第1章《太古の継承者編》 第11話《砂上の勝負》
そう決めて治療所から戻った翌日、レオン・アークレイアは朝食を終えるより先に、自分の左膝が昨日よりどこまで動くのかを確かめようとして母に止められた。
寝台から起きた時点では痛みがかなり弱くなっていたため、本人はほとんど治ったように感じていた。しかし階段を下りるときには無意識に右脚へ体重を寄せており、食卓へ着くまでの十数歩でも、左足を床へ置く時間だけが僅かに短くなっている。
「歩ける」
椅子へ座ったレオンが言うと、台所で朝食を準備していたミレア・アークレイアは振り返りもせずに答えた。
「歩けることは昨日から知ってるわ」
「痛みも二くらいまで下がった」
「だから、今日どこまで歩いていいかを治療所で決めてもらうの。自分で二だと思ったから斜面も走れる、という話にはならないでしょう」
「走るとは言ってない」
「遺跡へ行きたいとは思ってるでしょう?」
レオンは黙った。
母には隠しても意味がない。
昨夜エリシアと話したあとから、彼女がもう一度あの施設を見たいと言う可能性をずっと考えている。本人が戻りたいなら、自分も一緒に行きたいと思うのは自然だったが、そのためにはまず自分の身体が同行に耐えられるかを確認しなければならない。
ミレアは麦と根菜を煮込んだ朝粥を器へよそい、レオンの前へ置いた。
「あなたが行きたいことを否定しているわけじゃないのよ。ただ、行くための条件を自分に都合よく変えないでほしいだけ」
「分かってる」
「本当に?」
「治療所で見てもらって、駄目なら今日は行かない。それでも遺跡について調べることはできるし、エリシアがどうしたいかも先に聞く」
そこまで答えると、ミレアはようやく満足したらしく、自分の器を持って向かいへ座った。
「ならいいわ」
「最近、何を言っても最後に確認されるな」
「最近まで、確認しないと勝手に先へ行っていたからでしょう」
「それも分かってるよ」
少し遅れて父のエドガーと妹のルナも食卓へ集まり、朝食が始まった。
外からは家畜へ餌をやる音や、井戸へ水を汲みに行く人々の声が聞こえてくる。北側への警戒が続いているせいで村全体の動きは普段より慎重になっていたが、畑仕事や家畜の世話まで止めることはできないため、《エルダ村》の朝は形を変えながら続いていた。
エドガーがパンをちぎりながら言った。
「北の見張りから夜中の報告が来た。遺跡の入口周辺に新しい人影は確認されていない」
「中へ入った奴は?」
「まだ見つかってない。昨日エリシアを追ったと思われる男もだ」
「だったら、まだ中にいるかもしれないのか」
「その可能性はある。逆に、別の出口から外へ出た可能性もある」
レオンは頷いた。
今なら、その言い方の違いを意識できる。
見つかっていないことと、まだ内部にいることは同じではない。
「《灰牙》だって確定した?」
「負傷していた男が自分たちを《灰牙》の探索組だと認めたらしい」
エドガーの言葉で、食卓の空気が少し重くなった。
これまでは装備や外套が似ているというだけだったが、少なくとも保護された男については所属が確定したことになる。
「何を探してた?」
「特殊な魂波を持つ石だと聞いている。ただし、そいつ自身も詳しい場所までは教えられていなかったらしい」
「誰から命令された?」
「そこまでは村長から聞いてない」
レオンはさらに尋ねようとして止めた。
父が知らないことを問い詰めても答えは増えない。
「それなら、遺跡の反応を追って来た可能性は高い?」
「高いとは思う。ただ、お前の右手やエリシアを狙って来たとまで考えるのは早い」
「分かった」
ルナが横から兄を見る。
「最近の兄ちゃん、本当に『分かった』って言えるようになったね」
「お前まで言うのか」
「前は分かってなくても言ってたから」
「ひどいな」
「事実でしょう」
家族全員から同意され、レオンは朝食へ逃げた。
◇
治療所で左膝を確認してもらった結果、平地を一刻程度歩くことは許されたものの、走ることと斜面を登ることは禁止された。
レオンにとっては予想より厳しい判断だった。
「昨日より痛くないんだけど」
診察台へ腰掛けたまま不満を口にすると、治療を担当している女性は冷却布を巻き直しながら首を横へ振った。
「痛みが減ったのは良いことよ。でも、左脚へ体重を掛ける時間が右より短いでしょう。歩き方が戻っていない状態で斜面へ行けば、膝を守ろうとして別のところまで痛める可能性があるわ」
「じゃあ、どのくらいで治る?」
「今日きちんと休めば、明日もう一度判断できる。今日無理をすれば、その判断が二日か三日先へ延びるかもしれない」
「今日行けば分かることもある」
「今日行って怪我を悪化させれば、明日できることまで減るわよ」
分かっている。
それでも、納得するまでには少し時間が必要だった。
「エリシアは?」
