第2章《神々の継承者編》 第21話《治療の列》
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レオン・アークレイアが《エルダ村》でそう言った事実は、本人の肉声ではなく、神殿騎士カイ・アルヴァレインが送った現地第一報の付記として、《神殿都市アルヴァ》に残るセリオス・ヴァルディンのもとへ届いた。
芽吹二十四日の午前、中央大神殿北棟の治療区画には朝から細い水音が絶えず響き、洗浄槽へ張られた温水と薬液の匂いが、石造りの廊下へ湿った空気と一緒に漂っていた。巡回任務から戻った騎士、訓練で関節を痛めた見習い、契約石の不調を訴える神官が順番札を持って壁際の長椅子へ座り、通常なら一列で済む受付前には二列目まで人が並んでいる。
セリオスも、その列の最後尾にいた。
灰銀色の髪はいつも通り後ろへ流しているが、左肩から先へ伸びる魂力義手は普段より光が薄く、指先を開閉するたびに半透明の輪郭が僅かに揺れている。生身の腕ではないから負傷しないと思われることが多いものの、義手を形成するための魂力経路は肩から胸部へ繋がっているため、長時間の高負荷使用を続ければ、残った生体側へ疲労と痛みが蓄積する。
昨日、訓練院で二人の若い騎士を同時に相手へしたことが原因だった。
その程度なら治療区へ来なくても休めば戻る。
本来ならそう判断した。
しかし今朝、左肩の奥に鈍い痛みが残っている状態で《裁刃》を起動したところ、義手の指先形成が通常より半拍ほど遅れたため、自分の感覚だけで「問題ない」と決めるのをやめた。
カイへ同じことを何度も言ってきた以上、自分だけ例外にする理由はない。
「セリオスさんも並ぶんですね」
前方にいた見習い騎士が振り返り、少し意外そうに言った。
「並ばなければ診察順が早くなる規則があるのか?」
「いえ、そういう意味じゃなくて、師範なら奥へ直接行けるのかと思ってました」
「急患なら行く。私は違う」
セリオスは壁に掲示された札を見る。
現在の待ち時間は約半刻。
訓練開始までは一刻以上ある。
間に合う。
「でも、肩が悪いなら先でも……」
「お前の足首も悪いから並んでいるんだろう」
「俺は見習いですから」
「治療順に階級は関係ない」
見習いはそれ以上言わず、前へ向き直った。
セリオスは左肩を僅かに回す。
痛みは五段階なら二程度。
日常動作には問題がない。
ただし、このまま高位石を使えば三か四まで上がる可能性がある。
痛みに耐えられるかではなく、次の仕事へどう影響するかで考えるべき状態だった。
治療区の奥から名前が呼ばれる。
列が一人分進む。
セリオスも前へ出た。
そのとき、廊下の反対側から速い足音が近づいた。
神殿実務官の灰色衣。
手には通信板。
「セリオス・ヴァルディン師範」
「何だ」
「西部調査班から追加通信です。カイ・アルヴァレイン騎士の第一報に、現地行動案が追記されています」
セリオスは通信板を見る。
「緊急か?」
実務官が一瞬迷う。
「即時対応指定はありません。ただ、調査案件が《神律特級》に指定されているため、受信後は担当監督者へ速やかに回覧する規則です」
「なら私の診察後でいい」
実務官が少し目を見開いた。
「ですが、カイ騎士の判断変更が――」
「今から半刻で世界が変わる内容か?」
「……その指定はありません」
「では待て」
セリオスは列から出なかった。
通信板を読むことはできる。
読むだけなら今でも可能だ。
しかし、読めば返答を書く。
返答を書けば追加資料を見る。
そうして診察を後回しにすることを、自分が若い頃から何度繰り返したかは覚えている。
左腕を失った直接原因と同じではない。
それでも、自分の身体を「まだ動く」という理由だけで使い続ける癖が、事故後も完全には消えていないことくらいは分かっていた。
「そこへ座って待っていろ」
実務官へ近くの椅子を示す。
「私の診察が終わったら読む」
「了解しました」
実務官が座る。
列がもう一人分進んだ。
セリオスの前には、右手首へ包帯を巻いた若い神官がいる。
その神官は何度か通信板へ視線を送り、やがて小さな声で尋ねた。
「西部って、例の古代遺跡ですか?」
「治療待ちの廊下で話す内容ではない」
「すみません」
「謝る必要もない。聞く場所を選べ」
神官は頷く。
セリオスは壁へ視線を戻した。
