大きな神殿へ行けば分かったかもしれない?」
ミレアの手が僅かに遅くなった。
「分かった可能性はあるわね」
「じゃあ、何で行かなかった?」
責めるつもりで聞いたわけではなかったが、口に出したあとで少し強い言い方だったことに気づいた。
ミレアはすぐには答えなかった。
鍋の中では根菜と麦を煮込んだ粥が小さく泡立ち、乾燥香草の匂いが台所へ広がっている。外では父のエドガーが薪を割る音が一定の間隔で続いており、普段と変わらない朝の生活音が、かえって問いの重さを目立たせた。
「危険がなかったからよ」
ようやくミレアが答えた。
「あなたに何か異常が出ていたなら、どれだけ遠くても連れていったと思う。でも、検査のために幼いあなたを何日も村から連れ出して、高い費用を払って、それでも分かる保証がない場所へ行く必要があるのかと考えたとき、私たちはそこまでしなくてもいいと判断した」
「父さんも?」
「二人で決めたわ」
「俺には聞かなかった?」
「五歳だったあなたに、何日も旅をして原因不明の痣を調べたいかと聞いて、十分な意味があったとは思わない」
その答えは理解できた。
それでも、自分に関することを知らされていなかったことへの引っ掛かりまで消えたわけではない。
ミレアは息子の表情を見て、少しだけ声を柔らかくした。
「ただ、今思えば、もっと大きくなってから一度きちんと話してもよかったわね。危険がないから説明しなくていいと思っていた部分は、私たちの判断だった」
レオンは顔を上げた。
「母さんがそう言うの、珍しいな」
「親だって判断を間違えることくらいあるわよ」
「もっと『あなたのためだった』って言うかと思った」
「あなたのためだと思って決めたことと、あなたに説明しなくてよかったことは同じじゃないでしょう」
レオンは返事をせず、右手を開いた。
薄い黒線は朝の光の中では昨日までと変わらない。
何のためにあるのか。
なぜ古い遺跡へ反応するのか。
生まれたときからあったという事実だけで、血筋や使命を意味すると決めることはできない。
昨日までなら、その言葉に少し失望していたかもしれない。
特別な理由がある方が面白そうだと思っただろう。
しかし、今は「分からない」という状態の方が正しいと感じられた。
玄関が開き、冷たい朝の空気と一緒にエドガーが入ってきた。
薪の匂いをまとった父は手を洗いながら、食卓に座るレオンを見る。
「起きてたのか」
「夜に右手がまた反応した」
その一言で、エドガーの顔から眠そうな気配が消えた。
「家でか?」
「ああ。入口にいたときほどじゃないけど、黒いところが濃くなって熱くなった」
「時刻は?」
レオンは記録帳を開く。
「夜半を少し過ぎた頃。十分くらいで弱くなって、母さんたちを呼んだときにはほとんど戻ってた」
エドガーは椅子へ座り、記録を見る。
「入口に近づいたときだけ反応するって考えは使えなくなったな」
「俺もそう思う」
「ダルたちが夜まで遺跡の見張りをしていたはずだ。向こうで同じ時刻に何か起きていれば関係があるかもしれん」
「今から聞きに行こう」
立ち上がろうとすると、左膝へ痛みが走った。
レオンは顔をしかめながら椅子へ戻る。
エドガーが呆れたように見た。
「まず食え」
「村の中くらい歩ける」
「歩けるかどうかじゃなくて、朝飯を食わずに出る理由がないと言ってる」
ミレアが器を置いた。
「そこは私も同意するわ」
二対一では勝てそうにない。
レオンは大人しく粥の器を受け取った。
◇
朝食を終える頃、ノアが訪ねてきた。
昨夜の事情はまだ知らなかったらしく、レオンの右手が村の中でも反応したと聞くと、玄関で靴を脱ぐ前から表情を変えた。
「じゃあ、距離じゃなかったの?」
「少なくとも距離だけじゃ説明できない」
「遺跡で何か起きたから、レオンの手も反応したとか?」
「その可能性をこれから確かめる」
エドガーが上着を着ながら答えた。
「ダルが戻ってるなら、夜の記録を聞く。お前たちは村長のところへ行く前に治療所へ寄れ」
レオンが眉を寄せる。
「俺もダルの話を聞きたい」
「聞ける。だが膝を先に見てもらえ」
「昨日見てもらったばかりだぞ」
「一晩経って腫れが増えてるかもしれないだろ」
「歩けてるのに」
ノアが横から口を挟んだ。
「レオン、階段下りるとき左足かばってたよ」
「見てたのか?」
「見れば分かる」
エドガーが無言で息子を見る。
結局、レオンは反論を諦めた。
治療所までは村の中央を通って十分ほどだった。
朝の《エルダ村》ではすでに畑へ向かう人々が行き交い、井戸の周囲には水を汲む者が集まっている。パンを焼く家からは小麦と薪の匂いが流れ、鍛冶をする家では金属を打つ音が響いていた。
