第3章《継承者修練編》 第25話《医療戦線》
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翌朝の臨時調査拠点では、夜明け前から炊事場で大量の湯が沸かされ、煮た麦と塩漬け肉の匂いが細い廊下まで流れていた。
宿泊棟と治療区画を兼ねた建物には、調査隊だけでなく街道警備から戻った王国兵も数名泊まっているため、食堂へ向かう人の足音は普段より多い。外では荷車へ水樽を積む音が続き、厩舎側からは馬のいななきと飼料桶を動かす木の音が断続的に聞こえていた。
レオンは右手の指を一本ずつ開閉しながら、ノアが食堂へ入ってくるのを待っていた。
昨日の模擬戦後に残った熱感は消えている。
太腿にはバルガスから教わった足運びの疲れが少しあるものの、歩くことには支障がない。
だからといって今日も同じ訓練をできると自分だけで決めるつもりはなかった。
その判断は朝食後、リーナへ身体を見せてからになる。
「おはよう」
ノアが記録帳を胸へ抱えて入ってきた。
レオンは彼女の顔を見る。
「決めた?」
挨拶より先に聞いてしまった。
ノアは呆れたように笑い、自分の分の麦粥を受け取ってからレオンの向かいへ座る。
「朝ご飯を食べてから言おうと思ってたんだけど」
「気になるだろ」
「だからって、座る前に聞かなくてもいいでしょう」
「ごめん」
レオンも自分の器へ麦粥を取る。
少ししてエリシアも来た。
今日は治療用の簡素な衣服ではなく、昨日ノアと一緒に選んだ現代式の旅装へ着替えている。灰色の上着と膝下までの丈夫なズボン、歩きやすい革靴という組み合わせで、古代で着ていた衣服とは素材も留め具もかなり違うらしい。
袖口を留める紐だけは、エルダ村から使っていたものをそのまま残している。
「ノア、決めた?」
エリシアまで同じことを聞いた。
ノアが二人を見比べる。
「二人とも同じなんだね」
「気になるから」
エリシアが答えた。
ノアは麦粥を一口食べ、それから記録帳へ手を置いた。
「やる」
レオンの顔が明るくなる。
「本当?」
「うん。ただし、全部の記録を自由に持ち出せなくなることも、公開していい情報と駄目な情報を分けなきゃいけないことも分かったうえで」
「昨日カイに聞いた?」
「エレナにも聞いた。仮登録中でもやめたくなったら申請できるし、正式な神殿所属や王国所属になるわけでもないって」
「じゃあ俺たちの班だけ?」
「今のところは《臨時調査班・現地記録補助》だって」
レオンは少し笑った。
「長いな」
「私もそう思う」
エリシアが尋ねる。
「今までの記録帳はどうなるの?」
ノアはそこも確認していたらしい。
「私たちが自分で書いた部分は、これまで通り私たちの記録。ただ、これから王国や神殿から渡された非公開資料を書き写す場合は、別冊にする」
「分けるんだ」
「混ぜると、後でどこまで誰に見せていいか分からなくなるから」
レオンは少し感心した。
自分が最初に遺跡へ入った頃なら、知ったことは一冊へ全部書いていたと思う。
何が自分で見た事実か。
誰かから聞いた話か。
外へ出してよい情報か。
そんな区別まで考えなかった。
「じゃあ今日から正式?」
「まだ仮登録の書類に私が署名して、それを王国側の担当者が受理してから」
「署名だけ?」
「説明をもう一回受ける」
「面倒だな」
ノアが笑った。
「昨日、権限が増えるなら責任も増えるって話したでしょう?」
「覚えてる」
「なら面倒なのも込み」
エリシアは自分のパンを少しずつ食べながら、その会話を静かに聞いていた。
やがて手を止める。
「ノアは、自分で選んだんだよね」
「うん」
「レオンに来てほしいって言われたからじゃなくて?」
ノアは少し考えた。
「来てほしいって言われたことも理由には入ってるよ。でも、それだけじゃない」
「どう違うの?」
「レオンがそう思ってるって知ったうえで、私は自分も続けたいって思ったから」
エリシアはその答えをしばらく考えた。
「誰かの希望を聞くことと、その人に決められることは違うんだ」
「そうだと思う」
レオンも聞いていた。
自分が何も言わないことだけが、相手の自由を守るわけではない。
来てほしいなら、来てほしいと言える。
危ないと思うなら、危ないと言う。
その言葉を受け取った相手が、最後にどうするか決められる余地を残す。
最近、何度も同じところへ戻っている気がした。
けれど、そのたびに形は少し違う。
遺跡。
神殿。
ノアの同行。
契約石。
今度は記録の仕事。
「じゃあ、朝食終わったら書類?」
レオンが聞く。
「うん」
「俺たちも見ていい?」
「説明を受ける場所までは。署名は私がする」
「分かってる」
ノアが少し笑った。
「本当に?」
「そこはもう分かるって」
エリシアまで笑う。
食事を終える頃、カイとエレナが食堂へ入ってきた。
カイは朝の訓練を先に一度終えたらしく、濃紺の髪が少し汗で額へ張りついている。一方のエレナは数枚の書類を抱えており、その一番上にはノアの名前が書かれていた。
「返答は決まりましたか?」
エレナが尋ねる。
ノアが頷く。
「引き受けます」
「では朝食後、登録内容をもう一度確認しましょう」
「お願いします」
カイはレオンを見る。
「右腕は?」
「熱なし。痛みなし。痺れなし」
「太腿は?」
レオンが眉を寄せる。
「何で知ってる?」
「昨日バルガスから足運びを教わったと聞いたので」
「少し筋肉痛」
「程度は?」
「歩くなら一。深く曲げると二くらい」
「リーナにもそのまま伝えてください」
「分かってる」
先に言われると少し腹が立つ。
でも隠すつもりはない。
「今日は模擬戦できると思う?」
「俺が決めることではありません」
「リーナ?」
「はい」
「じゃあカイは、できるならやる?」
「身体条件が許せば」
「昨日と同じ?」
「同じ条件ではありません」
レオンが反応する。
「何する?」
カイは少しだけ口元を緩めた。
「検査を通ってから話します」
「それ、リーナと組んでるだろ」
「安全確認の順序を守っているだけです」
「絶対楽しんでる」
カイは答えなかった。
エレナが僅かに笑っている。
レオンは、それを見逃さなかった。
◇
朝食後、ノアの仮登録説明が行われている間、レオンとエリシアは隣の治療区画へ移った。
