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『ソウルストーン ~神々を滅ぼす最後の継承者~』  作者: シロの空


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第3章《継承者修練編》 第26話《神を滅ぼす意味》

●評価●ブックマーク●アクション●感想●

26話の感想待ってます!


読者様が応援してくれると嬉しいです!

翌朝、リーナ・セルフィアが臨時調査拠点の治療区画を開けたとき、前日の市場事故で使った治療布は洗浄を終えて乾燥棚へ並び、薬草液を煮出した鍋からは少し苦みを含んだ匂いが残っていた。


市場で《慈雫》を二人へ使った影響は夜のうちにほぼ抜けていたものの、左手首の契約石へ魂力を流したときの感覚は普段より僅かに重い。高出力治療を続ける必要がある状況ではないため、今日は自分の魂力を使って治す訓練ではなく、誰でも行える応急処置をレオンたちへ教える予定だった。


机には三人分の布、木製の固定板、三角布、水の入っていない水筒、そして練習用の人形が用意してある。


「人形でやるの?」


最初に部屋へ入ってきたレオンが、机の上を見て少し残念そうに言った。


「最初から本物の負傷者を用意するわけにはいきません」


「それは分かるけど」


「昨日は事故現場で必要に迫られて動きました。今日は急がなくていい状態で、昨日何をして、何をしなかったのかを確認します」


レオンは頷き、右腕を軽く回した。


昨日の模擬戦による熱感は残っていない。


脚の筋肉疲労も一程度まで下がっている。


その情報は既に本人から聞いていたが、リーナは後でもう一度触診するつもりだった。


少し遅れてノアとエリシアが入ってくる。


ノアは昨日から使い始めた別冊の調査記録を持っており、エリシアは市場で買った新しい髪紐を使って長い髪を後ろでまとめていた。


「それ、昨日の?」


レオンがすぐ気づいた。


「うん」


「自分で結べた?」


「髪くらい古代でも結んでたよ」


「そうだった」


「何でも現代で初めてだと思わないで」


エリシアは少し笑っている。


レオンも謝るというより、納得したように頷いた。


リーナはその会話を聞きながら、三人を机の周囲へ座らせた。


「昨日の事故で、最初にやったことを覚えていますか?」


ノアが先に答える。


「危ない場所から人を離す」


「はい。ただし、自分まで危険な場所へ入らないことも含みます」


レオンが続ける。


「怪我した人を見た」


「何を見ました?」


「意識があるか。どこが痛いか」


「それも必要です。でも、最初にもっと簡単な確認があります」


エリシアが少し考える。


「呼吸?」


リーナは頷いた。


「意識と呼吸、それから大量の出血です。細かな傷の場所を全部確認するより、今すぐ失われるものがあるかを先に見ます」


三角布を広げる。


「昨日、足首を負傷した男性をすぐ立たせなかった理由は分かりますか?」


レオンが答える。


「骨が折れてるかもしれなかったから」


「はい。さらに、本人が『歩ける』と言っても、その言葉だけで立たせないことがあります」


エリシアが聞く。


「本人より、治療する人の判断を優先する?」


昨日の夜から続いている問いだった。


リーナは少し考えてから答える。


「その瞬間だけなら、そう見えることがあります。ただし、私は本人の意見を無視しているつもりではありません」


「どう違うの?」


「本人が知らない危険を説明できるからです」


固定板を人形の脚へ当てる。


「たとえば骨が折れている可能性があるとき、本人は痛くても歩けると思うかもしれません。でも歩いたことで骨がずれ、血管や神経を傷つければ、そのあと元へ戻せない損傷になる可能性があります」


「だから止める?」


「はい。ただし、『治療者だから言うことを聞け』ではなく、『なぜ止めるのか』を説明できるなら説明します」


ノアが記録する。


「説明する時間がなかったら?」


「命に関わる場合は、先に処置することもあります」


「その判断が間違ってたら?」


リーナの手が少し止まった。


良い質問だった。


「間違えることはあります」


レオンが顔を上げる。


リーナは続ける。


「だから医療では、何を見て判断したかを記録します。意識がなかった、呼吸が弱かった、出血量が多かった。その時点で何が分かっていて、何が分からなかったかを残すんです」


「後から責めるため?」


レオンが尋ねた。


「それだけではありません。同じ状況で次に判断する人が、前の人と同じ失敗をしないためです」


ノアの筆が一瞬止まり、それからまた動く。


彼女は記録補助を引き受けてから、以前より「何を書くか」だけでなく「なぜ残すか」を意識するようになっているようだった。


「じゃあ、昨日の市場事故も?」


ノアが聞く。


「治療記録として残します」


「私たちが何したかも?」


「必要な部分だけです。レオンが箱を三人で持ち上げたことは、負傷者をどう救出したかという意味で残す価値があります。でも、エリシアがどの髪紐を買ったかは医療記録には必要ありません」


