序章《滅びゆく古代》 第5話《残された朝》
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連絡通路の長椅子に並んで座ったまま、ラウル・アルセレアは娘の体温を肩越しに感じていた。研究区から居住区へ戻る人々の足音が絶えず前を通り過ぎ、遠くでは搬送台車の車輪が床の継ぎ目を越えるたび、乾いた金属音を一定の間隔で響かせている。そこには家族だけの静けさなどなかったが、エリシアが自分から離れようとしないことを理由に、ラウルも立ち上がろうとはしなかった。
「寝た?」
小声で尋ねると、エリシアは肩へ額を預けたまま首を横へ振った。
「まだ起きてる」
「だったら家まで歩けそうか?」
「少し休めば歩ける。抱っこはしないでね」
「十六歳の娘をこの通路で抱えて歩いたら、俺の方が明日から研究区へ来られなくなる」
「どうして?」
「恥ずかしくてな」
エリシアが少し笑う。
隣に座ったセレネも呆れたように夫を見たが、娘の表情が緩んだことには何も言わなかった。
しばらく休んでから三人が居住区へ戻ると、家の中には朝とは違う匂いが残っていた。非常電源へ切り替えた加熱器で作った簡単な夕食の匂いに、通路から入り込んだ機械油と湿った外気の臭いが混ざっている。以前なら生活の場所と研究区は明確に分かれていたのに、いまでは工具箱も記録容器も非常食も同じ部屋へ積まれ、家全体が戦争へ組み込まれているようだった。
ラウルは玄関脇へ置いた記録板を手に取ろうとした。
すぐにエリシアが気づく。
「仕事しないって言ったよね」
「確認だけだ」
「それ、仕事する人の言い方」
「本当に一枚見るだけだ」
「お母さん」
「没収」
セレネが横から記録板を取り上げた。
「ちょっと待て」
「七時間寝るまでは返さない」
「まだ夕食も食べてない」
「だったら先に食べて、そのあと寝ればいいでしょう」
「評議会への返答期限が――」
「朝までよ」
セレネは記録板の端末表示を見せた。
「あなたが今日中だと思い込んでいただけ」
ラウルは言葉を失った。
疲労で読み違えていたらしい。
エリシアが父を見る。
「やっぱり寝た方がいいね」
「反論できないな」
三人で食卓へ座った。
夕食は保存穀物を煮た粥と、小さく切った根菜、それに塩味の強い乾燥肉が少しだけだった。数年前なら物足りないと思っただろうが、補給路が何度も途切れている現在では、家族三人が同じ温かい食事を取れること自体が珍しくなっている。
ラウルは一口食べたところで、自分が想像以上に空腹だったことに気づいた。
「お父さん、食べるの早い」
「腹が減ってたらしい」
「朝もちゃんと食べればいいのに」
「明日から努力する」
「それ、寝るときも聞いた」
エリシアの指摘に、セレネが笑う。
ラウルも苦笑しながら食べ続けた。
食卓の上では未来の話をしなかった。
《継時計画》のことも。
ゼフィールのことも。
《レグナ・ゼオ》を巡る命令のことも。
だからといって忘れたわけではない。
三人とも、黙れば頭から消えるほど単純な状況ではないことを知っている。
それでも食事をしている間くらいは、目の前の器を空にすることだけ考えてもいいと、誰からともなくそう決めたような時間だった。
食事が終わると、エリシアは自分の器を流し台へ運んだ。
水の供給量が制限されているため、以前のように自動洗浄機へ任せることはできない。セレネが溜めておいた少量の洗浄水で器を洗い、ラウルは横から拭き布を取った。
「寝るんじゃなかったの?」
「皿を拭くくらいは仕事じゃないだろ」
「お父さんが言うと怪しい」
「信用がないな」
「今日だけで何回約束破ったと思ってる?」
数えられるのが怖かったので、ラウルは答えなかった。
流し台の奥で水が細く流れる。
家中の水圧が下がっているため、蛇口から出る量も以前の半分ほどしかない。それでも、一定の音を立てて落ちる水を聞いていると、研究区にいたときより戦争が遠くに感じられた。