消毒に使う薬草液と煮沸した布の匂いが残る部屋では、リーナが既に昨日の測定記録を机へ並べていた。
「まずレオンから見ます。そのあとエリシアの歩行状態も確認します」
「私も?」
エリシアが尋ねる。
「今日は拠点の外へ出る予定があるでしょう?」
「聞いてない」
「今、言おうと思っていました」
エリシアの目が少し大きくなる。
レオンもリーナを見る。
「どこ行くの?」
「グランゼ外縁の市場区です」
「市場?」
「エリシアの現代生活訓練です」
その言葉で、昨日カイへ聞こうとしていたことを思い出した。
契約石を持つと何が変わるのか。
それ以前に、エリシアは現在の貨幣や交通、物の値段、店での買い方さえ十分に知らない。
古代語と現代語には共通する部分があるため会話はできるが、生活の仕組みまで同じではない。
「俺も行く」
レオンが言った。
リーナは即座に否定しなかった。
「午前の訓練結果次第です」
「行くだけだぞ」
「市場まで片道どのくらい歩くか知っていますか?」
「知らない」
「拠点から馬車停留所まで約十五分。そこから乗合馬車で二十分ほど、そのあと市場内を歩きます」
「馬車なら楽じゃん」
「座れれば」
「座れないことあるの?」
「一般の乗合馬車ですから」
そう言われれば当然だった。
調査隊専用ではない。
他の人も使う。
「エリシアは大丈夫?」
「だから今から確認します」
レオンは何となく、今日の主役が自分ではないことを理解した。
右手。
模擬戦。
《レグナ・ゼオ》。
そればかり考えていた。
でもエリシアにも、今の時代で生きるために覚えなければならないことがある。
「じゃあ先に俺?」
「はい」
検査は昨日と同じ部分から始まった。
安静時の魂力。
右腕の温度。
握力。
肩の動き。
左右差。
さらに今日は脚の状態も見られる。
「右脚と左脚で、階段を上がったときに違いはありましたか?」
「ないと思う」
「思う、ですか?」
「ない」
「昨日の練習後は?」
「太腿が両方疲れた。でも右の方が少し強い」
「では、深く膝を曲げてください」
レオンが腰を落とす。
半分までは問題ない。
それ以上で太腿に張りが出る。
「ここ」
「痛みは?」
「二」
「昨日の筋肉疲労ですね。関節ではなさそうです」
「模擬戦できる?」
「全力で走らない条件なら」
顔が明るくなる。
「よし」
「ただし、昨日より足を使う訓練を増やすなら模擬戦時間を短くします」
「何で?」
「同じ脚を二種類の訓練で使うからです」
「じゃあ模擬戦だけ」
「それを決めるのは訓練担当と相談してから」
レオンは少し考える。
昨日バルガスに教わった足運びも続けたい。
でもカイとの模擬戦もしたい。
両方を最大にすれば身体が先に疲れる。
「半分ずつできる?」
「内容によります」
「カイに聞く」
「そうしてください」
次はエリシア。
歩く。
止まる。
方向を変える。
小さな荷物を持つ。
椅子から立つ。
昨日より安定している。
リーナが特に見ているのは、疲れたときに歩幅がどう変わるかだった。
「今、疲労は?」
「一くらい」
「水筒を持ったまま、向こうの扉まで往復してください」
エリシアが歩く。
足取りは普通。
戻る。
「もう一度」
二往復。
三往復。
それでも大きく崩れない。
「今日は市場へ行けます」
エリシアが少し笑った。
「本当?」
「ただし、歩き続けないこと。馬車で座れなかった場合は、市場へ着いたあと最初に休憩を入れます」
「座れなかったら、誰かに代わってもらうのは?」
「相手が同意すれば構いません。でも、体調が悪いことを伝えて席をお願いすることもできます」
エリシアの表情が少し変わる。
「知らない人に?」
「はい」
「嫌って言われたら?」
「別の方法を考えます」
「降りる?」
「必要なら」
エリシアは頷いた。
現代社会で生きる練習は、貨幣の数字を覚えることだけではないらしい。
知らない相手へ頼む。
断られる可能性もある。
自分も断ることがある。
レオンにとっては当たり前に近い。
エリシアには新しい。
「レオンも来る?」
彼女が聞いた。
「行きたい」
「訓練は?」
「短くする」
言ってから、まだ決めていないことに気づく。
「カイと相談してから」
エリシアが笑う。
「ちゃんと直した」
「今のは言い直しただけ」
「前なら言い直さなかったよ」
最近、何をしても以前と比べられる。
少し恥ずかしい。
それでも悪くはなかった。
◇
ノアの仮登録手続きが終わったあと、全員で測定室へ移った。
《レグナ・ゼオ》の反応試験に使う予定の装置は、昨日まで机の上にあった小型測定板とは違い、胸ほどの高さがある金属製の筒と三枚の平板を組み合わせたものだった。
機械油の匂い。
金属。
薄く焼けた魂晶配線。
近づくと、装置が既に低い音を立てているのが分かる。
「これに俺が触る?」
レオンが尋ねる。
「今日は触りません」
王国側の技師が答えた。
「模擬魂力を流して、装置側がどの値で警告を出すか確認します」
「模擬魂力って?」
「一般級の魂晶から一定量だけ出力させます。あなたの右手の反応とは別物ですが、測定器が急激な変化を正しく記録できるかは確認できます」
技師は装置の横へ小さな魂晶箱を接続した。
「最初は低出力です」
起動。
測定板へ数値が並ぶ。
レオンには全部の意味は分からない。
ノアは仮登録したばかりの別冊記録を使い、公開範囲が指定された測定値だけを書いている。
エリシアも見ている。
カイとエレナは少し後ろ。
リーナはレオンの横に立ち、装置より本人を見ている。
「俺、何もしてないよ」
「知っています」
「じゃあ今は見なくてもいいんじゃない?」
「装置が異常を起こしたとき、あなたが近くにいること自体が影響する可能性をまだ否定できないからです」
「離れた方がいい?」
「今は規定距離を取っています」
床には線が引いてある。
レオンはその外側。
カイたちも同じ。
模擬魂力が一段階上がる。
測定器の音が少し高くなる。
問題なし。
さらに一段階。
警告灯が点灯。
技師が出力を止める。
「ここまでは正常です」
レオンが聞く。
「何が正常?」
「設定値を超えた時点で、警告が出て自動遮断しました」
「じゃあ安全?」
