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『ソウルストーン ~神々を滅ぼす最後の継承者~』  作者: シロの空


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序章《滅びゆく古代》 第3話《春の風》

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娘の言葉を思い返しながら、ラウル・アルセレアは夜明け前の時相制御区画で、冷え切った金属製の作業台へ両手をついていた。


地下施設には朝も夜もない。天井の照明が時間に合わせて色を変えるため、時計を見なくても一日の区切りだけは分かるようになっているが、戦争が研究区の外周まで迫ってからは、それを気にする人間も少なくなっていた。装置の冷却系が低い機械音を絶え間なく響かせ、その合間を縫うように、記録板を運ぶ研究者や補助員たちの足音が続いている。


ラウルが最後にまともな寝台へ横になったのがいつだったのか、自分でもすぐには思い出せなかった。


昨夜は娘から「寝て」と言われたため、研究区にある仮眠室へ一度は入った。ところが時相系統に発生している演算誤差の数値を頭の中で何度も組み直しているうちに眠れなくなり、ようやく意識を失ったと思った頃には、起床予定を知らせる端末が鳴っていた。


「四十二分」


背後から声がして、ラウルは振り返った。


セレネ・アルセレアが記録板を抱えたまま立っている。髪は簡単にまとめられていたが、目の下には夫と同じように濃い疲労が残っていた。


「何が四十二分だ?」


「あなたが寝ていた時間。仮眠室の入退室記録を見たわ」


「監視されてるのか、俺は」


「娘と約束しておいて守らない人を確認しただけよ」


「一応、寝た」


「四十二分は睡眠とは呼ばないわ」


セレネはそう言いながら、手にしていた記録板を作業台へ置いた。


ラウルが画面を覗き込む。


ゼフィール・アルクレインの先行離脱に使用する各系統の最終確認結果だった。


時相保持系は正常。


保護槽の生命維持系も正常。


冷却機構には昨日発生した出力揺らぎが残っているものの、安全基準を下回るほどではない。


問題は再接続演算だった。


「昨夜より誤差が増えてる」


「一・七パーセントだけね。ただし、ゼフィール個人の再接続候補はまだ許容範囲内に収まっている」


「原因は?」


「まだ特定できない。物理損傷を受けた補助系統を切り離しても同じ傾向が残ったから、単純な配線故障では説明できなくなった」


ラウルは腕を組んだ。


昨日の時点では、外部衝撃によって補助系統の一部が損傷した結果、再接続演算へ小さな誤差が生まれていると考えていた。しかし、損傷区画を完全に切り離したあとも数値は戻らなかった。


