序章《滅びゆく古代》 第6話《選ばれたのではなく》
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ラウルがそう告げた直後、セレネ・アルセレアは玄関の外へ流れ込んでくる人々の足音を聞きながら、肩に掛けた鞄の留め具をもう一度確かめた。昨日まで生活のために使われていた連絡通路には、小さな子供の手を引く家族、両腕に保存食を抱えた老人、負傷して杖を使う者、荷車へ家財を載せて押す者が絶え間なく行き交い、誘導員の声と車輪の軋む音が幾重にも重なっている。
研究区へ向かう者と仕事から帰る者が自然にすれ違い、学校へ行く子供たちが友人を見つけて走っていた日常の道は、いまでは第七環区へ向かう一方向の流れへ変わっていた。避難という目的によって揃えられた人々の背中を見ながら、セレネは自分たちもその流れの一部になったのだと、家の中にいたときよりはっきり実感していた。
閉めた扉を振り返ることはしなかった。
水も加熱器も止め、必要なものは可能な範囲で持ち出したが、二度と戻れないと決まったわけではない。だからこそ、ここで別れを告げるように家を見れば、本当に戻れなくなる気がした。
隣では、エリシアが自分で選んだ荷物を背負って歩いている。
衣服や水筒、家族写真、小型工具、個人記録端末に加え、ゼフィールから贈られた石の置物まで入っているため、十六歳の少女が持つ荷物としては決して軽くない。家を出た直後こそ平然としていたものの、混雑した通路を十分ほど歩いた頃には、肩紐が食い込むのか、何度か右手で位置を直すようになっていた。
セレネは娘の歩幅が少し狭くなったところで、横から顔を覗き込んだ。
「重くなってきた?」
エリシアは反射的に大丈夫だとは答えず、肩を一度動かしてから自分の呼吸を確かめた。
「少し。でも、まだ持てる」
「肩は痛い?」
「ちょっとだけ」
「十段階なら?」
避難生活が長引くにつれて、「大丈夫」という言葉だけでは疲労や負傷の程度を判断できないことが問題になり、医療区画だけでなく一般家庭でも痛みや疲れを数字で伝える方法が広がっていた。エリシアもその意味を知っているため、少し考えてから肩をもう一度動かした。
「三くらい」
「五になったら教えて。四でも歩き方が変わったら休むわ」
「分かった」
その会話を聞いていたラウルが、娘の背負った鞄へ無意識に手を伸ばした。
エリシアがすぐに気づく。
「まだ持たなくていいよ」
「何も言ってないぞ」
「持とうとした」
「父親だからな」
「私が頼んでからにして」
ラウルは一瞬だけ不満そうな顔をしたものの、すぐに手を引いた。
「分かった。必要になったら言え」
セレネは二人のやり取りを見ながら、ほんの少しだけ口元を緩めた。
数日前までのラウルなら、娘の肩が下がっていることに気づいた瞬間、善意から何も聞かずに荷物を取り上げていただろう。エリシアも不満を言いながら、最後には父へ任せていたかもしれない。
いまは違う。
守ることと、本人に代わってすべてを決めてしまうことは同じではない。その境界を家族全員が意識し始めたからこそ、荷物一つを持つかどうかという小さな出来事にも、以前とは違う会話が生まれていた。
まだ上手くできているとは思わない。
それでも、変わり始めていることだけは確かだった。
◇
第七環区までは、通常なら地下連絡路を利用して一時間も掛からない。
しかし、昨夜から地下路の一部で時刻同期の異常が確認されているため、避難民は研究居住区から一度地上へ出たあと、都市中央部を大きく迂回して別の環状地下道へ入るよう指定されていた。その結果、本来なら短時間で済む移動に二時間以上を見込む必要があり、幼い子供や負傷者を連れた家族には途中の休憩所も用意されている。
外へ通じる防護扉を抜けた瞬間、乾いた風がセレネの頬を撫でた。
昼前にもかかわらず、空は薄暗い。
雲が厚いのではなく、都市東部で続く戦闘によって生じた煙が上空へ流れ込み、太陽の光を鈍く遮っていた。遠方には上部を失った高層塔が見え、そのさらに向こうでは低い轟音が数十秒に一度の間隔で響き、足元へ僅かな振動を伝えてくる。
エリシアが煙の向こうを見上げた。
「昨日より増えてるね」
ラウルも同じ方向へ視線を向ける。
「東側の防衛線がまた下がったらしい。だから第七環区への移動も早まったんだろう」
「私たちが出たあと、研究区はどうなるの?」
「最低限の人間は残る。すべての設備を止められるわけじゃないからな」
「お父さんも戻る?」
ラウルはすぐに「戻らない」とは言わなかった。
「必要になれば戻る可能性はある」
エリシアの歩みが僅かに遅くなる。
「戻ってほしくないって言ったら?」
「理由を聞く」
「怖いからって言ったら?」
ラウルは数歩進む間、娘の問いを考えていた。
「怖いという理由を軽く扱うつもりはない。ただ、俺にしかできない仕事が残った場合まで、絶対に戻らないとは約束できない」
「そっか」
「でも、お前が嫌がっていることを知らないふりをして決めるつもりもない。戻る必要が出たら、何のために行くのか、どのくらいで戻れる見込みなのかは話す」