「この条件では」
カイが補う。
「あなたの反応を測れるとはまだ限りません」
「分かってる」
次は、急激な変化。
低い値から一気に上げる。
技師が操作する。
数値が跳ねる。
警告。
しかし。
自動遮断が一瞬遅れた。
装置の内部で金属音がする。
カイとエレナが同時に姿勢を変える。
リーナはレオンとエリシアを一歩後ろへ下げた。
技師が手動停止。
音が消える。
「故障?」
レオンが尋ねる。
技師はすぐに答えない。
装置を開ける。
「自動遮断は動きました。ただ、急増時に補助回路が一段遅れています」
「俺でやってたら?」
「分かりません」
「危なかった?」
「少なくとも、安全確認が終わっていない状態で本人試験へ進まなくてよかったという結果です」
レオンは装置を見る。
昨日までなら、こんな試験は余計な時間だと思っていた。
自分が直接やれば早い。
そう考えた。
今の金属音を聞いたあとでは、同じことは言えない。
「直すのにどのくらい?」
「部品交換で済めば今日中。設計上の問題なら、別の装置を使います」
「明日試せる?」
「今は答えられません」
少し残念。
でも、仕方ない。
技師が装置を分解する。
レオンは近づこうとした。
リーナが服の袖を軽く掴む。
「規定線の内側へ入らないでください」
「もう止まってるだろ」
「内部に残留魂力があります」
「見たい」
「見える距離から見てください」
「技師は入ってる」
「技師は絶縁手袋を付けています」
見る。
確かに。
自分にはない。
レオンは線の外へ戻った。
「何か言いたそうですね」
カイが横から言う。
「言わない」
「珍しい」
「危ない理由分かったから」
カイは少しだけ笑った。
「なら十分です」
「それ褒めてる?」
「今日はそう受け取って構いません」
レオンが目を見開く。
「今のノア、書いた?」
「書かないよ」
「珍しいぞ」
「調査記録じゃないから」
全員が少し笑った。
◇
午前の残りは、予定を変更して短い足運びと模擬戦だけになった。
カイとの模擬戦は昨日より短く、制限時間は五分。
勝敗条件も違う。
今日はレオンが一度外套へ触れれば終わりではない。
三分間、決められた範囲から外へ押し出されず、右手の魂力を使わずに立ち続ける。
「地味」
レオンが言った。
「昨日、自分から倒すことだけが勝利ではないと学んだでしょう」
カイが答える。
「だからって立ってるだけ?」
「俺は押し出します」
「攻撃は?」
「木剣と身体接触は使います」
少し面白くなる。
開始。
最初の一分で、レオンは二度端まで追い込まれた。
カイの剣を見て避けると足を取られ、足を見れば肩で押される。
昨日より「相手全部を見る」意識はある。
それでも処理が追いつかない。
一分半。
右腕の熱一。
呼吸はまだ話せる。
二分。
カイが右から入る。
レオンは下がらない。
前へ踏む。
木剣を受けるのではなく、身体の位置だけずらす。
押される。
でも線の内側。
残る。
カイがすぐ次へ来る。
レオンは木剣を振り回さない。
足。
肩。
距離。
バルガスの三方向。
昨日教わった足の置き方。
右斜め。
戻す。
左。
二分半。
息が上がる。
右腕の熱二。
カイの木剣が胸元へ来る。
レオンは避けず、木剣で受けて身体を横へ逃がす。
端まであと半歩。
カイが追う。
「まだ!」
自分へ言う。
踏みとどまる。
三分。
エレナが声を掛けた。
「終了」
レオンはその場で息を吐いた。
カイも止まる。
線の内側。
残っている。
「勝った?」
「今日の条件は達成です」
「だから勝ちでいいだろ」
「訓練目的を満たしました」
「絶対言わないな」
カイは木剣を下げる。
「今日は俺があなたを線外へ出す条件でしたから、その意味では俺が失敗しています」
レオンが顔を上げる。
「じゃあ俺の勝ち?」
「その条件だけなら」
「よし」
ようやく言わせた。
嬉しい。
ただ、次の瞬間にはリーナが来る。
「喜ぶのは測ってからにしてください」
「今くらい喜ばせてよ」
「喜びながら右手を開けばいいでしょう」
確かにできる。
熱二。
痛みなし。
握力低下は昨日より少ない。
ただし呼吸はかなり上がっている。
「昨日より右腕の負荷は少ないです」
リーナが言う。
「本当?」
「その代わり、脚と呼吸へ負担を分散しています」
「良いこと?」
「今のところは」
カイが補う。
「身体全体を使えているということです」
「強くなった?」
「昨日よりは」
レオンが少し笑う。
「今日は言うんだ」
「比較材料がありますから」
そういうところは変わらない。
でも悪くなかった。
◇
昼食後、一行はグランゼ外縁の市場区へ向かった。
目的は遺跡でも契約石でもない。
エリシアが現在の社会で一人でも最低限の買い物と移動をできるよう、貨幣、乗合馬車、店での注文、価格の確認、道を尋ねる方法を実際に経験することだった。
同行はレオン、ノア、リーナ。
カイとエレナは拠点へ残り、壊れた測定器の対応と保管庫案件の通信を受け持つ。
「カイ来ないんだ」
エリシアが少し意外そうに言った。
「神殿騎士が市場の買い物を教える必要はないでしょう」
本人はそう言って残った。
レオンには、それがカイらしいと思えた。
何でも自分で見ようとしない。
任せられるものは任せる。
拠点から馬車停留所まで歩く。
エリシアの布袋には、水筒、小さな財布、薄い上着、簡単な地図だけ。
荷物は軽い。
「財布、落とさないでね」
ノアが言う。
「ここに紐付けてる」
エリシアが腰を見せる。
「中身は?」
「十リム硬貨が二枚、一リムが五枚、あとセルが少し」
「何買う予定?」
「昼に使う小さい布と、髪を結ぶ紐。それから値段を見て、食べ物を一つ」
「全部使わなくていいんだよ」
「分かってる」
レオンが横から聞く。
「俺の分の食べ物も買って」
「自分で買って」
「練習になるじゃん」
「レオンの食べたいものを私が決めるの?」
問い返される。
「じゃあ、俺が言う」
「それなら頼まれた買い物になる」
「細かいな」
ノアが笑う。
「今のはエリシアの方が正しいと思う」
「買ってくれれば何でもいいのに」
「それはレオンが決めてるでしょう」
また負けた。
停留所には十人ほどの人がいた。
商人。
荷物を持った女性。