その事実によって、最初の仮説はすでに弱くなっている。


「先行離脱を延期する案は?」


「当然、まだ残してる」


セレネは夫を見た。


「ただし、延期すれば安全になる保証もない。誤差が時間とともに増えているなら、むしろ今日の方が条件はいいかもしれない」


「逆に、これが一時的な揺らぎなら明日には戻る可能性もある」


「そうね」


「どっちも証明できない」


「だから本人へ全部伝えて、最後はゼフィールにも判断してもらうしかない」


ラウルは小さく息を吐いた。


娘へ話したことと同じだった。


判断材料を隠さない。


相手のためだという理由だけで、その人間の答えを奪わない。


言葉で説明するのは簡単だったが、実際に誰かの命が関わる選択を目の前にすると、その原則を守ることがどれだけ難しいのかを改めて思い知らされる。


「エリシアは?」


「起きてるわ」


「もう?」


「あなたの娘よ」


「そこは母親似だろ」


「責任を押しつけないで」


セレネは少しだけ笑ったあと、すぐに表情を戻した。


「朝食は食べさせた。昨日より顔色はいいけれど、地下を歩き回った疲れは残ってる。観察室までは私が一緒に行く」


「離脱開始は予定通り昼前にする」


「その前に、あなたはもう一つ行く場所があるでしょう」


ラウルは黙った。


セレネの目は、夫が何を考えているのかすでに分かっている。


「医療区画?」


「ああ」


「今から?」


「ゼフィールを未来へ送るために、どれだけの人間と資源を研究区へ縛りつけているのか、自分の目で確認しておきたい」


「見たところで、先行離脱が必要だという判断そのものは変わらないかもしれないわよ」


「それでも見る」


ラウルが答えると、セレネはそれ以上止めなかった。


「なら行ってきて。戻ったら、離脱前の最終判断を一緒にする」


「ああ」


「それから」


「何だ?」


「戻る途中で何か食べて」


ラウルは一瞬だけ言葉に詰まった。


「朝食は――」


「まだ食べてないでしょう」


「どうして分かる」


「結婚して何年になると思ってるの」


反論できず、ラウルは苦笑した。


     ◇


研究区西側に設けられた臨時医療室へ近づくにつれて、周囲の音が少しずつ変わっていった。


時相制御区画では、規則的な機械音と研究者たちの短い報告が空間を満たしている。それに対して医療区画では、人の呼吸や低い呻き声、薬品瓶を扱う音が途切れることなく重なっていた。


自動扉が開くと、温められた薬草と消毒液の匂い、その奥に薄く混じる血の臭いがラウルの鼻へ入った。


本来、この場所は研究員が作業中に負った軽傷を処置するための小規模施設だった。しかし外周防衛線が縮小されてからは、前線や避難路から運び込まれる負傷者まで受け入れるようになり、いまでは廊下にまで簡易寝台が並べられている。


包帯を巻かれた兵士。


熱傷を負った搬送員。


転倒して腕を折った避難誘導員。


研究者だけではない。


戦争が研究区へ近づくにつれて、施設の中へ運ばれてくる人間の種類も増えていた。


「ラウル」


声を掛けられ、ラウルが振り向く。


医療室の隅で複数の記録板を確認していた大柄な男が立ち上がった。厚手の防護服は泥と煤で汚れ、右の頬には新しい切り傷が走っている。


「ガイゼル。戻っていたのか」


ガイゼル・レグナードは、研究区周辺を守る防衛部門の指揮を担当している。ラウルとは考え方が一致しないことも多いが、少なくとも相手が何を守ろうとしているのかを知らずに敵扱いするような男ではなかった。