エリシアは父の横顔を見つめたあと、小さく頷いた。
セレネは二人の会話へ割り込まなかった。
怖いから行ってほしくない娘と、必要なら研究区へ戻らなければならない父は、同じ答えを持っていない。それでも、どちらかの気持ちを消さなければ家族でいられないわけではなく、違う考えを持ったまま話すこともできる。
そのことを娘が少しずつ知ってくれればいいと、セレネは思った。
地上路へ出ると、舗装された大通りの一部には前夜の衝撃による亀裂が走っていた。避難用の荷車が同じ場所へ集中しないよう簡易柵で進行方向が分けられ、昨夜降った短い雨が石材の窪みに残っているため、車輪が通るたびに薄い泥水が跳ねている。
通りの左右には、まだ開いている店もあった。
食料品店では保存食を家族人数ごとに分け、布を扱う店では毛布と包帯を優先して配っている。通常の商品を売るというより、それぞれが持っている在庫を避難者へ回すために営業している店が多かった。
一軒の食堂では、大きな鍋から白い湯気が立ち上っていた。
煮込んだ穀物と香草の匂いが風に乗って流れてくる。
その匂いを嗅いだ瞬間、セレネの腹が小さく鳴った。
エリシアが聞き逃さない。
「お母さん、お腹空いた?」
「朝は食べたわよ」
「でも、もうお昼近いよ」
ラウルが時刻を確認した。
「第七環区へ着くまで最低でもあと二時間は掛かる。環区側の炊き出しが混雑している可能性もあるから、ここで食べていこう」
三人は食堂前の列へ並んだ。
簡易券と引き換えに配られていたのは、刻んだ根菜と少量の香草を入れた薄い穀物粥だった。肉は入っていなかったが、冷たい風の中を歩いてきた身体には、器から立ち上る熱だけでも十分ありがたい。
エリシアは粥を受け取ると、道端へ設置された長椅子に座った。
鞄を下ろした瞬間、肩から力が抜ける。
セレネは隣へ座った。
「肩は?」
「四になってた。でも、下ろしたら楽」
「食べ終わって三まで戻らなかったら、荷物の持ち方を変えましょう」
エリシアは自分の鞄を見る。
「石は置いていかないよ」
「分かってるわ。何を残すかだけじゃなくて、誰かに一時的に持ってもらう方法もあるでしょう」
それを聞いたラウルが手を上げた。
「水筒なら俺が持てる。石まで俺に渡したくないなら、水だけでも十分軽くなるはずだ」
エリシアは少し考えたあと、鞄の横に固定していた水筒を外した。
「じゃあ、第七環区までじゃなくて、次に休むところまでお願い」
「ああ。そのとき、またどうするか決めよう」
ラウルが水筒を受け取る。
娘の荷物を丸ごと取り上げるのではなく、本人が手伝ってほしい範囲を決め、その範囲だけを父が引き受ける。ほんの小さなやり取りだったが、セレネにはこの数日で家族が変わったことをよく示しているように思えた。
エリシアは粥を食べながら、通りを歩く避難民を眺めていた。
「ここにいる人たちは、未来へ行くわけじゃないんだよね」
「もちろんよ。《継時計画》で時相離脱できる人数は限られているから、候補に入っている人間はごく少数しかいないわ」
「じゃあ、この人たちは?」
「まず第七環区や中央避難区へ移る。そのあと戦況がさらに悪くなれば、都市の外へ移る人も出るでしょうね」
エリシアは匙を止めた。
「私だけ、すごく遠くへ逃げられるみたい」
その声には、羨ましさより後ろめたさがあった。
セレネは娘が何を尋ねたいのか考えてから、言葉を選んだ。
「自分だけ助かるかもしれないことが嫌?」
「嫌なのか分からない。でも、私だけ何千年も先へ行けるかもしれないって、変じゃない?」
「変だと思ってもいいわ」
「お母さんたちが研究者だから、私は候補になったの?」
「それも理由の一つではあるわ。時相適応の検査を受けられる人間自体が、最初は研究区や関連施設に偏っていたから」
「だったら、ずるい?」
セレネはすぐに否定しなかった。
「公平な仕組みだったとは、私も思っていない」
エリシアが顔を上げる。
「じゃあ、私が行かない方がいい?」
「それは別の問題よ」
「どうして?」
「仕組みが公平ではないことと、その中で得た生き残れる可能性をあなた自身が必ず捨てなければならないことは、同じ意味ではないから」
エリシアは少し考えた。
「私が行かなかったら、その場所に他の人が入れる?」
今度はラウルが答えた。
「お前が辞退すれば、時相槽の容量を別の候補者へ回せる可能性はある」
「だったら、その人が助かるじゃん」
「そうなる可能性はある。ただ、それを理由に『他の誰かを助けるため、お前は自分の生存機会を譲れ』と俺たちが命令したら、それもお前の未来を勝手に決めることになる」
「でも、私が自分で譲るって決めたら?」
ラウルの表情が僅かに強張った。
「俺は反対する」
「絶対?」
「かなり強く反対するし、考え直してくれと何度でも言うと思う」
「それでも最後は?」
ラウルは娘を見た。
「お前が理由を理解して、自分で考えたうえで、それでも譲ると決めるなら、その答えを俺が力ずくで変えることはしない」