「朝食を食べ終わったところ。昨日より身体は動くけれど、一人で長く歩かせる状態ではないわ」
「話していい?」
「本人がいいと言えばね」
その答えを聞き、レオンは椅子から立ち上がった。
治療所の奥へ進む前に、昨夜と同じように扉の外から声を掛ける。
「エリシア、入っていい?」
数秒して返事があった。
「うん」
扉を開ける。
エリシアは昨日と同じ寝台にいたが、今日は上半身を起こし、薄い毛布の上へ両手を置いていた。長い髪は軽く整えられており、顔色も昨日よりはよく見えるものの、座っているだけでも身体へ力を入れていることが肩の位置から分かる。
「おはよう」
「おはよう、レオン」
自分の名前を覚えている。
それだけで、昨日より距離が一段近づいたように感じた。
レオンは寝台から少し離れた椅子へ座る。
「昨日、また話していいって言ってたけど、今も大丈夫?」
「うん。私も聞きたいことがある」
「なら、先に聞いていいよ」
エリシアは少し迷ってから尋ねた。
「ここって、本当に《アークレシア王国》っていう国なの?」
「ああ」
「《アルセリア》じゃない?」
レオンは初めて聞く名前だった。
「アルセリア?」
エリシアの顔に僅かな戸惑いが浮かぶ。
「知ってると思った。でも、何だったかまでは……」
額へ手を当てかけたため、レオンはすぐに止めた。
「無理に思い出さなくていい。名前だけ覚えておこう」
「あなたは知らない?」
「少なくとも村の近くにはそんな場所はない。父さんやドル爺なら古い地名を知ってるかもしれないから、あとで聞ける」
「ドル爺?」
「村で昔の話を一番知ってる爺さん。俺が遺跡を探し始めたきっかけも、その人から話を聞いたからなんだ」
「遺跡が好きなの?」
「好きだな」
「どうして?」
レオンは少し考えた。
これまでなら、「古いものが面白いから」と答えていた。
それだけでも間違いではない。
「知らないものが残ってるからだと思う。昔は答えを見つけるのが好きなんだと思ってたけど、最近は分からないものを見つけて考えること自体が好きなのかもしれないって言われた」
「誰に?」
「ノア」
「昨日、外で待ってた人?」
「ああ。幼なじみ」
エリシアは小さく頷いた。
その動作だけでも昨日より自然だった。
「レオンは、私のことも分からないから知りたい?」
問いは静かだった。
責めているようには聞こえない。
しかし、レオンはすぐに答えなかった。
自分の好奇心だけなら、確かにそうだ。
古代施設で眠っていた少女。
右手の痣を見て、知っている気がすると言った。
記憶が欠けている。
知りたいことはいくらでもある。
「知りたいよ」
レオンは正直に答えた。
「でも、エリシアは遺跡じゃないから、俺が知りたいってだけで何でも聞いていいわけじゃないって昨日言われた」
エリシアは少し驚いたように瞬きをする。
「誰に?」
「治療してくれてる人」
「怒られた?」
「かなり」
「そうなんだ」
ほんの少しだけ口元が緩む。
初めて見る笑い方だった。
「だから、昨日言ったことを先に聞きたい」
「何?」
「これからどうしたい?」
エリシアの笑みが消えた。
代わりに、視線が毛布の上へ落ちる。
「分からない」
「それでもいい」
「でも、聞いたんでしょう?」
「聞いたからって今すぐ決めないといけないわけじゃない。やりたいことが一つでもあれば、そこから考えればいいと思ってる」
エリシアはしばらく黙っていた。
部屋の外では薬瓶を並べる音や、患者へ水を運ぶ足音が続いている。窓から入る朝の風が薄いカーテンを揺らし、それに合わせてエリシアが借りている上着の袖も僅かに動いた。
「お父さんとお母さんを探したい」
やがて言った。
「名前も思い出せないけど、いたことは分かるから」
「うん」
「それから、あの場所へ戻ったら何か思い出すかもしれないと思ってる」
レオンは顔を上げた。
「遺跡へ?」
「うん」
「怖くない?」
「怖い」
即答だった。
それでも、エリシアは続きを言った。
「でも、ここにいても何も分からない。レオンが見せてくれた手の印も知っている気がするし、あの場所に戻れば、自分がどうして眠っていたのかも少し分かるかもしれない」
「今日行きたい?」
「行けるなら」
レオンは治療担当の女性を思い出した。
エリシア本人が望んでも、身体が動かなければ今すぐ歩かせるべきではない。
「一人で歩ける?」
「部屋の中なら少し」
「外まで?」
「分からない」
「なら、まずそこを確認しよう」
エリシアは少し不満そうに見る。
「止めるの?」
「俺も行きたいから、本当は止めたくない。でも俺も膝のせいで今日は遺跡へ行くなって言われてる」
毛布の下を指す。
エリシアは初めてレオンの膝へ巻かれた布に気づいたようだった。
「怪我してたの?」
「君を見つける前に転んだ」
「私のせい?」
「違う」
今度は迷わず答えた。