「一時間前にな。東部第二防壁が落ちた」


「中央区画への距離は?」


「まだある。ただし、昨日と同じ速度で押されれば三日も持たん」


ガイゼルは壁へ固定されている戦況図へ歩み寄り、赤い印が増えた東側を指した。


「そっちは今日、例の先行離脱をやるんだろ」


「条件が安全基準を満たせば実施する」


「まだ決定じゃないのか?」


「ゼフィール本人にも最終確認をする。装置の誤差も昨日より少し増えた」


「原因は」


「分からない」


ガイゼルは疲れたように鼻から息を吐いた。


「最近、その言葉ばかり聞くな」


「俺だって言いたくて言ってるわけじゃない」


「分かったふりをされるよりはましだ」


二人は戦況図を見る。


東側から中央へ伸びる防衛線のうち、一本が昨夜の戦闘によって消えている。そこを埋めるため、別区画の部隊が移動し、その影響で避難路の警備まで薄くなっていた。


「防衛線を下げたい?」


ラウルが聞くと、ガイゼルは一度だけ彼を見た。


「本音を言えばな」


「研究区が邪魔か」


「言い方を選べ」


「事実だろ。ここを維持するから中央まで線を下げられない」


「研究区だけじゃない。居住区と避難経路もある」


「でも、この施設を放棄できないことも理由の一つだ」


ガイゼルは否定しなかった。


「そうだ」


「何人使ってる」


「防衛だけで?」


「ああ」


「数を聞けば気分が良くなるのか?」


「ならない」


「それでも聞くんだな」


ガイゼルが数字を答えた。


ラウルは黙る。


想定していたより多い。


その中には、継時計画が存在しなければ別の避難路へ回せた者も含まれている。


「俺たちは未来へ人間を残そうとしてる」


ラウルが言った。


「知ってる」


「そのために今日の人間を死なせ続けていいのか、分からなくなる」


「今さらか?」


厳しい言葉だった。


それでもラウルは怒らなかった。


「今さらだ」


「なら覚えとけ。俺は計画そのものには反対してない」


「だったら?」


「必要だからといって、必要なものへ無制限に人間を差し出していいわけじゃないと言ってる」


ガイゼルは戦況図から手を離し、医療室に並ぶ寝台へ視線を向けた。


「東部で死んだ兵士の中には、家族を未来へ送れるわけでも、研究成果を残せるわけでもない奴が山ほどいる。それでも居住区とこの施設を守るために残った」


「分かってる」


「本当に分かってるなら、今日ここへ来た意味はある」


その言葉を聞いたラウルは、しばらく負傷者の列を見ていた。


研究資料では、人員消耗率という言葉を使う。


防衛報告では、損失人数として記録される。


しかし、ここでは一人ずつ呼吸をしている。


痛みに耐えている。


水を求めている。


眠っている。


数字へ変わる前の人間がいる。


「研究区を縮小する」


ラウルが言った。


ガイゼルが眉を寄せる。


「何を止める?」


「継時計画の実行に直接必要ない研究を全部止める。《レグナ・ゼオ》の追加解析も含める」


「本気か?」


「その人員と魂力を避難と医療へ回す」


「上は認めないぞ」


「俺の管轄で止められるところから止める」


ガイゼルはしばらく黙っていたが、やがて腰の記録筒から一枚の金属板を取り出した。


「なら、これも見ろ」


ラウルは受け取る。


共同研究評議会と防衛上層部の封印印がある。


内容を読み進めるにつれて、彼の表情が険しくなった。


《レグナ・ゼオを古代魂装機軍団の中央制御系へ接続し、固定運用を開始せよ》


「またこの話か」


「今回は提案じゃない。正式命令だ」


「却下する」


「早いな」


「何をするのか分からないものを、軍全体の制御へ繋ぐ方がどうかしてる」


「上は逆に考えてる。戦況が悪化しているから、使える可能性のあるものは全部使うべきだとな」


「可能性だけで接続したら、何が起きるか分からない」


「俺も同じ意見だ」


ラウルは顔を上げた。


「反対したのか?」


「した」


ガイゼルは防護服の首元を緩めた。


内側には胸から肩にかけて厚い包帯が巻かれている。


「今日、東部で魂装機が二機停止した」


「破壊されたのか?」


「違う。命令は正常に受け取っていた。ただ、二つの指示を同時に満たそうとして動けなくなった」


「どういう命令だ」


「前進と避難者保護」


ラウルは眉を寄せた。


通常なら、命令優先順位が存在する。


前進命令を受けても、保護対象が進行経路へ入れば避難処理を先行させる。古代魂装機の制御系は、そうした複数条件を扱うために長い時間をかけて改良されてきた。


「命令経路の競合か?」


「それが最初の仮説だった。だが、通信系統を調べても異常はなかった」


「なら制御核?」


「そこにも物理損傷は確認されてない。二機とも、自分へ与えられた命令を完全に守ろうとして停止したように見える」


ラウルは記録板へ視線を戻した。


「それで《レグナ・ゼオ》へ判断を代行させようって?」


「古い研究記録に、高位統合制御へ利用できる可能性があると残ってるらしい」


「可能性だけだ」


「俺もそう言った」


ラウルは記録を読み終え、ガイゼルへ返した。


「それに、今朝レグナ・ゼオがエリシアへ反応した」


ガイゼルの手が止まった。


「またか?」


「ああ。八年前より明確だった」


「それは上へ報告したのか?」


「してない」


「するな」


「分かってる」


ガイゼルの声が低くなる。


「娘だから隠すつもりか?」


その問いには、ラウルも即座には答えなかった。


「娘だから報告したくない気持ちはある」


「それだけなら判断として弱い」


「分かってる」


「なら研究者として答えろ」


ラウルは記録板の表面へ視線を落とした。


「《レグナ・ゼオ》がエリシアへ反応した理由を、俺たちは説明できない。本人の意思によって起動したのか、それとも《レグナ・ゼオ》側の自律反応なのかさえ判別できていない」


