第1章《太古の継承者編》 第8話《知らない少女》
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そう決めて前日の調査を終えたレオンは、翌日の昼前、父のエドガー・アークレイアと村の自警団を預かるダル・ヘイム、それにノア・フェルディとともに《旧第七採掘場》へ続く丘陵を歩いていた。
昨日まで一時間ほどにしか感じなかった道は、大人二人が足場や斜面の状態を確かめながら進むだけで、まるで別の場所へ変わったように見えた。エドガーは崩れた石の位置や古い作業路の傾きを確かめ、先頭を歩くダルは長い棒で柔らかい地面を探りながら、レオンが普段なら気にも留めない小さな亀裂まで一つずつ確認している。
「そんなところまで見るのか?」
レオンが尋ねると、ダルは足を止めずに答えた。
「お前が見てるのは目的地だが、俺が見てるのは帰ってこられる道だからな。行けるかどうかだけなら、多少足場が悪くても大抵の場所には行ける」
「でも、戻れなかったら意味がないってこと?」
横を歩いていたノアが聞く。
「それもあるし、怪我人が出たときに二人分の重さを支えられるかも考える。自分の足だけで歩ける道と、誰かを背負って通れる道は同じじゃない」
レオンは昨日、自分が岩盤側の細い足場を通ったときのことを思い出した。
一人で歩くだけなら問題ないと思っていた。
ノアも通れた。
それだけで安全だと考えていたが、もしどちらかが足を痛めて歩けなくなれば、あの狭い場所を支えながら戻るのは難しい。
エドガーが隣から言った。
「分からないものを見るなら、見つけたものだけじゃなくて、そこまで行く条件も記録しろ。昨日お前が書いた図も悪くはないが、入口ばかり詳しくて帰路の情報が薄い」
「帰りは来た道を戻ればいいと思ってたからな」
「その道が崩れたらどうする?」
「……別の道を探す」
「その場で初めて探すより、入る前に考えておいた方がいいだろ」
レオンは腰の記録帳へ手を置いた。
自分ではかなり慎重になったつもりだったが、父たちと一緒に歩くだけで見落としていたものが次々に出てくる。それを恥ずかしいとは思わなかったものの、一人で安全を判断するには知らないことが多すぎたのだと認めざるを得なかった。
「昨日、入らなくて正解だったね」
ノアが小声で言う。
「それはもう分かってる」
「ちゃんと言えるようになった」
「何でそんなに嬉しそうなんだよ」
「三日前に怪我した人が少し成長したから」
「まだ言うのか」
そんなやり取りをしながら丘を越えると、草地の向こうに旧採掘場の灰色の岩肌が見えてきた。
昼の日差しは十分に届いているものの、採掘場へ近づくにつれて風が強くなり、開けた斜面を抜けてきた冷たい空気が上着の裾を何度も揺らした。右手の傷はほとんど痛まなくなっていたが、包帯の上を風が撫でるたびに布の存在を感じるため、レオンは無意識に指を曲げ伸ばしして状態を確かめた。
昨日調べた加工石の前へ着く。
ダルはすぐにはしゃがまず、まず周囲を一周した。
エドガーも露出している石材そのものより、その周囲にある地層と崩れ方を見ている。
「昨日はここまで土が落ちてた」
レオンは記録帳を開き、前日に描いた線と現在の斜面を見比べた。
「夜の間に大きくは崩れてないと思う」
「そうだな。ただ、ここは雨が続けばまた落ちる」
ダルは斜面の上を見た。
「今すぐ全面崩落するような状態には見えんが、人が何人も同じところを踏めば話は変わる。正面側から奥へ入るのはやめた方がいい」
「昨日も岩盤側から回った」
「そっちを見せてくれ」
レオンが案内する。
岩盤へ入る手前で、ダルは一度全員を止めた。
「ここから先は俺とエドガーで先に見る。レオンとノアは待て」
「昨日は俺たち二人で通れたぞ」
「昨日通れたから今日も同じとは限らん。それに、俺たちが四人まとめて乗れば荷重も変わる」
反論できる理由はなかった。
レオンとノアは安全な場所へ残り、大人二人が一人ずつ岩盤へ進んでいく。
ダルは昨日レオンが迷わず踏んだ石を手で押し、体重を掛ける前に動かないことを確認していた。エドガーも同じ経路を使うが、二人が同時に狭い場所へ乗ることはせず、十分な距離を保っている。
やがて二人の姿が岩陰へ隠れた。
ノアが隣で腕を組んだ。
「待つの、嫌そうだね」
「自分で見つけた場所なのに、後から来た父さんたちが先に見るんだぞ」
「安全を見てもらうって決めたのはレオンでしょ」
「分かってるから待ってる」
「ならいいじゃん」
「分かってても嫌なものは嫌なんだよ」
ノアは少し笑った。
「それなら、入らないって言われても同じ?」
「理由次第だな」
「理由を聞いて、危ないって分かったら?」
「今日は入らない」
「今日は、なんだ」
「準備して安全にできるなら、また来ればいいだろ」
言葉にしてみると、昨日より自然にそう考えられた。
知りたいという気持ちは変わらない。
むしろ、誰かが先に入口を調べている今の方が、中で何が見つかるのか気になって仕方がない。
それでも待つことが、何もしないことには感じなくなっていた。
しばらくして、岩陰からダルが戻ってきた。
「レオン」
「どうだった?」
「お前が見つけた金属は、少なくとも今の採掘場で使われていた設備じゃなさそうだ」
その一言だけで胸の奥が大きく動いたが、レオンは続きを待った。
