序章《滅びゆく古代》 第1話《お前が必要なんだ》
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朝を知らせる鐘は、三日前から鳴らなくなっていた。
それでもエリシア・アルセレアが目を覚ましたのは、寝室の天井に埋め込まれた照明板が、夜間用の淡い橙色から朝用の白へ自動的に切り替わったからだった。以前なら照度が変わってから間もなく、階下の厨房で食器が触れ合う音や母の足音が聞こえてきたものだが、今朝は遠くで続く低い振動と、換気口から入り込む機械油の臭いしか感じられない。
薄い寝具を押し退けて身体を起こしたエリシアは、枕元に畳まれていた上着を羽織り、まだ眠気の残る足で窓際へ向かった。透明板の外側には防護膜が展開されているため、外気も風も入ってこない。それでも窓の向こうを見ただけで、昨日より状況が悪くなっていることくらいは分かった。
古代文明《アルセア文明圏》の中心都市であり、エリシアが生まれてからずっと暮らしてきた古都の東側から、何本もの黒煙が朝空へ伸びている。白い外壁を朝日に輝かせていた高層塔の一つは途中から折れ、居住区と研究区を結んでいた空中橋も一部が崩落していた。
さらに遠くでは、雲の内部を白い光が横切った数呼吸後、腹の底へ響くような低音が街全体を揺らした。
戦争が始まった頃、エリシアはあの光を見るたびに窓へ駆け寄り、何が起きたのか父や母へ何度も尋ねていた。しかし十一年もの時間が流れたいまでは、光の意味を知ったところで自分にできることが増えるわけではないと理解している。
五歳だった少女は十六歳になり、戦争はまだ終わっていない。
終わらないまま、街の方が先に終わろうとしていた。
「起きたか、エリ」
背後から父の声がして、エリシアは窓から顔を離した。
ラウル・アルセレアは、普段なら研究区で着ている白い研究衣ではなく、厚手の灰色の作業服を身につけていた。袖口や胸元には黒い油汚れが残り、左手には何枚もの記録紙を挟んだ金属板、右手には封印処理された小型容器が握られている。
眠った形跡はほとんどなかった。髪はいつもより乱れ、目の下には濃い影が落ちている。それでも娘と目が合うと、ラウルは普段と変わらない朝であるかのように、少しだけ口元を緩めた。
「朝飯はまだだろ。母さんが下で待ってる」
「お父さんは食べた?」
「食べたよ」
エリシアは答えず、父の顔をじっと見た。
ラウルの視線が一度だけ逸れる。
「……嘘」
「栄養剤は飲んだ」
「それ、食事じゃないよ」
「今日はそれで許してくれ。下へ行く前に研究区へ一度戻らないといけない」
「また?」
責めるつもりで言ったわけではなかったが、声には不満が混じった。
以前なら母のセレネがこの場に現れ、父の手から記録板を取り上げてでも食卓へ座らせただろう。しかし最近は家の中にまで研究資料や非常用機材が運び込まれ、父と母が二人揃って食事を取れる日の方が珍しくなっていた。
エリシアはもう一度窓の外へ目を向けた。
「東の方、昨日より近くなった?」
何が、とは言わなかった。
ラウルにも聞く必要はなかった。
「東部防衛線が少し下がった。中央居住区が今日中に戦場になるような距離じゃないから、すぐ荷物を持って走る必要はない」
以前の父なら「大丈夫だ」と言ったかもしれない。けれど戦況が悪化するにつれて、家族の会話から根拠のない安心を与える言葉は少しずつ消えていた。
エリシアはその変化が嫌いではなかったが、好きでもなかった。
「今日中じゃなかったら?」
問い返すと、ラウルは記録板を握っていた指へ僅かに力を込めた。
「そうならないための準備をしてる」
「《継時計画》?」
父の表情が止まった。
ほんの僅かな変化だったが、エリシアには十分だった。
「昨日、下の部屋でお父さんとお母さんが話してるのを聞いた。未来とか、再接続とか、それから私の名前も言ってた」
ラウルは否定しなかった。
「どこまで聞いた?」