昨日、北の丘で武装した集団が確認されたことは一部の村人へ伝わっているらしく、普段より外へ出る者が少ない。
それでも生活は止まっていない。
畑へ行かなければ作物は育たず、家畜に餌を与えなければならない。
異常が起きたからといって、村全体が遺跡だけを見ていられるわけではなかった。
「北の畑、今日は人減らすらしいよ」
ノアが歩きながら言った。
「家で聞いたのか?」
「お父さんが朝から手伝いに行ってる。自警団が一人ずつ見回って、遠い畑は午前中だけにするって」
レオンは道の先を見た。
自分が古い入口を見つけたことと、村人が畑へ行く時間を変えなければならなくなったことが、初めて一本の線で繋がった気がした。
武装集団が遺跡を探していると確定したわけではない。
それでも危険がある以上、村は対処する。
その結果として誰かの仕事が遅れ、誰かが見回りへ回り、普段なら必要のない負担が増える。
昨日まで、遺跡探索で自分が払う代償といえば、汚れた服や母からの説教程度だった。
今は違う。
「どうしたの?」
ノアが尋ねる。
「いや、俺が入口見つけなかったら――」
そこまで言ったところで、ノアが首を横へ振った。
「見つけなかったら、知らない人たちだけが先に見つけてたかもしれないよ」
「でも、その人たちが本当に遺跡を探してるかは分からない」
「だったら、レオンのせいだって決めるのも早いんじゃない?」
レオンは少し黙った。
自分が何でも悪い方向へ考えていたわけではない。
ただ、起きた結果へ責任を感じ始めていた。
それでも、関係が確定していないものまで自分へ結びつけるのは、何でも運命へ結びつけるのと同じくらい雑なのかもしれない。
「それもそうだな」
「今日は素直」
「最近ずっと素直だろ」
「それはどうかな」
ノアが笑う。
治療所へ入ると、薬草と消毒液の匂いが鼻へ届いた。
左膝の腫れは昨夜より僅かに増していたが、骨や関節に大きな問題はなく、引き続き走らず長距離を歩かないことを条件に村内での移動は許された。冷却布を新しいものへ交換され、右手については昼前に来る予定の魂晶師へ見せることになった。
治療を終えて外へ出ると、村長宅の方からダル・ヘイムが歩いてくるのが見えた。
昨日破れた右肩の服は替えられているが、腕を大きく上げないようにしている。
「ダル!」
レオンが呼ぶ。
ダルは二人を見つけ、こちらへ進路を変えた。
「膝はどうだ?」
「歩くのは大丈夫。それより、昨日の夜に遺跡で何か起きた?」
「どうして聞く?」
「家にいたのに右手がまた熱くなった」
ダルの表情が変わった。
「何時だ?」
レオンが時刻を伝える。
数秒、ダルは何も言わなかった。
「その少し前、入口の奥で音がした」
「何の音?」
「分からん。俺たちは入口から距離を取って見張っていたが、地下から何かが動くような低い音が続いて、そのあと通路の明かりが一度強くなった」
レオンとノアが顔を見合わせる。
「同じ時刻?」
「おそらく近い。ただ、正確に照合するなら見張りの記録を確認した方がいい」
右手が自宅で反応したことと、遺跡側の変化が時間的に近い。
距離だけでは説明できないという事実の代わりに、「施設側の変化を右手が受け取っている」という新しい仮説が生まれる。
しかし、それもまだ一度一致しただけだった。
「中へ入った?」
レオンが尋ねる。
ダルは首を横へ振った。
「入ってない。武装した連中がまた来る可能性もあったし、夜に未知の施設へ踏み込む理由がない」
「朝は?」
「村から人を増やして確認する予定だったが、それも少し変わった」
「何があった?」
ダルは二人の顔を見たあと、声を低くした。
「今朝、遺跡の北側で男が一人倒れているのが見つかった」
レオンの背筋が強張った。
「村の人?」
「違う。灰色の外套を着ていた。昨日見た連中と同じ装備に見える」
「死んでるの?」
ノアの声が小さくなる。
「生きてる。右腕を怪我して意識がなかったが、見つけた時点では呼吸も脈もあった。今は村の外れにある詰所へ運んで、治療できる者を付けてる」
「何にやられた?」
「そこが分からん」
ダルは眉を寄せた。
「刃物で斬られた傷じゃない。獣に噛まれた形でもないし、火傷とも違う。強い魂力を受けたようにも見えるが、周囲に戦闘の跡がほとんどなかった」
「仲間に攻撃された可能性は?」
「ある。ただ、決める材料はない」
レオンは昨日の破裂音を思い出した。
武装集団の誰かが魂力を使っていたことは確かだ。
争いが起きた可能性もある。
しかし、仲間割れなら痕跡が少なすぎるというダルの違和感も残る。
「本人から聞けない?」
「まだ意識が戻っていない」
ダルは少し間を置いた。
「それと、持ち物から小さな札が出た」
「札?」