「俺が音に気を取られて足元を見なかったから転んだ。エリシアがいたこととは関係ない」
エリシアは少しだけ肩の力を抜いた。
「じゃあ、二人とも今日は行けない?」
「まだ分からない。俺は駄目って言われたけど、エリシアは治療する人と相談して決めることになると思う」
「レオンが決めるんじゃないの?」
「俺が決める理由ないだろ」
その言葉を言ったとき、レオン自身が少しだけ可笑しくなった。
数日前までなら、自分が見つけた遺跡なのだから、連れていくかどうかまで自分で決めるような気になっていたかもしれない。
「行きたいなら、そう言った方がいい。危ないから今日は無理って言われるかもしれないけど、何が変われば行けるのか聞けばいい」
エリシアはレオンを見る。
「嫌だって言われても?」
「理由を聞く」
「それでも納得できなかったら?」
「もう一回話す」
「喧嘩になったら?」
レオンは昨日バルガスから聞いた言葉を思い出し、少し笑った。
「そのときは、殴らない喧嘩の仕方を覚える」
「何それ」
「俺もまだ分からない」
エリシアが今度こそ小さく笑った。
◇
その日の午後、レオンは村の南側にある自警団の訓練場へ来ていた。
遺跡へ行く許可が出たわけではない。
むしろ逆だった。
朝の診察結果を聞いたバルガスが、「自分でどの程度動けないのか分からないなら、平地で確認してみるか」と提案したため、治療担当者の許可を得て短時間だけ身体を動かすことになった。
訓練場は畑へ土が流れ込まないよう低い土壁で囲われ、地面には転倒時の怪我を減らすため細かな砂が厚く敷かれている。
普段は自警団員が足運びや武器の扱いを練習する場所だった。
ノアとエリシアも土壁の外側にいる。
エリシアについては、治療所からここまで荷車で移動し、外気へ身体を慣らす目的も兼ねて短時間だけ見学を許されていた。借りた厚手の上着を羽織っているが、それでも風が吹くたびに袖口を押さえており、現代の衣服の着方そのものにもまだ慣れていない様子だった。
「何するんだ?」
レオンは砂地へ入りながら尋ねた。
バルガスは大剣を持っていない。
代わりに、長さの違う木の棒を二本持っている。
「勝負だ」
「怪我人相手に?」
「殴り合うわけじゃねえ」
バルガスは訓練場の反対側へ木の棒を一本立てた。
距離は三十メルほど。
「向こうの棒まで行って、触って戻る。それだけだ」
レオンは拍子抜けした。
「それのどこが勝負なんだよ」
「お前が最後まで普段と同じ歩き方をできたら、お前の勝ち。途中で俺が止める条件に引っ掛かったら俺の勝ちだ」
「条件は?」
「走らない。膝の痛みが三を超えたら自分から止まる。足を庇って歩き方が崩れたと俺が判断しても終了だ」
「それだけ?」
「それだけで十分だと思うぞ」
レオンは向こうに立つ棒を見る。
普通なら短い距離だ。
旧採掘場へ行く距離と比べれば、話にならないほど近い。
「勝ったら遺跡へ行っていい?」
バルガスは首を横へ振った。
「勝ったら、平地を六十メル歩けるって分かるだけだ」
「それじゃ勝負する意味ないだろ」
「お前が自分の身体について正しい判断をしてるか確かめる意味はある」
「遺跡へ行く判断には使えない?」
「材料の一つにはできる。ただ、ここを歩けても斜面を一時間登れる証明にはならねえ」
レオンは不満を隠さなかった。
それを見たバルガスが笑う。
「都合のいい結果が出る勝負だけしたいのか?」
「違う」
「ならやってみろ」
レオンは上着を脱ぎ、土壁の上へ置いた。
風がシャツの背中を膨らませる。
砂地へ最初の一歩を踏み出すと、普通の道とは違って靴底が僅かに沈み、足を持ち上げるたびに細かな砂が後ろへ流れた。
痛みは二。
歩ける。
十メル。
問題ない。
十五メルを過ぎたところで、左脚の動きが僅かに遅くなった。
痛みそのものはまだ三未満だと思う。
レオンは歩調を維持した。
向こうの棒へ触れる。
「半分」
バルガスが言う。
折り返す。
歩き始めた直後、左足が砂へ少し深く沈んだ。
身体が右へ傾く。
レオンはすぐに姿勢を戻す。
「今ので痛みは?」
「二」
「本当か?」
「二だって」
さらに進む。
残り二十メル。
左脚を砂から抜くたび、膝の奥に重さが増していく。
痛いというより、力が入りにくい。
「歩き方変わってるよ!」
土壁の外からノアの声が飛んだ。
「変わってない!」
返した直後、自分でも分かった。
右足の歩幅の方が明らかに長い。
左足を置く時間を短くし、早く右へ重心を移している。
バルガスが手を上げた。
「そこまで」
「まだ歩ける」
「勝負は終わりだ」
「痛みは三にもなってない」
「条件は痛みだけじゃねえ。足を庇ったら終了だ」
レオンは立ち止まった。
目的の位置まで残り十メルほどしかない。
歩こうと思えば歩ける。
「あと少しだぞ」
「だから何だ?」
「行けるところまで行った方が――」
