第2章《神々の継承者編》 第17話《殺さない決着》
●評価●ブックマーク●アクション●感想●
17話の感想待ってます!
読者様が応援してくれると嬉しいです!
神殿都市アルヴァを出発したカイ・アルヴァレインがその問いへの返事を受け取ったのは、予定していた最初の中継宿ではなく、そこからさらに半刻ほど西へ進んだ街道脇だった。
芽吹二十日の午後、朝から吹いていた乾いた風は弱まっていたものの、王国中央部から西へ向かう街道には前日の雨が残り、馬の蹄が柔らかい土へ沈むたびに茶色い泥が跳ねていた。二頭の馬には三日分の食料と水、治療用品、それぞれへ均等に分けた予備装備が積まれているため、速度を上げすぎれば馬の消耗が先に大きくなる。
カイは前を走る巡回騎手から封書を受け取ると、馬を街道脇の平らな場所まで移動させた。
隣を走っていたエレナ・サフィールも馬を止める。
「エルダ村からですか?」
「封蝋はグランゼ領主代行ですね」
封を切る。
最初の一枚は、神殿が事前に送った通知への正式な返答だった。
カイは最後まで一度読み、それから同じ文面をもう一度確認した。
「どうでした?」
「即時の調査受け入れについては了承。ただし条件付きです」
「条件は?」
カイは読み上げた。
「レオン・アークレイアについては、右手の検査内容を本人へ事前説明し、本人の同意を原則として実施すること。エリシア・アルセレアへの聞き取りは本人が回答可能な範囲に限定し、記憶想起を強制しないこと」
「妥当ですね」
「続きがあります。《レグナ・ゼオ》については、村側が現時点で所有権を主張しない代わりに、神殿側も危険性確定前の一方的な回収を行わないことを求めています」
エレナは少し考えた。
「こちらの命令とも矛盾しません。危険物として確定した場合の一時保全権限は残ります」
「そうですね」
カイは次の行を見る。
そこだけ文体が少し違った。
領主代行の定型的な文章ではなく、現地から提出された意見をほぼそのまま転記したらしい。
《本人二名は神殿関係者と直接話すことを拒否していない。ただし、保護という名目で本人の意思を確認せず移送することには反対している》
カイはその文を数秒見た。
「何か?」
エレナが尋ねる。
「報告書から受けた印象と大きくは違いません」
「レオンのことですか?」
「二人ともです」
紙を折り畳まないまま続ける。
「少なくとも、この返答だけなら神殿そのものを敵視しているわけではない。調査も拒否していない。ただ、何をされるか説明しろと言っている」
「それなら、私たちの事前通知は無駄ではありませんでしたね」
「はい」
もし何も知らせずエルダ村へ到着し、《天律》を持つ自分がいきなり接続解除や中央移送の可能性を告げていたら、同じ話でも受け取られ方は違っただろう。
カイは封書の二枚目を開いた。
こちらは昨夜以降の追加報告だった。
《灰牙》が使用していた追跡用の砂と針。
最終記録の《二重反応》。
レオンが高出力魂力を二度使用したあとの反応値上昇。
さらに、エリシアが古い地名とされる《アルセリア》と《アルクレイン》へ既視感を示したこと。
最後には、二人とも現時点では旧第七採掘遺跡へ向かわず、身体回復と検査を優先しているとある。
カイはそこで少し眉を寄せた。
「どうしました?」
「レオンが遺跡へ戻っていない」
「負傷しているからでは?」
「それもあるでしょう。ただ、初回報告では単独探索傾向が強い人物として書かれていました」
「考えが変わった可能性は?」
「あります」
紙にそう書かれている。
周囲の制止を受け入れ、自分の身体状態と必要な物資を確認し、行動を延期している。
カイが昨日読んだ情報とも一致する。
「少なくとも、危険な力を得たから即座に使いたがっている人物ではなさそうです」
エレナが言う。
カイは頷かなかった。