エリシアが笑った。


「カイと同じこと言ってる」


「何がです?」


「生活全部を保護記録へ書かなくていいって」


リーナは少しだけ考えた。


「それは大事だと思います」


記録は役に立つ。


でも、役に立つから何でも書いていいわけではない。


医療者は身体へ触れる。


家族にも言わないことを聞く場合もある。


だから、知ったことを持っているだけで自分のものだと思ってはいけない。


「次は圧迫止血です」


リーナは話を戻した。


布を折る。


傷口へ直接押し当てる位置。


血が染みても最初の布をすぐ剥がさず、その上から追加する場合があること。


傷へ異物が刺さったままなら、勝手に抜かないこと。


呼吸していない人を見つけた場合は一人で全部やろうとせず、まず周囲へ助けを求めること。


三人とも真剣に聞いている。


レオンは特に、自分が力で解決できない状況の話になると質問が増えた。


「血が多くて、押さえても止まらなかったら?」


「さらに圧迫しながら治療者を呼びます」


「俺の右手で傷の周りを固めるのは?」


「何を固めるんですか?」


問われ、レオンが止まる。


「……分からない」


「なら使わないでください」


「でも死にそうなら?」


「他に手段がなく、使えば助かる根拠があるなら話は変わります。でも、分からない力を傷口へ入れること自体が新しい損傷になる可能性もあります」


「何もしないで死ぬかもしれない場合でも?」


リーナはすぐには答えなかった。


その状況は、治療者にとって最も苦しいものの一つだった。


安全な方法では間に合わない。


危険な方法なら可能性がある。


本人が意識を失っている。


時間がない。


そういう場面では、完全に正しい答えなど与えられない。


「そのときは、何を失う可能性が高いかを比べます」


「命と、傷が悪くなること?」


「そういう比較になる場合もあります」


レオンは黙って聞いている。


「でも、そこまで追い込まれてから考えるより、普段から自分の力で何ができて、何ができないか確かめておく方がいいんです」


「だから測定器?」


「はい」


レオンの表情が少し変わる。


昨日まで何度も延期された《レグナ・ゼオ》の反応試験。


本人にとっては、進めたい訓練を止める装置に近かったかもしれない。


でも、治療側から見れば逆だった。


緊急時に未知の力しか残らない状況を減らすため、平時に安全な範囲を確かめる。


「なるほど」


レオンが小さく頷いた。


「じゃあ、応急手当も右手の訓練なんだな」


「直接の訓練ではありません」


「でも、使わない方がいい場面を知るのも必要だろ?」


リーナは少し笑った。


「その意味なら、そうですね」


     ◇


応急手当訓練を終えたあと、ノアは仮登録の情報区分説明を受けるためエレナと別室へ移り、レオンとエリシアは測定器の修理状況を確認することになった。


リーナも同行する。


昨日壊れた補助遮断回路は部品交換が終わっていたものの、同じ型の部品が別の装置にも使われているため、王国技師は調査拠点にある予備測定器をすべて止めて点検していた。


つまり、直った一台だけを見て試験再開とはいかない。


「全部?」


レオンが並べられた装置を見て尋ねる。


「同じ劣化がある可能性が出た以上、同型は全部です」


技師が答える。


「これ、いつ終わる?」


「昼までには」


「俺の試験は?」


「早くても午後です」


レオンは少し肩を落とした。


しかし昨日ほど不満を口へ出さなかった。


応急手当の話をした直後ということもあるのだろう。


壊れる可能性がある装置へ、自分の右手をつなぎたいとは思わないはずだった。


「公開資料の方は?」


エリシアが尋ねた。


未契約石の線状模様。


古代資料研究者への照会。


その結果を確認する約束があった。


カイが通信紙を持ってきた。


「王国側から照会先が決まりました」


レオンがすぐに聞く。


「誰?」


「フィリア・エルセイドです」


レオンの表情が変わる。


「本当に?」


「彼女の所属する研究機関ではなく、独立研究者としての技術照会です」


「違うの?」


「違います」


フィリアは学術都市エルセイドの研究機関へ籍を置いていた時期もあるが、現在は独立して古代記録と魂晶異常を追っている。神殿の記録庫へ不正に入った件もあるため、神殿から見れば信用できる資料提供者と、規則違反を起こした人物という二つの評価が並んでいた。