「ただし、中へ入っていいとはまだ言ってない。入口周辺の岩盤は安定しているが、内部は外から見える範囲しか確認できん。床も天井も、どこまで持つか分からない」
「じゃあ、今日は入れない?」
「入口から数歩なら条件付きで見てもいい。奥へ続く通路へ入るのは駄目だ」
「数歩ってどこまで?」
「外の光が届いて、俺たちがすぐ引き戻せるところまでだ」
エドガーも戻ってくる。
手には昨日レオンが持っていた携帯灯より明るい作業灯があった。
「中へ風が流れてる。完全に閉じた空間ではなさそうだが、それだけで空気が安全とは決められん」
「火を入れて確認する?」
「昔ならそれもやったが、何があるか分からない場所へ火を持ち込むのは避ける。今日は入口の構造を見るだけだ」
レオンは頷いた。
「ノアは?」
ノア自身が尋ねた。
ダルが少し迷う。
「入口までは一緒でいい。ただし、内部へ入るのはレオンと俺だけにする」
「どうしてレオンはいいの?」
「発見者だから、ではないぞ」
ダルは先に釘を刺した。
「昨日どこまで見たかを確認するためだ。それが済んだらレオンも外へ出す」
ノアは納得しきってはいない顔をしたものの、理由を聞いたうえで頷いた。
四人は間隔を空けて岩盤側へ進んだ。
昨日より慎重に歩いたため時間は掛かったが、誰も足を滑らせることなく入口の前へ到達する。
昼の光の下で見る金属面は、昨日よりはっきり異質だった。
表面を覆う薄い土を除けば腐食らしい腐食がほとんどなく、縦に延びる輪郭も不自然なほど真っ直ぐである。岩に埋め込まれた扉の一部にも見えるが、蝶番や取っ手に相当するものは外側から確認できない。
エドガーが金属面へ直接触れず、棒の先で距離を測った。
「高さは二メル弱。人が通るためのものと考えれば不自然じゃない」
「採掘場の扉じゃないの?」
ノアが尋ねる。
「この辺の古い図面は全部見たわけじゃないから断定はできん。ただ、俺が知ってる採掘場の設備とは材質が違う」
レオンは表面の溝を指した。
「こっちの石にも同じ模様がある」
エドガーが目を細める。
昨日露出した灰色の石材と、金属面の下端。
別々のものに見えていたが、よく見ると溝の配置が途中で途切れず続いている。
ダルがしゃがみ込んだ。
「これ、あとから金属を置いたんじゃなくて、最初から一つの構造物として作られてるな」
「じゃあ採掘場より古い?」
「可能性は上がった。ただ、それだけで何千年前のものだとまでは言えん」
レオンは記録帳へ書き込んだ。
以前なら「古代遺跡」と大きく書いていただろう。
今日は、「採掘場とは別の時期に造られた可能性」とだけ記す。
確実に分かった範囲と、自分がそう思いたい範囲を混ぜない。
それだけで、記録帳の文字が昨日までより少し地味になった気がした。
◇
入口の隙間へ作業灯を向けると、内側に平らな床が続いていた。
外から見える範囲には大きな崩落物がなく、天井も一応は残っている。壁面は採掘坑道のように岩を直接削ったものではなく、継ぎ目の少ない黒灰色の素材で覆われており、土や苔の付着も入口付近を除けば少なかった。
「保存状態がおかしいな」
エドガーが呟いた。
レオンも同じことを感じていた。
採掘場の木材は腐り、鉄具は錆び、石壁には雨水の跡が残っている。
ところが、扉の内側は時間の流れから取り残されたように形を保っていた。
ダルが縄をレオンの腰へ結ぶ。
「入口から六歩までだ。俺が後ろにつく。床がおかしい、息苦しい、頭が痛い、何でもいいから違和感があればすぐ出る」
「分かった」
「作業灯は俺が持つ。お前は記録帳だけにしろ」
「触ってもいいものがあったら?」
「今日は触るな」
「全部?」
「全部だ」
そこだけは強かった。
レオンは頷き、隙間へ身体を入れた。
外から吹いていた風が金属面で遮られるため、中へ一歩入っただけで衣服の揺れが止まる。代わりに、空気そのものは予想より冷たく、地面から染み上がるような低い温度が靴底を通して伝わってきた。
二歩目。
床は固い。
三歩目。
壁面の模様が見える。
四歩目まで進んだところで、レオンは足を止めた。
「文字がある」
作業灯の光が壁へ当たる。
そこには昨日の溝より複雑な記号が並んでいた。
文字だと断定できる根拠は読めることではなく、同じ形が一定の間隔で繰り返され、明らかに行として配置されていることだった。レオンが知っている王国文字とも、神殿で使われる古い典礼文字とも違う。
「読めるか?」
ダルが後ろから尋ねる。
「全然。でも、ただの装飾には見えない」
「写せる範囲だけ写せ。時間を掛けすぎるな」
レオンは記録帳へ形を写し始めた。
最初の三つ。
次の記号。
途中まで描いたところで、右手に僅かな熱を感じた。
最初は傷口が蒸れたのかと思った。
しかし痛みとは違う。
包帯の下。
手の甲から掌へ。
皮膚の表面ではなく、その下を温かいものが流れるような感覚だった。
レオンは筆を止めた。
「どうした?」
「手が……ちょっと熱い」
ダルの表情が変わる。
「傷か?」
「違うと思う。痛くはない」
「外へ出るぞ」
「でも、まだ――」
「違和感があれば出ると約束しただろ」
レオンは壁の文字を見た。
もう少しで一列だけ写せる。
それでも、自分で約束した条件だった。
記録帳を閉じ、入口へ向き直る。
外へ戻る途中で熱は少し弱くなった。
ノアがすぐ近づいてくる。
「手、どうしたの?」
「中にいたら熱くなった」
「傷?」