エリシアが洗い終えた器をラウルへ渡す。
父が拭く。
セレネが棚へ戻す。
何度も繰り返してきた家事だった。
ただ、三人で同時にやるのは久しぶりだった。
最後の器を棚へ入れたところで、家の照明が一度だけ揺れた。
三人とも反射的に上を見る。
数秒後、明るさは戻った。
「また?」
エリシアが尋ねる。
「中央供給が切り替わっただけだと思う」
ラウルは答えたが、自分の判断だけで終わらせず、壁面端末の供給状態を確認した。
居住区への魂力供給量がさらに五パーセント減っている。
異常ではない。
計画された節電だった。
研究区を縮小したことで生じた余力の一部が、避難区画と医療区画へ回された結果でもある。
自分の判断が、自分の家にも戻ってきた。
「暗くなる?」
エリシアが画面を覗き込む。
「夜間照明が少し弱くなる。ただ、生活には問題ない」
「私たちのところから減らした分が病院へ行く?」
「一部はな」
「じゃあいい」
即座にそう言った娘へ、ラウルは何も言わなかった。
褒めれば、娘が我慢することを正しいと思うようになるかもしれない。
不便を受け入れることと、自分の不便を価値の低いものとして扱うことは違う。
「不便だったら不便だって言っていいんだぞ」
ラウルが言うと、エリシアは少し不思議そうな顔をした。
「でも病院で使うんでしょ?」
「それでもだ。必要なら必要だと言っていい。誰に回すかを決めるのは、そのあとだ」
「お父さん今日、そればっかり言ってる」
「何を?」
「決める前に言えって」
図星だった。
ラウルは少し笑う。
「多分、俺自身に言ってるんだろうな」
「お父さんが?」
「ああ」
「自分に言うなら、ちゃんと聞いてね」
「努力する」
「またそれ」
今度こそ三人とも笑った。
◇
その夜、ラウルは本当に寝台へ入った。
セレネが記録端末を別室へ持っていき、エリシアからも「七時間」と念を押されたため、仕事へ戻る口実はなくなった。身体を横たえた直後は研究区の機械音が耳の奥に残っていたものの、数分もしないうちに意識が沈んでいった。
何時間眠ったのか分からない。
目を覚ましたとき、部屋は暗かった。
ただし朝ではない。
非常照明が夜間設定のまま淡く点灯している。
隣の寝台にセレネはいなかった。
ラウルは起き上がり、時計を見る。
まだ三時間ほどしか経っていない。
(また怒られるな)
そう思った直後、家の下から小さな物音が聞こえた。
仕事ではない。
金属が倒れるような音でもない。
水音だった。
ラウルは上着だけ羽織って階段を下りた。
台所へ入ると、エリシアが水筒を流し台へ置いている。
「起きてたのか」
娘が振り返った。
「喉乾いた」
「電気つければいいのに」
「これくらいなら見えるから」
夜間供給を節約していることを気にしているらしい。
ラウルは何も言わず、小さな卓上灯だけを点けた。
エリシアが少し眩しそうに目を細める。
「お父さんは何で起きたの?」
「水の音がした」
「私のせい?」
「違う。身体が勝手に起きた」
ラウルも水を一杯だけ飲む。
冷たい。
地下の冷却区画を通って供給されているため、夜の水は昼より少し温度が低い。
エリシアは水筒へ蓋をしながら、その場を離れなかった。
「眠れないのか?」
「ちょっと」
「ゼフィール?」
娘は少し黙ってから頷いた。
「目を閉じると、あの装置の中からいなくなるところ思い出す」
ラウルはすぐに「大丈夫だ」とは言わなかった。
大丈夫だと保証できる材料がない。
「怖かったな」
「うん」
「俺も怖かった」
エリシアが父を見る。
「お父さんも?」
「あのとき、止める判断が遅かったかもしれないと思ってる」
「遅かったの?」
「分からない。もっと早く止めていれば戻せた可能性もあるし、逆に中途半端に停止して危険になった可能性もある」
「じゃあ、間違えたか分からない?」