学生らしい二人組。
作業服の男。
誰もレオンたちを特別には見ていない。
少しして乗合馬車が来る。
既に半分ほど席が埋まっている。
エリシアが一瞬立ち止まった。
「どうする?」
リーナが尋ねる。
「乗る」
「座れなかった場合は?」
「着いたら休む。それでも疲れたら途中で言う」
「分かりました」
乗る。
残っていた座席は二つだけ。
レオンはエリシアを見る。
彼女は自分から座らない。
「座らないの?」
「ノアもいる」
「私は平気だよ」
ノアが言う。
「でも」
「今日はエリシアの歩く量決まってるでしょう?」
「うん」
「じゃあ座って」
エリシアは少し迷い、座った。
もう一席は高齢の女性が乗ってきたため、ノアもレオンも座らなかった。
リーナも立つ。
馬車が動く。
揺れる。
エリシアは窓の外を見る。
家。
店。
人。
道標。
古代とは全く違うはずなのに、目に入ったもの全部へ反応するわけではない。
以前より見慣れてきたのだろう。
「運賃」
御者補助が順番に回ってくる。
エリシアの番。
「三リムです」
エリシアは財布を開く。
十リム硬貨へ手を伸ばし、止める。
一リムを三枚。
渡す。
「はい」
受け取られる。
終わり。
たったそれだけ。
でも、エリシアは硬貨が残った財布を一度確認した。
「できた」
小さく言う。
レオンは笑う。
「それくらい普通だろ」
言った直後、ノアに肘で軽く突かれた。
「何だよ」
「エリシアには初めてでしょう」
「あ」
エリシアは怒っていない。
むしろ少し笑っている。
「いいよ。私もいつか普通になりたいから」
その答えの方がレオンには残った。
特別な古代人として扱われたいわけではない。
普通に馬車へ乗り、自分で金を払い、行きたい場所へ行けるようになりたい。
それも彼女が取り戻そうとしているものだった。
◇
市場へ着いた頃、エリシアの疲労は二程度だった。
約束どおり、最初に休む。
通り沿いのベンチへ座る。
レオンは少し歩き足りない。
でも、今日はエリシアの訓練。
急かさない。
「どのくらい休む?」
エリシアがリーナへ尋ねる。
「時間ではなく、呼吸と脚の重さが戻るまで」
「今、呼吸は普通」
「脚は?」
「二」
「一まで下がったら動きましょう」
エリシアは頷く。
レオンが聞く。
「座ってる間に値段見る?」
「休むんじゃないの?」
「見るだけ」
「それ、レオンが遺跡で言う『見るだけ』と同じじゃない?」
ノアが笑った。
レオンは黙る。
エリシアも笑う。
「休む」
十分ほどで脚の疲労が一まで下がった。
そこから市場へ入る。
人声。
料理の匂い。
金属製品を並べる音。
店主同士の呼び込み。
エリシアは最初、誰の声へ反応すればいいか分からないようだった。
「全部聞かなくていいよ」
ノアが言う。
「呼ばれてるのに?」
「お店の人は通る人みんなに言ってるから」
「私だけじゃない?」
「うん」
「返事しなくても?」
「買いたい店だけでいい」
エリシアは少し安心したように息を吐いた。
最初の店。
布。
値段札。
エリシアが見る。
「これ、五リム?」
店主が答える。
「そっちは一枚五リム。二枚なら九リムだよ」
エリシアが考える。
一枚だけ必要。
二枚買えば一枚あたりは安い。
でも二枚必要とは限らない。
「一枚ください」
「二枚の方が得だよ」
「でも一枚でいいので」
店主はそれ以上勧めなかった。
五リム。
支払う。
布を受け取る。
「断れた」
エリシアが店を離れてから言う。
「何を?」
レオンが聞く。
「二枚」
「欲しくないなら普通だろ」
またノアが見る。
レオンは先に言い直す。
「エリシアには初めてだったな」
「うん」
今回は間に合った。
次の店では髪紐。
三種類。
値段が違う。
エリシアは一番安いものではなく、少し丈夫な中間価格を選んだ。
「何でそれ?」
レオンが聞く。
「一番安いのは細くて、すぐ切れそうだったから」
「一番高いのは?」
「今の私には必要ないと思った」
「ちゃんと考えてるな」
「買い物ってこういうこと?」
ノアが答える。
「たぶん」
その「たぶん」が妙に良かった。
誰も買い物に唯一の正解があるとは言わない。
必要。
好み。
値段。
持ち歩く重さ。
そのときで変わる。
エリシアは少しずつ、自分で決めていく。
◇
食べ物を選ぶため、三人が市場の中央通りへ移ったときだった。
前方から大きな木の割れる音がした。
続いて馬の甲高い声。
人の叫び。
レオンは反射的にそちらを見る。
荷車が傾いている。
片側の車輪が石畳の溝へ落ち、積んでいた木箱が崩れていた。
馬が驚いて身体を振る。
御者が手綱を掴んでいる。
しかし荷台側からさらに箱が落ちる。
通行人が逃げる。
「下がって!」
リーナの声が変わった。
普段の柔らかさが消える。
指示だけが通る。
レオンはエリシアとノアを通りの端へ押し込むように移動させた。
「ここにいろ」
「レオンは?」
「手伝う」
荷車へ向かおうとする。
リーナが先に走っている。
レオンも続く。
木箱の一つが落ち、近くにいた男性の脚へ当たっていた。
別の女性は転倒。
子供が泣いている。
御者は馬を抑えるだけで精一杯。
「レオン、馬には近づかないでください!」
リーナが叫ぶ。
「でも荷車――」
「まず人を離して!」
何をすべきか。
木箱を持ち上げる。
右手の力なら、一気に壊せるかもしれない。
その考えが浮かぶ。
でも、壊せば破片が飛ぶ。
下に人がいる。
使わない。
レオンは周囲を見る。
男性の脚へ木箱。
箱は一人で持ち上げるには重い。
近くの商人が二人いる。
「手、貸してください!」
声を掛ける。
二人が来る。
三人で箱を持つ。
「せーので上げます」
誰が言ったか。
レオンかもしれない。
三人で持ち上げる。
男性の脚が抜ける。
リーナがすぐにしゃがむ。
「動かさないでください。足先の感覚はありますか?」
「ある……痛い」
「どこが一番強いですか?」
「足首」
「膝は?」
「たぶん大丈夫」
リーナが靴を無理に脱がさず、周囲の腫れを確認する。
「レオン、固定具を持ってきてください。ノア、できれば拠点用の記録板じゃなく、そこにいる市場警備へ事故の時刻を伝えて」
「分かった!」
ノアが動く。
レオンも治療袋へ向かう。
エリシアは?