エリシアは器へ残った粥を見ながら、しばらく何も言わなかった。
「難しいね」
「簡単なら、こんなに何度も話してないさ」
ラウルが答える。
セレネは夫の横顔を見た。
ラウルが娘を未来へ送りたいという願いを失ったわけではない。
自分も同じだった。
エリシアには生きてほしい。
未来へ行ってほしい。
たとえ自分たちが滅びるとしても、娘だけはその先で生きてほしい。
けれど、その願いを「あなたのためだから」という言葉で正しい命令へ変えてしまえば、娘の選択は最初から存在しなかったことになる。
食事を終える頃、エリシアの肩の痛みは二まで下がった。
三人は水を飲み、靴紐と荷物の固定を確認してから、再び第七環区へ向かって歩き始めた。
◇
第七環区へ近づくにつれて、街の構造は少しずつ変わっていった。
高層施設が減る代わりに、円形に配置された低い居住棟と公共施設が増えていく。もともと大規模災害時の避難を想定して造られた区域であるため、広場や給水設備、医療区画が他の居住地域より多く配置されているが、今日だけで流れ込んだ人数を受け入れるには明らかに足りていなかった。
中央広場には仮設天幕が並び、家族ごとに割り振られた場所を確認する人々の列が何本もできている。炊き出し用の大型鍋から漂う野菜と乾燥肉の匂いに、濡れた衣服や薬品、汗、機械油の臭いが混ざり、普段の居住区にはなかった避難所特有の空気を作っていた。
セレネは受付で家族三人の登録を済ませた。
割り当てられたのは研究関係者用の大部屋の一角で、個室ではない。
「三人一緒?」
エリシアが受付担当者へ確認する。
「今のところは一緒です。ただ、今夜さらに人数が増えた場合は配置を変更する可能性があります」
「離れることもある?」
「家族単位はできるだけ維持しますが、治療や勤務の都合で別区画になる場合はあります」
エリシアの視線が両親へ向いた。
セレネは娘の不安を感じ取ったが、未来まで保証するような言い方はしなかった。
「少なくとも今日は一緒よ」
「うん」
確実に言えるのは今日までだった。
だから、今日のことを約束する。
割り当てられた場所へ荷物を置くと、ラウルはすぐに地下接続路の異常を調べる準備を始めた。
セレネがその腕を掴む。
「まず休憩」
「俺はまだ平気だ」
「あなたじゃなくて、エリシアよ」
ラウルが振り返る。
エリシアは床へ座り、右足の靴を脱いで踵を確認していた。靴下の下には赤く擦れた跡があり、皮膚こそ破れていないものの、そのまま歩き続ければ靴擦れになる可能性が高い。
セレネは娘の前へしゃがんだ。
「いつから痛かった?」
「最後の方。肩は二まで下がったから、これくらいなら大丈夫だと思ってた」
「肩と踵は別でしょう。身体の一箇所が楽になったからといって、別の痛みまで無視していいことにはならないわ」
「……言われたら当たり前だね」
「次からは場所ごとに教えて」
「分かった」
セレネは小型治療具から保護布を取り出し、擦れている部分へ当てた。靴下の皺を直してから靴紐を少し緩め、十分ほど休んだあとにもう一度痛みを確認する。
エリシアは処置を受けながら尋ねた。
「調査、行ける?」
「地下管理棟の記録室までなら一緒に行っていいわ。でも、異常が出た接続路には私とお父さんだけで入る」
「子供だから?」
「違う。原因不明の異常が起きていて、いまのあなたは長距離を歩いた直後だからよ。私たちだって安全確認なしでは入らない」
エリシアは理由を聞いてから頷いた。
「分かった。記録室で待つ」
セレネはその返事を聞き、娘が以前より早く納得できるようになった理由を考えた。
ただ「駄目」と言われたから従うのではない。
何が危険なのか。
どこまではできるのか。
何が変われば判断も変わるのか。
そこまで話すことで、本人も判断へ参加できる。
それは時間の掛かる方法だった。
戦争中には面倒だと思う者もいるだろう。
それでもセレネは、時間がないことを理由にすべての選択を奪ってしまえば、最後に残るものは安全ではなく従属なのではないかと思い始めていた。
◇
一時間ほど休んだあと、三人は第七環区地下管理棟の記録室へ入った。
第三接続路は時刻同期の異常が確認されているため封鎖されており、エリシアと約束した通り、まずは安全な記録室から過去の情報を確認する。壁面に並ぶ端末は研究区で使われている最新型より古く、電子化されていない紙資料も多いため、室内には防湿剤と古い紙、それに機械油が混ざった独特の匂いが漂っていた。
セレネは昨夜までの同期記録を呼び出した。
「最初に確認されたのは三日前。時刻偏差は最大十一秒で、その十二分後には正常へ戻っている」
ラウルが別の記録を開く。
「二回目は昨夜。最大八秒。どちらも第三接続路の中間区画だな」
エリシアは二人の間から画面を覗き込んだ。
「時計が壊れてただけじゃないの?」
「時計一台だけなら、その可能性を最初に考えるわ。でも今回は三台の時計がほぼ同時にずれていて、位置を確認するための同期装置にも同じ時間帯に誤差が出ているの」
「場所まで動いたってこと?」