否定もしない。
「今の報告では、です」
「慎重ですね」
「現地で会っていませんから」
カイは封書をしまう。
そのとき、街道の西側から何かが割れる音が聞こえた。
二人とも同時に顔を上げる。
木材。
続いて馬の鳴き声。
人の声。
距離は遠くない。
「街道上です」
エレナが手綱を握り直す。
カイも馬を道へ戻した。
「行きます。ただし、状況確認前に《氷華》を展開しないでください」
「了解です」
二頭が速度を上げる。
荷を積んだ状態のため全力では走らせない。
数分もしないうちに、街道が緩く曲がった先へ横倒しになった荷車が見えた。
車輪の一つが外れている。
積まれていた麻袋と木箱が道へ散らばり、その奥では三人の男が荷車の周囲にいた。
さらに、地面へ座り込んでいる年配の男。
倒れた馬。
荷車の陰に若い女性と子供が二人いる。
男三人のうち二人は短剣。
残る一人は腕へ小さな赤褐色のソウルストーンを固定していた。
カイは速度を落とす。
「盗賊と判断しますか?」
エレナが尋ねる。
「まだです」
「武器を向けています」
「荷主側かもしれない」
距離を詰める。
そこで腕へ石を付けた男が、荷車の陰へ向かって叫んだ。
「もう一度言うぞ! 金と食料を出せば終わりだ! 次は馬じゃなく人間を焼く!」
判断材料としては十分だった。
「強盗です」
カイが言う。
「はい」
二人は馬を街道脇へ止めた。
カイは降りながら声を上げる。
「そこで武器を下ろしてください」
三人が振り返る。
白銀の剣。
神殿証明札。
騎士装備。
それを見た一人が露骨に顔を歪めた。
「神殿かよ」
カイは距離を保つ。
「今なら、荷物を置いて投降すれば誰も攻撃しません」
「何人いる?」
別の男が周囲を見る。
「見れば分かるでしょう」
カイとエレナ。
二人。
相手は三人。
ただし一般人がいる。
倒れた馬もいる。
荷車は街道中央を塞ぎ、逃げ道は左右へ分かれている。
「武器を捨てて、荷車から離れてください」
カイはもう一度言った。
赤褐色の石を持つ男が笑う。
「二人で俺たち三人を捕まえる気か?」
「三人とも戦う必要はありません」
「何?」
「武器を置けば終わります」
相手は返事をしなかった。
代わりに、石を持つ腕を荷車の陰へ向けた。
エレナが僅かに腰を落とす。
「カイ」
「まだ」
子供がいる。
若い女性もいる。
男が火を放てば、荷車の積み荷へ燃え移る可能性がある。
一方で《天律》を広く使えば、一般人へ魂力を掠めさせる危険がある。
演武場の赤布人形。
カイは昨日の失敗を思い出した。
全部を一度に切る必要はない。
「エレナ、一般人を荷車の反対側から下げてください」
「カイは?」
「石持ちを止めます」
「残り二人は?」
「俺が引きつけます」
エレナが動く。
盗賊の一人がそちらへ向こうとした。
カイは白銀の剣を抜く。
ただし《天律》はまだ使わない。
「俺を見てください」
「舐めるな!」
短剣の男が走る。
カイは正面から受けない。
半歩横へずれ、相手の手首へ刀身の平を当てる。
短剣の軌道が外れる。
そのまま肩へ剣の柄を入れ、体勢を崩す。
倒さない。
次の男も来る。
二人目は刃を低く構え、カイの脚を狙った。
先ほどの一人より慣れている。
カイは後退した。
荷車から離れる方向へ。
二人が追う。
狙い通りだった。
「火を出せ!」
後ろから声が飛ぶ。
石持ちの男が腕を上げる。
カイが振り返る。
赤い魂力が石へ集まっている。
エレナは荷車の陰まであと数歩。
一般人はまだ動けていない。
間に合わない。
ここでは安全を優先する。
ただし、切る対象は一つだけ。
カイは白銀の剣へ魂力を通した。
男。
石。
火へ変換される魂力経路。
その関係を認識する。
「《天律》――第一律《断絶》」
白い線が走った。
石そのものを砕かない。
男の腕も切らない。