「だから全部渡さない?」


レオンが聞く。


「それだけが理由ではありません」


カイは公開資料を机へ置いた。


未契約石の外形。


変形後の寸法。


採取年代。


表面の線状模様。


魂晶灯の逆流反応。


ただし保管場所、警備構造、他の石の配置、夜勤者の個人情報は削られている。


「研究者へ必要な情報と、保安上必要な情報を分けました」


エリシアが資料を覗く。


「これで分かる?」


「分からない可能性もあります」


「足りないって言われたら?」


「必要な理由を聞き、追加できる範囲を検討します」


レオンが頷いた。


以前なら、最初から全部見せればいいと言っただろう。


今もそうした方が早いとは思う。


でも、個人情報や警備構造まで渡す理由がないことは理解できる。


「返事はいつ?」


「早ければ今日中です」


「遅ければ?」


「数日」


「遠い?」


「現在地は学術都市エルセイドではなく、グランゼ方面へ移動中だという記録があります」


レオンが驚く。


「近いの?」


「通信上では、この拠点から一日程度の距離です」


「じゃあ直接来るかも?」


カイは少し考える。


「それは本人と王国側の判断です」


「来てほしい」


「理由は?」


「紙だけより、俺たちが見たもの説明できる」


「未契約石の案件とあなたの案件を同じものとして扱わない条件なら、意見として伝えることはできます」


また条件。


でも、必要な条件だ。


レオンは頷いた。


「それでいい」


リーナはそのやり取りを聞きながら、レオンの変化を少しだけ感じていた。


以前の記録で読んだ彼なら、知りたいと思った瞬間に「呼ぼう」と決めていたかもしれない。


今は、希望を言う。


理由を出す。


相手の側にも条件があることを受け入れる。


完全に慎重な人間になったわけではない。


むしろ知りたいという衝動は強いままだ。


そこを失わず、行動だけ少し変わっている。


「リーナ」


エリシアが呼んだ。


「何でしょう?」


「今日の私の訓練は?」


「昨日の市場移動で疲労が残っていないか確認してからです」


「何する予定?」


「自分で昼食を選んで、必要な量を考えてもらいます」


レオンが笑う。


「それ訓練?」


「エリシアには必要です」


「昨日買い物できたじゃん」


「買えることと、数日分の生活を考えて選べることは違います」


エリシアが興味を示す。


「予算も?」


「はい」


「自分で全部決めていい?」


「今日の範囲では」


「何が範囲?」


「栄養と体調上、食べられないものだけは止めます。それ以外は自分で選んでください」


エリシアは少し嬉しそうだった。


戦闘訓練を与えられたレオンと、ほとんど同じ顔をしている。


本人にとって必要な修練の形が違うだけなのだろう。


「俺も選びたい」


レオンが言う。


「あなたは普段から選んでいるでしょう」


「予算決めて買うの面白そう」


「なら自分の食費でしてください」


「冷たいな」


エリシアが笑う。


その笑い声があるだけで、治療区画とは違う日常が少し戻っているように感じられた。


     ◇


昼前、リーナはエリシアとともに臨時拠点の補給所へ向かった。


市場まで出る必要はない。


調査隊用の食料を管理する小さな倉庫では、毎朝その日に使える食材と価格換算が掲示されている。


これは正式な商店価格ではないが、補給計画を学ぶには十分だった。


パン。


乾燥豆。


根菜。


卵。


干し肉。


塩漬け魚。


果物。


少量の乳製品。


食事として必要な分を選ぶ。


ただし予算は十二リム相当。


エリシアは最初に果物へ目を向けた。


そのあと価格を見る。


一つ二リム。


「高い?」


リーナが尋ねる。


「昨日の布が五リムだったから、それよりは安い。でも一食で二リム使うのが高いか分からない」


「では、他のものも見ましょう」


エリシアは全部の価格を見る。


パン。


豆。


卵。


野菜。


魚。


少しずつ比較する。


「リーナなら何買う?」


「今日はエリシアが選ぶ訓練です」


「答えを聞くんじゃなくて、参考にしたい」


リーナは少し考えた。


確かに、何も言わないことが自立を助けるとは限らない。


「私なら、今日は治療で魂力を多く使う予定がないので、パンと豆、野菜、それから少量の魚にします。昨日《慈雫》を大量に使っていたなら、もう少し身体へ負担の少ない食事を選ぶかもしれません」


「同じ人でも変わる?」


「はい」


「じゃあ正解が一つじゃないんだ」


「栄養が極端に不足するような選び方はありますが、その範囲内なら一つではありません」


エリシアはもう一度棚を見る。


パン。


豆。


野菜。


卵。


最後に果物。


「果物も欲しい」


「予算に入れば」


計算する。


最初は少し時間が掛かる。


それでも自分でやる。


合計十一リム。


残り一。


「これでいい?」


「食べられる量ですか?」


聞かれて止まる。


量を見る。


少し多い。


「卵を明日の朝に回してもいい?」


「保存条件を守れば」


「じゃあ二食分になる」


「はい」


エリシアは頷いた。


「これにする」


そのとき、補給所の外から走る足音が聞こえた。


一人。


速い。


続いて二人。


リーナは自然に入口を見る。


王国兵が顔を出した。


「リーナさん、治療区画へ来てください」


「負傷者ですか?」


「一人。測定室で手を負傷しました」


リーナの表情が変わる。


「意識は?」


「あります。出血あり」


「エリシア」


呼ぶ。


「私は戻ります。ここから一人で拠点へ戻れますか?」


エリシアもすぐに真剣な顔になる。


「戻れる」


「足の疲労は?」


「一」


「道は?」


「覚えてる」


「分かりました。買ったものを持てますか?」


「全部でそんなに重くない」


リーナは少しだけ迷った。


一緒に戻る。


それが一番安全。


しかし治療区では負傷者が待っている。


エリシアは今、拠点内の補給所から宿泊棟まで一人で戻れる身体状態にあり、道も把握している。


ここで「危ないから待って」と言う必要があるのか。


「一人で戻りたいですか?」


リーナは尋ねた。


エリシアが少し驚く。


それから頷いた。


「戻ってみたい」


「では、途中で体調が変わったら?」


「近くの兵士か補給所の人に頼む」


「分かりました」


それだけ確認する。


リーナは走った。


背後を何度も見ることはしなかった。


安全だと判断したあとも監視し続ければ、それは「任せた」とは言いにくい。


不安がないわけではない。


それでも、自分の不安と相手の危険は別だった。


     ◇


測定室の負傷者は、昨日から装置を修理していた王国技師だった。


右手の掌。


切創。


血は出ているが、意識清明。


床には分解途中の遮断回路が落ち、その横に割れた魂晶の薄片が散っている。


「何が起きました?」


リーナは手袋を着けながら聞く。


技師が答える。


「予備回路の通電試験です。出力を上げたとき、固定枠が割れて破片が飛びました」


「目には?」


「入ってません」


「手だけ?」


「はい」


「痺れは?」


「薬指と小指が少し」


そこでリーナの手が止まる。


単なる浅い切り傷ではない可能性がある。


「指を動かせますか?」


動く。


しかし小指が少し遅い。


「誰か、この人に道具を片づけさせないでください」


レオンが部屋の端にいた。


測定器の確認へ来ていたらしい。


「俺やる」


「破片があります。素手で触らないでください」


「分かった」


レオンはすぐに絶縁手袋を借りる。


カイもいる。


エレナも。


全員が技師を囲むのではなく、作業場所を空ける。


リーナは傷を洗浄する。


痛み。


出血。


指の感覚。


掌の切創そのものより、神経への影響が気になる。


「縫う?」


技師が尋ねる。


「その可能性があります。ただ、ここでは深さを十分に確認できません」


「作業終わってないんです」


「今は手を使わないでください」


「でも交換回路を見ないと、午後の試験が――」


「できません」


リーナははっきり言った。


技師の顔が強張る。


「今日中に終わらせる予定です」


「予定より手を優先します」


「傷は浅いでしょう?」


「痺れがあります」


「それくらいなら――」


「小指側の感覚低下は、神経損傷の可能性があります」


技師が黙る。


カイが尋ねる。


「グランゼの治療院へ送る必要がありますか?」


「はい。ここで無理に縫合して内部を見落とすより、設備のある場所で確認した方がいい」


「移動時間は?」


「馬車で一刻半ほどです」


「今からなら昼過ぎに到着できます」


カイが王国兵へ連絡を出す。


技師はまだ納得しきれていない。


「俺が行ったら、測定器の修理が止まります」


リーナが傷へ布を当てたまま見る。


「止まります」


「レオンの試験も」


「延期になります」


レオンが横で聞いている。


以前なら、そこで顔へ不満が出ただろう。


今日は違った。


「俺のはいい」


技師がレオンを見る。


「でも予定が」


「手、動かなくなる方が困るだろ」


「明日になれば治るかもしれない」


「神経やってたら、明日じゃ遅いんだろ?」


リーナが頷く。


「可能性があります」


技師は自分の右手を見る。


仕事。


測定器。


今日の予定。


その全部が止まる。


本人にとっては軽い判断ではない。


「本人が行きたくないって言ったら?」


レオンがリーナへ聞いた。


技師本人もこちらを見る。


リーナは少し息を整えた。


ここが昨日話した境界だった。


意識はある。


状況も理解できる。


すぐ死ぬ傷ではない。


でも、治療が遅れれば手指機能へ残る可能性がある。


「まず、私は行くことを強く勧めます」


技師へ向き直る。


「この傷が浅い可能性もあります。ただ、今出ている痺れは、見えないところで神経が傷ついている可能性を否定できません。今日確認すれば処置できるものが、数日後には戻りにくくなる場合があります」