神殿内で未知古代遺跡の噂が広がり始めている。
まだ正式発表されていない情報まで、断片的な言葉だけが先に歩いている可能性がある。
《未知の古代石》。
《神核級を超える石》。
《古代人の少女》。
《契約石なしで力を使う少年》。
噂は、事実より短くなる。
短くなった言葉ほど覚えやすい。
そして覚えやすい言葉ほど、条件が失われる。
カイが現地から何を送ったのか、診察後に確認する必要があった。
◇
セリオスの診察は十五分ほどで終わった。
左肩の魂力経路に軽い炎症反応があり、義手形成の出力を今日一日通常の七割以下へ落とすよう指示された。生身の傷ではないため包帯は不要だが、肩から胸元へ貼る薄い冷却布を三枚渡され、《裁刃》の神核出力は翌朝の再検査まで禁止された。
「訓練指導は?」
セリオスが尋ねる。
担当治療官は記録板を見ながら答える。
「実演なしなら可能です。義手で剣を受けるのは禁止します」
「右手だけなら?」
「右手で見本を見せる程度なら。ただし、かばって姿勢が崩れたら終わりです」
「分かった」
「本当に?」
「私はカイではない」
治療官が笑った。
「そのカイ君を育てたのは誰でしたっけ」
セリオスは答えなかった。
診察室を出る。
廊下にはまだ列が残っている。
朝より短くなっているが、治療区が落ち着いたわけではない。
昨日、西側演習場で魂晶制御具の一つに不具合が出たため、軽度の契約経路損傷を起こした見習いが複数いるらしい。重大事故ではないものの、一人あたりの処置に時間が掛かるせいで、通常患者まで待ち時間が伸びている。
セリオスは通信板を抱えた実務官を見つけた。
「待たせた」
「いえ」
通信板を受け取る。
最初にカイの第一報。
到着。
村長との面談。
レオン、エリシア、ノアとの会話。
《接続》という言葉が、レオン自身の仮説に由来していた可能性。
灰牙追跡道具への《断絶》不成立。
そして、レグナ・ゼオとの関係構造を確認できるまで、強制的な接続解除を初動手段から外すという現地判断。
そこまでは、前回の報告で把握している。
追加部分を読む。
翌朝、条件が揃えば旧第七採掘遺跡へ限定再調査を行う。
目的は既知範囲までの安全確認、レオンの右手と施設反応の観察、エリシアが古代記録へ示す反応の確認。
未確認区画へは進まない。
戦闘が起きた場合の退避判断はバルガス・グレン、魂力異常と施設機構についてはカイが担当。
非戦闘者の同行可否は朝の身体状態と護衛負荷を見て最終判断。
セリオスは最後まで読む。
「誰がこの行動案へ異議を出した?」
実務官が答える。
「まだ正式審査前です。ただ、執行系の担当官から《対象者を危険区域へ再接近させることは保護命令の趣旨に反する可能性あり》という予備意見が出ています」
「それで私へ?」
「はい。カイ騎士の師範であり、現地任務出発前の危険判定にも関与したため、意見提出を求められています」
セリオスは通信板を返さなかった。
「予備意見を書いた者は、現地の追加報告を全部読んだか?」
「確認します」
「確認してから来い」
実務官が頭を下げ、すぐに廊下を離れる。
セリオスは治療区脇の小さな記録室へ入った。
紙と薬液の匂いが混じっている。
棚の一部には今日使われた治療布の補充箱が積まれ、予定数より減りが早いことを示す赤札が一枚付けられていた。
机へ座る。
左肩へ貼った冷却布の感触が衣服の下から伝わる。
湿って冷たい。
その程度の違和感でも、無視すれば姿勢に影響する。
カイが現地へ出る直前に、自分は何を教えたか。
「できること」と「やるべきこと」を混ぜるな。
規則は、毎回ゼロから考えないために先人の失敗を残したものだ。
間違っているなら材料を持って変えろ。
カイはそのまま実行している。
少なくとも報告書だけを読む限りでは。
神殿命令には《保護》《危険性確認》《必要時接続解除》《中央大神殿への移送》が含まれる。
《保護》だけを狭く読めば、未知の古代存在と関係する少年と少女を危険区域へ近づけない方が安全に見える。
しかし、現地で新たに分かったことがある。
レオン自身が、身体状態と装備と同行条件を確認したうえで遺跡へ戻るか決めようとしている。
エリシアも、自分の記憶を確かめるために同行を希望している。
さらに、レグナ・ゼオとの関係を調べるには、二人を完全に施設から遠ざけるだけでは情報が増えない。
