第3章《継承者修練編》 第24話《人工生命戦線》
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翌朝、臨時調査拠点の食堂には焼いた麦パンと根菜の煮込みの匂いが広がり、夜明け前まで動いていた広域測定器の低い機械音が、薄い壁を通して一定の間隔で聞こえていた。
昨夜、北西の保管庫で未契約石が武器に近い形へ変化したものの、人的被害はなく、現地側は収納室を封鎖したまま朝を迎えている。そのためレオンたちが急行する必要はなくなり、予定どおり午前の訓練と身体確認を終えてから、午後に記録だけを確認することになった。
レオンは自分の右手を開き、昨日残っていた熱感が完全に消えていることを確かめる。
痛みも痺れもない。
ただし、それを理由に「治った」と自分で決めることはしなかった。
「朝食を食べたらリーナのところへ行くんでしょう?」
向かいに座ったノア・フェルディが尋ねる。
「分かってる」
「その返事、昨日も聞いた」
「今日は本当に分かってるって」
「昨日も同じこと言ってたよ」
隣で麦パンを小さくちぎっていたエリシア・アルセレアが笑う。
彼女は昨日より少し多めの朝食を自分で器へ取っていたが、一度に食べ切ろうとはせず、温かい煮込みを間に挟みながらゆっくり進めていた。歩行量が増えたことで食べられる量も少しずつ戻ってきたらしく、治療担当からも、体調が変わらなければ今週中には一般的な食事量へ近づけてよいと言われている。
「エリシアは今日何するんだ?」
レオンが尋ねる。
「午前中は歩行訓練と荷物の確認。そのあと、昨日ノアが書いてくれた契約石の質問をカイたちに聞く」
「午後の保管庫記録は?」
「見る」
「じゃあ同じだな」
「でも私は模擬戦しないよ」
レオンの手が止まった。
「何で知ってる?」
「さっきカイが食堂の入口でリーナと話してた」
レオンが振り返る。
少し離れた席にカイ・アルヴァレインとエレナ・サフィールがいる。
二人とも既に朝食をほとんど終えており、カイの横には今日の訓練予定が書かれた薄い板が置かれていた。
「模擬戦って、昨日の三回と違うのか?」
ノアが聞く。
「たぶん」
レオンの胸が少し高鳴る。
昨日は三回だけ。
攻撃するたびにカイへ簡単に外され、最後までまともに当てられなかった。
今日はもっとできる。
そう考えかけたところで、昨日のリーナの言葉を思い出す。
まず身体状態。
そのあと条件。
「食べる速度上がってるよ」
エリシアが言った。
「腹減ってるだけ」
「違うと思う」
「何が?」
「早く訓練したいんでしょう」
否定しようとしてやめた。
「そうだけど、ちゃんと食べる」
「ならいい」
今度はエリシアに管理されているような気がした。
それでも、急いでパンを飲み込むよりはましだった。
朝食を終える頃、カイがこちらへ来た。
「レオン。リーナから許可が出れば、今日は短い模擬戦を行います」
「どのくらい?」
「時間ではなく条件で区切ります」
「何回?」
「まだ決めません」
「昨日は三回だっただろ」
「今日は攻撃回数ではなく、あなたが一度でも俺の外套へ木剣を触れさせるまで。ただし、身体状態の上限は別に設定します」
レオンは少し笑った。
「じゃあ、当てるまでやれる?」
「身体の上限へ先に到達しなければ」
「勝ったら?」
「外套へ触れただけで勝敗は付けません」
「何だよ」
「今日は勝つ訓練ではありません」
「じゃあ何のため?」
カイはすぐには答えず、レオンの右手を見る。
「あなたが、相手を倒そうとすることと、決められた条件を満たすことを分けられるか確認するためです」
レオンは少し眉を寄せた。
「外套に触れるだけなら、倒さなくていい」
「はい」
「でもカイは普通に避けるんだろ?」
「当然です」
「《天律》は?」
「使いません」
「じゃあ触れる」
カイは表情を変えなかった。
「そう思えるなら、まずリーナの検査を通ってください」
やはりそこからだった。
◇
リーナ・セルフィアの確認は、昨日より短かった。
右手。
前腕。
肩。
脈。
昨日の熱感が夜まで残らなかったか。
起床時の痛み。
睡眠中に痺れがなかったか。
それぞれを確認し、昨日の値と比べる。