「絶対?」


「絶対ではありません」


「行って何もなかったら?」


「それは良い結果です」


「仕事は止まる」


「はい」


「責任は?」


「治療判断については私が記録します」


技師は唇を噛む。


「それでも行かないって言ったら?」


リーナは少し黙った。


「意識も判断力も保たれている今の状態なら、私は縛って連れていくことはしません」


カイが僅かに顔を上げる。


「ただし、行かない場合に起こり得ることは、できる限り説明します。そのうえで本人が決めたことも記録します」


技師がリーナを見る。


「もし俺の指が動かなくなっても?」


「その可能性を知ったうえで選ぶなら」


言うのは苦しかった。


治療者としては行ってほしい。


手を守りたい。


仕事より身体を優先してほしい。


それでも、その願いが強いからという理由だけで、本人から選択を奪ってよいとは思わなかった。


「俺なら行く」


レオンが言った。


リーナが見る。


「何で?」


技師が尋ねる。


「俺も右手壊したら、遺跡調べられなくなるから」


「お前の試験が止まるぞ」


「一日だろ?」


「部品の問題が広がれば数日だ」


「じゃあ数日待つ」


技師は少し驚いた。


「お前、急いでるんじゃないのか?」


「急いでるよ」


レオンは即答する。


「でも、急いでるから技師の手を壊していい理由にはならない」


その言葉で、室内が少し静かになった。


レオン自身も、言ってから何かを考えているようだった。


誰かが自分の目的のために必要。


だから無理をさせる。


それは、今まで何度も拒んできたことと同じ形になり得る。


技師はしばらく右手を見ていた。


やがて息を吐く。


「……行きます」


リーナの肩から僅かに力が抜けた。


「分かりました。固定して搬送します」


「修理は?」


別の技師が部屋の入口から答える。


「俺たちで見ます。ただ、今日の本人試験は無理だ」


「それでいい」


レオンが先に言う。


今度は誰も驚かなかった。


     ◇


負傷した技師を送り出したあと、リーナは測定室の床を確認した。


割れた固定枠。


魂晶片。


作業台。


技師の血が落ちた場所。


すべて清掃前に記録される。


ノアも呼ばれた。


彼女は仮登録後初めて、事故記録を正式資料としてまとめることになった。


「何から書けばいい?」


ノアが尋ねる。


リーナが答える。


「まず時刻。次に作業内容。異常が起きた順番。そのあと負傷状態です」


「原因は?」


「まだ書かないでください」


「固定枠が割れたからじゃないの?」


別の技師が答えた。


「割れたのは事実。でも、なぜ割れたかはまだ分からない」


ノアが頷く。


《固定枠破損》。


《魂晶片飛散》。


《右掌負傷》。


そこまで。


《劣化が原因》とは書かない。


前日の補助遮断回路には劣化があった。


だから今回もそうだと考えたくなる。


しかし今回の固定枠は別部品。


同じ原因と決める証拠はない。


レオンが横から記録を見る。


「昨日までなら『また劣化』って書いてたかも」


ノアが言う。


「私も」


「今は?」


「分からないものは分からないって書く」


「それが一番難しいんだな」


リーナは二人の会話を聞きながら、治療記録を書いた。


右掌切創。


出血中等量以下。


薬指・小指側に感覚低下。


指運動は可能。


神経損傷疑い。


グランゼ治療院へ搬送。


本人へ説明。


本人同意。


最後まで書く。


そのとき、エリシアが部屋へ入ってきた。


手には補給所で選んだ食材の袋がある。


一人で戻ってきた。


「何かあった?」


血の匂いが残っているから分かったのだろう。


リーナが説明する。


技師が負傷。


治療院へ移動。


試験延期。


エリシアはレオンを見る。


「怒ってない?」


「何で俺を見るんだよ」


「試験できなくなったから」


「残念だけど、仕方ない」


「本当に?」


「本当に」


エリシアは少し笑った。


「じゃあ私も一人で戻れた」


話題が急に変わる。


「迷わなかった?」


リーナが尋ねる。


「一回、倉庫の角でどっちか分からなくなった。でも、道標見た」


「誰かへ聞きましたか?」


「聞かなくても分かった」


「足は?」


「一のまま」


「荷物は?」


「持てた」


問題なし。


リーナは頷く。


「次は、もっと遠くでも一人で戻れる?」


レオンが尋ねる。


エリシアは少し考えた。


「まだ分からない」


「市場からとか」


「それはまだ一人で行きたくない」


「何で?」


「道も全部覚えてないし、人が多いから」


「じゃあ今日みたいな距離なら?」


「できると思う」


自分で範囲を言える。


リーナには、それが大きいと思えた。


自立とは、全部一人でできることではない。


どこまでなら一人でできて、どこから助けが必要かを本人が把握することも含まれる。


「リーナ」


エリシアが呼ぶ。


「はい」


「一人で戻っていいって言ったとき、心配じゃなかった?」


正直な質問だった。


リーナも正直に答える。


「心配でした」


「じゃあ何で止めなかったの?」


「心配なのは私だからです」


エリシアが少し目を見開く。


「エリシアが危険だったからではありません」


その違いは重要だった。


自分が不安。


だから相手を止める。


医療者は、その判断をしやすい。


事故を知っている。


失敗例を知っている。


最悪の場合を想像できる。


だから、本人より安全側へ寄せたくなる。


「私は危険を説明できます。でも、私が怖いという理由だけで、あなたができることまで全部止めるのは違うと思っています」


エリシアは袋を抱えたまま、ゆっくり頷いた。


「ありがとう」


「何がです?」


「行かせてくれて」


リーナは少しだけ考える。


「私が行かせた、ではありません」


言い直す。


「エリシアが戻ると決めて、私は今の状態なら可能だと判断しただけです」


エリシアの表情が柔らかくなる。


「そっちの方が好き」


「そうですか」


「うん」


その一言が、リーナには思ったより嬉しかった。


     ◇