「ああ」
「それ、嫌じゃない?」
「ものすごく嫌だ」
ラウルは椅子を引き、座った。
エリシアも向かいへ座る。
窓の外は暗く、遠くの防衛灯だけが雲へ反射している。
「研究って、間違ったら分かるんじゃないの?」
「結果が出ればな。でも、人間の判断は別だ。選ばなかった方がどうなったか分からないことも多い」
「ゼフィールを送らなかったら?」
「今もここにいたかもしれない」
「明日もっと装置が壊れて、行けなくなったかもしれない」
「そうだ」
「だったら、どっちが正しかったか分からないね」
「分からない」
エリシアは水筒を両手で持った。
「未来へ行くか決めるのも同じ?」
「多分な」
「行った未来と残った未来、両方見られないから?」
「ああ」
娘は黙った。
まだ十六歳だ。
そんな選択をさせたくない。
本当なら大人が安全な道を作り、「こっちへ行けば大丈夫だ」と言ってやりたい。
しかし、その安全な道を作れなかったのも大人たちだった。
「ねえ、お父さん」
「何だ?」
「私が間違えたらどうする?」
問いの意味を考える。
「未来へ行くか残るかを?」
「それもだけど、もっとあと。未来で何か決めて、間違えたら」
ラウルはすぐには答えなかった。
娘に未来で正しい選択をしてほしい。
そう願っている。
だが、正しい選択だけをしろという願いもまた、いつか彼女を縛るのかもしれない。
「やり直せるなら、やり直せ」
「やり直せなかったら?」
「その結果を抱えて、そのあとどう生きるかをもう一度決めろ」
「それでいいの?」
「俺はそう思う」
「お父さんは間違えたことある?」
「数え切れない」
「そんなに?」
「お前が八歳のとき、研究区の端末を触らせたことも含めればかなりある」
エリシアが少し笑った。
「それは私も悪かった」
「今になって認めるのか」
「全部押したのは悪かったと思ってる」
「成長したな」
二人の笑い声は大きくなかった。
夜の家には、それくらいがちょうどよかった。
「《レグナ・ゼオ》のことも?」
エリシアが尋ねる。
「何が?」
「八歳のとき私が反応したあと、もっと調べればよかったって思う?」
ラウルは言葉を選んだ。
「研究者としては、調べていれば今より分かったかもしれないと思う」
「お父さんとしては?」
「調べなくてよかったと思うこともある」
「どうして?」
「当時のお前は八歳だった。意味も分からないまま何度も測定されれば、それだけで生活が変わっていたかもしれない」
「でも今困ってる」
「ああ」
「じゃあ、どっちが正しかった?」
「分からない」
エリシアは少し考える。
「でも、お父さんはそのとき決めたんだよね」
「ああ」
「今は違う答えでも?」
「そうだ」
「なら、選び直してる途中?」
その言葉に、ラウルは一瞬黙った。
「そうかもしれないな」
自分の判断が一度で完成している必要はない。
娘にはそう話してきた。
なら自分も同じだ。
八年前に追加研究をしなかった判断。
今日、研究区を停止した判断。
《レグナ・ゼオ》の固定運用を拒否した判断。
全部、未来の情報によって変わる可能性がある。
「お父さん」
「何だ?」
「私、明日もう一回のところへ行きたい」
ラウルはすぐに答えなかった。
「理由は?」
「八歳のときと今、何が違うのか見たい。それと、私が近づいたときに本当に反応するのか、もう一回だけ確認したい」
「実験をしたい?」
「実験っていうのが何するのか分からない」
「なら、そこから話そう」
ラウルは娘の顔を見る。
怖がっている。
それでも知りたいと思っている。
「見るだけなら、明日安全確認をしたうえで連れていける。追加測定をするなら、何を測るか説明してから決める」
「分かった」
「嫌になったら途中でやめていい」
「うん」
「それと、明日の装置状況次第では中止する」
「そのときは理由教えて」
「もちろんだ」
エリシアは水筒を持って立ち上がった。