「今日は訓練していいです」
リーナが言った。
レオンの表情が明るくなる。
「ただし、条件があります」
「分かってる」
「まだ言っていません」
「昨日と同じじゃないの?」
「一部は同じです」
リーナは記録板へ三つ書いた。
右腕の熱感が三以上。
痛みが二以上。
握力低下または痺れ。
どれか一つが出た時点で終了。
さらに、呼吸が乱れて会話へ支障が出た場合も一度停止。
「俺、剣振るだけで息切れしないよ」
「相手はカイさんでしょう?」
言われて黙る。
カイは昨日、三回の攻撃をほとんど動かずに外した。
こちらが本気で追えば、運動量は増える。
「それから、今日は右手の黒い痕から魂力を出さないこと」
「分かってる」
「無意識に出たら?」
レオンは少し考えた。
「止める」
「カイさんが戦闘を続けろと言っても?」
「カイも止めるだろ」
「本人へ聞きましょう」
ちょうど訓練場へ入ってきたカイへ、リーナが同じ質問をする。
「無意識の魂力放出が出た場合は即中止します」
「ほら」
レオンが言う。
リーナは頷いた。
「なら、そこまで共通認識です」
面倒だ。
けれど、必要な面倒なのだと分かり始めている。
レオンは木剣を受け取った。
昨日と同じ重さ。
右手で柄を握り、左も添える。
痛みなし。
カイは数メル先へ立つ。
木剣は一本。
防具は軽い胸当てと腕当てだけ。
「条件を確認します」
カイが言う。
「俺の外套か防具へ、木剣を一度でも触れさせれば終了します。突きでも斬撃でも構いません。ただし顔と首への攻撃は禁止」
「カイは俺を攻撃する?」
「必要なら」
「反撃あり?」
「あります」
「倒されたら?」
「立てるなら続行。ただしリーナが止めたら終わりです」
レオンは少し笑う。
「分かった」
「もう一つ」
「まだあるのか」
「昨日のように、狙う場所を目で教えないこと」
それが一番腹立たしい。
「今日はやらない」
「期待しています」
「その言い方やめろ」
ノアが訓練場の端で記録帳を開いている。
エリシアも椅子へ座り、二人を見る。
リーナは測定板を持ったまま少し離れている。
エレナはカイ側。
見られている人数が多い。
「始めます」
カイが言う。
レオンはすぐには動かなかった。
昨日は開始直後に踏み込んだ。
今日は、カイの足を見る。
右足が僅かに後ろ。
身体は正面より少し斜め。
木剣は下がっている。
隙に見える。
でも、昨日もそうだった。
レオンは肩を見る。
視線を置いた瞬間、自分で気づく。
これではまた読まれる。
視線をカイの胸全体へ広げる。
どこを狙うか決めずに踏み込む。
一歩。
カイが動かない。
二歩。
そこで右へ斬る。
カイは半歩下がった。
届かない。
レオンは追う。
二撃目。
木剣同士が触れる。
カイが流す。
昨日と同じ。
そのまま押し込もうとしたところで、カイの足が自分の前足の外側へ入った。
身体の軸が崩れる。
レオンは慌てて一歩離れた。
「今の何だ?」
「足の位置です」
「剣じゃないのかよ」
「模擬戦ですから」
話している間にもカイは動く。
今度は前へ来た。
木剣が横から来る。
レオンは受ける。
乾いた音。
衝撃は強くない。
ただ、受けた瞬間に右腕へ少し熱が出た。
一。
まだ続けられる。
レオンは木剣を押し返す。
カイが引く。
追う。
今度は相手の肩を見ない。
腰も見ない。
木剣だけでもない。
身体全体。
距離。
足。
自分がどこにいるか。
カイが左へ回る。
レオンも回る。
追いつけない。
「逃げるなよ」
「条件は外套へ触れることです」
「だから追ってる」
「俺が逃げてはいけない条件はありません」
腹が立つ。
でも正しい。
レオンは追うのを止めた。
カイも止まる。
「どうしました?」
「追ったら同じだから」
「何が?」
「俺の方が動かされてる」
カイの目が僅かに細くなる。
レオンは息を整える。
まだ乱れていない。
右腕の熱は一。
木剣を少し下げる。
カイが待つ。
「来ないのか?」
レオンが聞く。
「必要なら行きます」
「じゃあ俺も待つ」
数秒。
何も起きない。
ノアの筆が紙を擦る音が聞こえる。
風。
測定器の低い音。
カイの外套が少し揺れる。
レオンはそこで気づいた。
相手へ触れる。
それだけなら、自分から全力で攻める必要はない。