守るために遠ざける。
調べるために近づける。
どちらも目的には理由がある。
「師範」
入口から声がした。
先ほどの実務官が戻っている。
「予備意見を出した担当官は第一報まで確認しています。ただ、今朝届いた同行条件の詳細はまだ読んでいませんでした」
セリオスは息を吐いた。
「なら、先に読ませろ」
「ただ、保護命令の原則論として――」
「原則論を話すなとは言っていない」
セリオスは通信板を机へ置く。
「現地情報を読む前に原則だけで結論を出すなと言っている」
実務官は黙った。
「神殿が守ろうとしているのは、規則そのものではない」
「対象者の安全ですか?」
「それだけでもない」
セリオスは少し考えた。
自分の言葉を不用意に大きくしたくなかった。
「本人、周囲の住民、現地施設、それから調査に出た神殿側の人員を含めて、被害を出さないために規則がある。規則の一文だけ守って、その結果として必要な危険確認ができなくなるなら、運用を考え直す必要がある」
「では、再調査を認める意見ですか?」
「まだ書いていない」
「何が不足しています?」
「身体条件だ」
カイの報告では、レオンは右腕の魂力過負荷から回復途中。
エリシアも長時間行動できる状態ではない。
ノアには戦闘能力がない。
そこを抜きにして理念だけを語っても意味がない。
「レオンの治療記録は?」
「村から要約が届いています」
「見せろ」
実務官が別紙を開く。
右腕の外傷。
左膝。
魂力経路の過負荷。
昨日まで魂力使用は禁止。
通常歩行は可能。
斜面移動は当日再評価。
エリシアは筋力低下から回復中。
平地歩行は可能。
長距離と急斜面は休憩前提。
食事量は安定。
水分摂取も自分で管理し始めている。
セリオスは読み終える。
「これなら、当日の治療判断へ任せるというカイの条件は妥当だ」
「神殿医療官を派遣せず、村の治療者へ判断を任せていいのでしょうか」
「継続して身体を見ているのは誰だ?」
「村の治療担当者です」
「なら現時点では、その者の方が経過を知っている」
「設備は神殿の方が上です」
「設備をアルヴァから一晩で運べるのか?」
実務官は答えない。
「使えない設備を前提に現地判断を否定するな」
セリオスは通信板を引き寄せた。
意見欄を開く。
ただし、すぐには書かなかった。
「それと一つ確認する」
「はい」
「中央移送の準備は始めているか?」
実務官の視線が僅かに動いた。
「対象二名を移送する場合に備え、宿泊区画と護送要員の仮確保が始まっています」
「命令前に?」
「必要になってから準備すると遅れるためです」
「準備自体は正しい」
セリオスは言った。
「だが、その事実が《もう移送することが決まっている》という扱いへ変わらないよう記録を分けろ」
「仮確保と明記されています」
「現場へは?」
「まだ通知していません」
「なら、そのままでいい」
準備する。
しかし決定とは扱わない。
この区別が崩れると、組織は簡単に「準備したから実施する」という順序へ逆転する。
人員を取った。
部屋を空けた。
馬車を押さえた。
だから移送しよう。
本来は逆だ。
必要だから準備する。
必要でなくなれば戻す。
使わなかった準備を「無駄」と呼んで実行理由へ変えてはいけない。
セリオスはようやく意見欄へ書き始めた。
《現地限定再調査について、保護命令との自動的矛盾は認めない》
続ける。
《対象者本人の同行希望、現地治療判断、調査範囲限定、退避役割分担、補給条件を満たす場合に限り、現地判断者による実施を許容する》
さらに。
《条件不成立の場合は延期。実施済み準備を理由に出発を強制しない》
筆を止める。
実務官が読む。
「最後の一文は必要ですか?」
「必要だ」
「現地のカイ騎士なら、準備したから行くという判断はしないと思います」
「カイだけのために書いていない」
規則は人が変わっても残る。
今の担当者がまともだから曖昧でいい、という運用は次の担当者へ同じ保証を与えない。
「送れ」
「了解しました」
実務官が通信板を受け取る。
出口へ向かう。
セリオスは呼び止めた。
「それと、カイへ個人文を一行だけ付けろ」
「内容は?」
「《条件を増やすことを敗北と考えるな》」
実務官が少しだけ笑った。
「そのままですか?」
「そのままだ」