昼食は、エリシアが補給所で選んだ食材を使うことになった。


パン。


豆。


根菜。


少量の魚。


果物。


卵は翌朝へ回す。


拠点の厨房を借り、実際の調理は担当者へ任せたが、エリシア自身も何をどのくらい使うか確認した。


食卓にはレオン、ノア、リーナのほか、午前の作業を終えたカイとエレナも座った。


「これエリシアが選んだの?」


レオンが魚を見て尋ねる。


「うん」


「俺の分も?」


「今日は一緒に食べるって聞いたから人数分に直した」


「予算増えた?」


「増えた分は拠点の食費から。私の訓練用予算とは別」


ノアが笑う。


「ちゃんと分けてる」


「そこ間違えたら、自分の十二リムで全員に食べさせることになったから」


レオンも笑った。


食事は特別豪華ではない。


それでも、自分で選んだものが食卓へ並んでいることが嬉しいのか、エリシアは普段より何度も料理を見ていた。


「技師は?」


カイがリーナへ尋ねる。


「治療院へ向かいました。到着後に神経と腱の確認を依頼しています」


「本人試験は延期で問題ありません」


レオンが口を開く。


「俺もそれでいい」


カイが見る。


「聞いています」


「何を?」


「測定室での発言を」


「誰から?」


「エレナから」


「早いな」


「必要な予定変更だからです」


その会話の途中で、エレナが一枚の通信紙を出した。


「フィリア・エルセイドから返答が来ています」


レオンの手が止まった。


「早っ」


「資料受領から一刻程度ですね」


「何て?」


「公開資料だけでは断定不能。ただし、線状模様について《古代魂晶識別符に似た配置規則がある》とのことです」


エリシアが顔を上げる。


「古代の文字?」


「文字とは限らないそうです」


エレナが続ける。


「識別符は、文字を読むためというより、魂晶や部品の用途を機械側が区別するための印として使われた例がある。ただし今回の線状模様が同じものかは現物解析が必要」


レオンがすぐに言う。


「じゃあ来てもらおう」


カイは通信紙の続きへ目を落とす。


「本人からも、現物確認を希望する返答があります」


「来る?」


「王国側が許可すれば」


「どこに?」


「北西保管庫へ直接」


リーナは少し違和感を覚えた。


「この拠点には?」


エレナが首を横へ振る。


「本人は最短で現物を見る方を希望しています」


レオンはむしろ納得したようだった。


「研究者ならそうだろ」


カイは黙っている。


「何?」


レオンが聞く。


「少し気になります」


「何が?」


「現場条件をどこまで確認しているかです」


フィリアは公開資料しか持っていない。


保管庫の警備構造も、周辺の石配置も知らない。


それは意図的に隠している。


にもかかわらず、本人は直接現地へ行くことを希望した。


「行けば分かるんじゃない?」


レオンが言う。


「行ってから入れないと分かる可能性があります」


「許可取ってから行くんだろ?」


「はい」


エレナが続ける。


「王国側は条件付きで認める方向です。保管室内部へ入れるのは担当者同伴、石へ直接触れない、持参機材は事前確認、という条件です」


「それなら大丈夫じゃない?」


レオンはそう言う。


リーナも、現時点では問題があるとは思わなかった。


ただし、カイはまだ通信紙を見ている。


「フィリアは何を持ってくる予定ですか?」


「解析器《星導鏡》」


レオンが聞き返す。


「何それ?」


「複数の反応面から魂力特性を比較する解析器です」


「便利そう」


「便利です」


エレナはそう答えた。


「ただし、現場では設置に場所が必要です」


そこだった。


保管庫。


狭い室内。


封鎖。


他の未契約石。


夜勤。


警備。


大型ではないにしても、多鏡式の解析器を持ち込める空間があるか。


誰も確認していない。


「フィリアに保管室の広さ伝えた?」


レオンが尋ねる。


カイは首を横へ振った。


「公開資料に警備構造を含めなかったため、室内配置も出していません」


「じゃあ《星導鏡》入らないかも?」


「可能性があります」


レオンが少し笑った。


「来る前に聞いた方がいいな」


エレナが追加通信を送る。


そこまでなら、小さな行き違いで終わるはずだった。


     ◇


返答が来たのは昼食が終わる直前だった。


フィリア自身ではなく、北西保管庫から。


《フィリア・エルセイド、既に到着》


全員が一瞬黙った。


レオンが最初に口を開く。


「早くない?」


エレナが通信時刻を見る。


「資料を受け取った時点で、既に保管庫方面へ移動中だったようです」


続報。


《持参解析器《星導鏡》、保管室入口を通過できず》


レオンが吹き出しそうになり、慌てて口を閉じる。


「笑うなよ」


ノアが言う。


「いや、だって」


カイは笑わない。


「それだけですか?」


さらに読む。


《フィリア本人、解析器の分解搬入を提案》


《保管庫担当は、機材内部を確認できないため拒否》


《フィリア、入口外からの遠隔測定を提案》


《保管庫側、壁材に魂力遮蔽層があり精度不足の可能性を指摘》


レオンの笑いが消える。


つまり、研究室なら使える装置をそのまま現場へ持ってきたが、設置条件が合わない。


「どうするんだ?」


エレナが続きを読む。


《フィリア、対象石のみ屋外解析区画へ移送する案を提示》


そこでカイの表情が変わった。


「移動条件は確認したのか?」


次の行。


《保管庫担当、変形後の石を未検証状態で移動させることを拒否》


「そりゃそうだろ」


レオンも分かる。


石がなぜ変形したのか分からない。


移動時に何が起きるかも分からない。


解析するために動かし、その移動で事故を起こしたら意味がない。


「フィリアは?」


《現場側と協議継続》


そこまで。


「失敗したの?」


エリシアが尋ねた。


カイが答える。


「現時点では、予定していた方法で解析できていません」


レオンが少し笑う。


「研究者でもこうなるんだな」


リーナは笑わなかった。


自分にも似た失敗はある。


設備のある治療所ならできる。


現場ではできない。


薬がある前提。


清潔な水がある前提。


担架がある前提。