見る。
通りの端。
子供のそばにいる。
泣いている子供へ何か話している。
母親らしい女性が別の負傷者へ付き添っているため、子供が一人になっていた。
エリシアは勝手に抱き上げていない。
隣へしゃがみ、話す。
レオンには声までは聞こえない。
でも、逃げろとは言わない。
大丈夫とも断定していない。
その場にいる。
レオンは固定具を取る。
戻る。
リーナへ渡す。
「次は?」
「馬の方は?」
「御者が抑えてる」
「荷車の後ろへ人が残っていないか確認してください。ただし車体の下へ入らないで」
「分かった」
走る。
荷車の後方。
散らばった木箱。
人影なし。
ただ、一つの箱から油が漏れている。
匂い。
強い。
「油漏れてる!」
レオンが叫ぶ。
市場警備の男が反応する。
「火を消せ! 近くの屋台もだ!」
料理用の火。
近い。
屋台主が慌てて鍋を下ろす。
別の人が砂袋を持ってくる。
レオンも運ぶ。
油の周囲へ砂を撒く。
火事を防ぐ。
その途中で、荷車の馬がまた大きく動いた。
御者が引かれる。
エレナはいない。
カイもいない。
バルガスもいない。
自分たちだけ。
レオンは馬へ近づこうとして止まる。
馬の扱いに慣れているわけではない。
「誰か馬を扱える人!」
声を上げる。
市場の奥から年配の男が走ってくる。
手綱を受ける。
馬の目を布で覆う。
少しずつ落ち着く。
自分が何でもやる必要はない。
できる人を呼ぶ。
それも一つの対処だった。
◇
事故から十五分ほどで、市場警備と近隣の治療所から応援が到着した。
重傷者はいない。
木箱に脚を挟まれた男性は足首の骨折疑い。
転倒した女性は手首を傷めたが、意識は清明。
御者には擦り傷。
子供に怪我はなかった。
リーナは最初の処置を終えるまで現場を離れなかった。
彼女の《慈雫》は傷を一瞬で治す力ではない。
透明な魂力を薄く患部へ纏わせ、乱れた魂力循環を安定させながら、本人の身体が治ろうとする働きを補助する。
骨折そのものを元通りにすることはできない。
出血があれば止血が先。
固定が必要なら固定。
搬送できる状態を作る。
それが彼女の仕事だった。
「レオン、そこの布をもう一枚」
言われる。
渡す。
「水は?」
「本人が飲みたいと言っても、今は少量だけ。搬送先で処置が必要になる可能性があります」
「分かった」
リーナの額には汗が浮いている。
髪も少し崩れている。
《慈雫》を二人へ使ったためだろう。
「リーナ、大丈夫?」
「今は大丈夫です」
「魂力は?」
「まだ余裕があります。ただ、三人目へ高い出力を使う必要が出たら、別の治療者へ交代します」
「自分で分かる?」
「分かるように訓練しています」
答えながらも手は止まらない。
レオンはそこで、自分の右手のことを思い出す。
一回の大きな力。
使ったあと動けない。
リーナは治療でも同じことをしている。
全力で一人を治せばいいわけではない。
次に来る人へ残す。
「治せるのに、全部使わないんだ」
レオンが言う。
リーナが一度だけこちらを見る。
「治療は、一人目だけで終わるとは限りませんから」
「目の前の人をもっと楽にできても?」
「必要な処置を削るわけではありません。ただ、今やらなくても結果が変わらない部分へ力を使いすぎれば、次の人へ必要な治療ができなくなることがあります」
「……戦いと同じだ」
「私は戦っているつもりはありません」
少し笑って答える。
「でも、限られたものをどこへ使うかという意味なら似ているかもしれません」
市場警備が搬送用の担架を持ってくる。
リーナは男性の固定状態を確認してから引き継ぐ。
次。
女性。
次。
御者。
順番を変えない。
声が大きい人から見るわけでもない。
血が目立つ人だけを見るわけでもない。
何が危険か。
何が後でもいいか。
それを分ける。
レオンは自分が思っていた《治療》と違うものを見ていた。
◇
事故処理が一段落した頃、エリシアはまだ市場の端にいた。
泣いていた子供は母親のところへ戻っている。
エリシア自身に怪我はない。
ただ、顔色が少し白い。
リーナがそれを見る。
「エリシア、座りましょう」
「大丈夫」
言ったあと、自分で言い直した。
「……歩けるけど、少し脚が重い」
「どのくらい?」
「三」
「では座ってください」
素直に座る。
レオンも隣へ行く。
「怖かった?」
「うん」
「荷車?」
「音が大きかったのも怖かった。でも、何をしたらいいか分からなかった」
「子供と一緒にいたじゃん」
「あれでよかったのか分からない」
リーナが聞く。
「何をしました?」
「一人で泣いてたから、隣にいた。お母さんがあそこにいることを教えて、今は走らない方がいいって言った」
「十分です」
「助けてない」
「怪我のない子供を危険な荷車から離し、保護者の位置を確認した。それも必要なことです」
エリシアは少し黙った。
「でもレオンは箱を動かして、ノアは警備の人を呼んで、リーナは怪我を治してた」
「全員が同じことをする必要はありません」
「私は何もできないと思った」
「できないことはありました」
リーナは否定しなかった。
「医療処置は、今のエリシアにはできません。重い箱を持つことも難しいでしょう。でも、だから何もできないという意味にはなりません」
エリシアは自分の手を見る。
「古代にいた頃も、こういう事故はあったと思う」
「覚えていますか?」
「はっきりは。でも、誰かが倒れたとき、大人が私を遠くへ連れていった記憶が少しある」
「子供だったなら、安全な場所へ離す判断は自然です」
「今も私は、離れてた方がいい?」
問いの意味が少し変わった。
リーナも気づいたようだった。
「今日の事故では、荷車の近くへ行かない方が安全でした」
「でも、ずっと?」
「ずっととは言いません」
「じゃあ、いつなら行っていい?」
リーナはすぐには答えなかった。
「何をするために行くかが分かり、そのために必要なことを覚えたときです」
「治療?」
「治療をしたいなら、医療訓練が必要です。避難を手伝うなら、人を安全に誘導する方法を覚えた方がいい。記録なら事故現場で何を見るかを知る必要があります」
「覚えたら、私もできる?」
「身体状態が許せば」
エリシアは少し考える。
「じゃあ教えてほしい」
「何を?」
「怪我した人を治すところまではまだ無理でも、誰かが倒れたときに、何をしたら危なくないか」
レオンが彼女を見る。
今日の市場訓練は貨幣と買い物のはずだった。
事故で変わった。