「お前が試したかったのは、倒れるまで何メル歩けるかか?」
レオンは黙った。
違う。
そうではない。
「最後まで歩けるか確認したかったんだろ。なら、歩き方が崩れた時点で結果は出てる」
「でも遺跡なら、ここで止まったら帰れない」
「だから今行くなって話になる」
その言葉が腹立たしかった。
正しいから余計に腹が立つ。
レオンは砂を蹴りそうになり、そこで左膝へ負担を掛けるだけだと思い直して足を止めた。
「……俺の負け」
「何に負けた?」
「バルガスに」
「違うな」
バルガスが近づく。
「お前が最初に考えてた、自分はもう普通に歩けるって判断が外れた。それだけだ」
「同じじゃないか」
「俺に勝つ必要はねえ。次に同じ距離を普通に歩ければ、それで前より良くなったって分かる」
レオンは砂地の足跡を見る。
行きと帰りで形が違う。
行きはほぼ一定だった。
帰りは左足だけ浅く、右足側の跡が深くなっている。
見れば、自分でも分かるほどだった。
「これなら記録できるね」
ノアが外側から言う。
レオンは苦笑した。
「何でも記録する気か」
「レオンが自分で痛くないって言っても、足跡なら残るでしょう?」
「それはそうだけど」
バルガスが頷く。
「悪くない。本人の感覚が間違ってるって話じゃなく、別の情報を足すってことだ」
レオンはしばらく自分の足跡を見た。
痛み二。
それは嘘ではない。
けれど、痛みが二だから正常に歩けているという判断は間違っていた。
一つの数字だけで身体全部を決めていたことになる。
「もう一回やる」
「今日はやらねえ」
「何で?」
「結果が出たからだ。もう一回やって悪化させる必要がない」
「次は意識して歩けば――」
「それで歩き方を隠せたとして、遺跡で怪我が治るのか?」
言葉に詰まる。
バルガスがしゃがみ、レオンの左膝を直接触らずに見る。
「腫れは朝より増えてない。ただ、これ以上使うと悪くなる可能性はある。今日はここまでだ」
「分かった」
今度は本気で従った。
砂地から外へ出る。
土壁の近くまで来ると、エリシアが立ち上がろうとした。
その瞬間、身体が僅かに傾く。
治療所から同行していた女性が腕を支えた。
「ゆっくり」
「大丈夫」
「大丈夫かどうか、立ってから確認しましょう」
エリシアは一度呼吸を整え、足元を見る。
借り物の靴。
現代の服。
知らない村。
風が上着を揺らすたびに、その全部が自分の知っていた生活と違うことを思い知らされているようにも見えた。
「レオン」
「何?」
「私もやってみたい」
レオンは驚いた。
「何を?」
「歩けるか。遺跡へ戻りたいって言っても、自分がどのくらい歩けるのか分からないから」
治療担当の女性を見る。
彼女はすぐには否定しなかった。
「距離はレオンより短くする。それに競争にはしないわ」
「うん」
エリシアは砂地へ入った。
十メル先へ目印を置く。
往復二十メル。
ただし、一人ではなく女性が半歩横につく。
最初の数歩は問題なかった。
しかし砂へ足を取られるたびに、身体の軸が少しずつ揺れる。
エリシアは転ばないよう歩幅を狭め、自分の足元を確認しながら進んだ。
目印へ到着する。
振り返る。
レオンを見る。
「まだ大丈夫」
「俺も途中まではそう思ってた」
「じゃあ、ちゃんと見てて」
「分かった」
帰り。
五歩ほど進んだところで呼吸が速くなる。
肩も上下している。
それでも本人は歩こうとする。
レオンには、それがさっきの自分と同じに見えた。
「エリシア、無理しなくていい」
言った瞬間、少女が少し険しい顔をした。
「まだ歩ける」
自分がさっき言った言葉とまったく同じだった。
レオンは続きを言うのを止めた。
代わりに聞いた。
「今、どうしたい?」
エリシアは立ち止まった。
「戻りたい」
「目印まで?」
「違う。向こうまで歩いて終わりたい」
「身体は?」
「疲れてる。でも、立っていられる」
治療担当の女性が呼吸の状態を見る。
「残り五メルなら、速度を落として歩くことはできる。ただし、着いたら今日は終わりにするわ」
エリシアは頷いた。
「分かった」
それから残りを歩いた。
最後の数歩は非常にゆっくりだった。
それでも自分の足で土壁まで戻り、座る場所へ着いてから、ようやく大きく息を吐いた。
レオンは水を渡した。
エリシアが受け取る。
「止めなかったね」
「俺が止めることじゃないと思った」
「危ないと思わなかった?」
「思った。でも治療する人が歩ける範囲を見てたし、エリシアも自分で疲れてるって言ったから」
「もし私が大丈夫って言い張ったら?」
「さっきの俺みたいなら、たぶん足跡見せる」
エリシアは砂地を見た。
自分の足跡も、途中から歩幅が狭くなっている。
「砂って、隠せないね」
「俺もそう思った」
二人は少しだけ笑った。
◇
翌朝、エリシアは治療所の寝台で目を覚ましたとき、自分がどこにいるのかを前日より早く理解できた。