「そこまでは言えないわ。装置が自分の位置を間違えて認識した可能性もあるし、装置へ送られる基準信号の側に問題があった可能性もある」
ラウルが補足する。
「大事なのは、まだ原因を一つに決めないことだ。似た現象があるからといって、全部が同じ理由で起きているとは限らない」
エリシアは少し考えてから尋ねた。
「ゼフィールの装置と似てる?」
「似ている部分はある」
セレネは答えた。
「でも、同じ現象だと判断できるほどの証拠はないわ」
「私の未来の線が変なのも?」
「それも同じ。関係している可能性を考えることはできるけれど、いま一つにまとめるのは早いわね」
「分かった」
エリシアは画面を見つめたまま、しばらく黙っていた。
やがて、別のことを考えていたように母へ顔を向ける。
「お母さん、私ってどうして《継時計画》の候補になったの?」
セレネの指が止まった。
「昨日も少し話したでしょう?」
「研究者の子だからとか、未来へ行ける可能性が高いからって。でも、私だけ未来の線が変なのに、本当に適応できるって分かってたの?」
ラウルも答えず、セレネを見る。
時相適応の計算へ最も深く関わっていたのはセレネだった。
だからこそ、自分が答えるべき問いだった。
「正確に言えば、あなたが何かに選ばれたから未来へ適応できると判断したわけではないの」
「どういうこと?」
「長期の時相離脱へ耐えられる人を探すため、多くの候補者の身体状態や魂力特性を調べたの。その結果、あなたは長期離脱に耐えられる可能性が比較的高いと判断された」
「だから候補になった?」
「ええ。それに研究区の家族だったから早い段階で検査を受けられたことも関係しているし、年齢や健康状態も条件に入っている」
エリシアは少し迷ってから、声を落とした。
「《レグナ・ゼオ》が私を選んだからじゃないの?」
「違うわ」
セレネははっきり答えた。
エリシアが瞬きをする。
「でも、八歳のとき私に反応したんでしょ?」
「反応したことは事実よ。ただ、その意味は今も分かっていない。意味が分からない反応を、私たちの都合で『あなたが世界から選ばれた証拠』に変えるつもりはないわ」
「じゃあ、私って特別じゃない?」
セレネは少しだけ答えに迷った。
母親としてなら、迷う必要などない。
世界で一人しかいない娘なのだから、特別に決まっている。
しかし、エリシアが尋ねているのはその意味ではなかった。
「私とお父さんにとっては、誰より特別よ。でも、世界を救う使命を与えられているとか、未来へ行く運命が最初から決まっているという意味なら、そんな証拠はないわ」
「全然?」
「分かっていないことがある以上、絶対にないとまでは言えない。でも、分からないものを理由に『あなたは選ばれたのだから従いなさい』とは言わない」
エリシアは長いあいだ黙っていた。
その表情から少しずつ力が抜けていく。
「だったら、ちょっと楽かも」
「何が?」
「未来へ行かなかったら、やらなきゃいけないことから逃げたことになるのかなって思ってた」
セレネの胸の奥が痛んだ。
娘はいつの間にか、《レグナ・ゼオ》の反応も、読み取れない未来座標も、《継時計画》の候補になったことも、すべて自分へ与えられた役目なのではないかと考えていたのだろう。
それらを並べれば、十六歳の少女が「自分には何かしなければならないことがある」と思い込んでも不思議ではない。
「エリシア」
「何?」
「何かがあなたへ反応したことと、その何かへ従わなければならないことは別よ」
エリシアはゆっくり頷いた。
「《レグナ・ゼオ》が私を好きでも?」
思いがけない表現に、ラウルが小さく吹き出した。
「好きかどうかまで分かれば、俺たちも八年苦労してないな」
「例えばだよ」
セレネも少し笑った。
「仮に《レグナ・ゼオ》があなたを好きだったとしても、あなたが相手を好きになる義務はないわ」
「嫌いでもいい?」
「いいわよ」
「好きになっても?」
「もちろん」
エリシアはようやく笑った。
「じゃあ、それは私が決める」
「そういうことね」
娘の笑顔を見ながら、セレネは自分自身の中にも危うさがあることを認めていた。
もし《レグナ・ゼオ》が本当にエリシアを必要としているなら。
もし、その反応を利用することで娘を未来へ安全に送れる可能性が高くなるなら。
母親である自分は、その事実を使ってでもエリシアに未来を選ばせたくなるかもしれない。
だからこそ、意味が分からないものを先に使命へ変えてはならない。
娘に生きてほしいという願いと、現象から得られる事実を混ぜない。
それが研究者としても、母親としても必要だった。
◇
「そろそろ現場を確認する」
ラウルが時刻を見た。
「エリシアは約束通り、ここで待っていてくれ」
「どのくらい?」
「三十分を予定してる。延びそうなら連絡する」
「何かあったら?」
「管理棟の人と一緒に居住側へ戻る。俺たちを探して封鎖路へ入るのは禁止だ」
「分かった」
セレネは娘の踵をもう一度確認した。
赤みは残っているものの、休んだことで痛みは一まで下がっている。
「水はここにあるわ。もし警報が鳴ったら、荷物は置いていってもいいから管理員の指示に従って」