「その状態で軍の中央制御へ接続するのは危険すぎる」


「そういうことだ」


「だったら、その理由で俺も止める」


「助かる」


「代わりに、さっき言った研究縮小は本当にやれ」


「やる」


「時相計画に必要な人間以外は外へ回す」


「ああ」


「《レグナ・ゼオ》解析も止める」


ラウルは一瞬だけ迷った。


娘への反応。


再接続予測の異常。


いまこそ調べたいことは山ほどある。


それでも、その研究へ人間と魂力を使えば、目の前の負傷者や避難者へ回せる資源が減る。


「止める」


ラウルは答えた。


ガイゼルが頷く。


「なら俺も西側の部隊を一つ避難路へ回せるよう組み替える。研究区外周の防衛は少し薄くなるぞ」


「持つか?」


「分からん」


「またそれか」


「お前に言われたくない」


二人がわずかに笑ったところで、医療室の奥から切迫した声が上がった。


「止血材が足りません!」


ラウルとガイゼルが同時に振り向く。


治療担当者が備品棚を開き、空になった容器を確認している。


「補給は?」


ガイゼルが近づく。


「中央倉庫から来る予定ですが、東搬送路が閉鎖されました。西側は避難用物資の搬送で詰まっています」


「残りは?」


「重傷処置二人分ほどです」


ラウルは壁の搬送経路図を確認した。


時相制御区画と医療室を繋ぐ第三搬送路。


そこには現在、ゼフィールの先行離脱で使用する予備魂晶、冷却材、生命維持液、記録容器が順番待ちで置かれている。


どれも必要なものではある。


ただし、すべてが今すぐ必要なわけではない。


「第三搬送路を医療用に開ける」


ラウルが言った。


ガイゼルが横を見る。


「先行離脱の準備が遅れるぞ」


「予備容器を北壁側へ寄せれば一列空けられる。止血材を先に通す」


「離脱時間がずれる」


「一時間以内なら補正できる」


「時相誤差が増えてるんだろ」


「分かってる」


ガイゼルの目が厳しくなる。


「それでもやるのか?」


ラウルは寝台の向こうで処置を待っている負傷者を見る。


未来へ人間を残す。


そのために今日いる人間を、運べる物資があるのに見殺しにする。


それでは、何のために未来を残そうとしているのか分からない。


「やる」


ラウルは答えた。


「先行離脱は遅らせる。ゼフィールには俺から説明する」


ガイゼルは数秒だけ彼を見たあと、通信端末を取った。


「医療物資を第三搬送路へ回せ。時相区画側の許可は取った」


通信の向こうから確認が返る。


ラウルはその声を聞きながら、自分が何か正しいことをしたとは思わなかった。


離脱を遅らせたことで、別の危険が増える可能性はある。


ただ、少なくとも今ここで選んだ代償は、自分が引き受けなければならない。


     ◇


時相制御区画へ戻った頃には、人工照明が夜明け後の白へ変わっていた。


外では本物の朝が来ているはずだが、地下施設には金属の冷たさと機械音しか届かない。ラウルは移動途中でセレネに言われたことを思い出し、保存食の薄いパンを一本だけ食べた。