窓の外から聞こえる鳥の声は知らない。
廊下を歩く靴音も、古代施設で聞いていたものとは違う。
それでも、昨夜までならすべてが「知らないもの」として一つに重なっていたのに、今日は水を運ぶ人の足音、治療道具を片づける音、外を通る荷車の車輪を少しずつ区別できる。
《エルダ村》。
《アークレシア王国》。
レオン。
ノア。
バルガス。
昨日まで知らなかった名前が、自分の中へ少しずつ残り始めている。
それと引き換えに、自分が本来知っていたはずの名前ほど思い出せない。
父。
母。
家。
《アルセリア》。
最後の一つだけは昨日口にできた。
けれど、それが都市なのか国なのか、施設なのかさえ思い出そうとすれば頭の奥が重くなる。
エリシアは無理に続きを探さなかった。
昨日、レオンから言われた。
思い出せないことを今日全部決めなくていい。
それなら、今分かることから確認すればいい。
身体を起こす。
昨日より楽だった。
足を床へ下ろし、ゆっくり立つ。
治療担当の女性から一人で廊下へ出る許可はまだもらっていないため、勝手に進まず、寝台の脇で立ったまま自分の身体の感覚を確かめる。
昨日の砂地を歩いた疲労は少し残っている。
しかし筋肉の重さは昨日より明らかに弱い。
「起きてる?」
扉の外から声がした。
レオンだった。
エリシアは返事をする。
「起きてる」
「入っていい?」
「うん」
扉が開く。
今日はレオンだけではなく、ノアもいる。
レオンの左膝にはまだ布が巻かれていたが、昨日の朝より歩き方は自然に見えた。
「おはよう」
「おはよう」
ノアも続ける。
「おはよう、エリシア」
「ノア……だよね?」
「覚えてた」
ノアが嬉しそうに笑う。
それを見て、エリシアは少しだけ安心した。
忘れているものばかりではない。
新しく覚えられるものもある。
「今日は歩けそう?」
レオンが尋ねた。
「昨日よりは」
「俺も朝もう一回見てもらって、村の中ならかなり歩いていいって」
「遺跡は?」
レオンの表情が少し曇る。
「まだ駄目。斜面を長く歩くのは明日以降」
「そっか」
「エリシアは?」
「まだ聞いてない」
治療担当の女性が来るまで待つ。
エリシアはそこで、昨日自分が言ったことを思い返した。
遺跡へ戻りたい。
父と母を探したい。
自分がなぜ眠っていたのか知りたい。
その気持ちは今も変わらない。
やがて女性が来て身体を確認した。
呼吸。
脈。
立ったときのふらつき。
昨日歩いたことによる痛み。
一つずつ確認されたあと、エリシアは尋ねた。
「今日、遺跡へ行けますか?」
女性はすぐに答えなかった。
「歩いて行くのは無理ね」
「じゃあ、荷車なら?」
「入口近くまでは荷車で行けない。最後は斜面を歩く必要があるでしょう」
「誰かに支えてもらったら?」
「行けなくはないと思う。でも、私はまだ勧めない」
エリシアは少し口を結んだ。
「どうして?」
「昨日二十メル歩いただけでかなり疲れたでしょう。遺跡へ行けば、行ったあとに戻る体力まで残しておく必要がある」
「途中で休めば?」
「休める場所が安全だと分かっている?」
エリシアは答えられない。
知らない。
遺跡へ戻りたいのに、その道を自分は覚えていない。
レオンたちから聞いた話しか知らない。
「じゃあ、何が変われば行ける?」
女性はそこで少し表情を柔らかくした。
「少なくとも、平地を一刻歩いても呼吸が乱れず、自分で水と最低限の荷物を持てること。それから、現地の安全が確認されていることね」
「今日は無理?」
「今日は無理だと思う」
エリシアは悔しかった。
身体は昨日より動く。
自分では進める気がする。
それでも、知らない道を往復するだけの体力があるかと聞かれれば答えられない。
「分かった」
言葉にすると、胸の中に重さが残った。
「でも、行きたい気持ちは変わらない」
「それは変えなくていいわ」
治療担当の女性はそう答えた。
止められた。
でも、決められたわけではない。
エリシアはその違いを覚えておこうと思った。
◇
朝食のあと、レオンとノアは一度家へ戻り、エリシアは治療所の前に置かれた長椅子で外の空気へ身体を慣らしていた。
村の朝は忙しい。
知らない人たちが自分の前を通る。
視線を向ける者もいる。
昨日遺跡から連れてこられた少女がいるという話は、すでに村の一部へ広がっているらしい。
好奇心。
警戒。
心配。
それらを一つずつ区別できるほど相手のことは分からない。
エリシアは借りた上着の袖を握った。
風が吹くたび、柔らかい布が腕へ触れる。
自分が覚えている服より厚く、縫い目も違う。
何もかもが少しずつ違う。
そのとき、村の北側から馬が一頭走ってきた。
普段の荷車とは明らかに速度が違う。
見張り役らしい男が馬を止めると、そのまま集会所へ駆け込んでいく。
周囲の人々も動きを止めた。