「俺には読めない文字が書いてある。お前が写した遺跡の文字とは違うが、村のものでもない」
ノアが尋ねる。
「見てもいい?」
「村長が保管している。勝手には見せられんが、レオンの記録と照らし合わせる必要があるなら話はしておく」
レオンは頷いた。
「頼む」
ダルはそこで二人と別れた。
去っていく背中を見ながら、レオンは考えを整理する。
武装した男。
負傷。
戦闘痕の少なさ。
読めない札。
遺跡の反応。
右手。
どれも気になる。
だからこそ、一つへまとめてはいけない。
「頭いっぱいになってる顔してる」
ノアが言った。
「今、考えてる」
「全部繋がってると思ってる?」
「そうしたくなる。でも、まだ駄目だろ」
「うん」
ノアは少し笑った。
「ちゃんと自分で言えるようになったね」
「毎日同じことで失敗してたら嫌でも覚える」
二人は村長宅へ向かった。
◇
村長ハベル・ロークの家には、すでにエドガーと数人の自警団員が集まっていた。
机の上には昨日レオンが書いた記録帳の写し、遺跡周辺の簡単な地図、それから薄い布の上へ置かれた小さな金属札がある。札は指二本ほどの幅しかなく、片面に三本の細い線と、一つの円形紋が刻まれていた。
「これか」
レオンが近づく。
ハベルは頷いた。
「触らないで見なさい」
「分かってる」
以前なら言われる前に手を伸ばしていたかもしれない。
レオンは机へ両手を付かず、少し離れた位置から札を見る。
昨日遺跡で見た古い文字とは明らかに違う。
むしろ現在使われている王国文字に近い部分もあるが、レオンが読めるものではない。
エドガーが尋ねた。
「何か分かるか?」
「遺跡の文字とは別だと思う。少なくとも、俺が写した形とは似てない」
「なら一つ切り分けられるな」
ハベルが札を布で包んだ。
「これを持っていたからといって、遺跡の内部から出てきた者だとは考えなくていい」
「でも、何の札なんだ?」
「それを調べるために、午後の荷便でグランゼへ写しを送る。商人や旅人なら知っている者がいるかもしれん」
レオンは少し物足りなさを感じた。
答えが出ない。
何を聞いても「まだ分からない」が返ってくる。
しかし、昨日までの自分なら分からないことへ勝手な名前を付けて埋めていたのだと思えば、今の方が進んでいないとは言い切れない。
「夜の反応も記録と照らした」
エドガーが別の紙を開いた。
「レオンの右手が熱くなったのが夜半から少し後。見張りが地下の駆動音を記録したのが、その一刻より少し前だ」
「完全に同時じゃない?」
「正確な時計を双方で使っていたわけじゃないから数分の誤差はあり得る。それでも、同じ時間帯に起きたと考えていいと思う」
「なら、俺の手は遺跡側の変化に反応した?」
ハベルがすぐに答える。
「可能性は高くなったが、まだ一度だけだ。次に同じことが起きるまで確定はしない方がいい」
分かってはいた。
レオンは頷いた。
「それで、今日の遺跡はどうする?」
室内の空気が少し変わった。
ハベルは机の地図を見る。
「自警団から三人を追加する。昨日の入口までは行くが、内部へ深く入らない。まず周囲に武装集団がいないことを確認する」
「俺は?」
「行かない」
予想していた。
それでも聞いた。
「右手の反応を確認するなら、俺がいた方がいいんじゃないか?」
「確認はしたい」
「なら――」
「だが、お前がいなければ遺跡がどう動くかも知る必要がある」
レオンは口を閉じた。
ハベルは続ける。
「お前が必要なのか、誰かが近づけば動くのか、昨夜のように人がいなくても動くのか、その違いを知るには、最初からお前を連れていかない方がいい」
「じゃあ俺が行かないこと自体が調査になる?」
「そういうことだ」
それなら納得できる。
完全には嬉しくない。
でも理由は分かる。
エドガーが地図を指した。
「それに、今のお前は走れない。昨日みたいな武装集団が来た場合、また誰かがお前を支えて逃げることになる」
「分かってる」
「不満そうだな」
「分かることと不満じゃないことは別だろ」
父は少し笑った。
「その通りだ」
ハベルも口元を緩めた。
「なら、不満なまま今日は待ってくれ」
レオンは渋々頷いた。
そのとき、家の外から馬の蹄音が近づいてきた。
エルダ村では農耕用の馬は使われているが、朝から速度を上げて村内へ入ってくる者は珍しい。複数の人間が窓へ視線を向けると、通りの向こうで一頭の黒馬が止まり、その背から大柄な男が降りるのが見えた。
旅装は砂埃に汚れている。
背中には長大な剣。
髪は短く、顎には数日分の無精髭が残っていた。
男は馬の首を撫でてから周囲を見回し、近くにいた村人へ何かを尋ねる。
「誰だ?」
レオンが言う。
ハベルは窓から男を見た。
