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『ソウルストーン ~神々を滅ぼす最後の継承者~』  作者: シロの空


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第1章《太古の継承者編》 第10話《治す者の判断》

「これ、私が読んでもいいの?」


向かい側に座っていたノアはすぐには手を伸ばさず、開かれた記録帳とレオンの顔を交互に見た。幼い頃から互いの家へ勝手に上がり込むような関係ではあっても、遺跡について書き溜めてきたこの記録帳だけは、これまでレオンがほとんど誰にも触らせなかったことを知っている。


「いいから出したんだよ。昨日から書いたことが多すぎて、俺だけで見てると何が確かで何が想像だったのか、分からなくなりそうなんだ」


「昨日までは、自分で分かるからいいって言ってなかった?」


「昨日までの俺に言ってくれ」


ノアは少し笑ってから、ようやく記録帳を自分の方へ引き寄せた。


窓の外では、救助のため《旧第七採掘場》へ向かったバルガス・グレンたちの姿がもう見えなくなっている。村の道には夕方の仕事を終えた人々の声が戻り始めていたが、北側へ向かう道だけは自警団員によって制限され、普段なら畑から戻ってくる荷車も別の道へ迂回していた。


レオンは椅子へ深く腰を落とした。


左膝には冷却布が巻かれている。


夕方になって痛み自体は三程度まで下がっていたものの、立ち上がると関節の奥に鈍い重さが残り、何も考えず歩けば左足を庇う癖が出る。治療所で「走るな」と言われた意味は、自分が思っていた以上にはっきり身体へ残っていた。