「痛くないんだよ。むしろ、包帯の内側だけ温まったみたいな感じ」
ミレアがいればすぐに外すよう言われるだろう。
エドガーも同じ判断をした。
「布を取るぞ」
包帯を外す。
傷は開いていない。
赤みも増えていない。
ただ、レオンの右手には生まれた頃から薄く残っている黒い痕があった。
普段は手の甲の皮膚へ埋もれ、少し変わった痣だと思われている程度のものだったが、その線がいつもより濃く見える。
ノアが眉を寄せた。
「それ、前からあったやつだよね?」
「ああ」
「こんなに黒かった?」
「いや……たぶん違う」
エドガーがレオンの手を持ち、光の下で見る。
父はこの痣を誰より長く見てきた。
「濃くなってる」
「傷のせいじゃない?」
レオンが聞く。
「傷は横だ。痣とは場所が違う」
ダルは入口を見た。
「中へ入ったときだけか?」
「今は少し冷めてきてる」
「もう一度入れば分かるかもしれんが、今日はやめておく」
その判断に、レオンはすぐ反論しかけた。
しかし、自分の手に起きた変化を何も説明できない以上、もう一度試すことが安全確認になるのか、単なる実験になるのか分からない。
「村へ戻る?」
ノアが聞く。
ダルは少し考えた。
「まだ昼だし、入口の外側を記録するだけなら続けられる。ただし内部調査は中止する」
「分かった」
レオンは自分の右手を見た。
黒い線は、数分経つと少しずつ元の薄さへ戻っていく。
中に入ったから反応した。
そう考えるのが一番簡単だった。
けれど、傷の状態や緊張で血流が変わった可能性もある。
偶然かもしれない。
その時点では、それ以上のことは言えなかった。
四人は入口から離れ、昨日見つけた加工石の周囲を改めて調べ始めた。
エドガーとダルは構造物の範囲を外から確認し、レオンとノアは地表へ露出している線を記録する。作業を続けている間に昼を過ぎたため、いったん日当たりのいい場所へ戻って食事を取ることになった。
母が持たせた固いパンと燻製肉、それに刻んだ野菜を挟んだだけの昼食だった。
レオンは食べながらも何度も右手を見ていた。
ノアが水筒を渡す。
「気になる?」
「気にならない方がおかしいだろ」
「もう黒くないね」
「普段と同じくらいには戻った」
「おじさんは知ってるの? その痣が何なのか」
エドガーがパンを噛み終えてから答える。
「医者にも見せたし、村の魂晶師にも見せたことはある。病気でも普通の契約紋でもないと言われた」
「契約紋じゃない?」
レオンが聞き返した。
「それは俺も初めて聞いたんだけど」
「小さい頃に説明しても分からんだろうと思って、そのままにしてた。危険な反応もなかったからな」
「じゃあ何なんだよ」
「分からん」
父の答えは簡単だった。
「分からないまま十七年?」
「痛くもない、広がりもしない、魂力を流しても反応しない。原因を調べるためだけに村の外へ何度も連れていくほどの問題じゃなかった」
「今日までは、ってことか」
エドガーは頷いた。
「今日の反応が本当に遺跡と関係しているなら、話は変わる」
レオンは右手の黒い痕を見た。
自分にとっては生まれたときからあるため、特別なものだと思ったことはほとんどない。
昔、同年代の子供から格好いいと言われて剣士の印だと嘘をついたことがある程度だ。
「もう一回だけ入口へ近づいたら?」
レオンが言うと、ダルが視線を向けた。
「中へ入るんじゃなくて、外から少しずつ近づく。どこで熱くなるか分かれば、傷なのか場所に反応してるのかくらいは分からないか?」
エドガーはすぐに却下しなかった。
「距離だけなら試せるか」
「俺もそう思う」
ダルは入口までの地面を見る。
「内部へ入らない。少しでも痛みや痺れが出たら中止。それでいいならやってみるか」
ノアがレオンを見る。
「無理しないでね」
「分かってる」
「さっきももう少し写したそうな顔してたから言ってる」
「戻っただろ」
「戻ったから、今も言うだけで済んでるの」
レオンは苦笑した。
食事を終え、水を飲んでから休憩を取る。
右手の状態が完全に落ち着いていることを確認したあと、四人はもう一度入口へ向かった。
◇
今度は中へ入らない。
レオンは加工石から十歩ほど離れたところへ立ち、右手の感覚を確かめた。
変化はない。
五歩進む。
何も起こらない。
さらに三歩。
まだ同じ。
金属面へ手が届くほど近づいたところで、掌の奥に僅かな温かさが戻った。
「ここだ」
ダルが距離を確認する。
「入口から二歩くらいだな」
「痛みは?」
ノアが聞く。
「ない。さっきより弱い」
一歩下がる。
数秒待つ。
熱が薄れる。
再び近づく。
今度も同じ場所で温かくなる。
偶然では説明しにくくなった。
エドガーが低い声で言う。
「位置に反応してる可能性が高いな」
レオンは自分の右手を見た。
黒い痕が、先ほどよりは弱いものの再び濃くなっている。
「何で俺の手が?」
答えられる者はいなかった。
ダルが入口の外壁を見上げる。
「昔ここに住んでた誰かと、お前の家が関係あるとか?」
「アークレイア家はずっとエルダ村だぞ」
エドガーが答える。
「少なくとも俺が知ってる範囲じゃ、古代遺跡と関わった記録なんてない」
「でもレオンだけ反応するなら、何か理由はあるんじゃない?」
ノアが言う。
レオンもそう思った。
誰にでも起きる現象ではなく、自分の手にある痕だけが反応している。
血筋。
生まれつきの何か。
昔の契約。
いくつか思いつく説明はある。
