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『ソウルストーン ~神々を滅ぼす最後の継承者~』  作者: シロの空


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序章《滅びゆく古代》 第2話《一人ではない》

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研究区へ戻ろうとしていたラウル・アルセレアは、開きかけた扉へ手を掛けたまま動きを止めた。非常灯の赤い光が横顔を照らし、その向こうでは先ほどの衝撃で警報を発した装置を確認するため、何人もの研究者が足早に通路を行き交っている。それでもラウルは娘の問いを後回しにはせず、扉から手を離すと、もう一度エリシアの前まで戻ってきた。


「未来へ行ったあとに、何をしてほしいか、か」


「うん。お父さんはさっき、アルセア文明を復元しなくてもいいし、お父さんの研究を完成させなくてもいいって言った。神様に復讐しなくてもいいって言ったけど、本当に何も望んでないわけじゃないでしょ?」


エリシア自身、どんな答えを求めているのかまでは分かっていなかった。使命を与えられれば、自分を未来へ送る理由として利用されているようで嫌だと思うだろうし、何も望んでいないと言われれば、自分がいなくなったあとのことなどどうでもいいと言われたようで寂しくなる気もする。


ラウルはしばらく考えたあと、娘と同じ高さになるよう膝を曲げるのではなく、十六歳になった彼女を一人の人間として見るように、そのまま正面から向き合った。


「生きていてほしい。それが俺からお前に望むことだ」


「それだけ?」


「ああ」


「だったら、未来じゃなくてもいいじゃん。ここに残って生きられるなら、それでも同じでしょ?」


「同じだよ」


思っていなかった答えが返ってきたため、エリシアは眉を寄せた。


「じゃあ、どうして未来へ行ってほしいの?」


「ここで生き続けられる可能性が、急速になくなっているからだ」


ラウルは娘を安心させるために言葉を濁すこともなく、いま自分が判断している事実をそのまま伝えた。未来そのものが安全なのではなく、現在のアルセリアがあまりにも危険になった結果として、比較すれば未来へ離脱する方が生存できる可能性が高いと考えているだけだった。


「俺は遠い未来へ行けば必ず幸せになれると思っているわけじゃない。再接続した先に人間がいる保証も、いまの言葉が通じる保証もないし、《継時計画》そのものが完全に成功する保証だってない。それでも、ここへ残る場合と比べれば生きられる可能性があると、いまの俺は判断してる」


「じゃあ結局、どっちの方が死なないかって話?」


「研究者として答えるなら、そうなる」


「お父さんとしては?」


問い返されると、ラウルは先ほどまでとは違ってほとんど迷わなかった。


「絶対に生きてほしい」


研究者として話す父と、父親として話す父では答えが違っている。その二つを無理に同じものとして扱わないところが、エリシアにはいかにも父らしく思えた。


「未来へ行って、私がずっと嫌な生活をしてたら?」


「俺には確認できない」


「友達ができなかったら?」


「それも確認できない」


「誰も知ってる人がいなくて、一人だったら?」


その問いだけは、ラウルの表情をわずかに変えた。


隣にいたセレネも娘を見る。


「それが一番怖いの?」


母に聞かれ、エリシアはすぐには答えられなかった。


未来という言葉は大きすぎる。千年という時間も、アルセリアが消えてしまった世界も、いまの自分には想像することさえ難しい。それでも、見知らぬ場所で目を覚まし、父や母を呼んでも誰も答えてくれない光景だけは、嫌になるほど簡単に思い浮かべることができた。


「……多分、それが一番怖い」


エリシアは自分の指先を見ながら答えた。


「死ぬのだって怖い。でも、知らない場所で目を覚まして、お父さんもお母さんもいなくて、知ってる人が誰もいなかったらって考えると、そっちの方が今は怖い」


セレネはすぐに抱き締めようとはせず、娘が続きを話すのを待った。


「未来へ行く人は、私だけじゃないんだよね?」


「もちろんよ。《継時計画》では複数の人間を時相離脱させる予定になっているわ」


「でも、同じときに目を覚ませるとは限らないんでしょ?」


セレネの表情に小さな驚きが浮かんだ。


「どうしてそう思ったの?」


「昨日、お母さんが再接続する時代をこっちから完全には選べないって言ったから。だったら、同じ日に装置へ入った人が、同じ日に未来で起きられるとも限らないんじゃない?」