「じゃあ寝る」
「眠れそうか?」
「さっきよりは」
「そうか」
娘が階段へ向かう。
途中で振り返った。
「お父さんも寝てね」
「七時間だろ」
「あと四時間」
「厳密だな」
「お母さんより優しいよ」
それは否定できなかった。
エリシアが上階へ消えたあと、ラウルはしばらく台所に残っていた。
蛇口から、水滴が一つ落ちる。
小さな音。
次の一滴まで、少し間がある。
自分たちは世界を残そうとしている。
しかし、世界という言葉を大きくしすぎると、水を飲むことや、眠れない娘と話すことさえ見えなくなる。
それでは駄目なのだろう。
ラウルは卓上灯を消し、もう一度寝室へ戻った。
◇
翌朝、セレネ・アルセレアは家の台所で保存食の残量を確認していた。
ラウルはまだ眠っている。
約束した残りの時間を守らせるため、彼の端末はセレネが預かったままだった。
エリシアもまだ起きてこない。
久しぶりに二人とも寝ている朝だった。
鍋では少量の穀物が煮えている。
弱く沸騰する音。
窓の外からは、居住区を移動する人々の話し声が聞こえる。
昨日までより多い。
避難準備が進んでいる。
セレネは保存食の袋を閉じた。
あと六日。
三人で通常量を食べれば。
ただし、中央配給がさらに減れば五日程度。
家に残るなら不足する。
研究区へ泊まり込むなら、施設側の備蓄を利用できる。
だが、もうその前提自体が変わりつつある。
端末が震えた。
セレネは音を切って画面を見る。
中央防衛からの更新。
東部第三線、夜間に撤退。
古代研究区周辺の防衛優先度、再評価。
居住区の一部を第七環区へ段階移送。
セレネの手が止まった。
第七環区。
古都アルセリアの中央寄りにある環状避難区画で、地下施設との接続路も残っている。もともとは災害時の住民収容を目的に作られた場所だが、戦争末期には研究員家族と周辺住民の一時避難先として使われていた。
そこへ移る。
つまり、家を出る。
すぐに二度と戻れないという意味ではない。
しかし、状況が悪化すればそのまま最後になる可能性もある。
セレネは端末を置いた。
鍋の中で穀物が煮えている。
この家で、あと何回朝食を作れるのだろう。
そう考えた自分を嫌いになりそうになり、すぐに手を動かした。
まだ決まったわけではない。
感傷で現在の作業を止める理由もない。
鍋を弱火へ移し、三人分の器を並べる。
そこで上から足音がした。
エリシアが降りてくる。
髪は寝癖が残っている。
「おはよう」
「おはよう。眠れた?」
「うん。途中から」
「よかった」
「お父さんは?」
「まだ寝てる」
「ちゃんと?」
「監視してるから」
「お母さん怖い」
「知ってるでしょう」
エリシアは笑い、食卓へ座った。
セレネは娘へ器を渡す。
「今日、《レグナ・ゼオ》を見たいってお父さんに言ったんだって?」
「聞いた?」
「朝起きる前に、ラウルが記録へ残してた」
「仕事してたの?」
「一行だけ。今回は許した」
「お母さんの基準分からない」
「私にも分からないわ」
二人で少し笑う。
エリシアは粥を一口食べた。
「行ける?」
「研究区の安全確認次第ね。ただ、その前に話しておくことがあるの」
セレネの声で、娘は匙を止めた。
「悪い話?」
「少なくとも、楽しい話ではないわ」
エリシアは少し姿勢を正した。
「聞く」
「第七環区への移動指示が出た」
娘はすぐには意味を理解しなかった。
「私たちが?」
「研究区周辺の家族と住民から順番に。今日中に出ろという命令ではないけれど、荷物はまとめておいた方がいい」
「家から出るの?」
「そうなる可能性が高い」
「戻れる?」
セレネは答えるまで少し時間を使った。
「戻れる可能性はある」
「戻れない可能性も?」
「ある」
エリシアは器へ視線を落とした。
この家で生まれた。
この家で育った。
壁の傷も。
階段の軋む場所も。
冬になると窓際が冷えることも。
全部知っている。