けれど、どれも証拠がない。
「ノアが近づいても何もない?」
「やってみる?」
ダルは一度入口を確認し、許可した。
ノアが同じ場所へ立つ。
数秒待つ。
何も起こらない。
エドガーも試す。
変化なし。
ダルも同じだった。
レオンだけ。
その事実は残った。
「村へ戻って魂晶師に見せた方がいいな」
エドガーが言う。
「今日はここまでか」
レオンは入口を見る。
壁の文字も、奥の床も、まだほとんど調べられていない。
ただ、自分の右手に反応が出た以上、今までと同じ遺跡探索として続けるのは難しい。
「記録だけ終わらせて帰ろう」
そう答えた直後だった。
足元から、ごく小さな振動が伝わってきた。
最初は誰かが石を踏んだのだと思った。
しかし、揺れは一度で終わらない。
低い音が地面の下から続き、岩の隙間に溜まっていた細かな砂が震えながら落ち始める。
「離れろ!」
ダルの声が飛ぶ。
四人が入口から距離を取る。
揺れは強くない。
立っていられる。
それでも、長い間止まっていた何かが奥で動き始めたような響きが、金属面の向こうから伝わってくる。
レオンの右手が急に熱くなった。
先ほどとは比べものにならない。
傷の痛みではなく、黒い痕そのものへ熱が集中している。
「レオン!」
エドガーが腕を掴む。
「大丈夫、痛くは――」
言い終える前に、金属面の溝へ淡い光が走った。
一筋。
そこから枝分かれし、昨日から見ていた模様を辿るように広がっていく。
レオンは動けなくなった。
怖くないわけではない。
何が起きているのか分からない。
逃げるべきだという判断も頭にはある。
その一方で、ここまで探してきた場所が自分の目の前で初めて反応したことから視線を離せなかった。
「下がれ!」
ダルに肩を引かれ、レオンは我に返った。
全員が岩盤側から安全な斜面へ戻る。
金属面の光は数秒で消えた。
振動も止まる。
誰もすぐには動かなかった。
エドガーが息を整えながらレオンの右手を確認する。
黒い痕は濃い。
けれど、皮膚そのものに火傷はない。
「痛みは?」
「ない。熱いだけ」
「痺れは?」
「ない」
ノアも近づきかけたが、ダルが片手で止めた。
「まだ近づくな。二回目が来るかもしれん」
その判断通り、全員がしばらく待った。
何も起こらない。
風の音が戻る。
上着の袖が再び揺れ始めたことで、先ほどまで周囲の音をほとんど聞いていなかったことにレオンは気づいた。
「今のは俺が近づいたから?」
誰にも答えられない。
ただ、右手の反応が強くなった直後に施設側も動いた。
関係がないと考える方が難しい。
ダルは険しい顔で入口を見た。
「今日は本当に終わりだ。村へ戻る」
レオンも今度は反対しなかった。
少なくとも、そうするつもりだった。
だが、帰路へ向かう前に、入口の奥から別の音が届いた。
金属が擦れるような低い音だった。
四人が振り返る。
昨日から僅かに開いていた隙間が、ゆっくり広がっている。
誰も触れていない。
扉らしき金属面が自力で動いていた。
「全員、下がれ」
ダルが前へ出る。
レオンたちはさらに距離を取った。
開口部は人一人が通れるほどまで広がり、内部の暗闇が昼の光へ晒される。
しかし、何かが飛び出してくることはない。
代わりに、奥の壁面へ淡い線が一本だけ灯った。
作業灯を向けなくても分かる。
光の線は、通路の奥へ続いている。
「道を示してるみたい」
ノアが呟いた。
「そう見えるだけだ」
ダルが言う。
「見えるものに意味まで付けるな」
レオンは父たちから今日何度も言われたことを思い出した。
光が続いている。
だからといって、自分を呼んでいるとは限らない。
扉が開いた。
だからといって、入れという意味ではない。
それでも、入口の奥に昨日までなかった変化が起きたことだけは事実だった。
「村へ戻って人を増やす」
ダルが決めた。
「入口は開いたままだけど?」
「閉じようとして触る方が危険だ。見張りを置くにしても、今いる四人じゃ足りん」
エドガーも頷いた。
「レオン、帰るぞ」
「ああ」
答えた直後、遠くから乾いた破裂音が響いた。
採掘場の外側だった。
鳥が一斉に森から飛び立つ。
ダルの表情が変わる。
「伏せろ!」
全員が岩陰へ身体を落とした。
二度目の音。
今度は少し近い。
剣や弓を使った音ではない。
魂力を込めた何かが岩へ当たったときに聞こえる、鈍い破裂音だった。
ダルは腰へ手を伸ばした。
そこには自警団用の短剣と、小さな緑褐色の契約石が収められている。
「村の人間じゃない」
「何で分かる?」
レオンが声を落として聞く。
「今日はこの周辺で訓練する予定はない。それに、あんな使い方をする石を持ってる奴は村にはいない」
ノアの顔から笑みが消えた。
「盗賊?」
「まだ決めるな。ただ、知らない奴が武装してる可能性は考える」
ダルは岩陰から外側を見る。
姿は見えない。
しかし、人の声が聞こえる。
二人以上。
もっといる可能性もある。
「エドガー、レオンとノアを連れて裏から下りろ」
「ダルは?」
「ここで様子を見る。村へ戻ったら自警団へ知らせろ」
レオンは言い返しかけた。
自分だけ逃げることへの抵抗があったわけではない。
今開いた遺跡を置いていくことが気になった。
けれど、ノアが隣にいる。
父もいる。
武装した相手が何人いるかも分からない。
今ここで残る理由を「遺跡を見たいから」にしてしまえば、昨日までと何も変わらない。