でも、変わったから無駄になったわけではない。
「私も覚えたい」
ノアが言った。
事故記録を市場警備へ渡して戻ってきたところだった。
「レオンは?」
エリシアが聞く。
「俺も」
「右手の訓練あるでしょう?」
「ずっとやるわけじゃないし」
リーナが三人を見る。
「応急手当の基礎なら、臨時拠点でも教えられます」
「今日?」
レオンが聞く。
「今日は戻って休んでください」
「また?」
「事故対応で予定より歩いています」
言われてみれば、確かに。
市場へ来るだけで歩く。
事故で走る。
荷物を運ぶ。
自分でも脚へ疲労が残っている。
エリシアは三。
ノアも普段より呼吸が少し速い。
「明日?」
「全員の状態を見てから」
レオンは笑った。
「分かったよ」
最近、この答えにも慣れた。
◇
帰りの乗合馬車では、行きより人が多かった。
座席は一つだけ。
エリシアはそこへ座った。
今度は迷わなかった。
自分の脚の疲労が三あることを知っている。
レオンもノアも立てる。
だから座る。
それだけ。
途中、年配の男性が乗ってきた。
エリシアは一度席を立とうとした。
リーナが止めなかった。
ただ尋ねた。
「立って帰れますか?」
エリシアは考える。
脚。
重い。
市場から停留所まで歩いてきた。
拠点へ着いたあとも十五分歩く。
「……今は座りたい」
「なら、そのままでいいと思います」
エリシアは年配の男性を見る。
「すみません。今日は脚が疲れているので、座らせてもらってもいいですか?」
男性は少し驚いたが、すぐに頷いた。
「もちろんだよ」
それだけ。
エリシアは座り続ける。
しばらくして小さな声で言う。
「言ってよかった」
レオンが聞く。
「何を?」
「立てないほどじゃないから、譲らないと悪いのかなって思った」
「疲れてるなら座ればいいだろ」
「でも、あの人の方が年上」
「年齢だけで決まらないんじゃない?」
ノアが言う。
「必要な人が使うための席でしょう?」
エリシアは窓の外を見る。
「現代って、決めなきゃいけないこと多いね」
レオンが笑った。
「古代は違ったの?」
「覚えてない」
「そっか」
「でも、昔もたぶん決めてたんだと思う。ただ、家族が先に決めてくれてたことが多かったのかも」
その言葉に、レオンはエリシアの両親を思い出した。
顔は知らない。
名前だけ知っている。
ラウル。
セレネ。
自分たちの娘を未来へ送った人。
なぜそうしたのか。
何を考えたのか。
まだ全部は分からない。
「今は?」
レオンが聞く。
エリシアは少し考えた。
「自分で決めたい。でも、全部一人で決めたいわけじゃない」
「どう違う?」
「分からないことは教えてほしいし、危ないときは危ないって言ってほしい。でも、それを聞いたあとで、できることなら最後は自分で選びたい」
レオンは何も言わなかった。
それは、自分も同じかもしれない。
カイに危険を教えられる。
リーナに身体の限界を言われる。
バルガスに戦い方を教わる。
父に荷物を見てもらう。
それでも、最後に進むかどうかは自分で決めたい。
「レオンも?」
エリシアが尋ねる。
「うん」
ノアが二人を見る。
「似てるね」
「どこが?」
二人の声が重なった。
前にもあった。
ノアが笑う。
「そこ」
また返せなかった。
◇
臨時拠点へ戻ると、カイとエレナが入口で待っていた。
事故の連絡は市場警備から既に届いている。
「負傷は?」
カイが最初に聞いた。
「俺たちはなし」
レオンが答える。
「エリシアの疲労が三。俺は脚二くらい。ノアは?」
「二かな」
「リーナは?」
カイが見る。
「《慈雫》を二名へ使用しました。今日は追加の高出力治療を避けます」
「分かりました」
それぞれの状態が記録される。
事故が終わっても、負担は消えない。
「測定器は?」
レオンが尋ねる。
カイの表情が少し変わる。
「補助遮断回路の部品が劣化していました」
「直せる?」
「部品交換はできます。ただし、同じ型の回路を使う別の測定器も確認する必要が出ました」
「じゃあ明日も俺の試験なし?」
「少なくとも朝からは行いません」
残念。
でも、今日の市場事故を考えれば、無理に急ぐ気にはなれなかった。
「保管庫は?」
ノアが尋ねる。
エレナが答える。
「未契約石は変形したまま静止しています。追加の魂力吸収は確認されていません」
「じゃあ何も分からない?」
レオンが聞く。
「床面と保管台から、石が変形した際に内部から固定具を押した可能性を支持する痕が見つかりました」
「石自身が変わった説が少し強くなった?」
「少しだけです」
「誰かに反応した可能性は?」
「残っています」
答えはまだ出ない。
それでいい。
今日は別のことを学んだ。
「カイ」
エリシアが言う。
「明日、リーナから応急手当を教わりたい」
カイが少し意外そうに見る。
「なぜです?」
「今日、市場で事故があったから」
「医療者になるつもりですか?」
「分からない。でも、誰かが怪我したときに危ないことをしないくらいは知りたい」
カイはリーナを見る。
「可能ですか?」
「基本なら」
「なら、俺から止める理由はありません」
「レオンとノアも」
カイが二人を見る。
「あなたたちも?」
「俺も」
「私も」
「では、明日の訓練予定を調整します」
レオンが少し驚く。
「右手の訓練減る?」
「時間は減ります」
「……まあいい」
カイが眉を僅かに上げる。
「反対しないんですね」
「今日、箱の下に人がいたとき、力使うより先に何したらいいか分からなかったから」
「右手で壊そうとは?」
「一瞬思った」
「使わなかった理由は?」
「破片飛ぶかもしれないし、下に人いたから」
カイは頷く。
「妥当です」
「でも、あれがもっと重くて三人でも持てなかったら、使った方がよかったかもしれない」
「そうでしょうね」
「だったら、そういうのも知りたい」
「何を?」
「いつ力を使うか」
カイは少し考えた。
「それは医療だけでは決まりません」
「分かってる」
「ただ、負傷者がいる場所で何を優先するかを知ることは役に立つと思います」
レオンは頷く。
今日、戦っていない。
それでも、戦闘訓練より疲れた気がする。
市場の事故は敵がいなかった。
倒す相手もいなかった。
それでも判断は必要だった。
誰を動かす。
何を止める。
どこへ力を使わない。
誰へ頼む。
それもまた、自分に足りないものだった。
◇
夕食後、リーナは高出力の《慈雫》を使わない代わりに、負傷記録を整理していた。
レオンたちはその机へ集まる。