「うん」
セレネが立ち上がろうとすると、エリシアが袖を軽く掴んだ。
「お母さん」
「なあに?」
「危なかったら、調べたいことが残ってても戻ってきてね」
「もちろんよ」
「研究者だからって無理しない?」
その言葉に、セレネは一瞬だけ返事が遅れた。
自分が娘へ何度も言ってきたことを、今度は娘から返されている。
「約束するわ」
横にいたラウルが小声で言った。
「お前も監視される側になったな」
「あなたのせいでしょう」
「俺だけのせいか?」
「半分くらいは」
エリシアが笑う。
その笑い声を背に、二人は第三接続路へ向かった。
◇
封鎖扉を抜けた途端、地下の空気は明確に変わった。
地下水路が近いため湿度が高く、古い金属壁には薄い結露が残っている。足元の床も場所によって濡れており、靴底が水滴を押し広げる音に、壁の向こうを流れる水と同期装置の低い駆動音が重なっていた。
人の生活音は遠ざかっている。
セレネは携帯端末を確認した。
「現在時刻は正常。基準との差も許容範囲内」
ラウルも位置同期を確認する。
「こっちも問題ない。昨日異常が出たのは、この先だ」
二人は慎重に歩き、三日前と昨夜に偏差が記録された中間区画へ到着した。
壁面には三台の同期時計が並び、その下には位置固定端末が設置されている。外見上の破損はなく、昨日の点検でも内部部品に異常は見つかっていない。
ラウルが外装を開ける。
セレネは記録端末を接続し、過去のログを直接読み出した。
供給魂力。
通信状態。
基準時刻。
位置情報。
一つずつ確認していく。
「ここを見て」
セレネが三日前の記録を拡大した。
「異常直前まで、魂力供給も通信も正常。時計と位置情報も基準値から外れていないわ」
「その直後に全部がずれてるな」
「でも、通信信号そのものは途切れていない。外部から誤った基準値が送られたなら、同じ系統の他区画にも影響が出るはずなのに、記録されているのはここだけ」
ラウルは壁面の配線図を開いた。
「図面と実際の配線が違う可能性は?」
「この施設は何度も改修されているから、十分あり得るわ」
二人は床下の保守蓋を開けた。
湿った金属と古い絶縁材の臭いが強くなる。
内部には現在使われている魂力導線のほか、識別札が色褪せた旧式の線が何本も残されていた。
ラウルが一本を指す。
「この刻印、時相研究区の旧規格と同じじゃないか?」
セレネは建設記録を検索した。
「第三接続路は三十年前の改修まで時相観測用の補助系統を通していたみたい。ただ、記録上はそのときに使用停止されてる」
「切断されたのか?」
「書類ではそうなってる」
実物を見ると、完全に線そのものを切断したのではなく、端部を封鎖して接続を止めた形だった。
ラウルが測定器を当てる。
反応はない。
「現在の通電はゼロだ」
「だったら、この線が直接の原因だとはまだ言えないわね」
「それでも調べる価値はある」
「ええ。どこへ繋がっているか確認しましょう」
セレネが端末へ記録を残した、その瞬間だった。
手元で短い警告音が鳴る。
画面へ時刻偏差の表示が現れた。
「ラウル」
「見えてる」
壁面の三台の時計が、ほぼ同時に基準時刻から外れ始めた。
表示される秒数だけが通常より速く進み、位置固定端末にも偏差警告が点灯する。しかし、二人の足元が動いた感覚もなければ、壁や床に変化もなく、身体へ直接的な異常が生じた様子もない。
「記録開始」
「もう取ってる。偏差六秒、七秒……」
ラウルが旧導線へ測定器を当てる。
直前まで完全なゼロだった数値が、一瞬だけ動いた。
「魂力が来た」
セレネが振り返る。
「どこから?」
「分からない。現在使われている供給線から流れ込んだ形じゃない」
「量は?」
「微弱だ。ただしゼロではない」
ラウルは導線を目で追った。
床下から壁の奥へ入り、その先は封鎖区画へ続いている。
「切断するか?」
セレネはすぐに答えなかった。
ここで線を切れば、現象が止まる可能性はある。
しかし、原因を確認する前に経路を壊せば、何が起きているのか知るための情報まで失う。現在の偏差は装置表示だけに留まっており、人間への影響も確認されていない以上、危険が増大しない限り記録を優先する方がいい。
「まだ切らない。偏差を追って」
「九秒……十秒で止まった」
数秒後、三台の時計が順番に基準時刻へ戻った。
位置固定端末の警告も消える。
旧導線を測定していた数値は再びゼロへ落ちた。
地下水の音だけが残る。
セレネは記録を保存し、時刻を確認した。
「時相装置は現在停止している。それでも、ここで同じ種類の偏差が再現した」
「ああ。それに三日前にも起きているなら、ゼフィールの先行離脱事故が第七環区の異常を発生させたという説明は成立しない」
「時相装置の損傷だけを原因とする仮説も弱くなったわね」
二人はその場で結論を急がず、測定値をもう一度確認した。
今回分かったのは、第七環区の同期異常がゼフィールの離脱事故だけでは説明できず、停止しているはずの旧時相導線へ現象発生中だけ微弱な魂力が流れたという事実だった。その魂力がどこから来たのか、時刻偏差とどのような関係を持つのかは依然として不明だが、調査対象を一基の時相装置だけに限定する理由はなくなった。