「分かった」
エドガーが一瞬だけレオンを見る。
それから三人は岩陰を使って裏側へ移動した。
来た道は使えない。
声が聞こえる方向と重なる。
代わりに、採掘場の南斜面へ続く古い排水路沿いを下りる。
足場は悪い。
急ぐほど危ない。
エドガーが先頭に立ち、ノアを中央、レオンを最後にした。
途中で再び破裂音が響いた。
今度は背後。
レオンは反射的に振り返る。
その瞬間、足元の石が動いた。
身体が傾く。
右手を地面へつきそうになり、傷のことを思い出して左肩から斜面へ転がった。
「レオン!」
ノアが戻ろうとする。
「来るな!」
レオンは自分で止めた。
二メルほど滑っただけだった。
立てる。
ただ、左膝を岩へぶつけた。
痛みが遅れて強くなる。
「歩けるか?」
エドガーが下りてくる。
「たぶん」
「たぶんじゃなくて確認しろ」
膝を曲げる。
痛い。
伸ばせる。
体重を掛ける。
歩ける。
「痛み五。歩けるけど、走るのは無理かも」
「なら急がず下りる。ノア、先に行け」
「でも――」
「レオンは俺が支える」
ノアは不安そうにしながらも従った。
エドガーがレオンの右側へ入り、左膝へ余計な負担を掛けないよう肩を貸す。
逃げる速度は落ちた。
背後にいるダルとの距離も広がる。
怪我そのものは重くない。
しかし、今の状況では小さな負傷でも行動条件を変える。
レオンはそのことを身体で理解した。
◇
三人が南側の低地へ下りきるまでに、さらに半刻近く掛かった。
武装した者たちが追ってくる様子はなかった。
エドガーはそこで初めて足を止め、レオンの左膝を確認した。
服の上からでも腫れ始めている。
「村まで歩けるか?」
「ゆっくりなら」
「荷物を渡せ」
「大丈夫だって」
「歩けることと、荷物を持って歩くことは別だ」
昨日までなら意地でも自分で持っていたかもしれない。
今日は逆らわず、道具袋を父へ渡した。
ノアが水筒を差し出す。
「飲んで」
レオンは受け取り、少しだけ水を飲んだ。
「ごめん」
「何が?」
「俺が遺跡を見つけたから、こんなところまで来させた」
ノアは眉を寄せた。
「来るって決めたのは私だよ」
「でも、武装してる奴がいるなんて思ってなかった」
「レオンも思ってなかったでしょ」
「それはそうだけど」
「だったら、今は帰ること考えよう。謝るのは帰ってからでもできるから」
その言い方に、レオンは少しだけ笑った。
「母さんみたいになってきたな」
「嫌?」
「ちょっと怖い」
「じゃあちゃんと歩いて」
三人は村へ向かった。
帰路の途中でダルが追いついた。
大きな怪我はない。
ただし右肩の服が破れ、浅い擦り傷から血が滲んでいた。
「ダル!」
エドガーが駆け寄る。
「平気だ。直接やり合ってはいない」
「誰だった?」
「三人見えた。村の人間じゃない。灰色の革外套で、遺跡の方を探ってた」
レオンは聞いたことのある名前を思い出した。
近隣の街道で何度か被害を出している盗賊団。
「《灰牙》?」
ダルはすぐには頷かなかった。
「装備は似てた。ただ、紋章までは確認できてないから決めつけるな」
また同じだった。
似ている。
可能性はある。
しかし、確定はしていない。
ダルは続けた。
「向こうもこっちを見つけたが、追ってはこなかった。人を探してるというより、場所か物を探してるように見えた」
「遺跡?」
レオンが聞く。
「そう考えるのが自然だが、これもまだ分からん」
「入口が開いたのを見られた?」
「俺が下がるまでには岩陰から出てこなかった。だが、あの辺を探しているなら時間の問題かもしれない」
エドガーの顔が険しくなる。
「村へ急ぐぞ」
レオンは左膝を見た。
急げと言われても走れない。
そのため、ノアとエドガーが交代でレオンを支え、ダルは少し前を歩いて周囲を警戒する形になった。
持ってきた水は予定より早く減った。
包帯もレオンの右手ではなく、ダルの肩へ一枚使う。
時間も失った。
遺跡の入口は開いたまま残した。
知らない武装集団まで周辺へ来ている。
昼に出発したときには、入口を安全に確認して少しだけ調査し、夕方までに帰る予定だった。
実際に持ち帰ることになったのは、計画よりずっと重いものだった。
◇
エルダ村へ戻った頃には、太陽が西へ傾き始めていた。
村の入口でダルが自警団員を呼び止め、周辺警戒を増やすよう指示する。
レオンはそのまま家へ帰されるかと思ったが、ダルは村長へ報告する前に、レオンの記録を確認したいと言った。
「歩けるか?」
「座ってなら話せる」
「なら集会所へ来い。終わったらすぐ治療だ」
「母さんに先に見つかったら?」
エドガーが答える。
「どっちにしても怒られる。順番の問題だ」
何も安心できない。
集会所には村長ハベル・ロークが待っていた。
年齢を重ねて少し背中は丸くなっているが、村の中で何か起きたときには必ず自分で話を聞く。ダルから一通りの報告を受けたあと、ハベルはレオンの記録帳を開いた。
「この文字は今日見つけたものか?」
「昨日見つけた外側の線と、今日入口から見えた壁の文字。全部は写せてない」
「この黒い痣が反応したというのは?」
「入口に近づくと熱くなる。中に入ったときはもっと強かった」
ハベルがエドガーを見る。
「前からあったものだな?」
「ああ。生まれたときからだ」
「契約紋ではないという話だったはずだが」
「少なくとも、昔見てもらった魂晶師にはそう言われた」