未来へ行けば失うと思っていたものが、未来を選ぶ前から失われるかもしれない。
「いつ?」
「早ければ今日の夕方に第一陣が出る。私たちがどの便になるかは、研究区の仕事次第」
「お父さんは?」
「まだ知らない」
「起こす?」
「あと三十分」
エリシアは母を見る。
「こんなときでも?」
「こんなときだから寝かせるの。今起こして判断を間違えたら、その方が困るでしょう」
娘は少し考えてから頷いた。
以前なら「早く教えた方がいい」と言ったかもしれない。
しかし、疲労も判断材料の一つだと分かり始めている。
「荷物、何持ってく?」
「まず必要なものから。衣服、水筒、保存食、薬、身分記録、あなたの個人記録。それから、持てる範囲で思い出のもの」
「思い出のものもいいの?」
「全部を生活物資だけにする必要はないわ」
「重くなったら?」
「自分で持てる量まで」
エリシアは家の中を見回した。
何を持つ。
何を残す。
それも選ぶことになる。
「私の部屋、見てくる」
「食べてから」
「分かってる」
エリシアは残りの朝食を食べ始めた。
セレネも自分の器を持つ。
食べながら、避難指示の詳細を確認する。
第七環区へ移る住民。
水配給地点。
医療支援。
研究区との連絡路。
受け入れ容量。
そこで一箇所、奇妙な記録に気づいた。
第七環区の地下接続路。
その一つが、昨夜から使用停止になっている。
理由。
《時相系統由来の不明同期》。
セレネの手が止まった。
「何?」
エリシアが気づく。
「少し待って」
表示を開く。
接続路に設置された魂力時計と位置同期端末が、昨夜一時的に基準時間からずれた。
物理損傷なし。
魂力不足なし。
通信切断なし。
それでも、二つの時計が同時に違う時刻を示した。
数分後には戻っている。
時相制御区画から離れている。
昨日まで、ゼフィールの異常は時相装置の損傷によって起きた可能性が高いと考えていた。
しかし第七環区で同種のずれが起きていたなら。
少なくとも、研究区の装置だけを原因にする仮説はさらに弱くなる。
「お母さん?」
「ラウルを起こす」
「三十分は?」
「これは起こす理由がある」
セレネは立ち上がった。
エリシアも追おうとする。
「待って」
「私も聞きたい」
「なら食べ終えてから来て。走らないで」
「分かった」
セレネは階段を上がった。
◇
ラウルは起こされた瞬間、不機嫌そうな顔をした。
しかしセレネが第七環区の記録を見せると、眠気はすぐに消えた。
二人は寝室ではなく、家の小さな作業机へ端末を置いた。
「時刻ずれはどのくらい?」
「最大で十一秒」
「長い」
「短いとも言えるわ」
「通常誤差なら一秒にも届かない」
「そう。でも、十二分後には全部戻ってる」
「何台?」
「確認されてるのは三台。全部同じ接続路」
ラウルは記録を読む。
「時相装置と直接繋がってない」
「少なくとも設計上は」
「地下の魂力本線は?」
「一部共有してる」
「なら供給系から?」
「でも出力値は正常」
「通信同期?」
「異常なし」
互いに仮説を出し、すぐに弱点を見つける。
その途中で、エリシアが部屋へ入ってきた。
朝食は食べ終わったらしい。
「私にも教えて」
ラウルが娘を見る。
「第七環区の装置で、昨日ゼフィールに起きたものと少し似た時間のずれが出た」
「未来へ行った?」
「そこまで大きなものじゃない。時計が十一秒ずれただけだ」
「でも似てる?」
「同じ原因かは分からない。ただ、時相装置から離れた場所でも異常が起きたことは重要だ」
エリシアは考える。
「じゃあ、ゼフィールの装置だけ壊れたからじゃない?」
「そうかもしれない」
セレネが答えた。
「昨日までは時相装置の損傷を主な原因として考えていた。でも、その説明だけでは足りなくなってきた」
「私の線が変なのも?」
「そこまで一つにまとめるのはまだ早いわ」
「でも調べるもの増えた?」
「ええ」
ラウルが端末を閉じる。