それを忘れて事故現場へ入れば、知識があっても役に立たない。


「行きたい」


レオンが言った。


「保管庫へ?」


「うん。フィリアとも話してみたい」


カイは考える。


「今日中は難しいでしょう」


「何で?」


「片道の移動時間。それにあなたは午前中の訓練と昨日の疲労がある」


「今日は模擬戦してない」


「応急手当訓練と測定室対応はしています」


リーナも口を挟む。


「身体的には移動だけなら可能だと思います。ただ、往復して夜になるなら勧めません」


「一泊?」


「それなら荷物が必要です」


レオンは黙る。


移動。


水。


食料。


着替え。


治療用品。


急に行く。


以前なら、そのまま出たかもしれない。


今は、それを考えられる。


「明日なら?」


カイが答える。


「保管庫側が受け入れるなら」


「フィリア、まだいる?」


「解析できなければ残る可能性はあります」


「じゃあ聞いて」


「本人が明日もいるかを?」


「うん」


カイがエレナを見る。


追加通信。


レオンは待つ。


苛立たないわけではない。


でも、歩き出さない。


リーナはそれを見ていた。


     ◇


午後、測定器試験は正式に延期された。


負傷した技師の診断結果は、幸いにも神経断裂なし。


深い切創による一時的な圧迫が主因と見られ、処置後の感覚も少しずつ戻っている。


ただし数日は右手を使う細かな作業を避ける。


本人は治療院へ一泊。


拠点への復帰時期は未定。


「よかった」


レオンが言った。


リーナも同じだった。


それでも、事故が「結果的に軽かった」から、無理をして作業させてもよかったことにはならない。


そこを混ぜてはいけない。


夕方、リーナは使用した治療物資を数えた。


洗浄布三枚。


固定布二枚。


手袋一組。


消毒液。


小型包帯。


市場事故分と合わせると、予定より消費が早い。


グランゼから次の補給便が届くのは二日後。


通常なら足りる。


ただし遺跡再調査や保管庫移動まで始まれば、余裕は少ない。


「十二枚残り?」


ノアが記録を見る。


「未開封の治療布は十二枚です」


「少ない?」


「日常だけなら十分です。でも戦闘や事故が重なれば足りません」


レオンが聞く。


「保管庫行くなら持ってく?」


「最低限は」


「遺跡用が減る?」


「はい」


レオンは少し考えた。


以前なら、遺跡用は残せと言ったかもしれない。


「補給来るまで遺跡行かなきゃいいか」


リーナが見る。


「それでいいんですか?」


「保管庫と両方やったら物資足りないんだろ?」


「余裕は減ります」


「じゃあ一個ずつ」


バルガスから言われた言葉。


一個ずつ。


レオン自身が使うようになっている。


「カイにも言う」


「相談してください」


「リーナはどっち優先?」


問いが来る。


リーナは少し考えた。


治療側だけで見れば、未知の未契約石へ近づくより遺跡調査を止めてほしい。


両方止めれば、事故は減るかもしれない。


でも、それが全体の目的にとって正しいとは限らない。


「治療物資だけを基準にするなら、補給まで大きな調査は一つに絞ってほしいです」


「保管庫か遺跡?」


「どちらを選ぶかは、医療だけでは決めません」


「リーナが決めない?」


「はい」


「でも足りないってことは言う?」


「言います」


レオンが頷く。


「それでいいと思う」


リーナは少し驚いた。


「何ですか?」


「前なら、治療の人に『危ないからやめろ』って言われたら、邪魔されてるって思ったかもしれない」


「今は?」


「物資が十二枚って数字なら、俺も考えられる」


なるほど。


危ない。


やめて。


それだけでは、相手には自分の不安だけが伝わる。


十二枚。


補給二日後。


一度の負傷で何枚使う可能性。


そこまで渡せば、本人も判断へ参加できる。


治療者が結論だけを渡す必要はない。


「では、カイたちへも数字で伝えます」


リーナが言う。


「その方がいい」


ノアが記録する。


《治療布未開封十二枚》


《通常運用は可能。ただし追加遠征と遺跡再調査の同時進行時、緊急余力不足の可能性》


明確だった。


     ◇


夜の会議には、レオン、エリシア、ノア、カイ、エレナ、バルガス、リーナが集まった。


食事を終えた後なので、机には水だけ。


全員が同じだけ疲れているわけではない。


リーナは昼の処置で魂力をほとんど使っていない。


レオンの身体疲労は一から二。


エリシアは補給所から一人で戻った以外、大きな歩行なし。


ノアも同程度。


バルガスは外縁警戒から戻ったため、脚の疲労が他より高い。


最初にリーナが治療物資を報告した。


十二枚。


補給二日後。


追加遠征を行う場合の最低携行数。


拠点へ残す予備。


「全部持っていけない?」


レオンが尋ねる。


「拠点にも負傷者が出る可能性があります」


「今日みたいに?」


「はい」


カイが計算する。


「保管庫へ行く場合、六枚携行?」


リーナは首を横へ振る。


「四枚でいいと思います。現地にも治療物資があります」


「現地在庫は?」


エレナが確認済みだった。


「基本治療布十九枚。夜勤者と警備用としては十分。ただ、追加人数分の余力を見れば四枚持参が妥当です」


「なら遺跡側は?」


バルガスが聞く。


「八枚残る」


「少ねえな」


「補給後に戻せます」


カイが結論を急がない。


「明日、保管庫へ行く必要性は?」


レオンが答える。


「フィリアがいる」


「それだけでは弱い」


「未契約石の解析が進むかもしれない」


「あなたが行くことで?」


問われ、止まる。


フィリアと話す。


見たい。


知りたい。


それは自分の希望。


でも、自分がいなければ解析できないわけではない。


「俺が行く必要は……ないかもしれない」


「では、なぜ行きたい?」


「フィリアに《レグナ・ゼオ》のことも聞きたい」


「それは保管庫でなければできませんか?」


「できない」


レオンの表情が曇る。


カイは続ける。


「フィリアをこちらへ呼ぶ方が移動人数は少ない」


「でも《星導鏡》使えないだろ?」


「保管庫での解析が終わってから来てもらう方法があります」