「昨日、南街道から来る予定だった護送組の者かもしれん」
「護送組?」
「北側の街道で盗賊が増えているから、グランゼから物資を運ぶ隊に護衛が付くと連絡があった」
男は教えられた方向へ顔を向け、村長宅へまっすぐ歩いてきた。
数十秒後、扉が叩かれる。
自警団員が開ける。
「村長ハベル・ロークはいるか?」
低く、よく通る声だった。
「私だ」
ハベルが答える。
男は室内へ入り、まず集まっている人々を見た。
視線は一人ずつに止まるが、威圧するような動きではない。
状況を確認している。
そんな印象だった。
「バルガス・グレンだ。グランゼから北へ向かう荷隊の護衛をしていたが、昨日この辺りで妙な魂力音を聞いた。村へ入る前に街道脇を見たら、木が一本、内側から弾けるみたいに割れてた」
レオンは男の背中にある剣へ目を向けた。
大きい。
村の自警団が使う武器とは明らかに違う。
ハベルが尋ねる。
「盗賊と遭遇したか?」
「二人だけ見た。灰色の外套だったから《灰牙》の可能性はあるが、向こうが逃げたんで確認はできてねえ」
ダルが先ほど言ったことと似ている。
可能性はある。
確定はしない。
バルガスは机に広げられた地図へ目を落とした。
「何かあったのか?」
ハベルはすべてを話さなかった。
旧採掘場周辺で正体不明の武装者を確認したことと、負傷者を一人保護したことだけを伝える。
バルガスは少し考えた。
「そいつの傷、見てもいいか?」
「治療の邪魔をしないなら」
「戦った相手の見当が付くかもしれん」
「どうして?」
レオンが思わず尋ねた。
バルガスがこちらを見る。
「傷は武器の使い方を残すからだ。剣で斬られたのか、石の力で飛ばされたのか、それとも自分の石が暴れたのかで形が違う」
レオンが黙ると、バルガスは右手の包帯と左膝の冷却布へ視線を移した。
「お前も怪我人か?」
「これは遺跡から逃げる途中で転んだだけ」
「遺跡?」
ハベルが軽く咳払いした。
レオンは余計なことを言ったと気づいた。
「北の旧採掘場で少し問題があった」
ハベルが必要な範囲だけ説明する。
バルガスはそれ以上問い詰めなかった。
「なら、俺も勝手に首突っ込む気はねえ。ただ、武装した奴らが街道と村の両方に出てるなら、荷隊を先へ進めるか決める材料が欲しい」
「一度負傷者を見てもらおう」
ハベルが立ち上がった。
レオンも反射的に動こうとしたが、左膝を見たエドガーに止められる。
「お前はここだ」
「見るだけだろ」
「人が多ければ治療の邪魔になる」
バルガスがレオンを見た。
「気になるなら後で話してやる」
「何が分かったか?」
「ああ。ただし俺が分かる範囲だけだ」
その答え方が少し意外だった。
大きな剣を背負った男なら、もっと自信満々に言い切ると思っていた。
バルガスはハベルたちと外へ出る。
レオンは窓越しにその背中を見送った。
「強そうだね」
ノアが言う。
「剣がでかい」
「そこ?」
「見れば一番最初に分かるだろ」
ノアは少し笑った。
だが、レオンの視線は剣だけではなく、その腰に下げられた褐色のソウルストーンへ移っていた。
村の契約石より明らかに大きい。
外から見ただけでは階級までは分からない。
それでも、石の周囲にある金具が実戦用に補強されていることは見て取れた。
◇
バルガスが戻ってきたのは、一刻ほど後だった。
その間、レオンは村長宅で待たされるのを諦め、ノアとともに自宅へ戻って記録を整理していた。ミレアから椅子に座っているよう言われたため、机へ向かったまま右手の反応時刻や昨日の出来事を書き直し、昼前には一度横になって膝を休ませている。
玄関が叩かれた。
ノアが開ける。
そこにバルガスが立っていた。
「レオンってのはここで合ってるか?」
「俺だけど」
「話すって言ったから来た」
律儀だ。
レオンは椅子を勧めた。
バルガスは大剣を玄関の壁へ預けてから入ってきたが、狭い家の中へ大柄な身体が入ると、それだけで部屋が少し小さく感じられる。
ミレアが水を出す。
「ありがとうございます」
「いや、急に来て悪いな」
バルガスは一口飲んでから、レオンを見た。
「保護された男の傷は、少なくとも普通の剣じゃない」
「魂力?」
「たぶんな。右腕の内側から外へ力が抜けたような傷になってた」
「どういう意味?」
バルガスは自分の腕を使って説明する。
「外から攻撃を受けたなら、普通は皮膚や骨の外側から壊れる。あいつの傷は逆で、腕の中を通った魂力が出口を探して内側から筋肉を傷めたように見える」
ノアが眉を寄せた。
「自分のソウルストーンが暴れた?」
「可能性はある。ただ、契約事故なら石側にも損傷が残ることが多いんだが、持ってた石は見つかってない」
「盗られた?」