石から外へ出ようとしていた魂力だけが途切れる。
赤い光が消えた。
男の顔が変わる。
「なっ……」
カイへ向かっていた二人も一瞬だけ動きを止めた。
その間にエレナが一般人へ到達する。
「こちらへ! 走らなくていいので、荷車から離れてください!」
年配の男は足を痛めているらしい。
自力で立てない。
若い女性が肩を貸そうとする。
エレナが反対側へ入る。
二人で支える。
子供も続く。
「逃がすな!」
盗賊の一人が追おうとする。
カイはその進路へ入った。
「あなたたちの目的は荷物でしょう」
「うるせえ!」
「人質まで必要ですか?」
返事の代わりに短剣が来る。
カイは受ける。
金属音。
二撃目。
三撃目。
相手は力任せではない。
街道で何度も同じことをしているのだろう。
もう一人も横から入る。
二対一。
カイは前へ出ず、距離を維持する。
倒すことは難しくない。
《天律》で武器と手の関係を切る。
靴と地面を切る。
服の固定を切る。
理解できる範囲なら複数の方法がある。
それでも、今の勝利条件は三人を倒すことではない。
一般人を荷車から離す。
相手の火力を止める。
それから武器を捨てさせる。
「カイ!」
エレナの声。
「一般人、退避しました!」
条件が一つ変わる。
カイは後方を一度だけ確認した。
年配の男は街道脇へ座らされ、女性と子供も距離を取っている。
荷車周辺から一般人が消えた。
これなら使える範囲が増える。
赤褐色の石を持つ男がもう一度魂力を流そうとしている。
先ほど《断絶》したのは一時的な経路だけ。
石そのものとの契約まで切ったわけではない。
「エレナ、右の二人を止めてください。殺傷は不要です」
「了解」
淡い青色の石が細剣の柄で光る。
真名級《氷華》。
エレナが地面へ剣先を向けると、男二人の前に薄い氷膜が広がった。
凍結させる対象は人間ではない。
靴の直前にある地面だけ。
男たちの足が止まる。
一人が避けようとして転ぶ。
もう一人も速度を落とす。
カイは石持ちへ向かった。
相手が後退する。
「来るな!」
「石を止めてください」
「ふざけんな!」
赤い火球が生まれる。
今度は荷車ではなくカイへ向けられている。
避けても後ろには誰もいない。
ならば、選択肢は広い。
カイは剣を構えた。
火球そのものを切ることはできる。
しかし、放たれるたびに切るより、発生源を止める方が早い。
男の腕。
石を固定する革具。
金属留め具。
カイには構造が見える。
「《断絶》」
白い線。
革具の留め具だけが切れた。
赤褐色のソウルストーンが腕から外れ、地面へ落ちる。
火球も崩れる。
男が石へ手を伸ばした。
カイはその前へ剣先を置いた。
「拾わないでください」
「俺の石だぞ!」
「今は攻撃に使いました」
「契約してる!」
「契約していることと、他人へ火を放っていいことは別です」
男の顔が歪む。
後ろではエレナが二人を押さえている。
ただし一人はまだ短剣を持っている。
人数差は消えていない。
カイは続ける。
「三人とも武器を置いてください。投降するなら、こちらから追加攻撃はしません」
「神殿に捕まったら終わりだ」
「何が終わるんです?」
「どうせ縛って街へ引きずってくんだろ!」
「強盗と傷害については、近隣の領主側へ引き渡します」
「同じじゃねえか!」
「殺されるのとは違います」
男は黙った。
カイは剣を下げない。
「あなたたちが今から武器を捨てれば、少なくともここで死ぬ必要はありません」
「俺たちを見逃すって意味か?」
「違います」
カイの声は変わらない。
「逃がさないことと、殺すことも別です」
その言葉を聞いた男が、地面へ落ちた石を見る。
短剣を持つ二人。
エレナ。
カイ。
距離。
状況を計算している。
「……くそ」
最初に石持ちの男が両手を上げた。
「武器は?」
「ねえよ」
「腰の後ろに一本あります」