ノアは記録帳の最初から読み直している。


ときどき眉を寄せ、分からない字があると指先で示した。


「ここ、何て書いてあるの?」


「『外壁の溝は入口の金属面まで続いている』」


「じゃあ、その下は?」


「『採掘場より古い可能性』」


「これ、本当にそう書いてる?」


「読めるだろ」


「言われたら読める」


「なら問題ない」


「記録って、人に読ませるものでもあるんじゃないの?」


痛いところを突かれた。


レオンは言い返そうとしたが、ノアが見ているページには自分でも一瞬迷う文字がある。


「……次から少し丁寧に書く」


「少しじゃなくて普通に書いて」


「分かったよ」


ノアは次のページを開いた。


そこには右手の痣が熱を持った位置と、入口からのおおよその距離が書かれている。


「これ、昨日の昼の記録だよね」


「ああ」


「最初は入口へ近づいたら熱くなって、家に戻ったあとも夜に反応した。それで今日、救助隊が出る前にも少し熱くなった」


「そう」


ノアはしばらく黙ってから、記録帳の端を指で押さえた。


「だったら、『入口に近づくと反応する』じゃなくて、『遺跡で何かが起きると反応するかもしれない』って考えてるの?」


「今はそれが一番近いと思う。でも、夜の反応と遺跡の機械音が同じ時間帯だったのは一回だけだし、さっきの反応も向こうで何か起きたかまだ分からない」


「じゃあ、今は決めない?」


「決められない」


以前なら、そこまで言うことに抵抗があった。


分からないという言葉は、自分が何も進めていないことを認めるように感じていたからだ。


しかし、ここ数日の出来事を振り返れば、早く名前を付けた仮説ほど簡単に崩れている。


採掘場の設備だと思っていたものは、別の時代に造られた可能性が高くなった。


右手の痣は何の意味もない生まれつきの跡だと思っていたが、遺跡へ反応した。


入口へ近づいたことだけが条件だと思えば、村の自宅でも熱を持った。


「ここも気になる」


ノアが別の行を指した。


「『足跡は一人分』って書いてるけど、そのあとに『負傷した男の仲間が女を追った』って話があるでしょう?」


「ああ」


「じゃあ、中に入ったのは二人じゃないの?」


レオンは記録帳を自分の方へ少し引き戻した。


バルガスたちが確認したのは、入口から奥へ続く小さめの足跡だった。


一方、意識を取り戻した男は、仲間の一人が白っぽい服の人影を追って遺跡の中へ入り、戻らなかったと証言している。


「追った奴の足跡を見つけてないだけかもしれない」


「同じ場所を通ってないとか?」


「それもあるし、小さい方の足跡に重なって分からなくなった可能性もある」


「じゃあ、今見つかってる足跡だけで一人って決めちゃ駄目なんだね」


「そうなるな」


ノアは少し考え、記録帳の余白へ指を置いた。


「書いていい?」


レオンは一瞬だけ躊躇した。


自分が何年も書いてきた場所へ別の人間が文字を入れることに、思ったより強い抵抗があった。


しかし、読ませるために渡したのは自分だ。


「いいよ」


「本当に?」


「あとで消すかもしれないけど」


「それなら書かない」


「冗談だって」


ノアは小さく笑い、レオンから筆を受け取った。


《確認された足跡が一人分でも、内部に一人しかいないとは限らない》


文字はレオンよりずっと読みやすかった。


「俺の記録帳なのに、ノアの字の方が目立つな」


「だったら丁寧に書けばいいでしょう」


「努力する」


「今日だけで二回目」


「覚えてるよ」


二人で同じ記録を見る。


そのこと自体が、レオンには少し不思議だった。


遺跡を探すことは自分だけの趣味だと思っていた。


ノアはついてきても、危険だから止める役か、見つけたものへ呆れる役だとどこかで決めつけていた。


実際には、彼女が先に見つけたものもある。


自分が見落とした条件にも気づく。


それなのに、今まで記録へ参加させようとは思わなかった。


(俺、自分でやりたいって思ってただけじゃなくて、自分のものにしておきたかったのかもしれないな)


その考えは少し居心地が悪かった。


レオンが筆を受け取ろうとしたとき、ノアが右手の黒い痕を見た。


「今は熱くない?」


「もう落ち着いてる」


「また変わったら、私にも言って」


「何で?」


「時刻を二人で覚えるって言ったでしょう」


「そうだったな」


レオンは右手を机へ置いた。


「じゃあ頼む」


「うん」


短い返事だったが、そのあとノアは記録帳を元の位置へ戻さず、二人の間へ置いたままにした。


それをレオンも直さなかった。


     ◇


日が沈んだあと、《エルダ村》の空気は昼間より静かになった。


普段なら仕事を終えた者たちが家の前で話したり、子供たちが夕食へ呼ばれるまで道で遊んだりしている時間だったが、北側で武装集団が確認された影響から、外へ出ている者は少ない。家々の窓には魂晶灯が灯り、炊事の煙と煮込み料理の匂いが道へ流れているものの、人の声はいつもの夕刻ほど重ならなかった。


救助隊はまだ戻っていない。


レオンは家の窓から北側を何度も見た。


何も見えない。


丘陵が闇の中へ沈んでいるだけだった。


「見ても早く帰ってくるわけじゃないわよ」


台所からミレアの声が届く。


「分かってる」


「なら座ってなさい。膝を休ませる時間でしょう」


「ずっと座ってた」


「さっきから五回くらい窓まで歩いてるでしょう」


数えられていた。


レオンは諦めて食卓へ戻った。


夕食は固めのパンと豆の煮込み、それに昼の残りの根菜を使った薄いスープだった。北側の畑へ行く時間が短くなったため、今日収穫する予定だった野菜の一部が明日へ回されており、今すぐ食料に困るほどではないものの、警戒が何日も続けば村の仕事へ影響が出る。