数分もしないうちに、自警団員が北側の道へ集まり始める。
エリシアは立ち上がった。
「何かあったんですか?」
近くにいた女性へ尋ねる。
「まだ分からないわ。ここにいて」
「でも――」
「状況が分かるまで動かない方がいい」
命令のように聞こえた。
胸の奥に小さな抵抗が生まれる。
しかし、何が起きたのか知らない自分が一人で歩き回っても、状況を良くできるわけではない。
エリシアは座り直した。
それから間もなく、レオンとノアが戻ってきた。
レオンは歩いている。
走ってはいない。
それでも表情だけで、何かが起きたことは分かった。
「エリシア」
「何があったの?」
「北の見張りが、人を見つけた」
「誰?」
「《灰牙》の連中だと思う」
昨日聞いた名前。
自分が見つかった遺跡を探していた武装集団。
エリシアは上着の袖を握る力を強めた。
「こっちに来るの?」
「今のところ村じゃなく、旧採掘場の周りを探してるらしい」
「何を?」
「特殊な魂波を持つ石」
レオンの右手を見る。
黒い痣。
「あなたの手?」
「それは分からない」
レオンはすぐに否定も肯定もしなかった。
「遺跡の中には、俺の手とは別に何かある。あいつらが何を知ってるかも分からない」
エリシアの頭の中に、暗い通路が浮かんだ。
自分が目を覚ました場所。
冷たい床。
止まった機械。
そして、うまく思い出せない何か。
「私がいた場所にも、石がある?」
「まだ分からない」
また、その答え。
それでもエリシアは嫌ではなかった。
分からないものを、分かったことにされるよりいい。
「村長たちは?」
「北側へ行く人間を減らして、遺跡の入口を見張る。バルガスも行く」
「レオンは?」
「村に残る」
少し悔しそうだった。
「行きたい?」
「行きたい。でも今行ったら、俺を逃がすために誰かの手が必要になる」
昨日、砂の上で歩いていた姿を思い出す。
レオンは最後まで歩けると言った。
でも足跡は違っていた。
「私も行けない」
「うん」
二人とも行きたい。
二人とも行けない。
理由は違う。
それでも、同じ場所に残ることになった。
ノアが二人を見る。
「だったら、残ってる間にできること考えよう」
「例えば?」
エリシアが聞く。
「エリシアが覚えてることを、無理しない範囲で整理するとか。レオンの記録と比べれば、同じものがあるかもしれない」
「記録?」
ノアが一冊の帳面を見せた。
「レオンが遺跡で見たものをずっと書いてるの。最近は私も書いてる」
「見てもいい?」
レオンが少しだけ笑った。
「いいよ」
三人は治療所の前にある小さな机へ移った。
ノアが記録帳を開く。
最初に出てきたのは、入口の壁から写した古い文字だった。
エリシアはそれを見た。
胸の奥がざわつく。
読める。
そう思った。
けれど、声に出そうとすると意味が崩れる。
「知ってる?」
レオンが尋ねる。
エリシアは紙へ顔を近づけた。
「形は……見たことある」
「読める?」
「少しだけ……」
一つの記号を指す。
意味が浮かぶ。
扉。
違う。
通路。
それも違う。
もっと別の意味。
記憶の中では、同じ記号を父が見ていた気がする。
誰かの声。
白い光。
それ以上を追うと頭痛が始まった。
エリシアは紙から目を離した。
「駄目。まだうまく出てこない」
レオンはそれ以上聞かなかった。
ノアも帳面を閉じようとする。
「待って」
エリシアが止めた。
「今見たところだけ、何か書いておきたい」
「何を?」
「読めない。でも、知らない文字じゃないって」
ノアが筆を渡す。
エリシアは自分で書こうとした。
しかし、現代の筆記具は握り方が少し違う。
指がうまく動かない。
文字を書こうとして、線が歪む。
「貸して」
レオンが言った。
エリシアは顔を上げた。
「書く?」
「エリシアが言った通りに書く。勝手に意味は足さない」
少し考えてから筆を渡した。
「《形には覚えがある。ただし意味は思い出せない》」
レオンがそのまま書く。
「これでいい?」
「うん」
その下へ何も足さなかった。
エリシアは少し安心した。
◇
昼前。
北側へ向かった自警団から、二度目の連絡が入った。
今度は村の空気がはっきり変わった。
広場へ荷車が集められる。
子供や高齢者を中央部へ移す準備が始まる。
村長ハベル・ロークは、襲撃が確定したわけではないと説明しながらも、万一に備えて北側の家から人を移すことを決めた。
レオンの家は中央寄りにある。
治療所もすぐ避難する位置ではない。
それでも、エリシアは自分の荷物が何もないことに気づいた。
持ってきた服もない。
家もない。
逃げる必要が出ても、自分だけは持ち出すものさえ分からない。
「エリシア」
ノアが小さな布袋を持ってきた。
「これ使って」
「何?」
「水と食べ物。あと布」
「私の?」
「今はね。必要になったら持って」
エリシアは受け取った。
軽い。