「分かりました」
扉が閉じる。
セリオスは椅子へ背を預けた。
左肩が冷却布の下で鈍く疼く。
まだ二。
悪化していない。
自分も今日は条件を増やされた。
義手出力七割。
神核出力禁止。
実演制限。
だからといって一日を失ったわけではない。
できる仕事へ変えればいい。
◇
午後の訓練は、予定を変更して座学と足運びだけになった。
セリオスは左の魂力義手を最低限の形だけ保ち、剣を受ける実演を行わない。訓練生たちには不満そうな者もいたが、神核級《裁刃》の実演を見られないからといって訓練そのものが無意味になるわけではない。
「今日は相手の剣を受けるな」
演武場でセリオスが言う。
十人ほどの騎士候補が並んでいる。
「避けるんですか?」
一人が尋ねる。
「避けるだけでもない。相手に振らせない位置へ立て」
「それ、実戦でできますか?」
「できない場面もある」
「じゃあ何のために?」
セリオスは右手の木剣で床を示した。
「できる場面と、できない場面を分けるためだ」
二人一組。
攻撃側。
防御側。
ただし防御側は剣で受けてはいけない。
足だけで間合いを外す。
壁際へ追い込まれれば失敗。
逃げ続けても失敗。
相手が踏み込めない位置へ、自分と相手の身体を置く。
地味な訓練だった。
何人かは最初から大きく離れ、すぐ壁へ詰まった。
別の者は攻撃者の横へ回ろうとして足を交差させ、姿勢を崩した。
「止めろ」
セリオスが言う。
全員が止まる。
「相手の剣を見すぎだ」
「でも攻撃を見る訓練では?」
「剣だけ見れば床が消える。床だけ見れば相手が消える。どちらか一つへ絞る話ではない」
若い騎士が息を整えながら聞く。
「全部見るんですか?」
「全部を同じ強さで見る必要はない。今、何が自分を倒すのか決めろ」
セリオスは自分の言葉に、朝から読んでいる西部案件を重ねそうになった。
すぐに切り離す。
訓練生へ必要な話と、自分の考えを同じ説明へ混ぜる必要はない。
「もう一度」
訓練が再開する。
水路に近い演武場のため、外壁の向こうから絶えず水が流れる音がする。
午後になって湿度が上がり、石床には薄い湿り気が残っていた。
一人の騎士候補が踏み込みで足を滑らせた。
完全に転ぶ前に相手が木剣を止める。
「そこ」
セリオスが指した。
「今のは剣術の失敗か?」
滑った本人が答える。
「足の置き方です」
「半分だ。床の状態を開始前に見なかった」
「いつもと同じ場所なので」
「今日は湿っている」
騎士候補が床を見る。
「いつも使う場所でも、今日が同じとは限らない」
その言葉を言った直後、演武場入口へ実務官が来た。
朝と同じ人物。
ただし今度は息を切らしていない。
急報ではないらしい。
セリオスは訓練を続けさせ、実務官を壁際へ待たせた。
一巡終了。
休憩を指示する。
そこで初めて近づく。
「返答か?」
「はい。セリオス師範の意見は承認されました。それと、エルダ村から追加通信が入っています」
「再調査を始めたか?」
「まだです」
通信板を受け取る。
朝の身体確認結果。
レオンは斜面移動可。
ただし右腕へ強い負荷禁止。
エリシアは予定区間を休憩込みなら移動可能。
ノアも同行希望を維持。
村側の治療物資。
水。
食料。
携帯灯。
退路用縄。
すべて必要最低量を確保。
しかし一つだけ条件が揃わなかった。
「何が不足した?」
セリオスが尋ねる。
実務官が答える。
「見張り人員です」
セリオスは通信を読む。
昨夜、村の北側で《灰牙》らしき人影が一度確認された。
接触なし。
距離があり、同一集団かは不明。
それでも村外へ人員を出すなら、村内警戒人数が予定を下回る。
カイたちが遺跡へ同行すれば、外縁防衛がさらに薄くなる。
レオンたちの身体条件は揃った。
荷物も揃った。
本人たちも行きたい。
それでも、村を残して全員が遺跡へ向かえば、別の危険が増える。
「現地判断は?」
「出発延期です」
セリオスは続きを読む。
レオン本人も了承。
エリシアも了承。
ノアも了承。
翌日の警戒交代が整うまで、遺跡再調査を一日延期する。
「カイが止めたのか?」
「報告では、最初に村長が警戒人数不足を提示し、その後レオン本人が『なら今日は行かない』と発言したそうです」
セリオスは少しだけ目を細めた。
「そうか」
「カイ騎士から、師範の個人文への返答もあります」