「それだけ。ちゃんと聞こうとしたんじゃなくて、廊下を通ったら聞こえたの」
「そうか」
「私に関係あるんでしょ?」
父はしばらく娘を見たあと、持っていた記録板を脇へ下ろした。
「下で話そう。母さんも一緒の方がいい」
「隠さない?」
「隠さない。ただ、分かっていないことまで分かったようには話さない」
エリシアは少し迷ってから頷き、父と一緒に寝室を出た。
廊下へ出ると、機械油の臭いがさらに強くなった。壁面の一部は取り外され、家庭用の魂力供給線へ非常系統の太い導線が接続されている。幼い頃には絵や小さな飾り棚が置かれていた場所も、いまでは保存食、水容器、工具箱、記録箱で埋められていた。
エリシアは階段へ向かいながら、それらを一つずつ見た。
家が壊れたわけではない。
それでも、住み続けるための場所から、いつでも離れられるよう準備する場所へ変わり始めている。
そのことに気づくと、胸の奥が僅かに重くなった。
◇
一階の食卓では、母のセレネ・アルセレアが三人分の器を並べていた。
長い髪は普段より簡単に後ろで束ねられ、彼女も研究衣ではなく動きやすい作業服を着ている。右袖には薄い焦げ跡が残っていたが、エリシアがそこへ視線を向ける前に、セレネは穏やかな声で「おはよう」と言った。
「おはよう」
「スープがまだ温かいわ。座りましょう」
母の話し方は、何も起きていなかった頃の朝とほとんど変わらない。
それがかえって不安だった。
エリシアが席へ座っても、ラウルはしばらく立ったままだった。セレネがそんな夫を見てから娘へ視線を移し、二人の空気から事情を察したらしく、小さく息を吐く。
「聞いたのね」
「うん」
「どこまで?」
「《継時計画》って名前と、未来へ送るみたいな話。それから私の名前」
セレネは椅子へ座った。
ラウルもようやく向かいの席へ腰を下ろした。
家族三人が同じ食卓へ揃ったのは数日ぶりだった。以前なら何でもない光景だったのに、いまはそのこと自体が失いたくないものの一つに思えてくる。
「話す前に少し食べましょう」
セレネが匙を取る。
「今?」
「聞いたあとで食べる気がなくなるかもしれないから」
冗談ではないと分かった。
エリシアも仕方なく匙を取り、根菜と穀物を煮込んだ薄いスープを一口飲んだ。肉も香辛料もほとんど入っていないが、補給が滞り始めてからはこれでも十分な食事だった。
温かさが身体の内側へ落ちていく。
未来の話をする朝にも、腹は減る。
その当たり前のことが、少しだけ嫌だった。
「《継時計画》は、いまの戦争に勝つための計画じゃない」
ラウルが話し始めた。
「じゃあ逃げるため?」
「近いところもあるが、それだけじゃない。今の文明が残らない場合に備えて、記録と人を未来へ繋ぐための計画だ」
「残らないって、何が?」
「アルセリアだけじゃない。研究施設も記録庫も、俺たちが積み上げてきた技術も、全部失われる可能性がある」
エリシアは匙を止めた。
「全部?」
「全部になる可能性もある」
父は言葉を濁さなかった。
だからこそ、その意味が余計に重かった。
「それで未来へ送るの?」
セレネが頷く。
「最初は記録だけの予定だったの。研究資料、歴史、技術だけじゃなくて、私たちが何を間違えたのかも残すつもりだった」
「何を間違えたの?」
両親はすぐには答えなかった。
エリシアは二人を見比べる。
「神様と戦ったこと?」
「それだけじゃない」
ラウルが答える。
「神々の側にも、俺たちの側にも、いくつも間違いがあった。誰か一人のせいにできるほど簡単じゃない」
「じゃあ何で戦ってるの?」
「その話は今日だけで全部説明できるものじゃない」
「また今度?」
「今度があるなら、じゃない。時間がある限り話す」
以前なら、子供にはまだ早いと言われたかもしれない。
今は違う。
残っている時間そのものが分からないから、何をいつ話すべきかという順番さえ変わってしまったのだろう。
エリシアは再びスープへ匙を入れた。