それでも、自分がこの時代で初めて持つ「自分のための荷物」だった。
「ありがとう」
「重かったら言ってね」
「うん」
レオンは少し離れた場所で、自分の荷物を確認していた。
昨日まで探索へ使っていた道具袋から、重い槌や不要な採掘道具を抜いている。
「行かないんじゃないの?」
エリシアが聞く。
「遺跡には行かない。でも村の中で移動する可能性はあるから、持てるものだけにしてる」
「その膝で?」
「だから軽くしてる」
昨日までなら、全部持とうとしたのかもしれない。
そんな気がした。
北側から三度目の警戒鐘が鳴った。
今度は短く、鋭い。
広場の人々が一斉に動く。
自警団員が叫んだ。
「北外縁で武装者を確認! 農地側の者は中央へ!」
エリシアの胸が強く鳴った。
治療担当の女性が近づく。
「エリシア、治療所の中へ戻りましょう」
「ここじゃ駄目?」
「外で何が起きるか分からない。窓から離れた部屋へ移る」
「レオンたちは?」
「彼らも中央側へ移動するわ」
そのとき、レオンが声を上げた。
「待って!」
全員が見る。
レオンは北側ではなく、治療所の裏手を見ていた。
土の道。
そこに細かな砂が落ちている。
灰色。
昨日訓練場で見た黄色い砂とは違う。
レオンが屈みかけたが、膝を思い出して止まる。
「これ、北の道の土じゃない」
ノアが近づく。
「どうして分かるの?」
「旧採掘場の外側にある灰砂と同じだ。靴に付いて村まで来たなら、もっと道の途中にも落ちてるはずなのに、ここから急に続いてる」
治療所の裏。
人の少ない道。
足跡。
一つ。
二つ。
建物の陰へ続いている。
エリシアの背中が冷たくなった。
「誰か、ここまで来てる?」
レオンは答える前に周囲を見る。
「分からない。でも、北側の道を通らずに来た奴がいるかもしれない」
女性がすぐに自警団員を呼ぼうとする。
その直前。
建物の向こうで石が転がった。
誰かいる。
エリシアは治療所へ戻ろうとした。
そこで自分の右側にノアがいることへ気づく。
レオンは前。
治療担当の女性は入口。
逃げ道を考える。
裏手の足跡。
正面は広場。
敵が何人いるか分からない。
情報が足りない。
それでも立ち止まっている時間はない。
「中へ!」
レオンが言う。
エリシアは一歩動いた。
しかし、建物の陰から男が現れた。
灰色の外套。
右手に短剣。
左腕には、小型の契約石らしきものが固定されている。
男も、ここに四人いるとは思っていなかったらしい。
一瞬だけ動きが止まった。
その視線が最初にレオンへ向く。
次に右手。
黒い痣。
そしてエリシア。
表情が変わった。
「見つけた」
その声を聞いた瞬間、レオンがエリシアの前へ出ようとした。
「レオン!」
エリシアが叫ぶ。
レオンの膝は治っていない。
走れない。
男が一歩踏み込む。
治療担当の女性が治療所の扉を開ける。
「中へ入りなさい!」
ノアがエリシアの腕を取る。
エリシアは引かれながら、男とレオンを見る。
レオンも下がる。
戦うためではない。
全員で入口へ戻るため。
しかし、男の左腕にある石が光った。
地面が弾ける。
砂と小石が舞い上がる。
レオンたちと治療所の扉の間へ、浅い亀裂が走った。
大きな攻撃ではない。
誰も倒れていない。
それでも、まっすぐ逃げ込む道は塞がれた。
男は短剣を構える。
「動くな。石を渡せ」
レオンが聞く。
「何の石だ?」
「とぼけるな。異常魂波の核があるだろ」
「俺は持ってない」
「なら案内しろ」
「どこへ?」
「遺跡だ」
男が一歩近づく。
エリシアはレオンの横顔を見る。
遺跡の場所を知っている。
自分も戻りたいと思っている。
それでも、この男へ案内することと、自分たちが調べることは同じではない。
ノアが小さな声で言った。
「広場まで逃げられれば、人がいる」
レオンも聞こえている。
治療所の裏手から広場へ出るには、男の横を抜けなければならない。
正面入口へ戻るには、さっきできた亀裂を越える必要がある。
レオンは走れない。
エリシアも長く走れない。
戦って勝つ必要はない。
逃げる。
人のいるところまで。
それが今の勝ち方だった。
レオンが男の足元を見る。
乾いた地面。
灰砂。
薄い亀裂。
昨日の訓練場で見た足跡を思い出す。
砂は踏み方を隠さない。
男は左足へ重心を寄せている。
右足は少し外へ向いている。
さっき地面を弾いた反動で、右足側の砂だけが深く抉れていた。
「エリシア」
レオンが小さく呼ぶ。
「何?」
「走れる?」
「少しなら」
「ノアと一緒に広場側へ行ける?」
エリシアは男を見る。
距離。
十数メル。
「レオンは?」
「俺も行く」
「本当に?」
一瞬、昨日砂の上で歩いていたレオンの足跡が浮かんだ。
本人は歩けると言った。
でも身体は違う答えを残した。
「あなた、走れないでしょう」
レオンは黙る。
「私たちだけ先に行かせて、残るつもり?」