「何と?」
実務官は通信板の下部を示す。
《了解。条件が増えたので延期した。減らす理由はない》
セリオスは数秒黙った。
「生意気になったな」
実務官が笑いを堪える。
「返信しますか?」
「しない」
「分かりました」
通信板を返そうとしたとき、別の項目が目に入った。
治療物資使用量。
村の備蓄。
神殿から持参した予備治療布の一部が、現地負傷者へ回された。
その結果、遺跡突入時に携行予定だった治療布が一枚減っている。
不足ではない。
最低量は残る。
ただし余剰が減った。
「これも理由に入れたか?」
「延期判断には直接入れていません。次回出発前に再補給する予定です」
「どこから?」
「グランゼからの便を待つか、カイ班の帰路用予備から一部転用する案です」
「帰路用を使うな」
実務官が顔を上げる。
「では村の便を?」
「まずそれを待て。帰路用を使えば、遺跡で何も起きなくても帰還条件が悪くなる」
「出発がさらに遅れる可能性があります」
「遅れろ」
セリオスは即答した。
「期限のある救助なら別だ。今回の目的は調査だ。治療余力を削って早く入る理由がない」
実務官が記録する。
その間、演武場では休憩を終えた騎士候補たちが、自分たちで足運びを再開している。
セリオスはそれを見る。
若い頃なら、予定通り進むことに価値を置いた。
訓練は訓練。
任務は任務。
時間表を守る。
不足があれば自分で補う。
それを責任感だと思っていた。
間違いではない。
ただ、その考え方だけでは、足りないものまで個人の無理で埋めることになる。
左腕を失った後も、自分はそこを完全には変えられなかった。
「師範」
実務官が声を掛ける。
「何だ」
「さっき、治療余力を削るなとおっしゃいましたが、西部案件は《神律特級》です。それでも通常の調査と同じ余裕を取るのでしょうか」
「特級だからこそ取る」
「危険度が高いなら、早く確認した方が――」
「危険度が高いから、負傷した後に処置できない状態で入るなと言っている」
実務官は黙った。
「危険という言葉を、急ぐ理由にだけ使うな」
セリオスは続けた。
「危険なら撤退余力もいる。水もいる。治療布もいる。人もいる。それを削った状態で入って事故を起こせば、危険を確認する側が新しい危険になる」
「……はい」
「現地にもそのまま送れ」
「了解しました」
実務官が去る。
セリオスは訓練生たちへ戻った。
「休憩は終わりだ」
全員が位置へつく。
「今度は攻撃側を二人にする」
不満そうな顔が何人か出る。
「一人でも難しかったのに?」
「だから条件を変える」
「もっと難しくするんですか?」
「違う」
セリオスは木剣を床へ置いた。
「防御側は一人で逃げる必要はない。壁際へ三人目を置く」
「三人目?」
「声だけ出していい。攻撃はできない」
訓練生たちが配置へつく。
防御者。
攻撃者二人。
助言役一人。
「助言役は何を言えば?」
「見えていることを言え。ただし命令するな」
「違いが分かりません」
「ならやって覚えろ」
始まる。
最初の組。
「右から来る!」
防御者が振り向く。
左からもう一人。
失敗。
「遅い!」
また失敗。
助言役が焦り、次々に声を出す。
「右、左、後ろ、下がれ!」
防御者の動きが止まる。
情報が多すぎる。
セリオスが止めた。
「助言役」
「はい」
「全部言えば助けになると思ったか?」
「見えたので……」
「見えたものを全部渡せば、判断する側の仕事まで増やす」
訓練生が息を整える。
「じゃあ、何を言えば?」
「本人に見えていないものだけだ」
再開。
今度は助言役が待つ。
防御者が正面の攻撃を見ている。
左後ろから二人目が来る。
「左後ろ、一歩」
それだけ。
防御者が動く。
二人の剣筋が重なる位置から外れる。
成功。
セリオスは頷いた。
「それでいい」
神殿の規則も同じだと考えた。
全部を中央で決める必要はない。
現地に見えていないものを中央が渡す。
現地でしか見えないものは現地が決める。
どちらか一方だけに全部を背負わせれば、判断は遅れるか、逆に乱暴になる。
それを制度へ書くのは簡単ではない。
しかし、少なくともカイが帰ってきたら話す価値はある。
◇
翌日の昼前、治療区の列は前日より短くなっていた。