エドガーはまだ帰っていない。


救助隊へ直接加わってはいないが、自警団と荷隊の連絡を手伝うため集会所へ行っている。


妹のルナは向かい側でパンをちぎりながら、落ち着かない兄を何度も見ていた。


「兄ちゃん、行きたかった?」


「何が?」


「遺跡」


「行きたいよ」


「でも行かなかったんだ」


「行くなって言われたからな」


「言われなかったら?」


レオンはすぐに答えなかった。


午前中までなら、誰かに止められなければ行っていたと思う。


けれど、バルガスと話したあとでは少し違った。


怪我をした自分が同行すれば、何かあったときに誰かが支えなければならない。


右手の反応も制御できない。


未知の少女を助けるために進むことと、自分が遺跡を見たいことは別に考えなければならない。


「たぶん、今は行かない」


「今は?」


「怪我が治って、自分が必要だって分かったら行きたい」


ルナは少し考えた。


「じゃあ兄ちゃん、前よりちょっと面倒になったね」


「何でだよ」


「前は行くか行かないかだけだったじゃん」


「今も同じだろ」


「でも今は、行きたいけど行かないとか、行かないけど行けるようになりたいとか言うじゃん」


レオンは言葉に詰まった。


ミレアが鍋を片づけながら小さく笑った。


「それだけ考えることが増えたってことでしょう」


「簡単な方が楽だったな」


「簡単に決めて怪我を増やすよりはいいわ」


母に言われれば何も返せない。


食事を終えた頃、外から複数の足音が聞こえた。


一人ではない。


重い靴が道を踏む音と、誰かが短く指示を出す声。


レオンは反射的に立ち上がった。


膝が痛む。


それでも今度は無理に走らず、机へ手をついて姿勢を整えてから玄関へ向かった。


扉を開ける。


道の向こうから魂晶灯を持った者たちが歩いてくる。


先頭はダル。


その横にバルガス。


後ろには二人の自警団員がいる。


さらに、その中央で誰かが布を張った簡易担架を運んでいた。


「誰かいる」


ルナが兄の後ろから覗く。


レオンは返事をしなかった。


担架の上にいる人物の姿は暗くて見えない。


だが、白に近い服が灯りを反射している。


昼に聞いた証言を思い出す。


白っぽい服の人影。


「母さん!」


レオンが呼ぶより先に、ミレアも外へ出ていた。


救助隊はレオンの家を通り過ぎ、治療所の方角へ向かっていく。


ダルがこちらに気づいた。


「レオン、来るな!」


「見つけたのか?」


「一人保護した! 話は後だ!」


歩き続けながら返される。


レオンは追いかけようとした。


左膝。


痛み。


走れない。


それでも歩くくらいならできる。


一歩出たところで、ミレアの手が肩に置かれた。


「今は行かない」


「でも、保護したって――」


「だから治療所へ運んでいるの。人が集まれば治療の邪魔になるわ」


「俺の手に関係あるかもしれない」


「その可能性があることと、今すぐあなたが治療所へ入らなければならないことは別でしょう」


レオンは母を見る。


何度も同じ形の言葉を聞いている。


自分でも、理屈は分かる。


「……分かった」


ミレアは肩から手を離した。


「状態が落ち着いたら、必要なら呼びに来るはずよ」


「呼ばれなかったら?」


「それなら、治療する側が今は必要ないと判断したということ」


レオンは治療所の方角を見た。


魂晶灯の光が遠ざかっていく。


担架に乗っていた人物が誰なのか知りたい。


自分の右手との関係も確かめたい。


遺跡で何が起きたのかも聞きたい。


それでも、その全部が「今、自分が行く理由」にはならない。


家へ戻る。


椅子へ座る。


右手は熱を持っていない。


「兄ちゃん、本当に行かないんだ」


ルナが少し驚いた顔をした。


「行くなって言われたからな」


「さっきもそれ言ってた」


「今は理由も分かってる」


そう答えると、自分でも少し不思議だった。


待つことは相変わらず苦手だ。


しかし、以前のように「止められたから仕方なく待つ」だけではなかった。


誰かを治す時間に、自分の好奇心を割り込ませない。


今できることとしては、それでいい。


     ◇


一刻ほど経っても、治療所から連絡は来なかった。


さらに半刻。


夜が深くなる。


北側の警戒を続ける自警団の交代要員が道を通り、遠くで犬が何度か鳴いた。


レオンは記録帳を開いているものの、同じ行を何度も読み直しているだけで内容が頭へ入らない。


ノアは一度自宅へ戻ったあと、両親の許可を取って再びアークレイア家へ来ていた。


「寝た方がいいんじゃない?」


「まだ早い」


「昨日も寝てないでしょ」


「今日は昼に少し寝た」


「どのくらい?」


「一刻くらい」


「足りないよ」


「母さんみたいなこと言うなって」


「おばさんと同じこと言われるようなことしてるからでしょう」


また負けた。


レオンが記録帳を閉じたところで、玄関が叩かれた。


全員が反応する。


ミレアが扉を開ける。


外にいたのはエドガーだった。


「戻ったの?」


「ああ。ただ、レオンを治療所へ連れてきてほしいって」


レオンは立ち上がった。


「俺?」


「右手を確認したいらしい」


「保護した人は?」


エドガーは一瞬迷った。


「生きてる。だがかなり弱ってる」


「誰だった?」


「若い女の子だ」


レオンとノアが顔を見合わせた。


「白い服?」


「ああ」


「昼に言ってた人影と同じ?」


「その可能性はあるが、追っていた男は見つかってない」


また断定はできない。


それでも、少女が実際にいたという事実は残る。


ミレアはレオンの膝を見る。


「ゆっくり歩ける?」


「大丈夫」


「私も行くわ」


「ノアは?」


ノアが尋ねる。


エドガーが少し考えた。


「治療所の中へ入れるかは分からない。外で待つなら構わないと思う」


「行く」


四人は家を出た。


夜の村を歩く。


昼間より気温が下がり、息を吐くたびに僅かな白さが混じる。


レオンは左足へ体重を掛けすぎないよう歩くため、普段の倍近い時間が掛かった。急ぎたい気持ちはあるが、そこで無理をして明日さらに歩けなくなれば意味がないため、父の歩調に合わせて進む。