「それも考えられるし、最初から持ってなかった可能性もある」
また答えは一つに決まらない。
レオンは記録帳へ書き込む。
「周りに戦闘跡がないって話と合う?」
「ある程度はな。外から大きな攻撃を受けたんじゃなく、自分の中で魂力経路が崩れたなら、周囲が荒れてなくてもおかしくない」
「じゃあ遺跡とは関係ない?」
「そこまでは言ってない」
バルガスは腕を組んだ。
「遺跡の近くで倒れてたんだろ。場所の関係はある。でも、遺跡がそいつを攻撃したとまでは分からん」
レオンは筆を止める。
「みんな同じこと言うな」
「何が?」
「分からないものを、分かったみたいに言うなって」
バルガスは少し笑った。
「それ、悪いことか?」
「最近まで俺はもっと早く答えを出してた」
「それで当たってたなら大したもんだ」
「外れてた」
「なら、少し遅くなってちょうどいいだろ」
あまりに簡単に言われ、レオンも笑った。
そのとき、バルガスの視線が記録帳へ落ちる。
「それ、お前が書いたのか?」
「遺跡の文字」
ページを開く。
昨日入口の内部で写した記号。
バルガスはしばらく眺めた。
「読めねえな」
「見たこともない?」
「文字としてはない。ただ、この並び方はどっかで見た気がする」
レオンが身を乗り出した。
「どこ?」
「思い出せねえ」
「何でもいい」
「神殿か……いや、違うな」
バルガスは眉間へ皺を寄せる。
「昔、護衛で東の方へ行ったときに、古い遺跡から出た石板を見たことがある。文字そのものは違ったと思うが、行の区切り方が似てる気がする」
「どこの遺跡?」
「覚えてる範囲じゃ王国東端だ。専門家じゃないから場所までは記録してねえ」
手掛かりとしては弱い。
それでも、エルダ村だけにあるものではない可能性が出てくる。
「神殿が調べてた?」
レオンが尋ねる。
「俺が見たときはそうだった。古い時代の遺跡に神殿が関わること自体は珍しくねえし、危険な石や契約具が出れば報告する決まりもある」
「じゃあ、この遺跡も神殿へ知らせる?」
横から聞いていたミレアが少し不安そうに尋ねる。
バルガスは首を傾けた。
「村長がどう判断するかだな。ただ、正体不明の施設が動いて、武装した連中まで周辺へ来てるなら、いずれ領主か神殿のどちらかへ報告は必要になると思う」
レオンは記録帳へ視線を落とした。
神殿。
自分にはほとんど縁のない場所だった。
村にも小さな祈り所はあるが、日常生活をすべて神殿が管理しているわけではなく、年に何度か巡回する司祭を見る程度である。
「神殿って、こういう遺跡を全部持っていくのか?」
「全部じゃねえよ」
バルガスは即座に否定した。
「危険物なら封鎖することはあるし、強いソウルストーンが出れば登録や保管の話にはなる。ただ、土地まで何でも神殿のものになるわけじゃねえ」
「じゃあ俺が見つけたものは?」
「見つけたからお前のものになるとも限らん」
父と同じ答えだった。
レオンは少し不満そうな顔になったらしい。
バルガスが笑う。
「中身も分からないのに、もう取られる心配してるのか?」
「取られたいわけじゃない」
「金が欲しい?」
「それも少しはあるけど……」
言葉を探す。
自分が見つけた。
自分が知りたい。
だから、誰かが来て勝手に全部決めるのは嫌だ。
「俺が見つけたのに、何も聞かれず閉じられるのが嫌なんだと思う」
バルガスの表情が少し変わった。
「それなら、そう言えばいい」
「神殿に?」
「村長にでも、領主にでもな。封鎖が必要なら従うしかないこともあるが、何のために閉じるのか聞く権利までなくなるわけじゃねえ」
「それでも駄目って言われたら?」
「その理由が自分にとって十分かどうか考えろ」
「十分じゃなかったら?」
「そこから先は喧嘩の仕方を覚えることだな」
ミレアがすぐに睨む。
「この子に余計なことを教えないでください」
「いや、殴れって意味じゃねえぞ」
バルガスが慌てて手を上げる。
ノアが笑いを堪えている。
レオンも少し笑った。
その短いやり取りだけで、部屋の緊張が僅かに軽くなった。
◇
昼を過ぎた頃、自警団の先発隊が遺跡から戻った。
レオンは家で待つよう言われていたため、報告を持ってきたエドガーから話を聞くことになった。
「入口は開いたままだった」
父は汗を拭いながら椅子へ座る。
「内部の光も残ってる。ただし、お前がいなくても止まってない」
「動いた?」
「見張りが近づいても大きな反応はなかった。壁の光が一度強くなった程度で、扉はそれ以上動かなかった」
「俺がいなくても光は変わった?」
「ああ」
レオンは記録帳を開いた。
それは重要だった。
右手が施設へ関係している可能性は高い。
しかし、施設のすべてが自分だけを条件に動いているわけではない。