カイが攻撃してくる瞬間、相手も距離へ入る。
「なるほど」
思わず口にした。
カイが聞く。
「何が?」
「まだ言わない」
次の瞬間、カイが動いた。
正面。
木剣。
レオンの左肩へ向かうように見える。
受ける。
そう考えた。
でも、受ければまた押される。
レオンは半歩だけ横へずれた。
カイの剣が肩の前を通る。
その瞬間、レオンは木剣を大きく振らず、柄を握ったまま短く前へ出した。
カイの外套。
届く。
はずだった。
木剣の先が触れる直前、カイが上体だけを引く。
数センチ足りない。
「惜しい」
ノアが声を上げる。
レオンは舌打ちしかける。
でも、今の方法ならいける。
もう一度。
カイも同じことをさせてはくれない。
今度は攻撃せず、近づいてくるだけ。
レオンが動く。
互いの距離が縮む。
カイの木剣が低い位置から上がる。
レオンは避けようとする。
そこでフェイントだと気づく。
カイの足が先に入る。
肩がぶつかる。
レオンは後ろへ一歩下がった。
「武器だけ見ない」
昨日言われたこと。
思い出す。
カイは剣だけで戦っていない。
足。
肩。
距離。
全部。
レオンは息を吐く。
右腕の熱は二。
まだ止まらない。
「あとどのくらい?」
リーナへ聞く。
「私に残り時間を聞くのではなく、自分の状態を言ってください」
「熱二。痛みなし。痺れなし。息は少し上がってる」
「続行可能です」
「分かった」
カイが少し笑ったように見えた。
「何?」
「昨日なら、続けていいかだけ聞いていたと思ったので」
「最近そればっかり言われる」
「なら、皆同じ変化を見ているんでしょう」
「戦ってる途中に話すな」
「あなたから聞きました」
確かにそうだった。
また腹が立つ。
その感情に任せて踏み込むのはやめる。
カイへ触れる。
それだけ。
倒す必要はない。
強い一撃もいらない。
レオンは構えを少し変えた。
右手を強く握らない。
左手で支える。
視線は胸元。
でも狙いを固定しない。
カイが動く。
今度は明確に攻撃。
右側から。
レオンは受けずに下がる。
二歩。
三歩目で止まる。
カイも追ってくる。
そこで前へ出た。
相手が前へ来る力を使う。
木剣を横から振るのではなく、身体ごと近づいて短く差し出す。
カイが避ける。
ただし今度は足が一歩遅れた。
レオンの木剣の先が、白い外套の端を僅かに押した。
布が動く。
カイが止まる。
レオンも止まった。
「当たった」
声が出る。
ノアが記録帳から顔を上げる。
エリシアも笑った。
リーナはすぐに近づく。
「そのまま右手を開いてください」
「勝った?」
「条件達成です」
カイが答える。
「勝った?」
「勝敗は付けないと最初に言いました」
「でも触っただろ」
「はい」
「じゃあ俺の勝ちでいいだろ」
「よくありません」
「何でだよ」
「俺はあなたを倒すための攻撃をしていません」
正しい。
それでも悔しい。
「じゃあ次は勝敗あり」
「今日ではありません」
「分かってる」
リーナが右腕を確認する。
熱。
三に近い二。
痛み一未満。
痺れなし。
握力は開始前より僅かに下がっている。
「ここで終わったのはちょうどいいですね」
「もう終わってる」
「もし条件達成しなくても、あと数分で私が止めていたと思います」
レオンは右腕を見る。
「そんなに?」
「本人が感じているより、握力が落ちています」
カイも見る。
「木剣を落とすほどではない?」
「今は。ただ、遺跡で同じ状態になれば、その後の荷物運搬や梯子移動へ影響します」
レオンは一瞬、反論しそうになる。
やめた。
戦闘だけで終わらない。
その後も歩く。
戻る。
荷物を持つ。
「じゃあ、今日の俺はどのくらい?」
リーナが答える。
「昨日より動けています。ただし、回復したというより、使い方を変えたことで負担の増え方を抑えられた可能性があります」
「強くなったわけじゃない?」
カイが先に言う。
「技術は少し改善しました」
「少し?」
「一日で大きく変わる方が不自然でしょう」
また腹が立つ。
でも、昨日よりは嬉しい。
触れた。
少なくとも、何もできなかったわけではない。
「カイ」
「何です?」
「今の、俺が強い力使ったらどうなってた?」
「右手の魂力ですか?」