治療所へ近づくと、人の声が増えた。


自警団員。


治療を手伝う村人。


外で待つバルガス。


全員の声が必要以上に大きくならないよう抑えられているため、かえって緊張が伝わってくる。


入口でダルが待っていた。


「レオン」


「俺の手を見るって?」


「中の子を運び込んでから、お前の右手が反応したか確認したい」


レオンは手を見せた。


「今は何もない」


「遺跡では?」


「さっきまで外にいたから聞いてねえ」


バルガスが近づいてきた。


服の裾には土が付き、右腕にも浅い擦り傷が増えている。


「奥へ行ったのか?」


レオンが聞く。


「ああ。昼に引き返した分岐から先へ進んだ」


「女の子はどこにいた?」


「さらに奥だ。壁際で倒れてた」


「一人?」


「俺たちが見つけたときは一人だった」


「怪我してる?」


バルガスの表情が少し曇る。


「大きな外傷はない。ただ、身体がまともに動かないくらい弱ってた。水も食い物もほとんど取ってないように見える」


「話せた?」


「名前だけ」


レオンは呼吸を止めかけた。


「名前?」


「ああ。《エリシア》って言った」


その音を聞いた瞬間、右手に熱が走った。


レオンは思わず掌を握った。


「熱い」


ダルとバルガスの視線が一斉に右手へ向く。


「今か?」


「今」


「痛みは?」


「ない。でも、痣が……」


黒い線が少しずつ濃くなっている。


遺跡の入口にいたときほどではない。


しかし、さっきまで何もなかったことは確かだ。


ミレアが息子の手を取る。


「熱は強い?」


「三くらい。火傷みたいな感じじゃない」


「痺れは?」


「ない」


「指は動く?」


レオンは開閉する。


問題ない。


ダルが治療所の扉を見る。


「中の子と関係してるのか?」


「それを確かめるために呼んだんだろ」


レオンが答える。


「でも、名前を聞いた瞬間だった」


バルガスが眉を寄せる。


「名前そのものに反応したとは限らねえぞ。その時間に中で何か起きた可能性もある」


「分かってる」


その言葉が自然に出た。


レオンは自分でも少し驚いた。


「だから、中へ入る前に時刻を残したい」


ノアがすぐに記録帳を取り出した。


レオンが自分で持っていたものではない。


家を出るとき、ノアが「私が持つ」と言って預かっていた。


「今の時刻、ここ」


彼女が記録する。


「反応は三くらいで、名前を聞いた直後」


「あと、治療所の中で何か変化があったか聞いて」


「書いた」


二人のやり取りを見ていたダルが少しだけ目を細めた。


「昨日までより、ずいぶん慎重になったな」


「最近そればっかり言われる」


「いい変化なら何回言われても困らんだろ」


レオンは答えず、右手を見た。


熱はまだ残っている。


     ◇


治療所の中へ入れたのは、レオンとミレアだけだった。


ノアは記録帳を持って外へ残り、エドガーもダルたちと状況を整理する。


中は昼間より暖かかった。


薬草を煮出した匂いと、血を拭った布を洗う湯の匂いが混ざり、奥では水を替える音が続いている。


レオンが左膝を診てもらったときにいた治療担当の女性が、奥の寝台から出てきた。


袖を肘まで上げている。


手にはまだ水滴が残っていた。


「レオン、まずそこへ座って」


「エリシアって子は?」


「いま眠ってる」


「状態は?」


「質問する前に座る」


逆らえる空気ではなかった。


レオンは壁際の椅子へ座る。


女性は右手を取り、黒い痕を確認した。


「これが濃くなったのね」


「さっき」


「いつから?」


「バルガスから、その子の名前を聞いた直後」


「名前を聞いたから反応したと思う?」


「分からない。その時間に中で何かあった可能性もある」


女性は少し意外そうにレオンを見る。


「なら、その考えのままにしておきなさい」


「中で何かあった?」


「ちょうどその頃、眠っていた子の呼吸が少し速くなった。けれど、それもあなたの手と関係があるとはまだ言えない」


「同じ時間?」


「おそらく近いわ。でも私たちは治療中で、正確な時刻までは見ていなかった」


また、完全には繋がらない。


レオンは頷いた。


「その子、何が悪いんだ?」


女性はすぐには答えなかった。


治療対象のことをどこまで外の人間へ話すか、考えているようだった。


「あなたが遺跡の発見者で、この右手が施設へ反応していることは聞いてる。ただし、それだけであの子の身体について何でも知っていいわけではないから、必要な範囲だけ話すわね」