「それと、中から音が聞こえた」
「どんな?」
「一定の間隔で鳴る機械音だ。入口近くじゃなく、もっと奥からだと思う」
「昨日は聞こえなかった」
「施設が少しずつ起きてるのかもしれん」
エドガーはそこで言葉を止めた。
顔つきが重い。
「他にも何かあった?」
レオンが尋ねる。
「入口から見える範囲に、昨日はなかった足跡があった」
「誰の?」
「分からん」
「自警団じゃなくて?」
「違う。見張りを始める前からあった」
「灰牙?」
「それもまだ決められない」
父の答えを聞きながら、レオンは指先へ力を入れた。
武装集団が夜の間に入った可能性。
別の人間。
あるいは。
「中から出てきたとか?」
口にした瞬間、部屋が静かになった。
エドガーが息子を見る。
「その可能性を完全には否定できない」
昨日までなら笑われていただろう。
古い遺跡から誰かが出てくるなど、普通なら考える理由がない。
しかし、施設が今になって動き始めている。
扉も開いた。
内部の機械も起動している。
何かが保存されていた可能性まで、最初から切り捨てることはできなくなっていた。
「足の大きさは?」
レオンが尋ねる。
「大人の男より小さい」
「子供?」
「それも分からない。靴底の形が村で使ってるものと違う」
ノアが窓辺から振り返った。
「昨日倒れてた男じゃない?」
「傷を負った場所とは離れてる。あいつの足跡とも違った」
「じゃあ、誰かいる」
レオンが言う。
エドガーは慎重に答えた。
「少なくとも、知らない足跡が内部にある」
同じ意味のようで違う。
レオンはその違いを理解した。
「捜しに行く?」
「今、ダルたちが入口から少しだけ中へ入って確認してる」
「俺も――」
「駄目だ」
言い終わる前に止められる。
レオンは唇を噛んだ。
「分かってる。膝だろ」
「それだけじゃない。知らない人間が中にいる可能性が出た。相手が武装しているかも分からん」
「でも、怪我してるかもしれない」
「だから自警団が行ってる」
「俺の手が必要になったら?」
「そのとき呼ぶ」
理屈では分かる。
それでも待つしかないことが苦しい。
レオンは立ち上がらず、記録帳へ視線を落とした。
数日前まで、自分一人で遺跡へ行くのは当然だった。
今は、自分が見つけた場所なのに、他の人間の判断を待たなければ進めない。
それを奪われていると考えれば腹が立つ。
しかし、父たちが自分を遠ざけたいだけではないことも知っている。
現に、必要な情報は伝えてくれている。
右手についても調べる準備をしている。
「なあ、父さん」
「何だ」
「もし中に本当に誰かいたら、どうする?」
「まず敵意がないか確認する」
「話が通じなかったら?」
「無理に捕まえない。向こうが逃げるなら、危険がなければ追わない」
「灰牙だったら?」
「武器を向けられれば別だ」
レオンは頷いた。
中にいるのが誰か分からない。
だから最初から敵にも味方にも決めない。
それでいい。
自分が行けない以上、今はそう信じるしかなかった。
◇
午後になっても、遺跡から連絡は来なかった。
レオンは右手を調べるため、村へ滞在していた魂晶師の簡易検査を受けた。
結果は十年以上前と大きく変わらない。
普通の契約紋ではない。
契約済みのソウルストーンとの魂路も確認できない。
ただし、微弱な外部魂波へ反応した形跡らしきものがあり、昨日まで何もなかった痣の内部に、ごく薄い魂力の流れが残っているという。
「何なんですか?」
レオンが聞く。
年老いた魂晶師は小型の測定具を外しながら首を横へ振った。
「ここで使える道具では分からん。少なくとも、病的な魂力滞留には見えない」
「危険?」
「今すぐ身体を壊す反応ではなさそうだが、強い熱や痛みが出たら使おうとするな」
「使うって、俺は何もしてない」
「なら、それを続けろ。正体が分からないものを自分から動かそうとしない方がいい」
また同じ話だった。
分からない。
だから、試したくなる。
しかし、試すこと自体が危険かもしれない。
レオンは検査を終え、自宅へ戻った。
日が傾き始めた頃、外から馬の足音が聞こえた。
窓を見る。
バルガスが北側から戻ってくる。
その後ろに、ダル。
さらに二人の自警団員。
全員が歩いている。
大きな怪我はないように見えた。
レオンは立ち上がったが、今度は走らなかった。
杖代わりの棒を持ち、ノアと一緒に外へ出る。
「どうだった?」
レオンが尋ねる。
ダルは汗と埃で汚れていた。
「中へ少し進んだ」
「誰かいた?」
「直接は会ってない」
「足跡は?」
「続いてた。施設の奥へ向かってる」
「一人?」
「今見つけた範囲では一人分だ」
バルガスが続ける。
「途中で血はなかった。歩幅は不揃いだが、走って逃げた感じでもない」