セリオスは再診を受け、左肩の炎症が軽減していることを確認された。義手出力は通常の九割まで戻してよいが、《裁刃》の高出力使用については夕方まで禁止が継続される。
「また制限ですか」
セリオスが言う。
治療官は記録板から顔を上げない。
「昨日守ったから良くなったんでしょう」
「否定はしない」
「なら今日も守ってください」
「分かった」
診察室を出る。
今日は列に、昨日見た見習い騎士の姿がない。
代わりに訓練院の下級職員が二人座っている。
怪我をした者が入れ替わる。
治る者もいる。
新しく来る者もいる。
治療の列は完全にはなくならない。
それが神殿の日常だった。
外では騎士が訓練する。
礼拝堂では祈りが行われる。
厨房では食事を作る。
遠征隊は出る。
戻ってきた者は装備を直す。
その裏で、傷ついた者が順番を待つ。
勝った戦いも、成功した任務も、治療区まで見れば費用が残っている。
セリオスは執務棟へ向かった。
途中、食堂へ寄る。
昼食は麦飯と魚の塩焼き、それに薄い野菜汁だった。
人の多い時間帯を避けたため席は半分ほど空いている。
左手の義手で器を持つ。
今日は安定している。
昨日より輪郭の揺れも少ない。
それでも重い盆は右手で運んだ。
使えるから使うのではない。
今どちらへ負荷を掛けるかを選ぶ。
空いている席へ座ったところで、朝から何度も見ている実務官がまた来た。
「食事中にすみません」
「緊急か?」
「いいえ」
「なら座れ」
「私も?」
「立って待たれると落ち着かん」
実務官が向かいへ座る。
「エルダ村から更新です」
「再調査は?」
「まだ開始していません」
セリオスは汁を飲む。
「今度は何が足りない」
「足りないというより、前提が変わりました」
通信板が渡される。
夜間、旧第七採掘遺跡の入口周辺で弱い魂力変動を見張りが確認。
レオンは村にいる。
エリシアも村にいる。
カイとエレナも村へ戻っている。
誰も施設へ接近していない時間帯。
それでも反応があった。
セリオスの手が止まった。
「測定誤差は?」
「現地の簡易測定なので否定できません。ただ、二回出ています」
「レオンの右手は?」
「同時刻に目立った反応なし」
「眠っていた?」
「一回目は起きていて、二回目は就寝中。治療者とノア・フェルディの確認記録があります」
セリオスは通信を読み直す。
これまでの中心仮説。
レオンが《レグナ・ゼオ》へ接続し、彼の状態に応じて施設反応が変わる。
それを完全に否定する材料ではない。
遠隔反応。
残留作用。
周期的な自律機構。
可能性はいくつも残る。
ただし、レオンの能動状態だけで施設反応を説明する仮説は狭める必要がある。
「カイの判断は?」
「再調査を中止せず、目的を変更しています」
「どう変えた?」
「レオンを反応源として近づける試験より先に、本人を遺跡から離した状態で施設側の自律変動を測る。さらに、入口周辺へ観測板を置き、一定時間の基準値を取るとのことです」
セリオスは少しだけ口元を緩めた。
「妥当だ」
「そのため、レオンたちは今日は遺跡内部へ入らないそうです」
「本人は?」
「了承」
「エリシアは?」
「了承。代わりに記録板の値と入口映像を共有することを希望しています」
「ノアは?」
「観測記録整理へ参加」
「バルガスは?」
「入口警戒」
役割だけが変わった。
目的地へ行くと決めた。
条件も揃えた。
それでも新しい情報が出れば、予定を変える。
セリオスは通信板を机へ置いた。
「中央の反応は?」
実務官が少し困った顔をする。
「一部から、《対象者を現地へ留める必要性が低下したのではないか》という意見が出ています」
「どういう論理だ」
「レオンが離れていても施設反応が起こるなら、本人を現地へ置いて観察する必要はない。安全確保のため中央へ移送し、施設は別班で調べればいいのではないかと」
セリオスは魚の骨を箸で外しながら考えた。
理屈はある。
レオンが唯一の反応源ではないなら、彼を施設近くへ置く必然性は下がる。
しかし、逆も言える。
レオンが施設反応の唯一の原因ではないなら、彼だけを遠ざけても危険は解決しない。
「移送の安全上の利益は?」
「対象本人を施設と灰牙から離せます」
「村側の利益は?」
「一人分の警護負担が減る」
「不利益は?」
「本人の調査希望を制限することになります。それから、現地で右手と施設反応を比較することが難しくなります」