娘が自分でそこまで考えたことを知り、セレネは一度ラウルを見てから、誤魔化さずに頷いた。


「理論上は、できるだけ近い時期に再接続するよう条件を合わせる予定よ。でも、全員が同時に目を覚ますと保証できる段階ではないわ」


「だったら、本当に一人になるかもしれないんだ」


「その可能性はある」


エリシアは視線を落とした。


父も母も、不安を消すためだけの都合のいい言葉を使ってはくれない。それが自分へきちんと説明しようとしているからだと理解していても、聞かされた事実によって怖さが増していくことまでは止められなかった。


その様子を見たラウルが、少し間を置いてから口を開く。


「だから、《継時計画》では先行者を送ることになっている」


「先行者?」


「お前たちより先に時相離脱へ入り、未来で再接続する人間だ。計画通りに進めば、その人間が再接続先の環境を確認して、後から来る者を受け入れる準備をする」


「誰が行くの?」


ラウルが答えようとしたところで、研究区の奥から一人の男がこちらへ歩いてきた。


エリシアよりかなり年上だが、父よりは若い。長時間の作業が続いているのか顔には疲労が滲み、いつも整えている髪も少し乱れている。片腕には複数の記録容器を抱え、もう一方の手には時相制御区画で使う薄い防護外套を掛けていた。


男は三人のところまで来ると、ラウルより先にエリシアを見た。


「その顔を見る限り、ようやく聞いたらしいな、エリ」


幼い頃から何度も聞いてきた声だった。


「ゼフィール」


ゼフィール・アルクレインは父たちの研究へ協力している技術者で、エリシアが幼い頃からアルセレア家へ何度も出入りしていた。父や母ほど頻繁に会うわけではないが、研究区で迷子になった八歳のエリシアを居住区まで連れ戻してくれたこともあり、少なくとも彼女にとっては「知らない大人」ではない。


「どこまで聞いた?」


「未来へ行くことと、私が候補になってること。それから、先に未来へ行く人がいるってところ」


エリシアはそこでゼフィールを見上げた。


「もしかして、ゼフィール?」


「ああ。俺が先行離脱の第一候補だ」


「第一候補ってことは、まだ決まってない?」


「計画上の候補という意味なら決まっている。ただし、最後に装置へ入るかどうかは俺が決める」


エリシアは思わずラウルを見た。


父は何も言わない。


「ゼフィールも自分で決めるの?」


「当然だろ」


「怖くない?」


「怖いよ」


あまりにも早く答えられたため、エリシアは目を瞬いた。


「怖くないって言うと思った」


「どうして?」


「大人だから」


「大人を何だと思ってるんだ。知らない時代へ飛ばされるのに、怖くないわけがないだろ」


ゼフィールは記録容器を壁際の台へ置くと、軽く肩を回した。動作だけ見れば普段と変わらないが、目の周りには疲労だけでは説明できない緊張が残っている。


「再接続した先に人がいるか分からない。装置が正常に働かなければ予定より遥かに遠い時代へ出るかもしれないし、最悪の場合は再接続そのものが成立しない可能性もある。それくらいは全部聞いたうえで、それでも俺は先に行くと決めた」