ラウルが封鎖区画の奥を見る。
「この導線を追いたい」
「今日はやめましょう」
「理由は?」
「この先は足場確認も終わっていないし、エリシアには三十分で戻ると伝えてある。原因を追うために約束も安全確認も無視したら、私たちがあの子へ話していることと矛盾するわ」
ラウルは時計を見る。
すでに二十五分が経過している。
「……そうだな。環区側へ調査申請を出して、人員を増やしてから追おう」
「研究区にも記録を共有する。ただし、《レグナ・ゼオ》との関連は証拠がないから書かないわ」
「分かった」
二人は外装と保守蓋を元へ戻した。
原因はまだ分からない。
それでも、間違っている可能性の高い仮説を一つ減らすことはできた。
研究とは、いつも答えが増えることだけで進むわけではない。
間違った道を一つずつ閉じることで、ようやく次に調べるべき場所が見えてくることもある。
◇
二人が記録室へ戻ったのは、約束した三十分を七分ほど過ぎた頃だった。
エリシアは机へ座り、自分の個人記録端末へ何かを書き込んでいたが、両親の姿を見るとすぐに顔を上げた。
「遅い」
「悪かった。戻る直前に異常が起きた」
ラウルが答える。
エリシアは端末を置いた。
「危なかった?」
セレネは誤魔化さずに答えた。
「身体への影響は確認されなかったけれど、目の前で時計と位置同期がずれたわ」
「本当に起きたの?」
「ええ。しかも時相装置が停止している状態で起きた」
エリシアの表情が変わる。
「じゃあ、ゼフィールが使った装置が壊れたから起きてるんじゃない?」
「少なくとも、それだけでは説明できないわ。三日前にも同じ場所で異常が起きているし、今日も時相装置を動かしていない状態で再現したから」
エリシアはしばらく黙ったあと、自分の両手を見た。
「私が来たから?」
セレネは即座に否定するのではなく、事実を使って答えた。
「三日前に最初の異常が起きたとき、あなたは第七環区にいなかった。だから、あなたがここへ来たことだけを原因にする説明は成り立たないわ」
エリシアの肩から目に見えて力が抜けた。
「よかった……」
その小さな声を聞いた瞬間、セレネは娘が自分でも気づかないほど強く、自分が異常の原因なのではないかと恐れていたことを知った。
《レグナ・ゼオ》が反応する。
未来座標が通常と違う。
ゼフィールの時相離脱で事故が起きる。
第七環区でも時間がずれる。
それらの出来事が続けば、自分だけが共通しているのではないかと考えてしまうのも無理はない。
セレネは娘の前へ歩み寄った。
「エリシア、今日分かったことで、あなたとすべての異常が無関係だと証明されたわけではないわ。でも、少なくとも第七環区の現象はあなたがいないときにも起きていたから、何でも自分のせいだと考える必要はない」
「うん」
「分からないものは、分からないまま一つずつ調べればいいの」
「私も?」
「あなた自身のことなら、なおさらね」
エリシアは自分の端末を母へ見せた。
画面には三つの項目が書かれていた。
《未来へ行くかはまだ決めない》
《知りたいことを先に決める》
《私が異常の原因なのか確かめる》
三つ目の横には、小さな印が付けられている。
セレネはその印を指した。
「これは?」
「全部分かったって意味じゃないよ。私がここへ来たことだけが原因じゃないって分かったから、その分だけ印をつけた」
「いい記録の仕方ね」
エリシアは少し嬉しそうに笑った。
「じゃあ次は、《レグナ・ゼオ》を見たい」
ラウルが尋ねる。
「何を確かめたい?」
「私に反応する理由は知りたい。でも、『世界を救えって言ってるのか』を最初から答えにするんじゃなくて、私が近づいたら実際に何が起きるのかを見たい」
「他には?」
「危ないのか。それと、私が嫌だって思って離れたら、反応が止まるのか」
セレネは娘の答えを聞きながら、数日前との違いを感じていた。
何者なのか。
何のために選ばれたのか。
自分にはどんな使命があるのか。
そうした大きな答えを最初から求めるのではなく、自分と未知の存在との間で実際に何が起き、自分にどこまで選択できる余地があるのかを確かめようとしている。
それなら調べる意味がある。
ラウルも同じ判断をしたらしく、ゆっくり頷いた。
「研究区へ戻れる状況なら、《レグナ・ゼオ》を確認しよう。ただし、いきなり追加実験はしない。まずは既存設備の安全確認をして、お前が近づいたときの反応だけを見る」
「途中で嫌になったら?」
「止める」
「反応が出ても?」
「止める」
「研究したいって思っても?」
ラウルは少しだけ苦い顔をした。
「ものすごく続けたくなると思うが、それでも止める」
エリシアが笑った。
「じゃあ約束」
「ああ」
そのとき、地下管理棟の外から低い警報音が響いた。
三人とも顔を上げる。
避難を直ちに命じる連続警報ではない。
外周警戒を知らせる三度の短い音だった。
続いて館内放送が流れる。