「時間を作れれば――」
「それ、私のことも勝手に決めてる」
レオンの表情が止まった。
エリシアは自分でも驚いていた。
怖い。
男は武器を持っている。
逃げたい。
それでも、レオンが自分を守るためと言って一人で残ることを、当然のように受け入れたくなかった。
「私は走れる距離が短い。レオンも走れない。それなら、二人ともそれを使って逃げる方法を考えて」
男が苛立ったように短剣を上げる。
「何を話してる」
時間がない。
レオンは息を吸った。
「分かった」
その返事だけで十分だった。
「ノア、俺の右側。エリシアはその後ろ。あいつが地面をもう一度撃ったら、砂が上がるまで待ってから広場側へ動く」
「何で待つの?」
「自分で視界を潰すから」
男が踏み込んだ。
左腕の石が光る。
レオンは動かない。
地面へ魂力が走る。
砂が弾ける。
視界が灰色へ変わる。
「今!」
三人が動いた。
レオンは走らない。
最初から速さで勝とうとしない。
男の右側を避け、左側から大きく回る。
ノアがレオンの歩調に合わせる。
エリシアも後ろを離れない。
男が砂煙の中から腕を伸ばす。
見えていない。
短剣が空を切る。
三人が通り過ぎる。
広場まで残り十メル。
エリシアの呼吸が速くなる。
足が重い。
それでも前には人がいる。
「止まらないで!」
ノアの声。
レオンが振り返る。
男が追ってくる。
速い。
このままでは追いつかれる。
レオンの右手が熱くなる。
黒い痕が濃くなる。
遺跡から離れた村の中。
まただ。
しかし今は調べている場合ではない。
熱を無視する。
「人を呼べ!」
レオンが叫ぶ。
広場の自警団員がこちらを見る。
男も気づいた。
追う速度が落ちる。
逃げるか。
続けるか。
一瞬の迷い。
その一瞬で距離が広がる。
「こっちだ!」
自警団員が走ってくる。
男は舌打ちし、建物の間へ逃げた。
追おうとする者を、別の自警団員が止める。
「単独で追うな! 仲間がいるかもしれん!」
エリシアは広場へ着いたところで足を止めた。
呼吸が苦しい。
膝へ手をつきたい。
でも立っていられる。
横を見る。
レオンも顔を歪めている。
左膝。
痛いはずだ。
ノアが二人の間に立つ。
「座れるところへ行こう」
三人は近くの荷台へ移動した。
レオンが座った瞬間、大きく息を吐く。
「痛みは?」
ノアが聞く。
「四……いや、五に近い」
「治療所戻るよ」
「分かってる」
エリシアも息を整えながら尋ねた。
「さっき、残らなかったね」
レオンは顔を上げた。
「怒られたからな」
「怒ってない」
「同じだろ」
「違う」
エリシアは少しだけ笑った。
それでも身体の震えはまだ止まっていない。
怖かった。
男の短剣。
地面が弾ける音。
逃げ道を塞がれた瞬間。
全部まだ身体に残っている。
しかし、一つだけ分かったこともある。
レオンは自分の意見を聞いた。
一人で残らなかった。
自分も、ただ守られて運ばれたわけではない。
「レオン」
「何?」
「私は遺跡へ戻りたい」
「今でも?」
「今だから」
レオンの表情が変わる。
エリシアは続けた。
「あの人たちが何を探してるのか知りたいし、私がいた場所に何があるのかも知りたい。でも、勝手に連れていかれるのは嫌」
「うん」
「だから、自分で戻るか決めたい」
レオンはすぐに賛成しなかった。
「危険だぞ」
「分かってる」
「今日みたいな奴がもっといるかもしれない」
「それも分かってる」
「身体もまだ――」
「それも今すぐ行けるって言ってるんじゃない」
エリシアは自分の乱れた呼吸を整えた。
「行ける身体になって、安全を考えて、それから自分で戻りたいって言ってる」
レオンは黙った。
エリシアはその返事を待った。
自分でも怖い。
遺跡へ戻れば記憶が戻る保証はない。
むしろ、また《灰牙》と出会う可能性がある。
それでも、危険だからという理由だけで、知らない人たちに自分の過去を先に奪われることも嫌だった。
レオンの右手を見る。
黒い痕はまだ僅かに濃い。
「その手も、私と関係あるかもしれない」
「かもしれないだけだ」
「うん。だから確かめたい」
レオンが少し笑った。
「俺と同じこと言うな」
「嫌?」
「いや」
周囲では自警団員が逃げた男の経路を確認し、村長へ報告するため人が走っている。
今すぐ二人が遺跡へ向かえる状況ではない。
だからこそ、次に進む前に聞かなければならないことがある。
レオンはエリシアの顔を見る。
守るために止めるのか。
本人の選択を聞くのか。
危険を知ったあとでも、その答えを尊重できるのか。
エリシアは先に口を開いた。
**「レオン、私が危険を知ったうえで遺跡へ戻りたいと言っても、あなたは私を止める?」**
●評価●ブックマーク●アクション●感想●
11話の感想待ってます!
読者様が応援してくれると嬉しいです!