「ゼフィール」


セレネが少し強い声を出す。


「事実だけど、もう少し言い方を考えて」


「本人が危険なことも聞きたいと言ったんだろ」


「怖がらせることと説明することは違うわ」


「だから失敗する可能性があると言っただけだ。死ぬぞ、なんて脅してはいない」


二人の会話を聞きながら、エリシアはゼフィールの顔を見つめた。


怖いと言った。


失敗する可能性も知っている。


それでも行くと決めている。


「どうして行くの?」


「理由はいくつかある。一つは、俺が長期の時相離脱へ適応できる可能性が比較的高いこと。もう一つは、再接続後に施設や装置の状態を確認できる知識を持っていることだ」


「それだけ?」


エリシアが聞くと、ゼフィールは少しだけ笑った。


「最後の一つは、俺自身が行くと決めたからだ」


「候補に選ばれたからじゃなくて?」


「候補に挙げられたのは俺の意思じゃない。でも、その話を聞いたあとで了承したのは俺だ」


エリシアは、その言葉を聞きながら自分との違いを考えた。


本人へ聞く前に候補へ入れられたことは同じだった。危険があることを説明され、それでも行くかどうかを問われたことも同じなのだろう。


違うのは、ゼフィールがすでに自分の答えを出していることだった。


「未来で私を待つの?」


「計画通りなら、そのつもりだ」


「どれくらい待つ?」


「それは分からないな。俺が先に再接続したとしても、お前たちがどれだけ遅れて来るかまでは正確に予測できない」


「すごく長かったら?」


「そのときに考える」


「私が未来へ行かないって決めたら?」


「そのときは待たない」


答えがあまりに簡単で、エリシアは少し不満そうに眉を寄せた。


「怒らないの?」


「どうして俺が怒るんだ」


「だって、私たちより先に行くんでしょ。せっかく待つ準備をするのに、私が行かなかったら無駄になるかもしれない」


「俺はお前一人を迎えるためだけに先行するわけじゃない。それに、俺が未来へ行くと決めたことを理由にして、お前まで同じ答えを選ばなきゃならないなら、それは俺が勝手にお前の選択を狭めてることになる」


ゼフィールはそこで一度言葉を止め、エリシアの表情を確かめた。


「来ると決めたなら、できる範囲で迎える。来ないと決めたなら、その答えも受け入れる。それだけだ」


「もし私が未来で何も覚えてなかったら?」


「名前から教える」


「ゼフィールのことも忘れてたら?」


「もう一度自己紹介する」


「それでも思い出さなかったら?」


「何度でも説明すればいいだろ。昔のお前を知ってるからって、未来のお前に知っているふりをさせる必要はない」


エリシアは少し考えたあと、さらに尋ねた。


「未来の私に嫌われてたら?」


「それは普通に傷つく」


思わず笑いが漏れた。


朝から何度も胸が苦しくなり、泣いて、怒って、未来へ行くことなど考えたくないと思っていた。それでも、ゼフィールの困ったような顔を見た瞬間だけは、普段と変わらない会話をしているような気がした。


その小さな笑いが消えるより先に、研究区の奥から鋭い警告音が響いた。


四人の表情が同時に変わる。


先ほど外部から衝撃が伝わった際の警報とは音が違い、短い高音が三度続いたあと、低い連続音が地下区画へ広がった。ラウルは即座に通路の表示板へ目を向け、セレネもほとんど同時に立ち上がる。


「時相制御区画だ」


「第二系統?」


「いや、接続演算側の警報だ」


ラウルとセレネが駆け出そうとする。


その直前、セレネが娘を振り返った。


「エリシアはここで待っていて」


「私も行く」


「制御区画では今から安全確認をするの。何が起きているのか分からない場所へ、そのまま連れていくことはできないわ」


反射的に「どうして」と言い返しかけたエリシアだったが、そこで一度口を閉じた。


母は自分を子供だから拒んでいるのではない。何が起きているか分からない場所へ近づけないというのなら、今朝レグナ・ゼオへ近づける距離を父が決めたときと同じだった。


「どこまでなら行っていい?」


セレネは娘の問いを聞き、ほんの少し考えた。


「上の観察室まで。そこから先には入らないことと、退避指示が出たらゼフィールの言うことを聞くこと。この二つを守れる?」


「守る」


「なら来てもいいわ」


ゼフィールが壁際へ置いた記録容器を持ち直した。


「俺が連れていく。お前たちは先に行け」


ラウルとセレネが走り出す。


エリシアもその背中を追おうとしたが、ゼフィールが歩く速度を上げなかったため、数歩進んだところで隣を振り返った。


「急がなくていいの?」


「俺たちが急いでも警報は止まらない。走って転んで怪我人を一人増やしたら、その方が邪魔になる」


言われてみればその通りだった。


エリシアは焦る気持ちを抑え、ゼフィールとともに時相制御区画へ向かった。


     ◇


制御区画へ近づくにつれて、警報音だけでなく人の声も増えていった。


壁面の表示板には複数の警告が並び、作業員たちは通路脇に置かれていた補給箱を移動させながら、制御区画へ続く搬送路を空けている。床下を走る装置からは不規則な振動が伝わり、機械油と熱を持った金属の臭いが、普段より濃く地下通路へ漂っていた。


「何が起きてるの?」


「警報だけでは分からない。予定された演算結果と実際の数値が、許容範囲以上にずれ始めたことまでは分かる」


「壊れたってこと?」


「その可能性もあるが、まだ決めつけない方がいい」


「戦争のせいかもしれない?」


「外部から受けた衝撃が原因かもしれないし、別の原因かもしれない。そこを調べるためにラウルたちが先へ行った」


また「分からない」という答えだった。


昨日までなら、それを聞くたびに大人たちが何かを隠しているように感じたかもしれない。しかし今は、分からないものを無理に分かったことにしないために、父たちが同じ言葉を使っていることが少しずつ理解できるようになっていた。