レオンは知らなかったことがまた一つ増えた。
村長まで自分の痣について知っている。
「何で俺だけ知らないんだよ」
「危険がないものを、子供の頃から特別扱いする必要はないと思ったからだ」
エドガーが答えた。
「それが正しかったかは、今は分からん」
レオンは少し不満を覚えた。
自分の身体のことなのだから話してほしかった。
しかし、父が何かを隠して利用しようとしていたわけではないことも分かる。
危険がなかった。
だから日常の中へ置かれていた。
それだけだったのだろう。
ハベルは記録帳を閉じた。
「遺跡の入口と武装集団、この二つは分けて考えよう。関係がある可能性は高いが、同じ理由で起きたと決めるには早い」
「明日、また見に行く?」
レオンが聞く。
「お前は行かん」
即答だった。
「何で?」
「膝を怪我しているからだ」
「歩ける」
「今日の帰路で時間が掛かっただろう。戦える者が周囲を確認するまでは、負傷者を連れていく理由がない」
「でも俺の手だけが遺跡に反応する」
「だからこそ、今すぐもう一度連れていく理由にはならん」
ハベルの声は穏やかだった。
「お前がいなければ何も起きないなら、まずはその状態で調べる。お前がいると動くのなら、そのあとで安全を考えてから来てもらう」
レオンは反論できなかった。
自分が必要だと思っていた。
けれど、自分が必要かどうか自体を確かめる方法がある。
「分かった」
「納得したか?」
「半分くらい」
ハベルは笑った。
「半分でも、従うと決められるなら十分だ」
報告が終わる。
立ち上がったとき、左膝が強く痛んだ。
レオンは机へ手をついた。
エドガーが肩を貸す。
「治療所へ行くぞ」
「家じゃ駄目?」
「母さんが診る前に、一度ちゃんと見てもらう」
「結局母さんにも診られるんだろ」
「当然だ」
逃げ道はなかった。
集会所を出ると、外では夕食の支度が始まっていた。
パンを焼く匂い。
煮込み料理の湯気。
家へ帰る子供の声。
自警団員が武器を持って北側へ集まっていることを除けば、昨日と同じ夕方にも見える。
村の大半の人間は、北の丘で古い扉が開いたことをまだ知らない。
レオンの右手に起きた変化も知らない。
それでいいと思った。
分からないものを、分からないまま大騒ぎしても仕方がない。
治療所へ向かう途中、ノアが横を歩いた。
「明日は休むんだね」
「強制的にな」
「私は安心した」
「俺は暇になる」
「記録帳まとめれば?」
「もうやった」
「ドル爺に聞きに行くとか」
レオンは足を止めかけた。
「それだ」
「怪我人は走らない」
腕を掴まれる。
「走ってない」
「今、走ろうとした」
「歩いて行く」
「治療が先」
レオンは渋々進行方向を戻した。
ノアは少し笑っている。
「治療が終わったら一緒に行く?」
「来るの?」
「私もあの文字は気になるから」
「昨日は調査する人みたいになるの嫌だって言ってなかったか?」
「気が変わった」
「自由だな」
「悪い?」
「別に」
レオンも笑った。
足は痛む。
右手のことは分からない。
遺跡は開いたまま。
武装集団もいる。
予定通りにいったものはほとんどない。
それでも昨日より分かったことは増えている。
入口は採掘場とは違う構造を持っている。
内部には未知の文字がある。
自分の右手だけが接近に反応する。
そして、入口そのものも何らかの形で動いた。
その最後の一つを考えたとき、レオンは足を止めた。
「ノア」
「今度は何?」
「俺が手を近づけたから扉が開いたって、みんな考えてたよな」
「そうじゃないの?」
「たぶんそうだと思う。でも、俺が入口から離れたあとに開いた」
ノアも表情を変えた。
確かに、最初の光と振動が起きたとき、レオンたちはすでに安全な斜面まで下がっていた。
その後、右手の熱も弱まり始めている。
それでも扉は開いた。
「じゃあ、レオンが触ったから開いたわけじゃない?」
「俺、一度も触ってない」
「近づいたから?」
「それはまだあり得る。でも、近づいてる間に開かなかった理由は分からない」
最初に考えた説明が、少し崩れた。
自分の右手と遺跡に関係がある。
そこまではかなり確かになった。
しかし、「自分の痣が鍵になって扉を開いた」とまで考えるには足りない。
レオンは記録帳を取り出そうとしたが、ノアに止められた。
「歩きながら書かない」
「忘れる前に――」
「治療所まで五分もないから」
「じゃあ覚えてて」
「自分で覚えてよ」
また言い合いながら歩き始める。
その頃、二人が離れた《旧第七採掘場》の地下深くでは、レオンたちの誰も知らない変化がすでに始まっていた。
◇
地下のさらに奥。
長い時間、誰の足音も届かなかった区画で、止まっていた機構が一つずつ動き始めていた。
地上の入口で生じた反応は、眠っていた施設全体を一度に目覚めさせたわけではない。壁の内部へ埋め込まれた古い魂導路のうち、ごく一部だけへ微弱な光が流れ、何本もの途切れた経路を避けるように地下へ伝わっていく。
その先には、レオンが見つけた通路とは別の区画があった。
壁面の大半は暗い。
機械音もほとんどない。
ただ、中央に置かれた縦長の装置だけが、長い沈黙を破るように低い振動を始めていた。
表面を覆う透明な素材には白い曇りが残り、その向こうに人の輪郭が見える。
細い身体。
閉じた瞼。
長い髪。
少女だった。
装置の内部では、彼女を包んでいた淡い光が一度だけ明滅した。