「分かった」


「大きな傷はない。でも、身体がひどく弱っている。筋力も落ちているし、水分も足りない。目を覚ました直後の受け答えも安定していないから、今夜は歩かせない」


「明日なら?」


「明日の身体を見て決める」


「本人が歩きたいって言ったら?」


女性の視線が少し鋭くなった。


「そこが大事なのよ」


レオンは黙った。


「本人が歩きたいと言ったことだけで歩かせるのは、意思を尊重することとは違う。立った瞬間に倒れる身体なら、その危険を説明して止めるのも治療する側の役目だから」


「でも、ずっと止めたら本人の意思を無視するだろ」


「もちろん。だから『今は無理』と『あなたは決められない』を同じにしない」


女性は使い終わった布を洗浄桶へ入れた。


「今日のあの子には、歩くかどうかを自由に決められるだけの身体状態がない。それならまず、明日もう一度選べるところまで身体を戻す。そのために今夜休ませるのが私の判断」


レオンはその言葉を考えた。


止めること。


奪うこと。


同じではない。


危険を説明する。


回復を待つ。


そのあとでもう一度本人へ聞く。


「俺が遺跡へ行くなって言われてるのと同じ?」


「似ているところはあるわね」


「俺は歩ける」


「走れないでしょう」


「それは……そうだけど」


「しかも右手に原因不明の反応がある。あなたが自分の意思で行きたいと思っていても、それを聞いたうえで『今は危険が大きい』と判断する人がいても不自然ではないわ」


「じゃあ、俺の意思は意味ない?」


「そんなことは言っていないでしょう」


女性は正面からレオンを見る。


「行きたい理由を聞く。身体の状態を説明する。何が変われば行けるのかを決める。その過程に本人が参加しているなら、止めることと無視することは同じではないわ」


レオンは椅子の縁を握った。


バルガスも似たことを言っていた。


自分も入れて条件を決めればいい。


母も、説明しなかった過去について「あなたのためだったことと、説明しなくてよかったことは同じではない」と言った。


同じ答えを持つ必要はない。


でも、理由を聞く。


「その子にも説明するの?」


「目を覚まして、話ができる状態になればね」


「何も覚えてなかったら?」


「覚えていないことを理由に、こちらが勝手に全部決めていいことにはならない」


レオンは顔を上げた。


「覚えてないの?」


女性は少し迷った。


「自分の名前は言えた。でも、どこから来たのか、家族がどこにいるのかは十分に話せなかった。無理に聞けば混乱が強くなったから、今日はそれ以上聞いていない」


「古代の遺跡から出てきたんだよな」


「あなたたちが見つけた場所で保護された、それ以上の意味を治療所で決めるつもりはないわ」


「何千年前からいたとか――」


「それを今ここで決める材料はないでしょう」


即座に止められた。


レオンは自分でも少し笑った。


「最近、本当にそればっかり言われる」


「何を?」


「分からないことを勝手に決めるなって」


「それなら、周りに恵まれてるのね」


厳しいが、間違ってはいない。


女性はレオンの右手をもう一度確認した。


黒い痕は少し薄くなっている。


「熱は?」


「二くらいまで下がった」


「なら、あの子へ近づいたときに強くなるかどうか試したいと思ってる?」


レオンは答える前に一度考えた。


正直に言えば、試したい。


すぐ隣の部屋にいる。


距離で変わるのか。


本人へ反応するのか。


今なら確かめられるかもしれない。


「思ってる」


「でしょうね」


「でも、今やったら駄目なんだろ」


「私は許可しない」


「理由は?」


「本人が眠っていて、検査されることへ同意できないから」


その理由は予想していなかった。


「俺の手を近づけるだけでも?」


「あなたに危険がないとも分からないし、彼女に何が起きるかも分からない。二人とも条件を理解できない状態で試す必要はないわ」


「じゃあ起きたら?」


「本人に説明して、嫌だと言われたらしない」


「俺が知りたくても?」


「あなたが知りたいことは、相手の身体を自由に使っていい理由にはならない」


言葉が胸へ残った。


レオンはすぐに反論できなかった。


遺跡なら、自分が見つけたから見たいと言えた。


石なら、拾ったから調べたいと思ったかもしれない。


しかし、相手は人間だ。


知らない少女。


自分の右手と関係があるかもしれないとしても、それだけで本人へ近づき、反応を試していいことにはならない。