「いつ終わるか分からない」


「はい」


レオンは考える。


今すぐ会いたい。


でも、それだけで七人分の予定と物資を動かすのか。


「俺だけ行く?」


リーナがすぐには否定しない。


カイが聞く。


「一人で?」


「護衛いらないなら」


バルガスが低く笑う。


「灰牙のこと忘れたか?」


「忘れてない」


「一人旅はなしだ」


「じゃあ俺とカイ?」


「俺が抜けると拠点側の神律案件対応が減ります」


レオンが机へ背を預ける。


どれも簡単ではない。


「フィリアにこっち来てもらうの、本人が嫌って言ったら?」


エリシアが尋ねた。


カイが答える。


「強制はできません」


「じゃあ、どうする?」


「希望を送ります」


「レオンが会いたいって?」


「本人がそれでいいなら」


レオンは頷く。


「送って」


「理由も?」


「《レグナ・ゼオ》と未契約石が同じものだとは思ってない。でも古代魂晶の識別符を知ってるなら、俺の右手とか遺跡の記録も見てほしい」


「分かりました」


エレナが通信を書く。


その間に、フィリアから別の報告が届いた。


《星導鏡による現物解析、入口外での分割運用へ変更》


レオンが聞く。


「できた?」


「完全な精度ではないようです」


《対象石の表面模様に三層の魂力偏りを確認》


《ただし保管庫遮蔽壁と距離の影響が大きく、各偏りが石内部の構造か外部反射か判別不能》


《現物移動は推奨せず》


カイがそこを読み返す。


「最初は移動を提案したのに」


リーナが言う。


「現場を見て変えたんですね」


研究室で考えた最適解。


対象を解析器へ入れる。


でも現場では動かせない。


なら、解析器側を分けて使う。


精度は落ちる。


それでも、安全条件を守る。


失敗した。


だから方法を変えた。


フィリア自身の人物像が、少し見える報告だった。


「フィリア、間違ったって認めたのかな」


レオンが言う。


エレナが通信末尾を読む。


《事前資料だけで搬入可能と判断したことは私の確認不足です》


レオンが少し笑う。


「ちゃんと書いてる」


「重要です」


ノアが言った。


「何が?」


「失敗した理由を残してる」


朝の応急手当訓練と同じ。


何を見て判断した。


何が不足した。


だから失敗した。


次は変える。


「俺、フィリア好きかも」


レオンが言った。


エリシアがすぐにこちらを見る。


「どういう意味?」


「話合いそうって意味」


「なら最初からそう言って」


「何で怒るんだよ」


「怒ってない」


ノアが黙って笑っている。


空気が少し緩んだ。


     ◇


通信への返答は、会議が終わる前に届いた。


《保管庫解析は明日午前まで継続予定》


《終了後、臨時調査拠点への立ち寄り可》


《レグナ・ゼオ関連資料について、公開可能範囲での閲覧を希望》


つまり、レオンたちが保管庫へ行く必要はなくなった。


治療物資も動かさなくていい。


レオン自身も、少し残念そうではあったが反対しなかった。


「じゃあ明日来る?」


「解析が終われば」


「俺の測定器は?」


カイが技師側の報告を見る。


「別担当者が安全確認を進めています。ただし、今日事故が起きたので明日の本人試験は見送る案が出ています」


レオンの顔が曇る。


「また?」


「事故原因が確定していません」


「修理は終わってる?」


「一部は」


「別の装置使えば?」


「同じ作業工程で破損した可能性が残るため、再確認が必要です」


レオンはしばらく黙った。


全員が、どう返すかを待っている。


リーナは止めようとはしなかった。


理由はもう渡されている。


決める材料もある。


「分かった」


レオンが言った。


「明日は試験しない」


カイが少しだけ目を細める。


「自分からですか?」


「どうせ安全確認終わってないなら、やっても途中で止まるだろ」


「その可能性は高い」


「だったら、明日はフィリアに資料見せる方やる」


「それなら可能です」


「あと応急手当の続き」


リーナが答える。


「明日は搬送と、負傷者を複数人で運ぶ方法を教えられます」


「模擬戦は?」


「身体状態が良ければ短時間だけ」


レオンは考える。


全部はできない。


応急手当。


フィリア。


模擬戦。


測定器は延期。


「模擬戦はやめる」


カイが少し驚いた。


「いいんですか?」


「フィリア来る時間分からないし、途中で終わるの嫌だから」


「訓練は明後日でもできます」


「うん」


言えた。


一日遅らせる。


でも何も失わない。


「じゃあ明日は、応急手当とフィリア」


レオンが決める。


エリシアが言う。


「私はフィリアに古代の言葉も聞きたい」


「聞ける範囲で」


「ノアは?」


ノアは別冊を持ち上げる。


「記録する。でも、非公開にする部分は先に確認する」


「バルガスは?」


「俺は見張りだ。研究者の話は眠くなる」


「来ない?」


「必要になったら呼べ」


それぞれ役割が違う。


それでよかった。


リーナは会議終了後、自分の治療記録をまとめ始めた。


技師一名。


治療院搬送。


魂力高出力使用なし。


治療布消費。


明日の予定。


応急搬送訓練。


フィリア来訪に伴う追加人員。


食事一名分。


簡易寝具一組を予備確保。


フィリアが日帰りする保証はないため、宿泊可能性も考えておく。


「リーナ」


エリシアがまだ部屋に残っていた。


「どうしました?」


「今日、一人で戻ったの、次も一人でやっていい?」


問いに、リーナは少し考えた。


「同じ条件なら」


「同じ?」


「拠点内か、その周辺で、道が分かる場所。体調が二以下。荷物を自分で持てる。日中。何かあれば助けを求められる場所」


エリシアが聞く。


「一個でも違ったら駄目?」


「駄目とは言いません。そのとき、また考えましょう」


「条件が変わるから?」


「はい」


「分かった」


エリシアは頷く。


そのあと、少しだけ迷う。


「いつか条件を聞かなくても、自分で決めていい?」


リーナはすぐには答えなかった。


今でも、最後は本人が決めているつもりだった。