「エリシアは?」
「同時移送案もあります」
「なぜ?」
「二重反応の候補だからです」
セリオスは箸を置いた。
「その二重反応が、本人二人だと確定したか?」
「していません」
「なら理由を一つ戻せ」
「はい」
実務官が記録する。
「レオンの移送も、今の反応で必要性が増したとは言い切れん」
「なぜです?」
「施設が本人から独立して反応する可能性が出たからだ」
「でも、それなら本人を安全な場所へ移す意味は――」
「ある」
セリオスは否定しなかった。
「だから選択肢から消すな。ただし、《施設が自律反応したからレオンを移送する》という因果にはなっていない。安全のため遠ざける利益と、現地調査から外す不利益を別に比較しろ」
「分かりました」
「エリシアも同じだ」
実務官は頷く。
セリオスは食事を再開する。
麦飯が少し冷めている。
それでも食べられる。
「正式名称を一つ付ける必要があります」
実務官が言った。
「何に?」
「今回の施設側反応です。現地から、記録上《自律反応》と呼んでいいか照会が来ています」
セリオスは少し考えた。
名前を付ければ扱いやすくなる。
だが、名前が仮説を固定する危険もある。
「《自律》は避けろ」
「なぜ?」
「原因が本人の操作ではないことしか、まだ分かっていない。施設自身の意思や自律機構だとは確定していない」
「では?」
セリオスは通信内容を見る。
誰も接近していない状態で発生。
原因未確認。
測定上の変化。
「《非接近時変動》でいい」
「現象名として地味ですね」
「地味で困るか?」
「いえ」
「意味を入れすぎるな」
実務官が正式記録欄へ書く。
《非接近時変動》。
それ以上の意味は持たせない。
施設が自分で動いた、とはまだ言わない。
レオンから完全に独立している、とも言わない。
ただ、少なくとも誰も近づいていない時間に変動が記録された。
それだけ。
セリオスは食事を終えた。
「現地へ送れ」
「何を?」
「《非接近時変動を確認したため、レオン単独原因仮説は限定。本人移送の根拠として自動使用しない》」
「限定、ですか?」
「否定ではない」
「まだレオンが関係している可能性は残る?」
「当然だ。昨日まで施設へ何度も接触している。遠隔影響かもしれないし、残留かもしれない。今分かったのは、少なくとも《本人がその場で能動的に力を使ったときだけ動く》という説明では足りないことだ」
実務官が頷く。
「カイ騎士にも?」
「送れ」
「師範からの個人文は?」
セリオスは少し考える。
昨日は《条件を増やすことを敗北と考えるな》。
今日は何も必要ない。
カイは既に予定を変えている。
なら口を出す必要もない。
「なしだ」
「分かりました」
実務官が立ち上がる。
セリオスは呼び止めなかった。
◇
午後、セリオスは治療区の物資担当室へ向かった。
西部調査班へ追加で送る治療布の割当を確認するためだった。
神律特級案件なら、中央から物資を優先できる。
制度上はそうなっている。
しかし倉庫を開けば、数字だけでは見えない事情がある。
冷却布。
止血布。
魂力経路安定薬。
簡易固定具。
棚にはまだ在庫がある。
それでも、昨日の演習事故で使用量が増えたため、来週分として予定していた備蓄へ既に手を付けていた。
「西部へ何枚出せる?」
物資担当者が帳面を確認する。
「標準補充なら十二枚です。ただ、優先案件扱いなら二十枚まで出せます」
「二十出した後の残りは?」
「通常使用見込みで四日半です」
「次便は?」
「三日後。ただし雨で遅れる可能性があります」
セリオスは棚を見る。
「十二でいい」
「特級ですよ?」
「現地から必要数はいくつと来ている」
「八枚。予備込みで十二あれば十分と」
「なら十二だ」
「でも二十出せる規則があります」
「出せるだけだ」
担当者が少し黙る。
セリオスは自分で言ってから、カイへ教えた言葉をまた使っていることに気づいた。
できる。
やるべき。
違う。
「アルヴァの治療列も消えていない」
セリオスは続けた。
「西部だけが世界ではない」
「はい」
「ただし現地使用が増えたら追加を出す。足りない状態にするな」
「分かりました」
十二枚。
安定薬。
小型固定具。
必要量を箱へ入れる。
さらに輸送中の湿気を避けるため油紙で包む。
物資担当者が封をする。
「到着は?」