「……分かった」


「本当に?」


「本人が起きてから聞く」


女性は少しだけ表情を緩めた。


「それならいいわ」


そのとき、奥の部屋から小さな物音がした。


水差しが何かへ触れたような音。


続いて、布が擦れる音。


女性がすぐに振り返る。


「起きたかもしれない」


レオンも反射的に立ち上がろうとした。


「あなたは座って」


「でも――」


「まず私が見る」


「分かった」


今度は最初から従った。


女性が奥へ入る。


レオンは壁越しの音を聞いた。


低い声。


水を飲ませる音。


何を話しているかまでは聞こえない。


しばらくして、女性が戻ってくる。


「意識はある。さっきより受け答えも少し安定してる」


「俺と話せる?」


「短い時間なら。ただし、今夜は質問攻めにしないこと」


「分かった」


「もう一つ」


「何?」


「あなたが何を知りたいかより先に、彼女が何を知りたいかを聞きなさい」


レオンは一瞬黙った。


自分は何を聞くつもりだったのか。


どこから来た。


遺跡のことを知っているか。


右手と関係があるか。


あの文字を読めるか。


自分が知りたいことばかりだった。


「分かった」


女性が扉を少し開けた。


レオンは杖代わりの棒を使い、ゆっくり立ち上がった。


左膝へ負担を掛けないよう数歩進む。


奥の部屋には寝台が一つある。


魂晶灯は明るすぎない程度まで落とされている。


そこに少女がいた。


白に近い薄い衣服。


長い髪。


顔色はまだ悪い。


毛布の上へ出された片手も細く、長く身体を使っていなかった者のように力が入っていない。


少女がこちらを見る。


青緑色の瞳。


その視線には警戒がある。


怖さもある。


しかし、助けを求めるだけの目ではなかった。


こちらを観察している。


誰なのか。


何をするのか。


見極めようとしている。


レオンは入口で足を止めた。


勝手に近づかない。


「入っていい?」


少女は少し驚いたように瞬きをした。


「……あなたは?」


声は掠れている。


「レオン。レオン・アークレイア」


少女は名前を聞いても反応しなかった。


当然だ。


初対面なのだから。


「俺たちがいた村の近くで、君が見つかった」


「村……?」


「《エルダ村》」


少女の眉が僅かに動く。


知らない名前らしい。


レオンは続けようとして、治療担当の女性から言われたことを思い出した。


自分が知りたいことより先に。


「何か知りたいこと、ある?」


少女は黙った。


質問されることを待っていたようにも見える。


やがて、唇が僅かに動いた。


「ここは……どこ?」


「エルダ村の治療所。国で言うと《アークレシア王国》だけど……分かる?」


少女の表情は変わらない。


「知らない」


「そっか」


レオンはそれ以上説明を押し込まなかった。


「今がいつか、分かる?」


少女は少し考えたあと、首を横へ振った。


「眠ってた……と思う。でも、どのくらいか分からない」


「俺たちもまだ分からない」


少女がレオンを見る。


「あなたたちも?」


「ああ。君がいた場所も、俺が何日か前に見つけたばかりなんだ」


「見つけた……?」


「古い採掘場の下に、知らない施設があった」


その言葉に、少女の呼吸が僅かに速くなった。


レオンはすぐに気づいた。


「大丈夫?」


「……施設」


少女は額へ手を当てた。


「何か思い出した?」


「分からない。知ってる気がする。でも、考えると……痛い」


治療担当の女性が前へ出た。


「なら今日は考えなくていい」


少女が少し困った顔をする。


「でも、知りたい」


「知りたい気持ちは止めないわ。ただ、今無理に思い出そうとして痛みが強くなれば、明日もっと話せなくなる」


女性は水差しを手に取り、少女へ少量ずつ水を渡した。


「今日は身体を戻す。明日、頭痛が弱くなっていたら、そのときまた考えればいい」


少女は水を一口飲んだ。


「明日……」


「ええ」


「明日も、ここにいていいの?」


質問が小さかった。


レオンは答えそうになり、止めた。


自分が決めることではない。


女性が答える。


「少なくとも、今夜あなたを外へ出すつもりはないわ。明日になって状態を見て、それからあなたがどうしたいかも聞く」


少女は少しだけ力を抜いた。


「分かった」


レオンはその顔を見ながら、ようやく自分の右手へ意識を戻した。