しばらく歩いたところで、エリシアの呼吸が浅くなる。


昨日からまともに休めていないうえ、朝から感情を大きく揺さぶられ、そのまま地下研究区を歩き続けていた。急いでいるつもりはなくても身体には力が入り、知らないうちにゼフィールより速く歩こうとしていたらしい。


ゼフィールが速度を落とした。


「少し休め」


「大丈夫」


「大丈夫かどうかじゃなく、息が乱れてる」


言われて初めて、自分の呼吸が普段より速くなっていることに気づいた。エリシアは仕方なく壁際へ寄り、冷たい金属壁へ片手をついて息を整える。


「ごめん」


「謝る必要はない。お前が急いでも装置の状態は良くならないし、疲れたまま観察室へ行けば、見たかったものを見落とすだけだ」


ゼフィールは腰の水筒を外して差し出した。


エリシアは二口だけ飲み、返す。


「疲れたって言うの、あんまり好きじゃない」


「どうして?」


「できないって言ってるみたいだから」


「疲れていることと、できないことは別だろ」


「でも、お父さんたちはずっと動いてる」


「今のお前の父親を基準にするな。あれは休んでないだけだ」


「ゼフィールも休んでないでしょ」


「俺は昨日三時間寝た」


「それも少ないよ」


「そうだな。だから俺も人のことを偉そうには言えない」


少しだけ呼吸が楽になる。


エリシアはもう一口だけ水をもらってから歩き始めた。


観察室へ着くと、厚い透明板の向こうに巨大な時相制御区画が広がっていた。


中央には人が数人並んでも届かないほど大きな輪状装置が設置され、その周囲を円形の制御卓と複数の補助装置が囲んでいる。床面には太い魂力導線が何本も走り、壁一面を占める表示板では数字と線が絶え間なく変化していた。