味はほとんど感じなかった。


それでも空腹のまま制御へ入るよりはましだった。


「四十七分遅れね」


主制御卓の前でセレネが言った。


「医療物資を先に回した」


「聞いたわ」


「反対か?」


「しない」


セレネは再接続計算を確認しながら答えた。


「ただし、その四十七分の間にも誤差は少し増えた」


ラウルの目が数値へ向く。


「どのくらい?」


「〇・二」


「まだ安全域だ」


「ええ。ただ、これで原因が単純な時間経過だけとも言い切れなくなった」


「変化が一定じゃない?」


「そう」


ラウルは眉を寄せた。


昨日から続く異常は、数値が同じ速度で悪化しているわけではない。


増える。


止まる。


わずかに戻る。


また増える。


外部攻撃の周期とも一致しない。


「ゼフィールは?」


「最終検査が終わったところ」


制御区画の扉が開く。


ゼフィール・アルクレインが入ってきた。


普段の作業服ではなく、時相離脱用の薄い保護衣を着ている。腰には最低限の記録容器だけが固定され、未来へ持ち込む私物はほとんどない。


「似合わないな」


ラウルが言う。


「今それを言うか?」


「緊張をほぐそうと思って」


「お前が俺を四十七分待たせたせいで、むしろ落ち着いた」


「悪かった」


「理由は聞いた。止血材なら、そっちを先にしろ」


「本当に?」


「俺を何だと思ってる」


ゼフィールは装置中央にある保護槽を見上げた。


表情はいつもと大きく変わらない。


それでも、呼吸だけは普段より少し深い。


ラウルはそのことに気づいたが、何も言わなかった。


「最終条件を説明する」


「ああ」


「開始時刻は予定より四十七分遅延。時相保持率は安全域内。生命維持と冷却系も正常。ただし再接続演算の誤差が昨日より増えている」


「俺の候補範囲は?」


「まだ収束してる。ただし予定より広い」


「後続との時間差は?」


「大きくなる可能性がある」


「エリシアとも?」


「全員だ」


ゼフィールは頷いた。


「離脱後に俺が予定より遥かに先へ出る可能性もある?」


「ある」


「逆に、ほとんど差が出ない可能性も?」


「ある」


「つまり分からない」


「ああ」


ゼフィールは一度目を閉じた。


ラウルは急かさない。


研究員たちも待つ。


ここで時間を使うことは、本来なら装置の安全条件だけを考えれば避けたい。それでも、本人が判断する時間まで削って先行離脱を成立させたところで、それを成功と呼ぶ気にはなれなかった。