外部から届いた魂波は弱く、それだけなら古い機構の一部が誤作動したと考えることもできたかもしれない。しかし、停止していたはずの内部記録が更新され、長期間維持されていた休眠状態へ明確な変化が生じている以上、単なる計測誤差では済まなかった。
少女の右手が僅かに動いた。
長い時間使われていなかった指はすぐには開かず、掌の中で小さく震える。
呼吸が変わる。
それまで装置によって保たれていた浅い周期ではなく、自分の身体で空気を求める呼吸へ少しずつ変わっていく。
瞼が震えた。
一度では開かなかった。
二度目に、細い隙間ができる。
少女の目へ最初に入ったのは、知らない天井ではなかった。
かつて見たはずなのに、名前を思い出せない光だった。
何かを呼ぼうとして、唇が動く。
声は出ない。
喉が乾いている。
もう一度息を吸う。
今度は、掠れた音が出た。
「……おとう、さん……?」
返事はなかった。
少女はゆっくり目を開いた。
装置の内側から見える部屋には誰もいない。
記憶の中では、ここへ入る前に誰かがいたはずだった。
父。
母。
もう一人。
名前を思い出そうとした瞬間、頭の奥に鋭い痛みが走る。
少女は眉を寄せ、思い出すことを止めた。
呼吸を整える。
自分の名前だけは分かる。
それが残っていることを確かめるように、少女は掠れた声で呟いた。
「エリシア……」
自分の声が、知らないほど静かな部屋へ響いた。
エリシア・アルセレアは、なぜ自分がここにいるのかを思い出せなかった。
眠る前に何が起きたのか。
どれほど長く眠っていたのか。
父と母はどこへ行ったのか。
それらを考えようとすると、記憶は途中で途切れ、言葉になる前に形を失っていく。
装置の外で、小さな音がした。
古い留め具が動く。
透明な覆いがゆっくり開き始めた。
冷たい空気が内部へ流れ込み、薄い衣服しか身につけていないエリシアの肌を撫でる。
その冷たさに身体が震えた。
装置へ手を掛けて起き上がろうとしたが、腕へ力が入らない。
長く眠っていたという感覚だけは、身体の重さから分かった。
何とか上半身を起こす。
足元へ視線を落とす。
自分の脚がある。
手もある。
服も知っている形に見える。
それなのに、部屋の照明だけが記憶と一致しない。
本来ならもっと明るかった気がする。
壁には人がいたはずだ。
声があった。
機械の音があった。
今は何もない。
エリシアは装置の縁へ手を置き、床へ降りようとした。
足が触れた瞬間、膝から力が抜けた。
身体が前へ傾く。
咄嗟に縁を掴んだため完全には倒れなかったものの、肩が装置の側面へ当たる。
痛みが走った。
それだけで、自分が夢の中にいないことは分かった。
しばらく動かず、呼吸が落ち着くのを待つ。
一度に立とうとすればまた倒れる。
エリシアは片足ずつ床へ置き、腕で身体を支えながら少しずつ立ち上がった。
足裏から伝わる床は冷たい。
壁の向こうから、どこか遠くで動いている機械の低い振動が伝わってくる。
誰かいるのかもしれない。
そう思った瞬間、不安と安堵が同時に胸へ広がった。
「誰か……いる?」
返事はない。
もう一度呼ぶ。
「お父さん?」
静寂だけが戻ってくる。
エリシアは装置の横に残されていた壁面表示へ近づいた。
見覚えのある形式だった。
少なくとも、そう感じる。
文字を全部思い出せるわけではないのに、手が自然にある位置へ伸びる。
指先で一箇所へ触れる。
反応しない。
もう一度。
今度はごく弱い光が灯った。
表示の一部が崩れている。
読める文字と読めない文字が混ざっている。
数字。
警告。
停止。
再接続。
意味のまとまりを作ろうとすると、頭の痛みが戻る。
エリシアは手を離した。
「分からない……」
自分の声が頼りなく聞こえる。
それでも、その場へ座り込むつもりはなかった。
分からないなら、分かるものを探す。
水。
出口。
人。
身体が動く範囲。
一つずつ確認しようと考える。
壁沿いに歩く。
足取りは遅い。
何度か壁へ手をつく。
部屋の外へ続く扉の前まで来たところで、扉は動かなかった。
横にある操作部へ触れる。
反応なし。
別の場所へ触れる。
短い音。
扉の下から細い光が漏れた。
その瞬間、エリシアは手を引いた。
自分が操作方法を知っていることに気づいたからだった。
「どうして……」
記憶として説明できない。
けれど、指は迷わなかった。
もう一度同じ場所へ触れる。
扉が僅かに開く。
隙間から空気が流れ込む。
先ほどの部屋より乾いており、埃の匂いが混ざっている。
エリシアはすぐには外へ出なかった。
知らない場所へ進むのが怖かった。
それでも、この部屋で待っていれば誰かが来るという保証もない。
父や母が戻ってくるかもしれないと思った。
しかし、その「戻ってくる」という考えに対して、胸の奥が説明できないほど痛んだ。
何かを忘れている。
忘れたくなかった何か。
そこへ無理に触れれば、また頭が痛くなる。
エリシアは扉の縁を握った。
「探そう」
声に出す。
大きな目的ではない。
誰かを救うためでも、世界を変えるためでもない。
今の自分には、そんなことを考える余裕はなかった。
まず人を探す。
水を探す。
ここがどこなのかを知る。
自分が何を忘れているのかは、そのあとでもいい。
エリシアは壁へ手を添えながら、暗い通路へ最初の一歩を踏み出した。
◇