ラウルとセレネはすでに別々の端末へ向かっている。


エリシアには数字の意味までは分からなかったが、正常を示しているらしい白い表示の中に、橙色へ変わった箇所がいくつもあることだけは理解できた。


「あれが《継時計画》の装置?」


「中心装置の一つだ。あれだけで未来へ行けるわけじゃない」


ゼフィールは透明板の前へ立った。


「最初に対象者を現在の時間位相から一時的に切り離し、その状態を別の保護系統で維持する。そのあと、条件を満たす未来側へ再接続する。大まかに言えば三段階だ」


「時間から切り離すって、時間を止めるの?」


「似ているようで違う。時間を止めただけなら、対象は現在の時間流の中に残ったままになる。《時相離脱》は――」


そこまで説明したところで、ゼフィールは口を閉じた。


「何?」


「ここから先を説明すると、専門用語が増えすぎる」


「分からなくても聞きたい」


「なら一つだけ覚えておけ。未来へ飛ぶというより、一度いまの時間から外れて、別の時代へ繋ぎ直すと考えた方が近い」


エリシアは巨大な輪状装置を見つめた。


「切って、あとで繋ぐ?」


「そうだ。ただし、紐みたいに簡単な話じゃない」


「それくらい分かってる」


「なら十分だ」


下の制御区画でセレネが何かを指示すると、表示板の一部が切り替わった。橙色だった線のいくつかが白へ戻ったものの、一箇所だけは何度切り替えても正常表示へ戻らない。


「あそこ、直らないね」


「見えてたか」


「色が違うから」


「再接続条件を計算している系統の一つだ。演算結果が想定より不安定になってる」


「それが壊れたら、未来から戻れなくなる?」


「正確には未来へ再接続できなくなる可能性が上がる。だから原因が分からないまま誰かを装置へ入れることはしない」


エリシアはそこで、昨日見た自分の再接続予測を思い出した。


「私のも、あそこで計算してる?」


「ああ」


「私だけ変だったやつ」


ゼフィールが頷く。


「見せてもらったのか」


「うん。途中から線が広がってた」


「それなら俺より詳しく見てるな」


「ゼフィールのは普通なの?」


「今のところはな」


その言葉を聞いた瞬間、エリシアの中に小さな安心が生まれた。


少なくとも、先に未来へ行くゼフィールは自分とは違う。彼の再接続先が正常に計算できているのなら、本当に未来で待っていてくれる可能性がある。


しかし、その安心は長く続かなかった。


制御区画で再び警告音が鳴り、先ほどまで一箇所だけだった橙色の表示が二箇所へ増えた。


ラウルが端末から顔を上げる。


「外部振動じゃない。演算基準そのものがずれてる!」


室内通信を通して声が聞こえる。


別の研究者が数値を読み上げ、セレネが表示を切り替える。ラウルは一つの系統を止め、別系統から同じ計算を通したが、数秒後にはそちらにも同じ誤差が現れた。


ゼフィールの表情から、先ほどまでの余裕が消えた。


「悪いの?」


「良くはない。ただ、まだ原因を調べている段階だ」


「私たち、逃げなくていい?」


「退避基準には達していない。達したら俺が言う」


ゼフィールはそう答えながら、観察室の退避口とエリシアの位置を一度確認した。怖がらせるようなことは言わないが、本当に危険になった場合にはすぐ動けるようにしているのだと分かった。


数分後、制御区画からラウルが出てきた。


額には汗が浮かび、普段より呼吸も速い。


「ゼフィール。先行離脱を前倒しする」


「どれくらいだ?」


「最短で明日」


その一言を聞いたエリシアは、父の顔を見た。


「明日?」


ラウルは娘がいることを確認すると、一瞬だけ言葉を選んだ。しかし、都合の悪い部分を隠すことはしなかった。


「今出ている異常が拡大すると、現在と同じ条件で時相離脱を行える保証がなくなる。完全に原因を取り除けない場合、安定しているうちに先行離脱だけ実施する案を検討することになった」


「ゼフィールが明日行くって、もう決めたの?」


「そこまでは決めていない。装置側が明日実施できるよう準備するという意味だ」


エリシアはゼフィールを見る。


「ゼフィールは?」


「最終的な数値を聞いてから決める」


「昨日は行くって言ったのに?」


「昨日と今日では装置の状態が違うだろ」


当たり前のように答えられ、エリシアは言葉を止めた。


「決めたこと、変えてもいいの?」


「変えたら困る人間はいるだろうな」


「だったら駄目なんじゃない?」


「困らせることと、変えちゃいけないことは別だ」


今度はラウルが答えた。


「ゼフィールが辞退すれば、計画の組み直しは必要になる。俺たちは困るし、使える時間も減る。それでも、昨日行くと言ったことだけを理由に、今日のゼフィールへ同じ判断を強制することはできない」


「お父さん、怒らない?」


「焦るとは思う」


「怒るか聞いてる」


ラウルは少し困ったように眉を寄せた。


「感情として腹が立つ可能性までは否定できない。でも、腹が立ったから装置へ押し込んでいいことにはならない」


「それなら、俺は逃げるぞ」


ゼフィールが横から言った。


「今の状況で余計な仕事を増やすな」


「押し込まなければ逃げない」


「最初から押し込まないと言ってるだろ」


父とゼフィールのやり取りを聞きながら、エリシアは自分の中にあった「決める」という言葉の形が、少しずつ変わっていくのを感じていた。


一度答えを出したら、それで終わるわけではない。


状況が変われば考え直していい。


昨日の自分が決めたことによって、今日の自分まで縛られる必要はない。


「じゃあ、私もそうしていい?」


エリシアが尋ねる。


「何を?」


「もし未来へ行くって決めても、装置へ入る前に怖くなったら、やめてもいい?」


ラウルはすぐに頷いた。


「いい」


「逆も?」


「逆?」


「残るって決めたあとで、やっぱり行くって変えてもいい?」


「装置を安全に使える時間が残っているなら、それもいい」


エリシアは少しだけ安心した。


自分には一度しか答える機会がないと思っていた。


一度間違えたら、取り返せないと思っていた。


けれど、決めることと決め続けることは同じではないらしい。


「それなら、まだ決めない」


「分かった」


「明日まで考えるって意味じゃないよ」


「それも分かってる」


ラウルが答えた。


「ゼフィールの先行離脱が成功するかどうかも、お前にとっては判断材料になる。それを見る前に結論を急がせるつもりはない」


その言葉を聞いた直後、制御区画からセレネの声が飛んだ。


「ラウル、来て!」


ラウルが振り返る。


表示板の橙色が、また一つ増えていた。


「行って」


エリシアが言う。


「私はゼフィールとここにいるから」


「分かった。退避指示が出たら――」


「すぐ行く。約束したでしょ」


娘に言われ、ラウルは頷いた。


そして再び制御区画へ戻っていった。


     ◇


異常の確認には、夕方近くまで時間がかかった。


完全な故障は見つからなかった。


外部衝撃による物理的な損傷も、一部の補助系統を除けば深刻ではない。それにもかかわらず、再接続条件を算出する演算系統では、一定時間ごとに小さな誤差が積み重なっていた。