「馬便で最短二日。通常なら三日」
「現地はそれを待ってから内部へ入る可能性がある」
「急便にしますか?」
セリオスは考える。
急便にすれば馬の交換を増やす。
費用も増える。
しかし一日早く届く可能性がある。
それで現地の治療余力が増えるなら意味はある。
「一段階だけ優先を上げろ。最速便までは要らん」
「理由は?」
「届けば調査開始条件が一つ揃う。だが救命物資ではない」
「了解です」
箱が運び出される。
セリオスは倉庫を出た。
廊下を歩きながら左の義手を開閉する。
今日は安定している。
肩の痛みも一まで下がった。
それでも夕方までは《裁刃》を高出力で使わない。
治った気がすることと、制限が解除されたことは同じではない。
外へ出る。
アルヴァの中央広場では、巡礼者向けの夕刻配食が始まっていた。
大きな鍋。
麦粥。
野菜。
列に並ぶ人。
神殿の仕事は、未知古代遺跡を調べることだけではない。
神核級の騎士を送り込むことだけでもない。
毎日、人へ食事を出す。
傷を治す。
街道を守る。
記録を残す。
祈りの場を開ける。
だから、神殿の判断を「権力だから間違い」と単純に切る気はセリオスにはなかった。
同時に、神殿が守っているから正しいとも思わない。
所属を守ること。
仲間を守ること。
長い間、その二つはほとんど同じ意味だった。
神殿の規則を守れば、騎士も市民も守れる。
そう考えてきた。
今も多くの場面では正しいと思う。
ただし、カイの西部任務は、その二つが常に同じ方向へ向くわけではないことを、まだ小さい形ながら見せ始めている。
規則どおりなら、危険な対象を遠ざける。
本人の安全だけを見れば妥当。
しかし本人が知ろうとしているものまで遠ざければ、それを保護と呼んでいいのか。
逆に、本人が望むからという理由だけで危険区域へ入れ、負傷させれば、それも自由を尊重したとは言い難い。
どちらか一方を言葉だけで選ぶことはできない。
広場を抜け、執務棟へ戻る。
机には最新通信が一枚届いていた。
カイから。
《非接近時変動を確認したため、本日の内部調査は延期。明日まで入口外で観測基準を取る。レオン、エリシア、ノアは村内待機。本人三名了承》
その下。
《治療物資補充後、再調査条件を改めて確認する》
セリオスは最後まで読む。
そして、次に自分が何をするべきか考えた。
カイへ細かな指示を出す必要はない。
現地で見えているものは、現地の方が多い。
なら、自分が見るべきものはアルヴァ側にある。
なぜ現場が《保護》という命令を、移送ではなく条件付き現地調査として運用できたのか。
逆に、中央の一部がなぜ《保護》から即座に移送を連想したのか。
同じ規則を読んで、判断が分かれている。
そこを確かめる価値がある。
規則が悪いと決めるのは早い。
現場が正しいと決めるのも早い。
しかし、運用差が生まれた理由なら調べられる。
セリオスは新しい紙を取った。
見出しを書く。
《神律特級調査案件における保護命令運用差》
少し堅い。
それでいい。
後から誰かが読める方が大事だった。
第一項。
《本人意思が確認可能な場合の保護》
第二項。
《切迫危険が存在する場合の緊急介入》
第三項。
《危険原因が本人と確定しない場合の移送判断》
第四項。
《現地治療者・地方責任者・中央判断者の権限分担》
そこまで書き、筆を止めた。
これは今夜一人で答えを出す資料ではない。
カイが帰れば本人の記録を聞く。
必要なら執行側の担当者にも聞く。
治療側にも聞く。
村から上がってきた報告も見る。
一人の正しさを証明するための記録にしてはいけない。
窓の外では、夕刻の鐘が鳴り始めた。
左肩の痛みはほとんど消えている。
それでも今日の高出力使用禁止は、鐘が鳴ったから解除されるわけではない。
再検査までは使わない。
セリオスは紙をまとめ、明日の仕事欄へ一つ予定を追加した。
《執行院・保護規定運用記録の閲覧申請》
その申請によって何が分かるかは、まだ知らない。
現地でレオンたちが遺跡へ入るより先に答えが出る保証もない。
それでも、カイへ「規則が間違っているなら材料を持ってこい」と教えた以上、自分も材料を見ずに規則の正しさを守るつもりはなかった。
セリオスは翌朝、神殿が過去に《保護》を理由として行った強制移送の記録を、自分の目で確かめることにした。