東側防衛線がさらに後退し、第七環区外周の一部を閉鎖すること、日没後の区域間移動を禁止すること、避難者と非勤務者は中央広場へ戻ることが告げられた。
ラウルが時計を見る。
「日没まで一時間を切ってる」
セレネは資料を閉じた。
「今日はここまでね」
エリシアが尋ねる。
「戦い、近くなった?」
「昨日よりは近いわ」
「研究区へ戻れる?」
「今夜は無理。明日の移動許可が出るか確認してからね」
エリシアは不満そうにすることもなく、少し考えてから頷いた。
「じゃあ、明日の朝に決める?」
ラウルが聞き返す。
「何を?」
「《レグナ・ゼオ》を見に行けるか。今日分かったことと、明日の道の安全を確認してから決めたい」
「ああ。そうしよう」
三人は記録室を出た。
◇
日が落ちる頃には、第七環区の中央広場に設置された仮設灯がすべて点灯していた。
午後からさらに避難者が増え、昼には空いていた通路まで寝床として使われ始めている。炊き出しの野菜スープ、濡れた衣服、治療区画から流れてくる薬品、汗、機械油の匂いが混ざり合い、何千人もの生活が一つの場所へ押し込まれたような空気を作っていた。
セレネたちへ割り当てられた場所も、三人分の寝具を並べればほとんど余裕がない。
それでも、今夜は三人一緒だった。
エリシアは荷物から家族写真を取り出し、枕元へ置いた。
ラウルが不思議そうに見る。
「それ、出しておくのか?」
「ここにいると、自分がどこにいるのか分からなくなりそうだから」
「第七環区だぞ」
「そういう意味じゃないよ」
ラウルは理解できていない顔をした。
セレネには少し分かった。
家。
研究区。
避難所。
そして、行くかもしれない未来。
短い時間で居場所が次々に変わっているからこそ、自分がどこから来たのか分かるものを手元に置いておきたいのだろう。
「なくさないようにね」
「うん」
夕食として支給されたのは、昼より少し味の濃い野菜スープと固いパン、それに乾燥果実だった。
三人は寝床の端へ座って食べる。
周囲にも、知らない家族、老人、子供、兵士、研究者が同じように器を持っている。誰かの話し声が聞こえ、別の場所では幼い子供が食べたくないと泣き、その母親が少しずつパンをちぎって口へ運んでいた。
エリシアは周囲を見ながら尋ねた。
「お母さん、未来にもこういうのあるかな」
「避難所?」
「違う。知らない人と一緒にご飯を食べること」
セレネは少し考えてから答えた。
「人が暮らしているなら、あるかもしれないわね」
「食べ物は全然違う?」
「何千年も先なら、同じものを探す方が難しいかもしれない」
「食べ方も?」
「変わっているでしょうね」
「言葉も?」
「かなり変わっている可能性があるわ」
エリシアはパンを小さくちぎった。
「私、話せるかな」
「最初は難しいかもしれない。でも、人がいるなら覚えることはできるわ」
「誰かに教えてもらって?」
「そうね。あなたが古代の言葉を誰かへ教えることだってあるかもしれない」
エリシアは少しだけ笑った。
「じゃあ交換できるね」
未来という言葉の中へ、少しずつ生活が入り始めている。
ただ生き残るだけではない。
何を食べるのか。
誰と話すのか。
知らない言葉をどう覚えるのか。
誰かへ自分の知っていることを教えるのか。
未来へ行くと決めたわけではない。
それでも、行った場合にそこでどう生きるのかを考えられるようになったことは、セレネにとって大きな変化に見えた。
◇
夜間照明へ切り替わると、大部屋の明るさがゆっくり落ちた。
完全な暗闇にはならず、避難者が移動できる程度の灯りだけが残されている。何百人もの人間が同じ施設で眠っているため、誰かの咳、寝返り、子供をあやす声、警備員の足音が途切れることはなかった。
セレネは娘の隣へ横になった。
「今日は早く寝ましょう」
「お母さんたちも?」
「寝る」
先に答えたのはラウルだった。
エリシアが父を見る。
「本当に?」
「どうして俺だけ毎回確認されるんだ」
「今までの全部が理由」
「一言で反論できないくらい重いな」
セレネが笑う。
「自業自得よ」
しばらくして、周囲の声も少しずつ減っていった。
エリシアは毛布へ入ったまま、まだ眠らず天井を見ている。
「お母さん」
「なあに?」
「私が未来へ行くって決めたら、お母さんは嬉しい?」
セレネはすぐには答えなかった。
嬉しい。
寂しい。
怖い。
助かってほしい。
離れたくない。
すべてが同時にある。
だから、一つだけを答えにすることはできなかった。
「嬉しいだけではないわ」
「じゃあ、悲しい?」
「悲しいだけでもない。あなたが生きられる可能性が増えることは嬉しいけれど、会えなくなるかもしれないことは寂しいし、未来で一人になるかもしれないと思えば怖い」
「私が残るって決めたら?」
「そのときも一つの気持ちだけにはならないでしょうね。一緒にいられることは嬉しいけれど、そのせいであなたまで戦争に巻き込まれるかもしれないと思えば怖い」
エリシアは母の顔を見た。
「じゃあ、お母さんはどっちがいい?」