「うん」
「条件違反です」
「そうじゃなくて、実戦なら」
カイは少し考えた。
「当てられた可能性はあります」
「なら使った方が強いじゃん」
「その一撃を避けられた場合、今より早く右腕の限界が来る可能性もあります」
レオンは黙る。
「それに、俺が《天律》を使っていないことも忘れないでください」
「やっぱりまだ全然か」
「差はあります」
慰めない。
でも、嘘も言わない。
レオンは木剣を返した。
「じゃあ明日もやる」
「リーナが許可すれば」
「そこまで分かってる」
今度は自分から言えた。
◇
昼食後、一行は昨夜の未契約石について説明を受けるため、臨時拠点の記録室へ集まった。
紙、金属、機械油。
その三つが混ざった独特の匂いが室内へ残っている。
壁際には保管庫から送られてきた写しが何枚も並び、そのうち一枚には、変形前と変形後の石の形が簡単な線画で記録されていた。
変形前は、掌へ収まる程度の暗灰色の結晶。
変形後は、短い刃のような形。
完全な剣ではない。
柄もない。
ただ、石の一部が細長く伸び、武器を思わせる外形へ変わっている。
「これが勝手に?」
レオンが聞く。
王国側の契約石管理担当者が頷く。
「夜勤者二名の証言では、保管台から落ちた音を聞いて確認した時点で、この形になっていたそうです」
「触った?」
「触れていません」
「じゃあ契約者いない?」
「現時点では確認されていません」
エリシアが尋ねる。
「昨日聞いた、石が所有者を選ぶものとは違うんですか?」
「所有者選択型である可能性はあります。ただ、誰かを選んだ証拠がないため、まだそう分類しません」
「変形しただけ?」
「はい」
担当者は記録をめくる。
「周囲にいた二名の魂力へ目立った反応はありません。保管庫の外にいた人間にも、同時間帯の異常は確認されていません」
レオンが考える。
「じゃあ、何に反応した?」
「それを調べています」
カイが横から言う。
「ただし、現時点では《レグナ・ゼオ》やエルダ村の異常と結びつけません」
「距離があるから?」
「距離だけではありません。共通する反応値もまだありません」
ノアが記録する。
「同じ時期に起きただけでは、同じ原因とは言えない?」
「そうです」
レオンは少し悔しい。
何か繋がっているように見える。
でも、見えるだけで決めるとまた同じ失敗になる。
「今日、現物見に行ける?」
「行けません」
担当者が答えた。
「保管庫は封鎖中です。調査担当以外の立ち入りは許可されていません」
「俺たち調査側じゃないの?」
レオンが聞く。
カイが言う。
「今回の保管庫案件については違います」
「何で?」
「所属と任務が違うからです」
それは少し腹が立った。
「同じソウルストーンの異常なのに?」
「同じと確定していません」
「でも見たら分かるかもしれない」
「それを理由に、別件の封鎖区域へ全員入れる規則にはなっていません」
「じゃあカイは行ける?」
「神殿側の協力要請が来れば」
「俺は?」
「今は対象外です」
レオンは黙った。
同じ調査拠点。
同じ異常。
でも、自分が全部へ関われるわけではない。
「嫌?」
エリシアが小声で聞く。
「嫌だよ」
「どうする?」
「記録見る」
即答した。
自分でも少し驚く。
以前なら現物を見たいと押した。
今も見たい。
でも、入れないなら今ある情報を使う。
「全部見せてもらえる?」
担当者へ尋ねる。
「公開可能な範囲なら」
「公開できないのは?」
「契約者個人情報、保管庫の防犯構造、それから王国側の内部警備手順です」
「石の記録は?」
「見せられます」
「じゃあそれでいい」
カイがこちらを見る。
「納得したんですか?」
「してない」
「では?」
「納得してなくても、今できることは記録見る方だから」
カイは少しだけ目を細めた。
「分かりました」
レオンには、その返事がいつもより少し柔らかく聞こえた。
担当者が別の紙を出す。
石の登録情報。
採取地。
大きさ。
過去の反応。
「採取されたのは五年前。北西の山地です」
「誰か契約しようとした?」
ノアが尋ねる。
「三人。全員失敗しています」
レオンが反応する。
「拒絶された?」
「そう記録されています」
「じゃあ選ぶ石かも?」