原因が特定できない以上、正常だとは言えない。


一方で、すべてを停止しなければならないほど危険とも断定できない。


その中間にある状態が、一番判断を難しくしていた。


エリシアは父と母とともに、研究区内の小さな休憩室で夕食を取っていた。薄いパンと保存果実、温め直した野菜のスープだけの簡素な食事だったが、朝からほとんど休まず歩き続けていたため、口に入れると自分が思っていた以上に空腹だったことに気づいた。


「ゼフィールは?」


「先行離脱前の身体検査を受けてる」


ラウルが答えた。


「明日、本当に行くの?」


「装置の状態が現在より悪化せず、本人が最終的に了承すれば実施する」


「お父さんは、行ってほしい?」


「先行者が必要だという判断は変わってない。ただ、昨日より危険が増えた以上、俺が行ってほしいと思っていることだけで実施していいとは思ってない」


エリシアはスープを一口飲んだ。


「私のときも?」


「同じだ」


「でも、私の場合はお父さんだから、もっと行ってほしいって思うでしょ?」


ラウルは少し考えた。


「多分、ゼフィールよりずっと強く思う」


「それでも私が決める?」


「ああ」


エリシアは向かいに座る父を見た。


「大変だね」


「何が?」


「自分がしてほしいことと、相手がしたいことが違うと」


ラウルは少し驚いたように娘を見る。


隣のセレネが微笑んだ。


「そうね。とても大変よ」


「お母さんも私に行ってほしい?」


「生きられる可能性が高い方を選んでほしい。でも、それが本当に未来なのかは、今日の異常が出たことで私も分からなくなってきた」


「じゃあ、お母さんも考え直してる?」


「ええ」


エリシアはそこで初めて、自分だけが答えを出せずにいるのではないことに気づいた。


父も母も研究者だから、最初から正しい答えを知っているのだと思っていた。しかし実際には、二人も新しい事実が見つかるたびに判断を変え、昨日まで正しいと思っていたものを疑い直している。