「それで、人も送るの?」
「少人数だけ」
「誰を?」
「技術者、記録を扱える者、それから長期再接続へ耐えられる可能性がある人間」
「私も?」
今度は誰も逃げなかった。
ラウルが静かに頷く。
「候補に入ってる」
「候補って、まだ決まってない?」
「決めていない」
「誰が決めるの?」
その問いに、ラウルはすぐ答えなかった。
セレネも娘へ手を伸ばしかけたものの、途中で止める。
エリシアには、その沈黙の意味が分かった。
「私に聞かずに候補へ入れたの?」
「そうだ」
「それって、もう半分決めてるのと同じじゃない?」
「同じだと言われても仕方ない」
父が簡単に否定しなかったことで、エリシアの胸にあった怒りは少しだけ形を変えた。それでも納得できるわけではない。
「じゃあ何で最初から聞かなかったの?」
「生き延びられる可能性を、まず作りたかったからだ」
「私が嫌でも?」
「嫌だと言う可能性は考えてた」
「だったら先に聞けばよかったじゃん」
声が大きくなった。
その直後、遠くで鈍い轟音が響き、食卓に置かれた器が僅かに震えた。
誰も窓を見なかった。
「その通りだ」
ラウルは静かに言った。
「遅かった」
謝られても怒りが消えるわけではない。
エリシアは母へ向き直った。
「未来って、どのくらい先なの?」
「正確には分からないの。再接続できる時代そのものをこちらから選べるわけじゃないから」
「百年?」
「それより長くなる可能性はあるわ」
「千年?」
母は答えなかった。エリシアの喉が固くなる。千年という言葉そのものは知っているが、自分の家も両親も、いま窓の外に広がっている街さえなくなってしまうほど長い時間を、実感として想像することはできなかった。
「お父さんとお母さんは?」
問いを口にした瞬間、二人の表情で答えが分かった。
「行かないの?」
ラウルが一度息を吸う。
「俺たちは残る」
「何で?」
「計画を最後まで動かす人間が必要だからだ」
「他の人にやってもらえばいいじゃん」
「できない」
「どうして?」
「時間位相を切り離したあと、再接続条件を最後まで調整できる人間が限られてる。俺と母さんは、その作業を外せない」
「だったら終わってから来ればいいでしょ」
ラウルの口が止まった。
セレネが代わりに答える。
「再接続を始めたあと、この施設が維持される保証はないの。私たちまで同じ処理へ入る時間が残るとも限らない」
エリシアはしばらく母を見た。
意味は分かった。
分かりたくなかった。
「じゃあ、私だけ逃げるの?」
「逃げるという言い方を否定するつもりはない」
父の返事を聞いた瞬間、胸の内から出てきた答えは早かった。
「嫌」
ラウルもセレネも何も言わない。
「私だけ未来へ行って、お父さんもお母さんもいなくなってるなんて嫌。そんなところへ行くくらいなら、ここにいる」
セレネが娘の手へ触れようとした。
エリシアは反射的に手を引いた。
母の指が食卓の上で止まった。
その光景を見た瞬間、エリシア自身の胸も痛んだが、引いた手をすぐ戻すことはできなかった。
「嫌でいいのよ」
セレネは手を引き戻しながら言った。
「私たちも、あなたが怖がることも怒ることも分かってるつもりでいる。でも、分かってるつもりになることと、本当に同じ気持ちであることは違うから、あなたの答えを聞かなきゃいけない」
「じゃあ一緒にいて」
母は答えなかった。
その沈黙が、どんな説明よりも苦しかった。
「お父さんも、お母さんも残るなら、私も残る。三人でいればいいじゃん」
「俺は、お前に残ってほしくない」
ラウルが言った。
「だったら最初から私が決めるんじゃないじゃん」
「違う」
「何が違うの?」
「俺が自分の意見を持つことと、お前の選択を奪うことは同じじゃない」
エリシアは眉を寄せた。
「でも説得するんでしょ?」
「すると思う」
「行ってほしいって言うんでしょ?」
「言う」
「だったら私が決める意味ある?」