「第七環区へ行く」
セレネが夫を見る。
「避難指示も出てるし、ちょうどいいわね」
「家族三人で移動する。ただし俺は接続路の異常を確認する。セレネは避難区画の受け入れと時刻記録を調べてくれ」
「エリシアは?」
二人の視線が娘へ向く。
エリシアは先に言った。
「一緒に行く」
ラウルはすぐには答えない。
研究区より安全とはいえ、異常が出ている場所だ。
「接続路の中までは連れていかない」
「何で?」
「原因が分からない異常が出た場所だからだ」
「じゃあどこまで?」
「第七環区の居住側。そこから先は調査結果を見て決める」
「《レグナ・ゼオ》は?」
「今日は後回しだ」
エリシアの表情に不満が浮かぶ。
「約束したのに」
「約束したのは、安全確認ができれば見るという話だ。新しい異常が出た以上、順番が変わった」
「でも、ずっと後回しになったら?」
「そのときは理由を説明する」
エリシアは納得し切れていない顔をした。
それでも、父がただ「駄目」と言っているわけではないことは分かっている。
「分かった」
「荷物をまとめよう」
「何持ってく?」
「自分で必要だと思うものを一度選んでみろ。そのあと重量を見る」
エリシアは頷き、自室へ向かった。
セレネがその背中を見送る。
「昨日より聞き分けがよくなったと思わない?」
「怖いな」
「どうして?」
「俺たちに遠慮してる可能性もある」
セレネは少し考えた。
「なら、あとで聞きましょう」
「そうだな」
二人は荷造りを始めた。
◇
エリシアが最初に持ってきた荷物は、明らかに多すぎた。
衣服二組。
水筒。
保存食。
小型治療具。
個人記録端末。
ノート。
家族写真。
幼い頃にもらった小さな金属飾り。
古い絵本。
工具。
予備靴。
そして、なぜか重い石の置物。
ラウルは床へ並べられた荷物を見る。
「最後のは何だ?」
「大事なやつ」
「重さが半分くらいこれだぞ」
「でも持っていきたい」
「何の石だ?」
「八歳の誕生日にゼフィールがくれた」
聞いた瞬間、ラウルは言葉を止めた。
ゼフィール。
その名前で理由が分かる。
「なら持っていく?」
セレネが聞く。
ラウルはすぐには決めなかった。
「本人に持たせる」
「重いよ?」
エリシアが父を見る。
「だから、自分で持てるならだ。俺が運ぶ前提にするなら、途中で置いていく可能性がある」
「ずっと?」
「第七環区まで」
「持てる」
「なら背負ってみろ」
エリシアが荷物を詰める。
石の置物を底へ入れる。
背負う。
立つ。
最初は大丈夫そうだった。
しかし数歩歩いたところで、肩が下がる。
「重い」
「どうする?」
「石は持っていく」
「じゃあ何を減らす?」
エリシアは荷物を開く。
衣服。
絵本。
予備靴。
迷う。
「工具いらない?」
「何に使うつもりだった?」
「未来で何か壊れたら」
ラウルは少し驚いた。
「今回は第七環区への避難だ」
「でも、そのまま未来へ行くかもしれないでしょ」
そうだった。
娘の荷物は、ただの避難荷物ではない。
もしかすると、古代で最後に持つ荷物になる。
「小型工具は残していい」
「じゃあ絵本」
エリシアは古い本を手に取る。
表紙が擦れている。
幼い頃、セレネが何度も読んだものだ。
少し迷い、棚へ戻した。
「いいの?」
母が聞く。
「覚えてるから」
「全部?」
「多分」
「未来で読みたくなるかもしれないわよ」
「でも重いから」
セレネはそれ以上言わなかった。
エリシア自身が選んだ。
家族写真は残す。
石の置物も。
絵本は置いていく。
予備靴は一組減らす。
衣服も一組。
それで荷物はかなり軽くなった。
「もう一回」
ラウルが言う。
エリシアが背負う。
今度は歩ける。
廊下を往復。
階段を一度上り下り。
息は少し上がる。
「どう?」
「持てる」
「第七環区まで歩くともっと疲れるぞ」
「休めば大丈夫」
「ならこれでいこう」
エリシアは荷物を下ろした。