「ラウル」


「何だ」


「起動前なら、まだやめられるんだな」


「いつでも」


「起動後は?」


「離脱第一段階までは緊急停止できる。ただし負荷は出る。完全離脱へ入ったあとは戻せない」


「分かった」


ゼフィールは再び装置を見る。


その視線が上階の観察室へ向いた。


厚い透明板の向こうに、エリシアがいる。


セレネと一緒に座っているが、椅子の背へ身体を預けず、両手を膝の上へ置いてこちらを見ていた。


ゼフィールが軽く手を上げる。


少し遅れて、エリシアも手を上げた。


「昨日、未来で待つって言った」


ゼフィールが呟いた。


「聞いてた」


「約束したわけじゃないんだがな」


「それでも本人は覚えてる」


「だから困る」


ラウルはゼフィールを見る。


「今日も行くか?」


ゼフィールはすぐには答えなかった。


少し長い沈黙のあと、彼は呼吸を整える。


「行く」


「昨日決めたからじゃなく?」


「違う。今日の条件を聞いて、そのうえで行く」


「本当に?」


「何回聞くんだ」


「最後だからだ」


ゼフィールは苦笑した。


「なら答えは同じだ。俺は行く」


ラウルは頷いた。


「先行時相離脱を開始する」


研究員たちが配置へ入る。


ゼフィールは保護槽へ歩いていき、内部へ身体を横たえた。


透明な覆いが閉じる。


生命反応確認。


呼吸。


心拍。


魂力循環。


すべて正常。


ラウルは主制御卓へ立った。


「第一段階、開始」


低い機械音が変わる。


床下を流れていた魂力が中央へ集まり、輪状装置の内側に淡い光が走り始めた。


保護槽内部のゼフィールはまだ普通に見えている。


観察室でエリシアが身を乗り出しかけ、すぐにセレネから何か言われて椅子へ戻った。


ラウルは一瞬だけその様子を見る。


それから装置へ意識を戻す。


「位相差上昇」


「保持率正常」


「生命反応、変化なし」


「再接続演算、追従」


数値が予定値に近づいていく。


昨日から続いていた誤差も、いまのところ許容内に収まっている。


「第二補助系統、出力安定」


「第一段階、完了間近」


ラウルは息を吐いた。


まだ終わっていない。


しかし、少なくとも開始そのものは正常だった。


「第二段階へ移行する」


セレネが入力準備へ入る。


その瞬間だった。


地下施設全体が下から突き上げられたように揺れた。


金属音が連続して響き、照明が一瞬暗くなる。


「何だ!」


「外部衝撃!」


「上層直撃!」


警報が一斉に鳴る。


ラウルはすぐに装置の保持率を見る。


数値が落ちている。


「第二補助、補正!」


「応答遅延!」


「切り替えろ!」


研究員が別系統へ出力を回す。


一度、保持率が戻る。


しかし完全ではない。


「ゼフィールの生命反応は?」


「正常!」


「離脱を止められるか?」


「第一段階終了直前です!」


ラウルの指が緊急停止へ伸びる。


その前に、二度目の衝撃が施設を襲った。


今度は最初より強い。


天井から細かな塵が落ちる。


制御区画の一部照明が消え、非常灯へ切り替わった。


「第二補助系統停止!」


「保持率低下!」


「ラウル!」


セレネの声。


主表示を見る。


再接続候補線が急激に広がっていた。


昨日まで、そして起動直前まで、ある程度の範囲へ収束していたゼフィールの未来座標。


それが、いま崩れている。


「補助損傷の影響か?」


「違う!」


セレネが即座に否定する。


「損傷系統を切る前から拡大してる!」


「なら原因は何だ!」


「分からない!」


エリシアの再接続予測と似ている。


ラウルの頭に最初に浮かんだのはそれだった。


しかし考える時間はない。


「緊急停止!」


制御入力。


赤い表示。


応答。


遅い。


「止まらない!」


「どういうことだ!」


「主系統が離脱完了判定へ入ってる!」


「まだ第二段階前だろ!」


「位相差が予定値を超えてる!」


ゼフィールの輪郭が、透明な保護槽の中で薄くなっていく。


「ゼフィール!」


声は届かない。


そもそも、この段階では外部音声を伝えること自体ができない。


主制御の停止命令がようやく通る。


しかし遅かった。


画面へ表示が出る。


《離脱位相確定》


「待て!」


ラウルが再入力する。


意味はない。


輪状装置を満たしていた光が、一瞬だけ強くなる。


音が消えた。


本当に一瞬だった。


装置の機械音も。


警報も。


人の声も。


すべてが消えたように感じた。


次の瞬間、音が戻る。


保護槽も残っている。


輪状装置もある。


ただし、その中にゼフィール・アルクレインはいなかった。


「……離脱確認」


研究員の声が震えている。


「時相離脱、完了しています」


ラウルは数秒、何も言えなかった。


成功した。


その言葉を使っていいのか分からない。


ゼフィールは現在の時間から切り離された。


少なくとも生命情報は保持されている。


しかし、予定された工程ではなかった。


「再接続座標を出せ」


ラウルが言う。


セレネはすでに計算を始めている。


画面の線が何度も変化する。


収束しない。


「セレネ」


「待って」


「出せるか?」


「今やってる!」


ラウルは口を閉じた。


周囲では損傷確認が始まっている。


研究員一人が転倒して腕を打った。


冷却管一本が破損。


主時相装置の外装に大きな損傷はない。


しかし、補助系統は少なくとも二本停止している。


「出た」


セレネの声。


ラウルが画面を見る。


「どこだ?」


「出てない」


「何?」


「時相離脱そのものは成立してる。生命保持情報も残ってる。でも再接続時期が予定範囲から外れた」


「どのくらい?」


「分からない」


「場所は?」


「候補が広がりすぎて絞れない」


ラウルは拳を握った。


ゼフィールは未来へ行った。


それだけは確かだ。


しかし、いつ、どこで目を覚ますのか分からない。


予定していた先行者の役割を果たせる保証がなくなった。