ラウルは一度視線を落としたあと、娘の目を見直した。
「ある」
「何で?」
「俺がどれだけ行ってほしいと思っても、その願いがお前の意思そのものになるわけじゃないからだ」
「でも反対する」
「する」
「私が残るって言っても?」
「残ってほしくないとは言う。それでも最後まで聞いたうえで、お前が残ると決めたなら、俺がお前の身体を縛って装置へ入れることはしない」
言葉が強すぎて、エリシアはすぐに返せなかった。
「本当に?」
「本当に」
「嫌って言っても?」
「受け入れる」
ラウルはその言葉を言うまで、少し時間を使った。
だから、簡単な慰めではないと分かった。
「……でも、お父さんは嫌なんでしょ?」
「嫌だ」
父の答えは早かった。
「お前には生きてほしい」
「勝手」
「ああ」
「自分は残るくせに」
「ああ」
「ずるい」
「そうだと思う」
何を言っても父は否定しなかった。
そのせいで、エリシアの怒りはぶつかる相手を失い、代わりに胸の奥へ沈み込んでいった。
「じゃあ、どうしたらいいの」
声が小さくなる。
「私が行きたくないって言っても、お父さんは行ってほしい。お母さんもきっとそうでしょ。それなら、私が選ぶって何なの?」
今度はセレネが答えた。
「違う答えのまま話すことよ」
「分からない」
「私たちが同じ気持ちになるまで説得する、ということじゃないの。お父さんも私もあなたに生きてほしい。でも、あなたが私たちと離れたくないと思っていることも本当でしょう?」
「うん」
「どちらかを嘘にしなくてもいいの」
エリシアには、まだその意味を全部理解することはできなかった。
ただ、両親が自分を未来へ送りたいと思っていることと、自分が両親と一緒に残りたいと思っていることのどちらかを、間違いだと決めなければ話せないわけではないらしい。
「今日決めるの?」
「いや」
ラウルが首を横へ振る。
「最後の準備が終わるまで時間はある」
「どのくらい?」
「予定では九日。ただし戦況次第では短くなる」
「九日しかないの?」
「そうだ」
エリシアは再び匙を持った。
スープはもうかなり冷めていた。
それでも残りを少しずつ口へ運ぶ。
未来へ行くか。
残るか。
そんなことを九日で決めなければならないのに、目の前の朝食さえ食べ終わっていない。
奇妙だった。
「決める前に、一つ見せたいものがある」
ラウルが言った。
「何?」
「《レグナ・ゼオ》」
その名前を聞いた瞬間、エリシアの胸の奥で何かが僅かに動いた。
初めて聞いた言葉ではない。
父の研究区で何度か耳にしたことがある。ただ、大人たちはその名前を子供の前では長く話そうとせず、何のためのものなのかも教えてくれなかった。
「石?」
「見れば分かる。ただし、見たからといって何かをしろとは言わない」
「私に関係ある?」
「ある可能性がある」
「また可能性?」
「分からないものを分かったとは言えないからな」
父らしい答えだった。
エリシアは少しだけ顔をしかめたものの、席を立った。
「じゃあ見る」
「今から?」
「見てから考えろって言ったのお父さんでしょ」
ラウルが僅かに笑う。
「そうだった」
セレネも立ち上がり、三人は食器を片づけてから地下研究区へ向かった。
◇
研究区へ続く通路は、エリシアの記憶にある場所とは別の施設のようになっていた。
以前は壁面照明が一定間隔で白い光を落としていたが、現在は三本に一本ほどしか正常に点灯しておらず、消えた区画では作業員たちが携帯灯を床へ置きながら配線を修復している。通路脇には大型の記録箱や封印容器が積み上げられ、搬送路を走る低い台車からは金属と機械油の臭いが絶えず漂っていた。
エリシアは父と母の間を歩いた。
誰にも手を引かれていない。
けれど、二人から離れて歩こうとも思わなかった。
「研究区ってこんなに深かった?」
「お前を下層まで連れてきたことがなかったからな」
「危ないから?」
「それもあるが、もっと単純な理由もある」