熱。


ない。


入口へ入る前より下がっている。


少女を目の前にしても、強くなっていない。


「どうしたの?」


少女が気づいた。


「俺の手に、変な痣があるんだ」


レオンは右手を少し上げた。


「君がいた施設へ近づくと、これが熱くなることがある」


少女が痣を見る。


目が僅かに見開かれる。


「それ……」


レオンの呼吸が止まりそうになった。


「知ってる?」


少女はすぐには答えなかった。


右手を見たまま、眉間へ皺を寄せる。


何かを思い出そうとしている。


「見たことが……ある気がする」


「どこで?」


「分からない」


頭へ手を当てる。


女性が制止する。


「今日はそこまで」


レオンも続けて聞きたかった。


けれど少女の顔色がさらに悪くなっている。


「分かった。無理しなくていい」


少女は驚いたようにレオンを見る。


「聞かないの?」


「聞きたいよ。でも、今聞いて具合悪くなったら困る」


「あなたが?」


「俺も困るし、君の身体なんだから君の方がもっと困るだろ」


少女は少しだけ視線を伏せた。


「……そう」


沈黙が落ちる。


不自然な重さではなかった。


少女は水をもう一口飲む。


レオンは立ったままだと膝が痛み始めたため、入口近くの椅子へ座った。


「名前、エリシアで合ってる?」


「うん」


「ほかに覚えてることは?」


女性がレオンを見る。


「一つだけ」


「分かってる」


エリシアは毛布を握った。


「お父さんと、お母さんがいた」


「名前は?」


「……分からない」


「顔は?」


「思い出そうとすると、ぼやける」


「じゃあ無理に思い出さなくていい」


自分から言えた。


レオンはそこで、質問を止めた。


「俺からは今日はこれでいい」


エリシアが少し不思議そうな顔をする。


「あなたは何を知りたいの?」


「たくさんある」


「聞かないの?」


「明日でも聞けるなら、明日にする」


少女はその言葉をしばらく考えていた。


「明日……会える?」


レオンは治療担当の女性を見る。


「俺が決めていい?」


「あなたの膝と、この子の体調がよければね」


レオンは再びエリシアを見る。


「じゃあ、明日また来てもいい?」


少女はすぐには答えなかった。


レオンは待った。


やがて、ほんの少しだけ頷く。


「うん」


その返事を聞いてから、レオンは立ち上がった。


今度は無理に長居しない。


入口へ向かう。


「レオン」


背後から呼ばれた。


振り返る。


エリシアがこちらを見ている。


「何?」


「あなたの手……怖くないの?」


予想していなかった問いだった。


レオンは右手を見る。


「ちょっとは怖い」


「分からないのに?」


「分からないから怖い。でも、怖いからって勝手に悪いものだって決めても仕方ないし、逆に特別な力だって決めるのも違うと思ってる」


エリシアは静かに聞いていた。


「だから、今は調べる」


「……そう」


「エリシアも、思い出せないことを今日全部決めなくていいんじゃないか」


自分へ言われ続けてきたことを、今度は他人へ向けて言っている。


少し奇妙だった。


しかし、間違っているとは思わなかった。


「じゃあ、おやすみ」


エリシアは少し遅れて答えた。


「おやすみ、レオン」


自分の名前を呼ばれた。


それだけだった。


右手は反応しなかった。


     ◇


治療所の外へ出ると、夜の冷たい空気が火照った顔へ触れた。


ノアがすぐ近くで待っている。


「どうだった?」


「話せた」


「エリシアって子?」


「ああ」


「何か分かった?」


レオンは少し考えてから答えた。


「名前はエリシア。父親と母親がいたことは覚えてる。でも、名前も顔もちゃんと思い出せないらしい」


「遺跡のことは?」


「知ってる気がするって。でも考えると頭が痛くなるから、今日はそれ以上聞いてない」


「右手は?」


レオンは手を見せた。


「中へ入ったときには熱が下がった。本人を見ても強くならなかった」


ノアが記録帳を開く。


「じゃあ、『エリシア本人に近づくほど強くなる』って考えは違うかもしれない?」


「今の一回だけなら、少なくともそう見える」


「名前を聞いたときに熱くなったのは?」


「治療所の中で呼吸が速くなった時間と近かったらしい。でも、それだけじゃ分からない」


ノアは順番に書き込んだ。