「私の再接続の線、もう一回見たい」


食事を終えたあと、エリシアが言った。


セレネは娘を見た。


「昨日見せたもの?」


「うん。ゼフィールのも見られる?」


「本人の許可があれば」


「聞いてみる」


「どうして比較したいの?」


「私だけ変なのか知りたいから」


セレネは少し考えたあと、頷いた。


「いい質問だと思うわ」


夕食後、三人は再び観察室へ向かった。


ゼフィールはまだ検査中だったため、エリシア自身の再接続予測だけを先に表示する。


複数の線が未来側へ伸びている。


しかし途中から候補範囲が広がり、その先を計算し切れなくなっている。


「昨日と変わった?」


「少しだけ」


セレネが表示を拡大した。


「今日の演算異常を補正して再計算したけれど、あなたの結果だけは以前から続いている偏差が消えていないの」


「今日、装置がおかしくなったからじゃない?」


「少なくとも、それだけでは説明できないわ。あなたの結果が不安定になったのは今日より前だから」


「じゃあ、やっぱり私のせい?」


「そこまでは言えない」


ラウルが横から答えた。


「お前自身の何かが原因なのか、《レグナ・ゼオ》との反応が関係しているのか、それとも俺たちがまだ見つけていない別の原因があるのかは分からない」


「未来がないってことじゃない?」


「違う」


今度はセレネがはっきり答えた。


「少なくとも、未来そのものが存在しないという結果ではないわ。私たちが計算によって再接続条件を絞り込めないというだけ」


「似てるけど違う?」


「かなり違うわ」


エリシアは表示を見つめた。


未来がないわけではない。


ただ、自分たちから見えない。


「それって悪いこと?」


「研究者としては困る」


セレネが答える。


「お母さんとしては?」


昨日、父へしたのと同じ聞き方だった。


セレネは少しだけ困ったように笑った。


「怖いわ。あなたがどこへ行くのか分からないから」


「お父さんも?」


「怖いよ」


ラウルも認めた。


「だから調べてる」


「分からなかったら?」


「分からないまま決めなければならない可能性もある」


その答えを聞いても、エリシアは以前ほど腹を立てなかった。


分からないことをすべて解決してから選べるとは限らない。


限られた時間の中で、分かったことと分からないことの両方を知ったうえで決めなければならない場合もある。


「もし私が行かないって決めたら、他の人が未来へ行けなくなる?」


エリシアが尋ねると、ラウルは少し驚いた。


「どうしてそう思った?」


「装置に入れる人数とか決まってるんでしょ。私が途中でやめたら、みんなの準備が変わるから」


「作業は変わる。ただ、お前一人が辞退したことで他の誰かが行けなくなる計画にはしていない。空いた容量は別の人員か、保存する記録へ回すことができる」


「じゃあ、私が行かないせいで誰かが死ぬわけじゃない?」


「少なくとも、そういう選ばせ方をするつもりはない」


エリシアは小さく息を吐いた。


自分が断れば誰かが代わりに犠牲になるのではないかという不安を、言葉にする前から抱えていたことに、そのとき初めて気づいた。


「それ、もっと早く言ってよ」


「悪かった」


「お父さん、本当に説明下手」


「研究発表ではそれなりに評価されてるんだが」


「私は研究者じゃないもん」


「その通りだな」


セレネが笑う。


張り詰めていた空気が少しだけ緩んだ。


そのとき観察室の扉が開き、身体検査を終えたゼフィールが入ってきた。


「何を笑ってる?」


「お父さんが説明下手って話」


「それなら同意する」


「味方がいないな」


ラウルが肩を落とす。


エリシアは少し笑ってから、すぐにゼフィールへ尋ねた。


「ゼフィールの再接続予測、見せてもらっていい?」


「俺の?」


「私のと比べたい」


「何のために?」


「私だけ線が広がってるから。ゼフィールが普通なら、どこが違うのか見たい」


ゼフィールは理由を聞いたうえで頷いた。


「いいぞ」


セレネが彼の記録を呼び出す。


二つの表示が並んだ。


エリシアの線は途中から広がっている。


一方、ゼフィールの線は一定の幅を保ちながら未来へ伸び、いくつかの候補へ分かれたあと、再び狭い範囲へまとまっていた。


「全然違う」


「現状ではな」


ラウルが答えた。


「明日の先行離脱が成功すれば、この予測に近い範囲で再接続できる可能性が高い」


「だったら、本当に待っててくれるかもしれない?」


エリシアがゼフィールを見る。


「ああ」


ゼフィールは短く答えたあと、少しだけ表情を和らげた。


「ただし、お前が来ると決めた場合だけだ」


エリシアは頷いた。


未来へ行くとはまだ決めていない。


それでも、もし行くと決めたときに知っている人が一人でも先にいる可能性がある。その事実だけで、未来という言葉の中にあった完全な暗闇が、ほんの少しだけ薄くなった気がした。


「明日、見ててもいい?」


「俺の離脱を?」


「うん。私もやるかもしれないことだから、ちゃんと見たい」


ゼフィールはラウルを見る。


ラウルは娘との約束を変えなかった。


「観察室からなら許可する」


「途中で怖くなっても?」


「怖くなったら怖いと言えばいい。それで観察室から出たくなったら出てもいい」


「最後まで見なきゃ駄目じゃない?」


「お前が最後まで見ると決めたとしても、途中で変えていいとさっき話しただろ」


エリシアは少し黙ったあと、納得して頷いた。


「分かった」


明日、ゼフィールが未来へ行く。


成功するかもしれない。


失敗するかもしれない。


怖くなってやめるかもしれない。


それでも、どの結果になったとしても、自分が未来へ行くかどうかを考えるためには見ておきたい。


その夜、観察室を出る前にエリシアはもう一度、二つの再接続予測を見比べた。


自分の未来はまだ絞れない。


ゼフィールの未来は、少なくとも現在の計算では一定の範囲まで見えている。


その違いが何を意味するのかは分からない。


けれど、分からないからこそ、見ないまま答えを決めることだけはしたくなかった。


エリシアは端末から離れると、父と母、そして翌朝には時相離脱へ入るゼフィールを順番に見た。


「明日、ゼフィールの時相離脱が終わるまで、私も観察室にいる。」

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