「何?」
「子供を研究室へ連れてくると何でも触る」
エリシアは父を睨んだ。
「私、そんなことしてない」
「八歳の頃、制御端末を端から全部押して警報を鳴らした」
「それはお父さんが触っていいって言ったからでしょ」
「一つ試していいとは言ったが、全部押していいとは言ってない」
隣でセレネが笑った。
本当に短い時間だけ。
家にいた頃と同じ空気が戻る。
その瞬間が嬉しいのに、同時にひどく苦しかった。
これが失われるかもしれないからだ。
階段を下り、認証門を二つ通過し、さらに奥へ進む。
最後の扉の前ではラウルとセレネが別々の端末へ手を置き、二人分の認証が揃ったところでようやく分厚い金属扉が左右へ開いた。
その先にあった部屋は、エリシアが想像していたより何もない空間だった。
巨大な兵器も、何列もの装置もない。
中央に円形の台座が一つあり、その奥に黒に近い赤色をした異様な結晶構造体が存在している。
普通の鉱石とは違っていた。
一枚岩のような塊ではなく、幾重にも重なった結晶層が複雑に絡み合い、内部を何かが巡るように淡い光が移動している。光の周期は完全に一定ではないのに、不思議と呼吸のようにも見えた。
エリシアは入口で足を止めた。
「……知ってる」
自分で言ってから驚いた。
セレネが娘を見る。
「見たことがある?」
「ないと思う。でも、知ってる感じがする」
両親が僅かに視線を交わした。
その反応を見逃さなかった。
「何?」
ラウルは少し迷ってから答えた。
「八歳の頃、お前は一度だけ、この下層近くまで来たことがある」
「端末触ったとき?」
「その少しあとだ」
「覚えてない」
「覚えていなくても不思議じゃない。当時ここへ入ったのはほんの短い時間だった」
「これと何かあった?」
「反応があった」
「どんな?」
「そこから先は、俺たちも分かっていない」
エリシアは中央の結晶へ視線を戻した。
「これが《レグナ・ゼオ》?」
「ああ」
「誰が作ったの?」
「俺たちじゃない」
「じゃあ誰?」
「分からない」
「昔の人?」
「それも分からない。アルセア文明が成立するより前から存在していた可能性がある」
また可能性だった。
ただし今回は、父の研究が足りないというより、調べても分からないほど古いものなのだろう。
「何をする石?」
「それも全部は分かっていない。ただ、普通のソウルストーンとは構造そのものが違う」
エリシアは一歩だけ前へ出た。
ラウルが反射的に身体を動かしかけたが、途中で止まる。
「どこまでなら行っていい?」
娘から聞くと、ラウルは床に引かれた黄色の線を指した。
「そこまでだ。越えないでくれ」
「分かった」
エリシアはゆっくり線の前まで進んだ。
残り数歩。
そのときだった。
《レグナ・ゼオ》の内部を巡っていた黒赤い光が、一度だけ明らかに強くなった。
エリシアの足が止まる。
背後では両親も同時に息を呑んでいた。
「今、何かした?」
「俺たちは何もしてない」
「じゃあ、これが?」
「そう見える」
「私に反応した?」
「そう考えるのが自然だが、まだ断定はできない」
怖いはずだった。
危険なものだと父は言った。
それなのに、エリシアが感じたのは嫌悪ではなかった。
むしろ、自分でも説明できないほど奇妙な懐かしさだった。
「お父さん、これも未来へ送るの?」
「《レグナ・ゼオ》そのものは送れない」
「大きいから?」
「大きさだけの問題じゃない。これを《継時計画》の位相装置へ入れた場合、何が起きるか予測できないからだ」
「じゃあ残す?」
「接続記録と研究資料の一部だけを残すつもりだ」
エリシアは結晶から目を離し、父へ向き直った。
「それを私に持たせるの?」
「いや」
「じゃあ、何で私に見せたの?」
ラウルはすぐには答えなかった。
エリシアが未来へ行くかどうかを考えるために見せると言った。
それなら、この石が自分の未来と何か関係しているはずだ。