市場事故。
男性一名、右足首骨折疑い。
女性一名、右手首捻挫疑い。
御者、軽い擦過傷。
子供、負傷なし。
馬、軽度の擦り傷。
荷車、車輪破損。
油漏れ。
出火なし。
一つずつ残す。
「治療した人、明日には治る?」
レオンが尋ねる。
「骨折していれば数週間以上掛かります」
「《慈雫》使っても?」
「はい」
「もっと強く使えば?」
「骨を一瞬で元通りにはできません」
リーナは自分の左手首の腕輪を見る。
「《慈雫》は、身体が治る働きを助け、魂力循環を安定させる石です。失われた組織を無制限に作ったり、死んだ人を戻したりするものではありません」
「でも普通より早くなる?」
「状態によります。適切に固定して休むことも同じくらい重要です」
「治療石があっても、休むんだ」
「当然です」
レオンは少し笑う。
「俺と同じか」
「身体である以上は」
エリシアが聞く。
「治せない人が来たら?」
リーナの手が僅かに止まった。
「私には治せないこともあります」
「そのときは?」
「できることをします」
「苦しくないようにするとか?」
「それもあります。別の治療者へ繋ぐこともあるし、手術が必要なら設備のある場所へ送ることもあります」
「それでも駄目だったら?」
リーナはすぐに答えなかった。
「それでも、治療者が勝手にその人の価値を決めることはできません」
エリシアが静かに見る。
「治るかどうかと、生きる価値は別だから?」
「はい」
レオンも聞いていた。
力がある。
治せる。
だから医療者がその人の未来を決める。
そういうことではない。
「じゃあ、本人が治療嫌って言ったら?」
レオンが尋ねる。
「意思を確認できる状態なら、基本的には理由を聞きます」
「危ないのに?」
「命に関わる場合でも、本人が状況を理解できるなら説明します」
「それでも嫌なら?」
「簡単ではありません」
リーナは言葉を選ぶ。
「本人が判断できる状態なのか、拒否する理由は何か、今すぐ処置しなければ取り返せないのか。それぞれで変わります」
「カイと同じだ」
エリシアが言った。
レオンもそう思った。
公共安全。
治療。
領域は違う。
でも、誰かを守るために本人の希望をどこまで越えていいのかという問題は似ている。
「リーナは、本人が嫌だって言ったら絶対何もしない?」
ノアが聞く。
「いいえ」
「じゃあ強制することもある?」
「意識がなく、出血を止めなければ死ぬような場合なら、本人へ確認できないまま治療します」
「それは本人の代わりに決めてる?」
リーナは少し考えた。
「そう見える部分はあります」
「嫌じゃない?」
「怖いです」
即答だった。
レオンは少し驚く。
リーナは治療中、迷っているようには見えなかった。
「怖くてもやるの?」
「待った結果として戻せないものがあるときは」
カイと同じ言葉。
戻せないもの。
死。
大きな損傷。
だから緊急時には介入する。
でも、それを理由に普段から全部決めていいわけではない。
「今日、エリシアが市場へ行くの止めようとは思わなかった?」
レオンが尋ねた。
「なぜ?」
「事故もあったし、まだ体力戻ってないから」
「事故が起きると事前に分かっていましたか?」
「分からない」
「市場へ行くこと自体が、現在の身体状態では許容できない危険でしたか?」
「違うと思う」
「なら、行かせない理由はありません」
「でもリーナが止めれば、事故には遭わなかった」
リーナは少しだけ目を細めた。
「結果を知ったあとなら、そう言えます」
「じゃあ止めた方が正しかった?」
「私はそうは思いません」
エリシアがリーナを見る。
「どうして?」
「事故に遭わないように生きるなら、外へ出ないことが一番安全かもしれません」
誰もすぐには言葉を返さない。
「でも、それを私がエリシアの人生として決めることはできません」
エリシアの指が机の上で僅かに動いた。
「今日、市場へ行ってよかった?」
リーナが尋ね返した。
エリシアは考える。
事故。
怖かった。
脚も疲れた。
でも、自分で馬車代を払った。
布を買った。
二枚勧められて断った。
席へ座る必要を自分で判断した。
子供のそばにいた。
応急手当を覚えたいと思った。
「よかった」
はっきり答えた。
「怖かったけど、行ってよかった」
「なら、今日の経験を使って次の条件を考えればいいと思います」
リーナはそう言った。
レオンはそのやり取りを見ながら、神殿がエリシアを中央へ移そうとしていた話を思い出した。
安全。
守る。
危険から遠ざける。
必要な場合はある。
でも、何も起きない場所へ閉じ込めることが、その人の望む安全とは限らない。
カイが途中から即時移送をやめた理由も、以前より少しだけ分かった気がした。
◇
記録整理が終わりかけた頃、エレナが通信紙を持って入ってきた。
「北西保管庫から追加報告です」
レオンがすぐに見る。
「石?」
「はい」
全員が集まる。
未契約石。
刃状変形を維持。
周辺の魂力を遮断した保管箱へ移したところ、形状に変化なし。
新たな吸収反応なし。
そして。
「変形後、表面へ非常に薄い線状模様が出ています」
「模様?」
エレナが写しを出す。
暗灰色の刃。
その中央に細い線。
文字には見えない。
単なる亀裂にも見える。
「古代文字?」
エリシアが顔を近づける。
エレナが紙を少し手前へ寄せる。
「分かりますか?」
エリシアはしばらく見る。
「分からない」
「見たことは?」
「たぶん、ない」
「なら今はそれで十分です」
レオンも見る。
何も感じない。
右手も反応しない。
「これ、俺たちが見ても意味なさそうだな」
「今は」
ノアが言う。
「でも記録には残す」
彼女は仮登録した別冊へ書き始める。
レオンはそれを見た。
ノアは今日から正式な調査記録の一部へ入った。
エリシアは市場へ出て、自分で買い物をした。
自分は模擬戦で、力を使わずに三分残った。
リーナは事故現場で、一人へ全部を使わず次の患者へ余力を残した。
一日で大きな答えは出ていない。
でも、できることが少しずつ変わっている。
「この記録、次は誰が見る?」
レオンが尋ねた。
エレナが答える。
「保管庫側の解析担当と、王国の魂晶技師。それから、必要な範囲を神殿へ送ります」
「古代資料を読む人はいない?」
「現在照会中です」
「フィリアみたいな研究者なら分かるかも」
名前を出してから、レオン自身が少し止まる。
フィリア・エルセイド。
以前から異常な古代記録を追っている研究者。