「可能性はあります。ただ、三人に適合しなかったことと、所有者選択型であることは同じではありません」
また区別。
レオンはもう文句を言わなかった。
「今まで変形したことは?」
「なし」
「魂力を入れられた回数は?」
「登録後の試験では十二回。その後は保管のみ」
「昨夜、誰も魂力入れてない?」
「記録上は」
「停電とか?」
「なし」
「近くで別の石が動いた?」
担当者が少し考える。
「同時刻、保管室内の魂晶灯が一度だけ明滅しています」
カイが顔を上げる。
「電力低下?」
「供給側の記録には異常なし」
「なら石側の反応で灯りが揺れた可能性?」
「可能性はあります」
「逆は?」
エリシアが聞く。
全員が彼女を見る。
「魂晶灯の方が先に何か起きて、それで石が変わった可能性は?」
担当者が少し黙る。
「否定できません」
エリシアはノアを見る。
「順番、分かる?」
ノアが記録を読む。
「夜勤の人が音を聞いたのが先。灯りの明滅は、その直後に見たって書いてある」
「じゃあ、石が先?」
「音が石の変形音だと確定していません」
カイが言う。
レオンは少し笑った。
「カイなら言うと思った」
「間違っていますか?」
「間違ってない」
記録には、保管台から何かが落ちるような金属音。
そのあと魂晶灯の明滅。
しかし音が何だったかまでは分からない。
「じゃあ、次に何を調べる?」
レオンが尋ねた。
担当者が答える。
「保管台の固定具。床の傷。魂晶灯の内部記録。それから石本体です」
「契約試験は?」
「まだしません」
「何で?」
「原因不明の変形直後に人間へ接触させる必要がないからです」
リーナが隣で頷く。
レオンも納得する。
「誰か選んでるかもしれないのに?」
エリシアが聞く。
「選んでいたとしても、すぐ契約させなければならない理由はありません」
担当者の答えに、エリシアの表情が少し変わる。
「待てるんだ」
「石が壊れそうだとか、周囲へ被害が出ているわけではありませんから」
「石が誰かを選んだら、その人に知らせる?」
「候補が特定できれば」
「その人が嫌だって言ったら?」
「強制契約はしません」
エリシアは静かに頷いた。
レオンは横から彼女を見る。
昨日から何度も確認している。
選ばれたから従う必要はない。
石にも人にも、片方だけで決める権利はない。
少なくとも現在の制度では。
「レオン」
カイが呼ぶ。
「何?」
「《レグナ・ゼオ》があなたを選んでいると仮定した場合、今どうしたいですか?」
急に聞かれた。
レオンは考える。
使いたい。
知りたい。
強くなりたい。
でも。
「まず、何を選ばれてるのか知りたい」
「何を?」
「使い手なのか、施設を動かす人間なのか、ただ反応する相手なのか分からないだろ」
カイは頷いた。
「その通りです」
「だから、そこ分かってから決める」
「以前なら?」
ノアが聞いた。
「たぶん使うって言った」
「今も使いたい?」
「使いたいよ」
レオンは隠さなかった。
「でも、使いたいって思ってることと、使っていいかは別だろ」
カイの目が少し動いた。
リーナも記録板から顔を上げる。
「何?」
レオンが聞く。
「いえ」
カイが答える。
「昨日より話が早くなったと思っただけです」
「それ褒めてる?」
「評価です」
「やっぱり腹立つ」
周囲に小さな笑いが起きた。
◇
午後の後半、バルガス・グレンが臨時拠点へ戻ってきた。
外縁警戒へ出ていたため昼食にも顔を出していなかったらしく、濃い茶色の外套には乾いた土が付き、肩へ背負った大剣の鞘にも細かな砂が残っていた。
「戻ったぞ」
「《灰牙》いた?」
レオンが最初に尋ねる。
「いきなりそれか」
「他に聞くことある?」
「飯食ったか、とか言え」
「食った?」
「まだだ」
「じゃあ食ってから話す?」
バルガスが少し意外そうな顔をする。
「お前が待つのか」
「最近それ言われるの飽きた」
バルガスは笑い、先に食堂へ向かった。
レオンたちも記録室を出る。
午後の契約石説明は一度終了。
未契約石の変形についても、現時点で新しい結論はない。
ただ、調べる順番だけは決まった。
それで今日は十分だった。
夕方、食事を終えたバルガスが訓練場へ来た。