ただ、医療者として「この条件なら可能」と言い続けていることで、本人から見れば許可を出している人に見えるのかもしれない。


そこは気をつけなければならない。


「本当は、今も私が許可しているわけではありません」


「でもリーナが駄目って言ったら、行かないでしょう?」


「身体上危険だと思えば止めます」


「それは許可じゃない?」


難しい。


「そう見える部分はありますね」


エリシアは待つ。


「ただ、私がしたいのは、エリシアの代わりに行くかどうかを決めることではありません。身体の状態について、私が分かる情報を渡すことです」


「じゃあ、いつか私が自分で疲れ方を分かるようになったら?」


「私へ毎回答えを聞く必要は減ると思います」


「本当に?」


「はい」


「リーナ、寂しくない?」


予想していない質問だった。


リーナは少し目を見開いた。


「なぜ寂しいんです?」


「治療する人がいらなくなるから」


リーナは思わず笑った。


「治療者は、ずっと必要とされるために治すわけではありません」


エリシアも少し笑う。


「そっか」


「むしろ、自分でできることが増えて、私へ聞かなくても生活できるようになるなら、それは良いことです」


「じゃあ、明日も一個覚える」


「何を?」


「人を運ぶ方法」


「はい」


エリシアは部屋を出ていった。


足音は一定。


以前のように途中で小さく歩幅が乱れない。


リーナはそれを追いかけなかった。


     ◇


夜が深くなった頃、最後にカイが治療区画へ来た。


「まだ起きていますか?」


「記録が終わるところです」


「明日のフィリア来訪について、治療側から条件はありますか?」


「本人に体調問題がなければ特に。ただ、長時間の話になるなら途中で食事と休憩を入れてください」


「レオンたちにも?」


「はい」


カイが頷く。


そのまま帰るかと思ったが、少し残った。


「何か?」


リーナが尋ねる。


「今日、技師の治療を拒否された場合、強制しないと言いましたね」


「はい」


「判断力があるなら?」


「今回の状態なら」


「俺は、少し違います」


リーナは手を止めた。


「どう違いますか?」


「将来、手が動かなくなる可能性が高いと分かっているなら、本人が拒否しても一時的に止めるかもしれない」


「仕事を?」


「はい」


「治療院へ運ぶことも?」


カイは少し考える。


「そこまでは状況によります」


二人の答えは同じではない。


「本人の選択より、取り返せない損傷を優先する?」


「場合があります」


「私は、本人が理解できているなら、最後は本人へ残したい」


「それで手が動かなくなっても?」


問いに痛みはある。


リーナは正直に答える。


「苦しいです」


「後悔しませんか?」


「するかもしれません」


「それでも?」


「私が後悔したくないからという理由で、本人の身体を私の判断へ従わせることの方が怖いです」


カイは黙った。


リーナも相手を説得しようとは思わなかった。


カイにはカイの責任がある。


公共安全。


他者への被害。


本人だけで結果を引き受けられない場面。


医療とは境界が違う。


「カイは、今日の技師なら連れていきますか?」


リーナが尋ね返す。


「本人が危険を理解したうえで拒否したなら……たぶん、強制まではしません」


「たぶん?」


「俺もまだ全部の境界を決めていません」


それでよかった。


決まっていないことを、決まっているふりをしない。


「では、次に同じことが起きたらまた考えましょう」


「それでいいんですか?」


「同じに見えて条件が違うかもしれません」


カイが少しだけ笑った。


「リーナも《場合による》を使うんですね」


「便利だからではありません」


「俺も同じことを言いました」


「そうなんですか?」


「はい」


二人とも少し笑った。


結論は一致しない。


でも、次に何を見るかは少し分かった。


本人が理解できているか。


戻せない損失か。


他者への被害があるか。


代わりの方法があるか。


時間があるか。


それらを見ずに、「自由」か「安全」だけで決めない。


カイが部屋を出る。


リーナは最後の記録を閉じた。


今日一日で治したものは少ない。


大きな戦いもない。


《慈雫》を全力で使う場面もなかった。


それでも、医療者として考えたことは多かった。


治療できるからといって、すべてを決めていいわけではない。


危険を知っているからといって、誰かの日常を全部止めていいわけでもない。


反対に、本人が望むからという理由だけで、取り返せない損傷を黙って見過ごすこともできない。


その境界に、一度で使える答えはなかった。


窓の外から夜警の足音が聞こえる。


石床。


少し遅い歩調。


一人が通り過ぎ、しばらくして別の足音が続く。


拠点は眠っていても、誰かが起きている。


治療者も同じだった。


怪我が起きなければ仕事は少ない。


それは良いことだ。


必要とされない夜ほど、治療区画にとっては成功に近い。


リーナは明日の予定表へ最後の一行を書いた。


フィリア・エルセイド来訪。


公開資料照合。


レオンたちとの面談。


応急搬送訓練。


《レグナ・ゼオ》本人試験は延期。


そして、治療物資残数十二。


そこまで書いたところで、通信札が一度鳴った。


保管庫からではない。


フィリア本人からの短い連絡だった。


《明日午前、解析終了後に臨時調査拠点へ向かいます。現場で使用できなかった手順も含め、失敗した条件をすべて共有します》


リーナはその文章を一度読み、翌日の記録欄へ追加した。


失敗したことだけではなく、どこで使えなかったのかまで共有する。


それなら、レオンたちが次に同じ失敗をする可能性を減らせる。


そしてフィリア自身も、研究室では見えなかった条件を持ち帰れるだろう。


明日の目的は、研究者から正しい答えを受け取ることではない。


互いに持っていなかった条件を交換することだった。


リーナは翌朝、フィリアが《星導鏡》を使えなかった理由まで含めて全員で共有したうえで、《レグナ・ゼオ》の次の調査手順を組み直すことにした。


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