「お前を未来へ送る理由を、俺たちの都合だけにしたくなかった」
「どういうこと?」
「俺たちは親だから、お前に生きてほしい。それは俺たち自身の願いだ」
「うん」
「でも未来へ行ったお前が、俺たちの続きをしなければならないとは思ってほしくない」
エリシアは意味を理解できず、眉を寄せた。
ラウルは中央の《レグナ・ゼオ》を見ながら話を続ける。
「アルセア文明を復元することも、俺の研究を完成させることも、神々へ復讐することも、お前の役目じゃない。俺たちが未来へ記録を残すとしても、それは命令を残すためじゃない」
「でも、せっかく残したのに私が読まなかったら?」
「それでもいい」
「この街を作り直さなくても?」
「いい」
「神様と戦わなくても?」
「いい」
「お父さんの研究を捨てても?」
「いい」
エリシアはしばらく黙ったあと、さらに一つだけ聞いた。
「お父さんたちのことも、忘れていい?」
ラウルの返事は遅かった。
「……それは寂しいな」
父の声が少しだけ掠れた。
「でも、それでも生きてくれるなら、それでいい」
エリシアの目が熱くなった。
「私はよくない」
「エリ」
「忘れたくない。お父さんも、お母さんも、この家も、ゼフィールも、この街も、全部忘れたくない」
涙が頬を伝った。
もう拭おうとは思わなかった。
「未来へ行ったら何もなくなるかもしれないんでしょ。だったら、そんな未来いらない」
今度こそセレネが娘へ近づき、肩へ両腕を回した。
エリシアは避けなかった。
母の服から、家で使っている石鹸と研究区の機械油が混ざった匂いがする。それは最近では珍しくもない匂いなのに、この瞬間だけは絶対に忘れたくないものに思えた。
「私を一人にしないで」
母の腕が少し強くなる。
それでも「分かった」とは言ってくれなかった。
ラウルも近づき、娘の前で膝をついた。
「エリ、俺はお前に必要とされたい」
突然の言葉に、エリシアは涙の残る顔を上げた。
「何、それ」
「父親だからな。困ったときは俺を呼んでほしいし、分からないことがあれば聞いてほしい。できるなら、お前が生きている限りずっとそうでありたい」
「だったら一緒に来て」
「それができれば、そうする」
「できないから嫌なの」
「分かってる」
ラウルは娘から目を逸らさなかった。
「でも、お前の未来に俺が必要だと、俺自身が決める権利はない」
エリシアには、その言葉がすぐには理解できなかった。
「何で?」
「俺がいなくても生きられる場所を、お前がいつか見つけるかもしれないからだ」
「見つけたくない」
「今はそう思ってるんだな」
「今だけじゃない!」
「それなら未来でもそう思ってくれたら、俺は嬉しい」
父はほんの少し笑った。
ただ、その笑い方は今まで見たどんな笑顔より苦しそうだった。
「でも俺が『父親を忘れるな』『俺たちの続きをしろ』『俺たちのために戦え』と残したら、それは未来のお前へ俺の答えを押しつけることになる」
「何でそんなことまで考えるの?」
「そうしないために、この計画を作ってるからだ」
「未来へ送るためじゃないの?」
「それだけなら、人と資料を保存するだけでいい」
ラウルは立ち上がり、中央の《レグナ・ゼオ》へ視線を向けた。
「俺たちが未来へ残したいのは、自分たちと同じ答えじゃない。俺たちと違う答えを選べる余地だ」
十六歳のエリシアには、まだその言葉の全部を理解することはできなかった。
ただ、自分が残ると言っても父は悲しむ。
未来へ行っても悲しむ。
どちらを選んでも、誰か一人だけが正しいという形にはならないらしい。
「じゃあ、何で私なの?」
ずっと引っかかっていたことを聞いた。
「未来へ行く人は他にもいるんでしょ?」
「いる」
「私じゃなくてもいいんじゃない?」
「計画を成立させるだけなら、そうだ」
「だったら何で?」
ラウルは《レグナ・ゼオ》を一度見た。
八歳のときに起きたという反応。
いま再び起きた反応。
エリシアは、父がそれを理由にするのではないかと思った。