レオンは右腕の再確認を終え、今日はもう木剣を振らないようリーナから言われている。
「聞いたぞ」
バルガスが言う。
「何を?」
「カイの外套に触ったらしいな」
「そう」
「勝ったか?」
レオンは一瞬だけ迷う。
「勝ってない」
カイが少し離れたところで訓練記録を読んでいる。
バルガスが笑った。
「前のお前なら勝ったって言っただろうな」
「条件達成しただけ」
「なら何が分かった?」
「カイを追い回すより、向こうが入ってくるとき使った方が触りやすい」
「それだけか?」
「俺、剣だけ見すぎてる」
「他は?」
「右腕が先に疲れる」
「他は?」
レオンが少し苛立つ。
「まだあるのか」
「自分で探せ」
考える。
カイは技術。
距離。
足。
判断。
自分は一撃。
力。
追う。
「……倒そうとしすぎてた」
バルガスが頷く。
「何のための模擬戦だった?」
「外套に触る」
「じゃあ倒す必要は?」
「ない」
「そういうことだ」
バルガスは大剣を地面へ置いた。
「実戦でも同じだ。いつも敵を倒すのが勝ちじゃねえ」
「灰牙のとき?」
「あのときは逃げ道作れば勝ちだった」
「遺跡は?」
「防衛機構を止めること。全部壊すことじゃねえ」
カイが顔を上げる。
「同意します」
バルガスがそちらを見る。
「珍しいな。神殿の坊主と同じ意見になった」
「俺は坊主ではありません」
「歳の話だ」
レオンは二人を見る。
カイとバルガス。
戦い方は全然違う。
カイは細かく見る。
バルガスは現場で身体を使って覚える。
でも、「倒すことを勝利条件にしない」という部分は同じだった。
「じゃあバルガスとも模擬戦したい」
「今日の右腕は?」
「終わり」
「なら今日はやらん」
「分かってる」
「明日は?」
「リーナが許可したら」
「ほう」
「その顔やめろ」
「何も言ってねえぞ」
言われなくても分かる。
成長したと言いたいのだろう。
「代わりに、今できることある?」
レオンが聞く。
バルガスは少し考えた。
「座って足を出せ」
「何で?」
「剣振れねえなら、足だけ教える」
「座ったまま?」
「最初はな」
訓練場の端へ座る。
バルガスも向かいに座り、大剣ではなく細い木棒を地面へ置いた。
「お前、カイを追うとき身体が前へ流れてたろ」
「見てたの?」
「最後の方だけな」
「どう直す?」
「まず、足を速くするんじゃねえ。どこへ置くか決めろ」
「同じじゃない?」
「違う」
バルガスが自分の靴を地面へ置く。
「前へ出たいから前足を出す奴は、相手を見てから動く。相手が入ってくる場所を先に決めて、そこへ足を置ける奴は待てる」
レオンは今日の模擬戦を思い出す。
追わない。
待つ。
カイが入ってくる瞬間。
「カイも同じことやってた?」
「もっと細かくやってるだろうな」
「じゃあバルガスよりカイの方が上手い?」
「足運びだけなら、あいつの方が細けえ」
あっさり認める。
「悔しくない?」
「何が?」
「負けてるって」
バルガスは笑った。
「全部で勝つ必要あるか?」
その言葉がレオンへ残った。
「俺は、地面が悪い場所での踏ん張りや、重い武器を持ったまま相手を押すなら負けるつもりはねえ。カイは細い間合いと判断が上手い。それだけだ」
「じゃあ俺は?」
「今は全部半端」
「ひどいな」
「でも伸びる余地はある」
少しだけ救われる。
「どうしたらいい?」
「一個ずつ」
「それ、みんな言う」
「みんな正しいんじゃねえか?」
レオンは返せなかった。
バルガスは木棒で地面へ三つの印を付ける。
正面。
右斜め。
左斜め。
「今日は座ったまま、この三つに足を出す順番だけ覚えろ。右腕は使わん」
地味。
昨日までの自分なら退屈だと思った。
今は少し違う。
カイへ触れたとき、自分が変えたのは力ではなく位置だった。
なら、足を覚える意味もある。
レオンは立たずに動かす。
右。
戻す。
左。
戻す。
前。
「速くしなくていい」
「でも戦いじゃ速さ必要だろ」
「順番崩して速くしても意味ねえ」
また条件。
でも、やる。
十回。
二十回。
右腕は使わない。
呼吸も乱れない。
それでも太腿が少し疲れる。
「これ、いつまで?」
「身体が覚えるまで」
「今日だけじゃ無理?」
「無理だな」
「やっぱり明日もか」
「明日が嫌なのか?」