後から来る者を待つことも。


受け入れることも。


できるとは言えない。


そして観察室には、すべてを見ていた娘がいる。


ラウルは上階を見る。


厚い透明板の向こうで、エリシアが立ち上がっていた。


セレネが隣にいる。


娘の顔は青い。


「エリシアをここへ連れてきてくれ」


ラウルが言った。


セレネが振り返る。


「今?」


「今だからだ」


「まだ損傷確認が終わってない」


「安全経路を使う。約束したんだ」


隠さない。


昨日、自分で言った。


都合の悪いことも。


危険なことも。


失敗したことも。


娘が自分で判断するために必要なら話す。


「分かった」


セレネは頷いた。


     ◇


数分後、エリシアが制御区画へ入ってきた。


走ってはいない。


しかし歩く速度は速い。


父と目が合うと、何より先に聞いた。


「ゼフィールは?」


「離脱した」


「成功したの?」


ラウルはすぐに「成功」とは言わなかった。


「現在の時間から切り離すところまでは成立した」


「じゃあ未来にいる?」


「未来へ再接続するための状態には入ってる」


「どこ?」


「分からない」


娘の顔が変わる。


「何で?」


「途中で装置が想定以上の位相差を作った。再接続候補が予定範囲から外れた」


「戻せないの?」


「今は無理だ」


「ゼフィール、生きてる?」


「生命保持情報は正常だ」


エリシアの呼吸が少しだけ戻る。


「なら、いつか起きる?」


その質問が一番難しかった。


ラウルは安心させるために「起きる」と言いたかった。


しかし言えない。


「再接続できる可能性はある」


「絶対じゃない?」


「絶対じゃない」


エリシアは黙った。


泣かなかった。


ただ、空になった保護槽へ目を向ける。


「昨日、待ってるって言ってた」


「そうだな」


「待てないかもしれない?」


「その可能性がある」


「私が未来へ行っても、ゼフィールに会えない?」


「ああ」


エリシアは唇を噛んだ。


昨日、自分が一番怖いと言ったこと。


知らない場所。


知らない時代。


誰も知っている人がいない。


その可能性が、さっきまでより現実的になった。


「私も同じになる?」


ラウルは正面から娘を見る。


「可能性は上がった」


「私の再接続も、どこか分からなくなる?」


「今の装置状態では、昨日より条件が悪い」


「じゃあ、もう行かない方がいい?」


ラウルは答えようとして、止まった。


昨日までなら「それでも未来の方が生き残る可能性は高い」と言ったかもしれない。


しかし、いまは違う。


先行者が未来側で受け入れるという前提が崩れた。


装置の再接続精度も落ちた。


そして、異常の原因が分からない。


「分からなくなった」


ラウルは答えた。


エリシアが父を見る。


「お父さんでも?」


「ああ」


「昨日は行ってほしいって言ってた」


「昨日の情報では、ここへ残るより未来へ行く方が生きる可能性が高いと思っていた。でも、今日の結果で条件が変わった」


「じゃあ、お父さんも考え直すの?」


「考え直す」


「私だけじゃなく?」


「俺もだ」


エリシアはしばらく何も言わなかった。


やがて、空の保護槽から父へ視線を戻す。


「怖かった」


「うん」


「でも、見てよかった」


ラウルは少し驚いた。


「本当に?」


「見ないで同じ装置に入る方が嫌だった」


娘の声は震えている。


それでも、言葉ははっきりしていた。


「ゼフィールがどこへ行ったか調べたい」


「分からない可能性もある」


「それでも調べる」


「お前が見ても理解できない部分はある」


そこまで言って、ラウルは自分で言葉を止めた。


また決めかけている。


娘が理解できるかどうかを、自分が先に決めるところだった。


「どこまで知りたい?」


言い直す。


エリシアは少し考えた。


「ゼフィールが生きてるって、どこまで分かるのか。それと、私も同じことになるのか」


「分かった」


「記録、見せてくれる?」


「安全上見せられない制御情報はある。それ以外は、理由を説明しながら見せる」


「どうして制御情報は駄目なの?」


「敵に渡れば装置そのものを破壊できるからだ」


「なら分かった」


説明すれば、娘は納得する。


納得できなければ、また聞く。


それでいい。


「ラウル」


セレネが呼ぶ。


画面の前。


「これを見て」


ラウルとエリシアが近づく。


セレネは二つの再接続予測を並べていた。


一つはエリシア。


もう一つはゼフィール。


以前は違った。


エリシアは途中から候補線が広がる。


ゼフィールは狭い範囲へ収束していた。


しかし今は。


ゼフィールの線も。


途中から。


広がっている。


ラウルは長く画面を見た。


「エリシア固有じゃない」


セレネが言う。


「少なくとも、この形そのものは」


ラウルはすぐに答えなかった。


「でも、エリシアは装置が損傷する前から同じ現象が出ていた」


「そう。だから装置損傷だけでエリシアを説明することもできない」


「《レグナ・ゼオ》だけが原因という仮説も弱くなった」


エリシアが二人を見る。


「どういうこと?」


ラウルは娘にも分かるよう、表示を指した。


「昨日まで、お前の未来座標がうまく絞れないのは、お前自身か《レグナ・ゼオ》に特別な原因がある可能性が高いと思ってた」


「うん」


「でも今日、ゼフィールにも似た現象が起きた」


「じゃあ、私だけじゃない?」


「そうだ」


「それっていいこと?」


ラウルは少し考えた。


「いいとも悪いとも言えない。ただ、俺たちが考えていた理由が一つ間違っていたかもしれないと分かった」


「全部分かったわけじゃない?」


「全然だ」


「でも、少し進んだ?」


その言い方に、ラウルは小さく笑った。


「そうだな。その言い方が一番近い」


間違っていた可能性のある仮説が一つ減っただけで、真実の全体像が見えたわけではない。それでも、何を調べればよいのかという方向は、少なくとも昨日より僅かに明確になっていた。