しかし違った。
「お前が特別だからじゃない」
「え?」
「選ばれた子だからでも、世界を救う役目があるからでもない」
ラウルは娘の前へ戻ってくる。
「俺たちの娘だから、生きてほしい」
エリシアの目から、また涙が落ちた。
「ずるい」
「知ってる」
「そんなこと言われたら、行きたくないって言いにくくなる」
「それでも言っていい」
「お父さんは悲しむでしょ」
「悲しむ」
「怒る?」
「怒らないとは約束できない。怖くて感情的になるかもしれない」
「駄目じゃん」
「だから、そのときは母さんに止めてもらう」
隣でセレネが呆れたように夫を見る。
「最初から私を巻き込まないで」
「頼むよ」
「あなたが娘の選択を奪おうとしたら止めるわ」
「助かる」
「その代わり、私が同じことをしたらあなたが止めて」
ラウルの表情が変わった。
それから、ゆっくり頷く。
「分かった」
エリシアは二人のやり取りを見ながら、涙を袖で拭った。
親だから正しいわけではない。
研究者だから正しいわけでもない。
神々と戦っている側だから正しいわけでもない。
両親自身も、自分たちが間違える可能性を残そうとしている。
「私も考える」
エリシアは言った。
ラウルとセレネが同時に娘を見る。
「今は行きたくない。それは変わってない。でも、九日あるなら考える」
「分かった」
「お父さんたちも、私に行ってほしい理由を全部話して」
「全部?」
「都合悪いことも。危ないことも、失敗するかもしれないことも」
ラウルが僅かに笑う。
「厳しいな」
「私のことだから」
「そうだな」
セレネも娘の髪を整えながら頷いた。
「私からも話すわ。ただし、お父さんと同じ意見ばかりじゃないと思う」
「二人でも違うの?」
「違うことはあるわ」
「喧嘩する?」
「する」
「最近も?」
ラウルが咳払いをした。
セレネは少しだけ笑った。
「昨日もしたわ」
「何で?」
「あなたへいつ話すか」
「お母さんは?」
「もっと早く話すべきだと言った」
「お父さんは?」
「準備が固まってから話したかった」
エリシアは父を見る。
「お母さんの方が正しかったと思う」
「俺も今はそう思ってる」
あっさり認められて、少しだけおかしくなった。
笑うほどではない。
それでも、胸の重さがほんの僅かに軽くなる。
そのとき、地下施設全体を震わせるような衝撃が遠くから伝わり、天井の照明が一斉に暗くなった。
非常灯が数秒遅れて赤く点灯する。
作業区画の方から人々の声が聞こえた。
ラウルは反射的に扉へ顔を向けたものの、その場からすぐに走り出しはしなかった。
中央の《レグナ・ゼオ》だけは、照明が消えても変わらず黒赤い光を内部へ巡らせている。
「お父さん、行かなくていいの?」
「行く」
「じゃあ行って」
「話は」
「続きはあとで聞く」
エリシアは涙の跡を袖で拭き、少しだけ姿勢を正した。
まだ答えは出ていない。
未来へ行きたいとも思えない。
それでも、父や母が仕事へ戻らなければ、考えるための九日さえなくなる可能性があることくらいは理解できた。
ラウルが立ち上がる。
「母さん、エリを」
「分かってる」
「子供扱いしないで」
思わず言うと、父は一度だけ足を止めた。
「悪い」
「戻ってきたら話の続きして」
「必ず」
「約束?」
「約束する」
ラウルは扉へ向かった。
その背中を見送ろうとして、エリシアはふと思い出したように父を呼び止めた。
「お父さん」
ラウルが振り返る。
いま聞いておかなければならないと思った。
未来へ行くかどうかを決めるためではない。
父が自分へ何を望んでいるのか、それだけは最初に自分の耳で確かめておきたかった。
エリシアは《レグナ・ゼオ》の淡い光を背に、遠ざかりかけた父をまっすぐ見た。
「お父さんは、私が未来へ行ったあと、私に何をしてほしいの?」
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