「怪我してる?」
「身体が弱ってる可能性はある。何度か壁へ手をついた跡があった」
レオンの中で、知らない誰かの姿が少しだけ形を持った。
武装集団とは違うかもしれない。
少なくとも、入口から奥へ一人で歩いている。
「追わなかったの?」
「追った」
ダルは答えた。
「ただ、途中で通路が二つに分かれていた。それ以上進むには人数と装備が足りない」
「明日また行く?」
「その予定だ」
レオンが口を開くより先に、バルガスが言った。
「お前も行く気だろ」
「行きたい」
「膝は?」
「走れない。でも平地なら歩ける」
「遺跡の中が全部平地とは限らねえ」
「分かってる」
「右手の反応は?」
「今日も調べた。普通の契約紋じゃないらしい」
バルガスは少し考えた。
「なら、俺なら連れていかねえ」
レオンの眉が寄る。
「何で?」
「自分でも分からない反応を抱えてる上に負傷してる。中でまた施設が動いたら、逃げられない可能性がある」
「でも、右手が入口を開けた可能性がある」
「可能性だろ」
「必要になるかもしれない」
「必要になったら戻って呼べばいい」
レオンは腹が立った。
理屈は分かる。
だから余計に腹が立つ。
「俺が見つけたんだぞ」
バルガスの表情は変わらなかった。
「それで?」
「俺が最初に中を見つけた。俺の手が反応してる。中に誰かいるかもしれないって分かったのも、俺たちが入口を調べたからだ」
「全部そうだろうな」
「だったら――」
「だから最初に入る権利があるって話か?」
言葉を止められた。
レオンはすぐには答えられなかった。
バルガスは強い声を出していない。
ただ、レオンが本当に言いたいことを先に言葉へしただけだった。
「権利っていうか……」
「置いていかれるのが嫌なんだろ」
それだった。
レオンは黙った。
バルガスは少し姿勢を緩める。
「気持ちは分かる。俺だって自分が見つけた獲物を他人に任せろって言われりゃ面白くねえ。ただ、発見したことと、安全を無視して先へ行けることは別だ」
「またそれかよ」
「みんな同じこと言うなら、少しは聞く価値あるんじゃねえか?」
ノアが横で笑いそうになっている。
レオンはそちらを見た。
「笑うな」
「笑ってない」
「絶対笑ってる」
「ちょっとだけ」
バルガスも口元を緩めた。
「ただし、ずっと外しておけとは言ってない」
レオンが顔を戻す。
「どういうこと?」
「明日の朝まで膝の腫れが下がって、治療できる奴が歩いていいと言って、それから入口近くで右手の反応が必要になった場合だけ同行する。条件を決めておけば、感情で全部決めなくて済む」
「誰が決める?」
「お前も入れて決めりゃいい」
その答えは意外だった。
「俺も?」
「お前の身体と右手のことだろ。ダルや親父さんだけで決める必要はねえ。ただし、お前一人で全部決める必要もない」
レオンはバルガスを見る。
強そうな旅人。
最初はそれだけだった。
大きな剣を持ち、戦い慣れている男なら、危険を恐れず進むのだと思っていた。
実際には逆だった。
強いから進むのではない。
何ができて、何ができないかを分けている。
「分かった」
レオンはようやく頷いた。
「明日の朝、膝を見てもらう。それで許可が出たら、村長とダルと父さんに話す」
「俺もいるなら聞く」
「何で?」
「遺跡の中を見たからだ。同行するかどうか判断する材料くらいは出せる」
「じゃあ頼む」
それまで「大人に決められる」ことへの抵抗ばかり感じていたレオンの中で、少しだけ捉え方が変わった。
自分が意見を言う。
相手も意見を言う。
危険なら理由を出す。
必要なら条件を変える。
誰か一人の判断へ全部預けなくてもいい。
かといって、自分一人が発見者だからと全部決める必要もない。
それなら、少しは納得できる。
そのとき、村の北側から鐘が鳴った。
通常の時刻を知らせる鐘ではない。
短く二度。
間を置いて、さらに一度。
自警団の警戒合図だった。
ダルが即座に振り返る。
バルガスも表情を変える。
「何だ?」
エドガーが尋ねる。
村の入口側から、一人の自警団員が走ってくる。
息を切らしながら叫んだ。
「北の見張りから連絡! 昨日の男が目を覚ました!」
ダルが前へ出る。
「話せるのか?」
「少しだけ。ただ――」
男は一度息を整えた。
「『遺跡の奥に女がいる』って言ってます」
レオンの胸の奥が強く動いた。
先ほど確認された小さな足跡。
壁へ手をついた跡。
地下深くで動き始めた機構。
一つの説明へ急いでまとめるべきではないと理解している。
それでも、「誰かがいる」という可能性は、もう単なる想像ではなくなりつつあった。
「どんな女だって?」
ダルが尋ねる。