レオンはそれを見ながら、治療所の扉を振り返る。


「あの子、明日また話していいって」


「レオンが聞いたの?」


「ああ」


「勝手に決めなかったんだ」


「それ言う?」


「だって昨日までなら、明日も来るって自分で決めてそうだったから」


否定できない。


レオンは苦笑した。


「治療所の人にも言われたんだ。俺が知りたいからって、相手の身体を勝手に調べていい理由にはならないって」


ノアは少し真面目な顔になる。


「右手を近づける実験?」


「ああ。それも明日、本人が嫌ならやらない」


「レオンはやりたい?」


「やりたい」


「それでも?」


「嫌だって言われたらやらない」


口に出すと、惜しい気持ちはあった。


これまでで一番直接的な手掛かりかもしれない。


自分の右手。


遺跡。


エリシア。


どこかで繋がっている可能性は高い。


それでも本人が拒むなら、そこへ踏み込まない。


「じゃあ、そのことも書く?」


ノアが聞く。


「何て?」


「《本人の同意なしでは反応確認をしない》」


レオンは一瞬考えた。


それは遺跡の情報ではなく、自分たちがどう調べるかという約束だ。


けれど、記録しておく意味はある。


「書いて」


ノアが余白へ記す。


その字を見ながら、レオンは今日一日のことを振り返った。


自分が救助隊へ行かなかったから、誰かが代わりに危険を背負った。


バルガスやダルは無傷では帰っていない。


エリシアは保護されたものの、十分に歩ける状態ではない。


自分の膝もまだ治っていない。


水や治療布も消費している。


北側の畑では仕事が遅れ、自警団は交代で警戒を続けている。


何かを調べるということは、ただ秘密へ近づくことではない。


時間を使う。


身体を使う。


誰かの仕事を変える。


怪我をすれば治療する人間の手も必要になる。


以前なら、その代償を「冒険についてくるもの」くらいに考えていたかもしれない。


今は、誰が払っているのかを無視できなかった。


「ノア」


「何?」


「俺、明日遺跡へ行ける状態になってても、先にエリシアと話したい」


ノアが顔を上げる。


「どうして?」


「本人がどこへ行きたいか分からないまま、俺たちだけで遺跡へ戻って調べても仕方ない気がする」


「遺跡に戻りたいって言ったら?」


「そのときは身体の状態を聞いて、行ける方法を考える」


「行きたくないって言ったら?」


レオンは少し考えた。


「俺は遺跡を調べたい。でも、エリシアを連れていく理由はなくなる」


「一緒じゃなくても?」


「最初から別の話だったんだと思う」


自分が遺跡へ行きたい。


エリシアが自分の過去を知りたい。


右手の痣と施設の関係を確かめたい。


それらは重なる部分があっても、全部同じ目的ではない。


誰か一人が進みたい方向へ他の全員を合わせる必要もない。


ノアは記録帳を閉じた。


「じゃあ、明日はまずエリシアに聞く?」


「ああ」


「何を?」


レオンは治療所の灯りを見る。


少女は自分がどこにいるのかさえ十分に分かっていない。


古代から来たのかもしれないという推測を今すぐぶつける必要はない。


まず本人が何を望んでいるのかを聞く。


誰かを探したいのか。


遺跡へ戻りたいのか。


村に残りたいのか。


何も決めたくないのか。


どの答えであっても、最初からこちらの都合へ合わせない。


「明日、エリシアが起きたら、まず本人にこれからどうしたいか聞く。」


ノアはその言葉を聞き、記録帳をレオンへ返そうとした。


レオンは受け取る前に一度止めた。


「それ、明日も持っててくれる?」


「私が?」


「俺だけで書くより、見落とし減りそうだから」


ノアは少し驚いた顔をしたあと、記録帳を胸元へ抱え直した。


「じゃあ、明日も一緒に書く」


レオンは頷いた。


治療所から家へ戻る道を、二人は普段よりゆっくり歩き始める。左膝の痛みが残っているため速度は出せなかったが、今夜に限っては先へ急ぐ必要もなく、隣を歩くノアもレオンより半歩だけ遅い歩幅へ自然に合わせていた。


家々の灯りが並ぶ道の向こうでは、北側の丘だけが暗く沈んでいる。


その地下には、まだ分からないものが残っている。


しかしレオンが明日の最初に確かめようとしているのは、遺跡の奥ではなかった。


「明日、エリシアが起きたら、まず本人にこれからどうしたいか聞く。」


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