一方、エルダ村では、レオンの左膝へ冷却布が巻かれていた。
治療を担当した村の女性は骨に異常がないことを確かめたうえで、二日は激しい運動を避けるよう言い渡した。歩くこと自体は禁止されなかったが、斜面を登ったり走ったりすれば腫れが強くなる可能性があるため、少なくとも明日の遺跡調査には参加しない方がいいという判断だった。
「やっぱり駄目か」
診療台に座ったレオンが言う。
「駄目というより、治す方を先にしなさい。二日我慢して治る怪我を、無理して十日に延ばす方が嫌でしょう?」
「それは嫌だ」
「なら決まりね」
隣ではミレアが腕を組んでいる。
治療所へ来る途中で事情を聞いたらしく、怒っているというより、息子の膝と右手を何度も確認していた。
「右手は?」
ミレアが尋ねる。
「今は熱くない」
「痺れは?」
「ない」
「痛みも?」
「傷は一。痣は痛くない」
「明日、もう一度魂晶師に見てもらいましょう」
「俺も行く?」
「あなたの手なのに、どうして置いていくと思ったの?」
レオンは少し笑った。
「遺跡の方には行くなって言われ続けてるから」
「そっちは別」
診療所の窓の外では、自警団員が北側へ向かう準備をしていた。
入口の見張りと、正体不明の武装集団の確認。
自分が見つけた場所へ、自分以外の人間が向かう。
悔しくないわけではない。
けれど、膝の痛みを抱えたまま同行しても足手まといになることは、帰路ですでに分かっていた。
ノアが窓辺から戻ってきた。
「ドル爺のところ、今日は無理そうだね」
「何で?」
「もう夕方だし、レオンの家でも話があるでしょ」
ミレアが即座に頷いた。
「今日は帰るわよ」
「明日は?」
「膝の状態を見てから」
「歩けるならドル爺の家くらい行っていい?」
「平地だけで、長く歩かないならね」
レオンはようやく少し機嫌を直した。
遺跡へ行けなくても、できることはある。
今日写した文字をドルガへ見せる。
右手の痣をもう一度調べる。
ダルたちが持ち帰る情報と照らし合わせる。
自分が直接現場へ行かなくても、調査を止める必要はない。
治療を終え、レオンは家へ戻った。
夕食の席では妹のルナから膝を見て呆れられ、父からは「昨日より慎重になったのに別の場所で怪我したな」と言われた。
「笑うところじゃないだろ」
「笑ってない」
「顔が笑ってる」
「歩ける程度で済んだからだ」
エドガーはスープを口へ運んだ。
「それに、お前が無茶して入口へ入って怪我したわけじゃない。それは分けて考えないと不公平だろ」
レオンは少し意外に思った。
「怒らないの?」
「転び方については怒りたい」
「そこは仕方ないだろ」
「音がしたからって足元を見ずに振り返ったのは?」
レオンは黙った。
「そこは反省する」
「ならいい」
ミレアが二人を見る。
「右手の話は明日よ。今夜は休ませる」
「分かってる」
食事を終えたあと、レオンは自室へ戻った。
膝を伸ばした状態で椅子へ座り、今日の記録を整理する。
入口の内部。
古い文字。
右手の熱。
黒い痣の濃化。
振動。
光。
扉の開放。
武装集団。
そして負傷。
一日の出来事としては多すぎる。
それでも、順番に書けば混乱は少し減った。
レオンは「右手の痣が扉を開けた」と書きかけ、そこで筆を止めた。
事実として確かなのは、痣が入口へ近づくと熱を持ち、施設側で光と振動が起きたことだった。
扉が開いたのは、その反応から少し時間が経ったあと。
自分は触れていない。
だから、痣が鍵だと決めるのは早い。
レオンは書き直した。
《右手の痣と施設反応に関連の可能性あり。ただし開扉条件は不明》
以前の自分なら、こんな回りくどい書き方はしなかったと思う。
だが、今日一日だけでも「そう見えること」と「分かったこと」が何度も違っていた。
採掘場の設備だと思っていたものは別の構造物だった。
痣はただの生まれつきの跡だと思っていたが、遺跡へ反応した。
自分が扉を開けたと思いかけたが、その条件はまだ分からない。
知らないことが増えるほど、分かったつもりになる方が危険なのかもしれない。
レオンは筆を置いた。
その瞬間だった。
右手の痣が、もう一度熱を持った。
遺跡から遠く離れた自室で。
レオンは驚いて立ち上がろうとし、膝の痛みに顔をしかめて椅子へ戻った。
右手を見る。
黒い線がゆっくり濃くなっている。
入口の近くにいたときほど強くはない。
けれど、間違いなく反応していた。
「何で……ここで?」
距離で反応する。
そう考えていた。
入口へ近づくほど熱くなり、離れれば収まる。
今日試した範囲では、その説明が最も自然だった。
しかし今、遺跡から一時間以上離れた自宅で同じ変化が起きている。
その仮説では説明できない。
レオンは右手を見つめたまま、昼間に記録した文章を思い出した。
位置。
距離。
入口。
どこかが間違っている。
そして同じ頃、地下深くを歩いていたエリシアもまた、自分のいる場所から遠く離れた何かへ引かれるように足を止めていた。
彼女の前には、古い通路の先で淡く光る一本の線があった。
それが誰へ続いているのか、エリシアには分からない。
レオンにも分からない。
ただ一つ、今日までの説明だけでは足りないことだけが残った。
《右手の痣は、遺跡へ近づいたときだけ反応するものではなかった。》
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