まだ今回の臨時班へ正式参加しているわけではない。
しかし、古代施設や《RZ》表記へ関心を持っていた人物として、神殿側の資料にも名前が出ていた。
カイがレオンを見る。
「なぜフィリアを?」
「古代の記録調べてるって聞いたから」
「彼女は神殿所属ではありません」
「だから何?」
「未公開資料を渡すには手続きが必要です」
レオンは少し苛立つ。
「分かる人に見せた方が早いだろ」
「情報管理もあります」
「また規則?」
「はい」
「それで遅れて、分かることまで分からなくなるのは?」
カイはすぐには答えなかった。
SCの障害。
所属規則と本人判断。
まさにそこだった。
「可能性はあります」
カイが答える。
「じゃあ見せよう」
「俺だけでは決められません」
「現地判断権あるんじゃなかったのか?」
「エルダ村の危険対応についてです。王国保管庫の内部資料を第三者へ渡す権限とは別です」
レオンは机へ手を置いた。
「分けすぎじゃないか?」
「分けなければ、誰でも好きな資料を外へ出せます」
「でも今回は必要かもしれない」
「だから申請します」
「いつ返事来る?」
「分かりません」
「遅い」
「可能性はあります」
腹が立つ。
カイもそれを否定しない。
「だったら、何もできないのか?」
レオンが聞いた。
エレナが口を挟む。
「公開可能な情報だけなら、先に照会できます」
レオンが見る。
「どこまで?」
「石の外形、採取年代、未契約であること、今回初めて変形したこと、それから線状模様の形。保管庫位置や警備構造、他の保管石情報を外せば、機密性はかなり下がります」
カイも考える。
「それなら、王国担当者の許可だけで外部研究者へ技術照会できる可能性があります」
「全部渡さなくても聞ける?」
「はい」
レオンの苛立ちが少し下がる。
「じゃあそれでいいじゃん」
「ただし、フィリア本人を指名できるかは王国側判断です」
「何で?」
「外部研究者の選定は契約手続きがあるからです」
「また……」
言いかけて止める。
全部を壊す必要はない。
規則が邪魔なら、規則の中で動ける範囲を探す。
カイが今やったのもそれだ。
「公開できる分を先に出して、それで足りなかったら追加申請?」
「そうできます」
「ならやろう」
カイがエレナを見る。
「王国担当へ提案してください」
「了解しました」
話が進んだ。
結論を一致させたわけではない。
レオンは今でも、もっと早く資料を渡した方がいいと思っている。
カイは情報管理を守る必要があると思っている。
でも、その間に方法があった。
エリシアが小さく言う。
「二人とも、最初に言ってることは違ったけど、やることは決まったね」
レオンが少し笑う。
「最近こればっかりだな」
カイも否定しなかった。
◇
夜も遅くなり、全員がそれぞれの部屋へ戻る前に、リーナが明日の予定を確認した。
午前。
レオンとエリシア、ノアへ応急手当の基礎。
出血時の圧迫。
骨折疑いの部位を不用意に動かさないこと。
意識確認。
呼吸確認。
救援要請。
できること以上へ手を出さないこと。
その後、身体状態が良ければレオンは足運びと短い模擬戦。
エリシアは今日買ったものの整理と、貨幣残額を自分で記録する。
ノアは正式記録補助として、午前中に情報区分の説明を受ける。
午後。
測定器修理状況次第で、《レグナ・ゼオ》の模擬反応試験を再開する。
「全部やるの?」
レオンが予定表を見る。
リーナが答える。
「全部を最大量やるわけではありません」
「また分ける?」
「はい」
「応急手当のせいで模擬戦減る?」
「減ります」
「……いい」
自分で選んだ。
覚えたいと言った。
なら、その分だけ時間は使う。
エリシアが横で笑う。
「何?」
「ちゃんと自分で選んだなと思って」
「みんな同じこと言うのやめて」
「でも本当だから」
ノアも笑っている。
レオンは諦めた。
明日は今日より強くなる。
そういう一日ではないかもしれない。
包帯の巻き方を覚える。
誰かが倒れたときに最初に何を見るかを覚える。
足を一歩正しく出す。
測定器が直るのを待つ。
それでも全部、次に遺跡へ入ったとき役に立つ。
そして、エリシアには遺跡とは関係なく役に立つ。
今の世界で生きるために。
「カイ」
レオンが最後に呼ぶ。
「何です?」
「今日の市場の事故、神殿の記録にも送る?」
「調査案件と直接関係しない部分は送りません」
「リーナの治療だけは?」
「物資消費として記録します」
「じゃあ、エリシアが買い物できたことは?」
「神殿へ報告する必要はないでしょう」
レオンは少し笑った。
「よかった」
エリシアが尋ねる。
「何で?」
「何でも神殿に記録されるの嫌だろ」
「うん」
カイは少しだけ考えたあと、言った。
「本人の生活全部を、保護記録へ入れる必要はありません」
その言葉にエリシアが顔を上げる。
カイ自身も、どこかで考えを変えているのかもしれない。
レオンには、その理由までは分からない。
セリオスから何か言われたのかもしれないし、エルダ村でのやり取りから自分で考えたのかもしれない。
だから決めつけない。
今確認できるのは、カイがそう言ったことだけだった。
「じゃあ今日、私がどの髪紐を買ったかも書かない?」
エリシアが少し冗談っぽく尋ねる。
「書きません」
「二枚買うと安い布を一枚だけ買ったことも?」
「神殿には不要です」
「馬車で席を譲らなかったことも?」
「……それも不要です」
レオンとノアが笑う。
カイが僅かに困った顔をする。
エリシアも笑った。
それで一日が終わった。
古代施設の正体は分からない。
未契約石がなぜ変形したかも分からない。
《レグナ・ゼオ》の安全試験も始まっていない。
それでも、今日得た判断材料は少なくなかった。
レオンは自分の力を使わず人を助ける場面を経験した。
エリシアは危険がある世界でも、自分で外へ出ることを選んだ。
ノアは記録補助という新しい立場を引き受けた。
リーナは治療する力があるからこそ、全部を自分で決めてはいけないことを示した。
そしてカイは、規則を捨てずに情報を必要な相手へ渡す別の経路を選んだ。
答えは一つになっていない。
それでも次に誰が何を確かめるかは決まっている。
王国側は未契約石の線状模様を公開可能資料へ変換し、外部の古代資料研究者へ照会を出すことになった。
レオンたちは翌朝の応急手当訓練を終えたあと、未契約石の線状模様を含む公開資料がどの研究者へ渡されたのかを確認することにした。