棚に戻した絵本を見る。
少し寂しそうだった。
「写真に撮る?」
セレネが尋ねる。
「いいの?」
「記録容量はほとんど使わないわ」
エリシアは頷いた。
母が絵本の表紙と、何ページか好きだった絵を端末へ記録する。
持てないものを、全部捨てる必要はない。
ただし、何でも保存できるわけでもない。
家の中には、残していくものの方が多い。
家具。
食器。
壁の傷。
窓から見える景色。
幼い頃の身長を記した柱。
全部持っていくことはできない。
エリシアは柱の前へ立った。
五歳。
七歳。
九歳。
十二歳。
十五歳。
父が付けた線が残っている。
「これも撮って」
「分かった」
ラウルが記録する。
最後に現在の身長も測った。
「十六歳」
線を引く。
「今やるの?」
エリシアが少し笑う。
「次がいつになるか分からないからな」
「未来で測ればいいじゃん」
「その頃には俺がいないかもしれない」
言ってから。
三人とも少し黙った。
しかしラウルは言い直さなかった。
隠さないと決めた。
エリシアも目を逸らさない。
「じゃあ未来でも測る」
「誰に?」
「自分で」
「それがいい」
セレネが小さく笑った。
「私より大きくなるかしら」
「なる」
「根拠は?」
「なりたいから」
「それは根拠じゃない」
「お父さんよりは?」
「それは難しいな」
家を出る準備をしながら。
三人は少し笑った。
◇
昼前になると、第七環区へ向かう第一陣の集合時刻が通知された。
ラウルたちは第一陣には入らなかったものの、午後の第二陣へ研究関係者家族として割り当てられた。移動距離自体は長くないが、一部の通路が閉鎖されているため地上路を迂回し、そのあと環状地下道へ入る必要がある。
セレネは移動経路を確認する。
ラウルは研究区へ送る最後の連絡をまとめる。
エリシアは玄関に荷物を置き、家の中を一部屋ずつ見て回っている。
時間が余ったからではない。
これで最後になるかもしれないと分かっているからだ。
セレネは娘を止めなかった。
自分も同じことをしたかった。
台所。
居間。
階段。
寝室。
小さな庭。
どれも戦争が始まる前からある。
ラウルと結婚して、この家へ来た。
エリシアが生まれた。
泣いた。
歩いた。
言葉を覚えた。
熱を出した。
笑った。
研究区から帰らないラウルへ怒った。
家族三人で食卓を囲んだ。
戦争が始まってからも、この場所だけは何とか家であり続けた。
それを今、置いていく。
セレネは台所の棚を閉じた。
思い出を一つずつ数えていたら、出られなくなる。
「お母さん」
後ろからエリシアが呼ぶ。
「何?」
「これ置いていく?」
手にしているのは、三人で使っていた小さな茶器だった。
「置いていくわ」
「持ってけない?」
「割れるし、重いから」
「そっか」
エリシアは元の棚へ戻した。
「未来にもあるかな」
「似たものはあるかもしれないわね」
「なくても作れる?」
「あなたは作れないでしょう」
「教えてくれる人いるかもしれない」
その言葉で、セレネは少しだけ驚いた。
昨日までエリシアが未来を語るとき、そこには「一人」が必ずついていた。
知らない場所。
誰もいない。
誰にも会えない。
しかし今の言葉には、未来で誰かと会う可能性が含まれている。
それは小さな変化だった。
未来へ行くと決めたわけではない。
ただ、未来には自分以外の人間がいるかもしれないと想像し始めている。
「そうね」
セレネは答えた。
「教えてくれる人がいるかもしれないし、あなたが誰かへ教えることもあるかもしれない」
「私は茶器作れないよ」
「未来で覚えるかもしれないでしょう」
「それなら作る」
エリシアは笑った。
セレネも笑う。
そのとき、端末へ研究区から連絡が入った。
ラウル宛て。
しかし彼は別室で荷物をまとめている。
セレネは緊急度を確認し、内容を開いた。
第七環区の同期異常に追加記録。
昨夜だけではない。