レオンは少し考え、首を横へ振った。
「前より嫌じゃない」
バルガスは笑った。
◇
日没後、レオンたちは記録室へ戻った。
ノアが今日の訓練結果を整理し、エリシアは午後に聞いた契約石制度について、自分が理解できなかった部分へ印を付けている。
レオンは右手を机へ置いたまま、保管庫の記録をもう一度読んだ。
未契約。
三人が契約失敗。
五年間変形なし。
昨夜、突然刃状へ変形。
周辺に明確な適合者なし。
魂晶灯が一度明滅。
保管台から落ちたような音。
どれも単体では意味が弱い。
「何か気づいた?」
ノアが聞く。
「いや」
「ずっと見てるから」
「分からないままなのが気になる」
「前なら仮説作ってた?」
「たぶん」
「今は?」
「作ってるよ」
「何?」
「誰か遠くの人間に反応したとか、保管庫の魂晶灯に反応したとか、石が勝手に変わったとか」
「いっぱいあるね」
「でもどれも証拠ない」
ノアは頷く。
「なら全部書く?」
レオンは少し考える。
「仮説欄なら」
「分かった」
ノアが三つを書き分ける。
確定情報ではない。
仮説。
その区別だけで、頭の中も少し整理された。
エリシアが紙を覗く。
「もう一つあるかも」
「何?」
「誰かに反応したんじゃなくて、石自身の変化だった可能性」
「勝手に?」
「うん。でも、これも分からない」
ノアが四つ目へ書く。
カイが記録室へ入ってきたのは、その直後だった。
「まだ起きていたんですか?」
「まだ夜になったばかりだろ」
「右腕は?」
「熱なし」
「痛みは?」
「なし」
「ならいいです」
「カイ、保管庫の追加情報来た?」
「来ています」
全員が顔を上げる。
カイは通信紙を机へ置く。
「保管台の固定具が一つ破損していました」
「石が壊した?」
レオンが聞く。
「まだ分かりません」
「分かってる。続けて」
自分から言うと、カイの目が少し動いた。
「固定具の破断面には、外側から強い力を加えた痕ではなく、内部から押し広げられた形が残っています」
「石が変形したときに押した?」
「可能性は高くなりました」
「魂晶灯は?」
「内部記録に、一度だけ短い逆流反応があります」
エリシアが眉を寄せる。
「逆流?」
「灯りへ供給されるはずの魂力が、ごく短時間だけ反対方向へ流れた記録です」
「石が吸った?」
ノアが尋ねる。
「その可能性はあります。ただ、接続経路はまだ確認できていません」
レオンは四つの仮説を見る。
遠隔の誰か。
魂晶灯。
石自身。
別の原因。
「じゃあ、魂晶灯に反応した説が少し強くなった?」
「そう考えることはできます」
カイが答える。
「でも、石が先に変形して、その結果として灯りの魂力を引いた可能性も残る」
「はい」
「順番がまだ分からない」
「はい」
レオンは紙を見る。
情報が増えた。
でも、答えはまだ出ない。
「得た情報、足りないな」
思わず言った。
カイが答える。
「だから次に何を測るか決めます」
「何する?」
「保管庫側は、石を元の保管台から離した状態で周囲の魂力変動を記録します。ただし、人間との契約試験はまだ行いません」
「俺たちは?」
「今のところ現地へ行く必要はありません」
「また記録だけ?」
「不満ですか?」
「不満。でも、分かる」
言えるようになった。
「じゃあ俺たちは何する?」
カイは少し考える。
「明日の午前は今日と同じ基礎訓練。ただし、バルガスが戻ったので足運びを追加します」
「今日もうやった」
「聞きました」
「午後は?」
「《レグナ・ゼオ》の訓練用反応測定を準備します」
レオンの胸が動く。
「使う?」
「まだ」
「何する?」
「あなたが直接力を出す前に、模擬魂力を使って測定器側の応答を確認します」
「俺じゃなくて機械から?」
「はい」
「それで何が分かる?」
「測定器が安全に反応を追えるか。異常が出た場合に、どの値で止めるか」
「俺の訓練じゃないじゃん」
「あなたを使う前の準備です」
レオンは少し不満だった。
でも、以前ほど強くはない。
「その準備が終わったら?」
「結果を見て、あなた自身の反応試験を行うか決めます」
「明日中?」
「保証しません」
「またか」
カイが少しだけ口元を緩める。
「ですが、前へは進んでいます」
レオンは通信紙を見る。
未契約石。