「本人もはっきり見たわけじゃないらしいです。暗い通路の向こうで、白っぽい服の人影を見ただけだって。それから仲間の一人が追いかけて、戻ってこなかったと言ってます」
「昨日見た三人のうち一人か」
「たぶん」
レオンは杖を握る手へ力を入れた。
知らない少女かもしれない。
武装集団の仲間かもしれない。
助けを求めている者かもしれない。
それらはまだ分からない。
しかし、少なくとも明日まで何もしないという判断も、今までと同じ条件では考えられなくなった。
「ダル」
レオンが呼ぶ。
「俺を今すぐ連れていけとは言わない」
ダルが振り返る。
「でも、中に人がいる可能性があるなら、朝まで待っていいかはもう一回考えてほしい」
「理由は?」
「その人が弱ってるなら、朝までに動けなくなるかもしれない。それに灰牙らしい奴も一人、中へ入ったまま戻ってない」
レオンは右手を開いた。
「俺の手が必要かはまだ分からない。膝も治ってない。だから俺を連れていくかどうかと、中へ誰かを助けに行くかどうかは分けて決めた方がいい」
ダルはしばらくレオンを見ていた。
やがて、ゆっくり頷く。
「その通りだ」
バルガスも小さく息を吐いた。
「なら最初に救助だけ考える。遺跡調査は後回しだな」
「俺は?」
「お前は村に残れ」
ダルが答える。
レオンは苦い顔をしたが、今度は反論しなかった。
自分が行きたいことと、誰かを助けるために最適な人間が自分であることは同じではない。
「分かった」
バルガスが大剣を背負い直す。
その際、腰に下げていた褐色のソウルストーンへ指が触れ、石の表面に淡い光が走った。
空気が一瞬だけ重くなる。
地面の奥から響くような低い振動が足裏へ伝わった。
レオンは思わず石を見る。
「それ……」
「《震牙》だ」
バルガスが短く答えた。
「真名級の石だ。崩れた通路を見るなら、地面の状態を読むのに使える」
レオンは初めて間近で見る真名級のソウルストーンから目を離せなかった。
村で日常的に使われている契約石とは、石そのものの圧が違う。
それでもバルガスは誇示するように力を広げず、必要な範囲だけ魂力を通してすぐに止めた。
「使わないのか?」
「ここで使う理由がねえ」
「強いなら、ずっと使ってた方が安全じゃない?」
「強い力ほど、使えば周りへ影響が出る。地面を読むための石で村の中を揺らしてどうする」
レオンは何も言えなかった。
強さとは、使える力の大きさだけではない。
使わない判断まで含む。
そんな考え方をしたことはなかった。
バルガスたちは救助準備へ向かう。
レオンはその場に残った。
ノアも隣にいる。
「行きたい?」
「行きたい」
「でも残る?」
「ああ」
「すごく嫌そう」
「嫌だからな」
ノアは笑わなかった。
代わりに、レオンの右手へ視線を落とした。
「また熱くなってない?」
言われて初めて気づく。
黒い痕の周囲に、僅かな温かさが戻っていた。
入口から離れた村の中で。
今度は、救助隊が出発する直前。
レオンは右手を見つめながら時刻を確認し、記録帳へ書く。
それだけで結論は出さない。
遺跡側で何かが起きたのかもしれない。
偶然かもしれない。
少女と関係しているかもしれない。
何も分からない。
ただ、次に照らし合わせるための事実として残す。
「ノア、時刻覚えておいて」
「書かないの?」
「今書く。でも二人で覚えてた方が間違いに気づける」
ノアが頷く。
「分かった」
レオンは記録帳へ時間を書き込んだ。
その文字を書き終えた瞬間、遠く離れた神殿都市アルヴァでは、七柱中央大神殿へ繋がる通信室の一角で、旧第七採掘遺跡周辺から発生した異常魂波の報告が新たな記録として整理されていた。
レオンはまだ、その報告を見ることになる少年の名前を知らない。
《天律》という神核級のソウルストーンが存在することも、その白銀の剣を携えた継承者が、自分とはまったく違う理由で同じ異常へ目を向け始めることも知らなかった。
今のレオンに分かっているのは、地下に知らない誰かがいる可能性と、自分の右手が距離では説明できない反応を続けていることだけだった。
そして、救助隊へ同行できない悔しさを抱えたままでも、レオンは自分だけで答えを決めず、戻ってくる人間の報告を待つことを選んだ。
日が傾き始める少し前、北の丘へ向かうバルガスたちの背中が村外れの道へ消えていく。
レオンは追わなかった。
その代わり、隣に立つノアへ記録帳を開いて見せると、自分が見落としていることがないか一緒に確認してほしいと初めて頼んだ。
レオンは記録帳を自分だけで抱え込まず、ノアが読める向きへ机の中央まで押し出した。
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