エリシアは再接続予測をもう一度見た。


「午後もこれ見たい」


「その前に休め」


「お父さんも」


「……分かった」


「本当に?」


「今度は一時間以上寝る」


「少ない」


「二時間」


「まだ少ない」


セレネが横から口を挟む。


「三時間」


ラウルは妻と娘を交互に見た。


「交渉なのか、これは」


「決定よ」


セレネが言い切る。


エリシアが少し笑った。


その笑いを見た瞬間、ラウルは自分の肩へ入っていた力が僅かに抜けるのを感じた。


装置は損傷した。


ゼフィールは予定外の未来へ離脱した。


戦争も終わっていない。


何一つ安心できる状況ではない。


それでも、娘はまだ質問をしている。


まだ自分で考えようとしている。


それなら、父親である自分も最初から結論を決めてはいけない。


     ◇


昼前、損傷した区画の安全確認が終わったあと、ラウルはエリシアとセレネを連れて地上の中庭へ出た。


研究区から直接外へ出ることはできないため、二重の防護扉を通り、安全確認済みの内庭まで移動する。最後の扉が開くと、地下では感じることのできなかった風が三人の身体を包んだ。


春の風だった。


戦火の煙が混じっているため、昔のように澄んだ匂いではない。それでも地下施設の乾いた空気とは違い、土と草の匂いを含んだ柔らかな風が頬を撫でていく。


エリシアは目を細めた。


「外、こんなに暖かかったんだ」


「しばらく地下ばかりだったからな」


ラウルが答える。


遠くでは低い砲撃音が続いている。


空には薄い煙が伸び、都市東側の塔の一部が見えなくなっていた。


それでも中庭の隅には、小さな草が生えている。


戦争が始まる前から毎年同じ場所に出ていた草だ。


踏まれ。


焼かれ。


土を掘り返されても。


春になるとまた出てくる。


ラウルはそれを見た。


意味をつけようとはしなかった。


植物が希望を象徴しているわけではない。


ただ、そこにある。


それだけだった。


「お父さん」


エリシアが言う。


「何だ?」


「私、まだ決めない」


「分かった」


「昨日より怖くなった」


「うん」


「でも、怖くなったから行かないって決めるのも違う気がする」


ラウルは娘を見る。


「どうして?」


「ゼフィールが失敗したかもしれないからって、それだけで全部同じになるとは限らないでしょ」


その言葉に、ラウルは少し驚いた。


娘が研究者のように話しているからではない。


自分で見た事実と、自分の感情を分けようとしていることに驚いた。


「そうだ」


「だから調べる」


「一緒に?」


「見せてもらえるところは」


「分かった」


エリシアは風に揺れる髪を押さえた。


「お父さんも、もう決めないで」


「何を?」


「私が未来へ行く方がいいってこと」


ラウルはしばらく黙った。


昨日までの自分は、確かにそう思っていた。


未来へ行く方が生きられる。


だから娘を送りたい。


その判断を、ほとんど答えのように扱っていた。


しかし今日、前提が崩れた。


「約束する」


ラウルは言った。


「もう一度調べる」


「全部?」


「分かる範囲を全部」


「分からなかったら?」


「分からないことも、そのまま話す」


エリシアは頷いた。


セレネは少し離れたところで二人の会話を聞いている。


春の風がもう一度、中庭を通った。


ラウルは娘の横顔を見ながら、未来へ送ることそのものを目的にしてはいけないのだと改めて理解した。


継時計画は手段だ。


娘を生かすことも、未来へ何かを残すことも、その先にある選択まで支配する理由にはならない。


そして、今日の出来事によってもう一つ分かった。


ゼフィールが先に未来へ行き、後から来るエリシアを待つ。


それは昨日まで、計画の中ではほとんど確定した前提として扱われていた。


だが、もう違う。


ゼフィールがいつ、どこで再接続するのかは分からない。


なら、次に考えなければならないのは、予定から外れた人間が未来で何をするのかだった。


ラウルは風の向こうにある研究区の扉を見た。


ゼフィール・アルクレインが予定された時代へ再接続する保証を失ったことで、《継時計画》は「未来へ送る計画」から「未来で一人になった人間が生き続ける方法まで考える計画」へ変わり始めた。

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