保管庫。
《レグナ・ゼオ》。
右手。
全部別のものかもしれない。
それでも、「力を使う前に測る」という考え方は共通している。
「じゃあ、俺も準備見る」
「構いません」
「触らない?」
「必要が出るまでは」
「分かった」
エリシアが聞く。
「私も見ていい?」
「はい」
「ノアは?」
「記録担当として」
ノアが笑う。
「もう担当になってる」
レオンも笑った。
ノアは神殿の人間ではない。
王国の調査員でもない。
それでも、ここまで記録を続けたことで、今では調査の一部を正式に担うようになっている。
「所属って、こうやって変わるんだな」
レオンが言った。
ノアが聞き返す。
「何が?」
「最初は俺の帳面持ってただけだったのに、今は調査の記録担当になってる」
「正式なの?」
カイが答える。
「今回の臨時班では、現地記録補助として登録する申請を出しました」
ノアが目を見開いた。
「聞いてない」
「今言いました」
「勝手に?」
「本人同意前なので、まだ仮登録です」
「断れる?」
「当然です」
ノアは少し考えた。
「何が変わるの?」
「調査記録へ正式にアクセスできる範囲が増えます。その代わり、公開してはいけない情報の管理責任も発生します」
「責任?」
「記録を持ち帰って村で誰にでも見せる、ということはできなくなります」
ノアは黙った。
レオンも聞く。
権限が増える。
でも制約も増える。
契約石と少し似ている。
力だけ増えるわけではない。
「ノア、やる?」
レオンが聞いた。
ノアはすぐに答えなかった。
記録帳を見る。
これまで自分たちで書いてきたもの。
村の人から聞いたこと。
灰牙。
遺跡。
レオンの右手。
エリシアの記憶。
「一晩考えていい?」
カイが頷く。
「急ぎません」
「なら明日の朝答える」
「分かりました」
ノアはそれ以上決めなかった。
レオンも急かさない。
以前なら、「一緒にやろう」とすぐ言ったと思う。
今もそう言いたい。
でも、それを言えばノアの判断へ影響するかもしれない。
「レオン」
ノアがこちらを見る。
「何?」
「何も言わないんだ」
「言ってほしい?」
「違うけど」
少し笑う。
「俺はやってほしいと思ってる」
結局、そこは言った。
「でも決めるのはノア」
「分かった」
ノアも笑う。
それでよかった。
◇
夜が深くなり、記録室を出る前にレオンは右手の状態をもう一度確認した。
熱なし。
痛みなし。
疲労は腕より脚に残っている。
バルガスの足運び練習のせいだ。
明日の朝、太腿に痛みが残っていれば、それもリーナへ伝える。
隠しても意味がない。
拠点の廊下へ出ると、機械油の匂いが薄れ、代わりに夜の冷たい空気が入ってきた。
エリシアが隣を歩く。
「今日、模擬戦楽しかった?」
「楽しかった」
「負けたのに?」
「勝敗なし」
「レオンが言うんだ」
「カイに何回も言われたから」
二人で笑う。
「でも次は勝ちたい」
「やっぱり」
「それは別だろ」
「うん」
エリシアは否定しない。
「私も、できないことが少しずつできるようになるのは嬉しい」
「今日何できるようになった?」
「水筒を満杯にしても、食堂までなら自分で持てた」
「それ地味だな」
言ってから、自分の訓練も大して変わらないと気づく。
木剣を一度触れさせただけ。
足を三方向へ出しただけ。
でも、それが次に繋がる。
「俺も地味だった」
「じゃあ同じ」
「そうだな」
部屋の前へ着く。
ノアは少し後ろで記録帳を抱えている。
明日の朝、仮登録を受けるか決める。
それも一つの変化だ。
カイはさらに奥の部屋へ戻り、明日の測定準備を確認するらしい。
バルガスは夜警。
リーナは治療区。
全員が違う仕事を続けている。
レオンは自室へ入る前に、廊下の先にある測定室の灯りを見た。
明日は、自分の右手ではなく機械側を先に試す。
その結果が悪ければ、自分の試験はさらに先になる。
以前なら、それを遅れだと思った。
今は、次に進むための一日だと少しだけ思える。
完全には納得していない。
それでも、それでいい。
レオンは翌朝、ノアが臨時調査班の記録補助を引き受けるかどうかの返答を聞いたあと、《レグナ・ゼオ》の反応試験に使う測定器の安全確認へ立ち会うことにした。