三日前にも一度、短い時刻ずれが発生していた。
さらに場所。
同じ地下接続路。
つまり、ゼフィールの事故より前だ。
セレネの表情が変わる。
「ラウル!」
夫がすぐに来る。
「何だ?」
端末を渡す。
ラウルが読む。
「三日前?」
「ええ」
「ゼフィールの離脱前だ」
「そう」
「なら、先行離脱事故が第七環区へ影響したわけじゃない」
「少なくとも時系列が逆ね」
エリシアも近づく。
「何が分かったの?」
セレネは娘へ向き直る。
「第七環区の時間のずれは、ゼフィールが未来へ行くより前にも起きていたの」
「じゃあ、ゼフィールのせいじゃない?」
「そう考える理由が強くなったわ」
「装置が壊れたからでもない?」
ラウルが答える。
「それだけでは説明できない。第七環区で最初の異常が起きた時点では、時相装置に大きな損傷はなかった」
「じゃあ何が原因?」
「まだ分からない」
エリシアは少し考えた。
「でも、第七環区へ行けば調べられる?」
「少なくとも現場は見られる」
ラウルが言う。
「だから移動は避難だけじゃなくなった」
セレネも頷いた。
家を離れる。
それは失うことだと思っていた。
しかし今、行き先に別の意味が生まれた。
第七環区には、ゼフィールの事故より前から存在していた異常の痕跡がある。
それを調べれば、エリシアの再接続座標。
《レグナ・ゼオ》の反応。
時相装置の異常。
そのどれかを切り分けられるかもしれない。
全部を一つの原因へまとめるには早い。
それでも、次に見るべき場所ははっきりした。
「お母さん」
エリシアが言う。
「何?」
「未来へ行くか決める前に、第七環区のこと見ていい?」
「もちろん」
「私も?」
「安全な範囲なら」
「またそれ」
「大事だから何度でも言うわ」
エリシアは少し笑った。
「分かった」
セレネは娘の荷物の留め具を確認する。
緩んでいた一箇所を締め直す。
「重くない?」
「大丈夫」
「途中で重くなったら言って」
「うん」
「無理して自分で持つのが正解じゃないからね」
「お父さんにも言って」
「もちろん言うわ」
別室からラウルが聞いていたらしい。
「俺は何も言ってないぞ」
「だから先に言ってるの」
「信用されてないな」
「日頃の行いね」
三人の荷物が玄関へ並ぶ。
それほど多くない。
これだけしか持っていけない。
しかし、これだけは持っていく。
ラウルは最後に家の全系統を確認した。
水。
停止。
加熱器。
停止。
主照明。
停止。
非常監視のみ残す。
扉。
施錠。
戻る可能性を完全には捨てない。
だから、家を壊すようなことはしない。
「行けるか?」
ラウルが尋ねる。
エリシアは肩へ荷物を背負った。
セレネも自分の鞄を持つ。
誰もすぐには扉を開けなかった。
エリシアが家の中を一度だけ振り返る。
「ただいまって、また言えるかな」
ラウルは答えを持っていなかった。
だから嘘は言わない。
「言えるようにしたい」
「絶対じゃない?」
「ああ」
「分かった」
エリシアは自分から扉へ手を掛けた。
開く。
外の通路から、人々の移動する音が入ってくる。
誰かが荷車を押している。
子供が泣いている。
遠くで誘導員が順番を呼んでいる。
生活が、そのまま避難へ変わっている。
エリシアは一歩外へ出た。
セレネが続く。
ラウルは最後に扉を閉めた。
鍵が掛かる音がした。
その音を聞いても、三人とも振り返らなかった。
第七環区へ行けば、避難先がある。
時相異常の記録もある。
そして、その先でエリシアが何を選ぶかを考えるための、新しい材料がある。
ラウルは妻と娘の隣へ並び、混雑し始めた連絡通路の先を見た。
エリシアも同じ方向を見る。
今度は誰かに連れていかれるのではなく、自分で歩き出すために足を前へ出した。
「第七環区へ行こう。」
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