数日前なら、未来へ行ってほしいと答えていただろう。
いまも、その願いは消えていない。
しかし、願いと決定は同じではない。
「私は、あなたに生きてほしい。だから未来へ行ってほしいと思っている」
セレネは隠さずに言った。
「でも、それは私の願いよ。あなたの答えそのものではないわ」
「お母さんと違う答えでもいい?」
「いいわ」
「間違ってても?」
「そのとき分かっていることを使って、自分で考えて選んだなら、そのあと間違いに気づいたときにもう一度考えればいい」
「選び直していい?」
「生きている限り、何度でも」
エリシアはその言葉を聞き、少しだけ笑った。
「じゃあ、明日も考える」
「そうして」
「《レグナ・ゼオ》を見られたら、それも見てから決めたい」
「ええ」
「おやすみ、お母さん」
「おやすみなさい」
エリシアは目を閉じた。
しばらくすると呼吸がゆっくりになり、眠りに落ちたことが分かった。
セレネは娘の寝顔を見ながら、今日の問いを思い返した。
この子は、世界から選ばれたのではない。
少なくとも、自分たちはそういう扱いをしない。
未知の石が反応しても、未来座標に異常があっても、誰かがそこへ特別な意味を見つけようとしても、それだけを理由にエリシアの人生を決めてはならない。
母として未来へ行ってほしいと願うことはできる。
研究者として得られた情報を説明することもできる。
危険があれば止めることもある。
それでも最後に、本人が何を知り、何を恐れ、何を望み、そのうえで何を選ぶのかを聞く余地だけは残さなければならない。
それが自分にできることなのだと、セレネは思った。
◇
夜が明ける少し前、第七環区を遠い衝撃が揺らした。
大部屋の何人かが身体を起こしたものの、緊急警報は鳴らなかった。外周への直接攻撃ではないらしく、しばらく待っても避難指示は流れない。
ラウルも目を覚ました。
「東側か?」
「たぶん。かなり遠いわ」
セレネは端末を開き、夜間に更新された戦況と移動許可を確認した。
研究区への中央連絡路は午前中のみ通行可能。
第三接続路は引き続き封鎖。
非勤務者の移動には申請が必要だが、ラウルとセレネには前日の調査記録を理由として許可が下りている。
「午前中なら研究区へ戻れるわ」
ラウルが娘を見る。
エリシアはまだ眠っている。
「起こすか?」
「あと二十分くらい寝かせましょう。移動許可は昼まで有効だから、その程度なら変わらないわ」
ラウルは時計を確認してから頷いた。
二人は声を落とし、前日の記録を見直した。
第七環区の同期偏差。
停止した旧時相導線への一時的な魂力流入。
時相装置停止中にも発生した現象。
そして、まだ意味の分からない《レグナ・ゼオ》とエリシアの反応。
これらを同じ原因で起きていると判断できる証拠はない。
だからこそ、一つずつ分けて確かめる必要がある。
第七環区で起きた異常については、エリシアが現地へ来たことだけを原因とする可能性を否定できた。次に確認すべきなのは、《レグナ・ゼオ》へエリシア本人が近づいたときに何が起こり、その反応が本人の意思や距離によって変化するのかという点だった。
やがて、エリシアが目を覚ました。
眠そうに瞬きをしたあと、両親がすでに起きていることに気づく。
「朝?」
「朝よ」
身体を起こしたエリシアは、最初に時計ではなく母の顔を見た。
「研究区、行ける?」
「午前中なら戻れるわ。ただし、道路状況をもう一度確認してからね」
「《レグナ・ゼオ》も見られる?」
「安全確認が通れば」
「分かった」
ラウルが配給所から受け取ってきた朝食を差し出す。
「まず食べろ。空腹のまま行く話はしない」
エリシアが父を見た。
「お父さんが言うんだ」
「俺だって学習する」
「何日続くかな」
「信用を取り戻すのに時間が掛かりそうだな」
三人は小さく笑った。
周囲でも避難者が起き始め、炊き出しの鍋が鳴る音、水を汲む音、子供を起こす声が重なっていく。古都が滅びへ向かっている朝でも、人々は起きて、食べて、身体の具合を確かめ、それぞれが今日やらなければならないことを決めていた。
エリシアも朝食を食べ、水を飲み、昨日擦れた踵を確認した。
セレネが尋ねる。
「痛みは?」
「一。昨日よりいい」
「なら歩けそうね。ただし途中で上がったら教えて」
「うん」
研究区へ持っていくのは、水筒と個人端末だけにした。
避難用の荷物は第七環区へ置いていく。
未来へ行くための準備ではない。
今日するのは、未来を決めることでもない。
自分に起きていることを、自分で確かめに行く。
三人が避難区画の出口へ向かう途中、セレネは娘へ声を掛けた。
「エリシア」
「何?」
セレネが聞きたいのは、未来へ行くか残るかという大きな答えではなかった。
昨日までに得た情報を踏まえたうえで、次に何を知れば自分の答えへ近づけるのか。それを娘自身の言葉で聞くため、セレネは歩みを緩めてエリシアの隣へ並んだ。
「エリシア、あなたは明日の朝、自分で何を確かめたい?」
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