男が目を見開く。
カイはさきほどから見えていた。
投げナイフ。
男は舌打ちしながら抜き、地面へ置いた。
それを見た二人のうち、一人も短剣を落とした。
最後の一人だけが残る。
「俺は捕まらねえ」
男が突然、街道脇の林へ走る。
エレナが追おうとする。
「止めますか?」
カイは距離を見る。
追えば捕まえられる。
ただし、年配の負傷者がいる。
倒れた馬。
二人の拘束対象。
街道上に散乱した荷物。
さらに逃げた一人が林で待ち伏せする可能性もある。
「追わないでください」
「逃がしますか?」
「今は一般人と二人の拘束を優先します。逃走方向だけ記録してください」
エレナは一瞬だけ男の背中を見たあと、頷いた。
「了解」
カイは残った二人へ目を戻した。
「座ってください。両手は見える位置へ」
「逃げねえよ」
「それを確認するために座ってもらいます」
二人が渋々従う。
戦闘は終わった。
誰も死んでいない。
しかし、終わったからといってすぐ出発できる状態でもなかった。
◇
日が落ちる頃、街道脇には煮た豆と乾燥肉の匂いが漂っていた。
襲われていた荷車の主たちは、本来なら次の宿場まで進む予定だったが、年配の男が右足首を痛めているうえ、馬の一頭も脚を擦っている。車輪も外れていたため、その夜は街道脇にある古い休憩小屋を使うことになった。
カイとエレナも予定を変更した。
先へ進めば中継宿へ着くことはできる。
けれど、拘束した二人を連れ、負傷者を置き去りにしてまで進む理由はない。
近くの宿場へ連絡を出すため、荷主の若い女性が持っていた通信札を使い、巡回警備へ救援を求めた。
到着は翌朝になる。
つまり、予定より半日以上遅れる。
エレナが鍋から豆を小さな器へ分けた。
「食べますか?」
カイは拘束された二人を見る。
手首は前で縛っている。
背中側に縛らないのは、長時間拘束した際の負担を減らすためだった。
武器は別の袋へまとめてある。
赤褐色のソウルストーンも、契約者から見える場所へ置きつつ手の届かない距離へ離した。
「先に一般人へ」
「もう渡しました」
「なら二人へ」
エレナが少し眉を動かす。
「拘束者から?」
「最後に食べたのがいつか分かりません」
「本人たちへ聞きます」
一人は答えた。
「朝」
もう一人は黙っている。
エレナが水も渡す。
拘束者だから食事を与えないという理由はない。
逃げられないようにすることと、必要のない苦痛を与えることも別だった。
カイは自分の器を受け取り、古い木壁へ背中を預けた。
豆。
塩。
細く裂いた保存肉。
アルヴァの食堂より味は薄い。
それでも温かい。
午後の戦闘で身体を使ったせいか、思っていたより空腹だった。
「魂力残量は?」
エレナが尋ねる。
「測定具なしで七割後半程度。感覚誤差を入れるなら七割前半まで見ます」
「昨日より慎重ですね」
「昨日、誤差を指摘されたので」
エレナは少し笑った。
「私は八割程度です。《氷華》は地面への局所使用だけなので消耗は少ないです」
「明日の移動に問題は?」
「ありません。ただし睡眠時間が短くなれば別です」
カイは食事を続ける。
負傷者の処置。
拘束者。
荷物の整理。
見張り。
睡眠。
全部を二人でやれば休めない。
「夜の見張りは交代で三刻ずつ。残りは荷主側の成人二人にも一刻だけ頼みましょう」
「一般人に?」
「見張りといっても、拘束者へ近づかず、異常があれば起こしてもらうだけです。戦わせません」
「分かりました」
そこへ、足を治療されている年配の男が声を掛けた。
「神殿の騎士さん」
カイが顔を向ける。
「何でしょう」
「さっきの奴、逃がしてよかったのか?」
「よかったかどうかは、まだ分かりません」
「捕まえられただろ」
「可能性は高かったです」
「なら、どうして追わなかった?」
カイは器を置いた。
「あなたの治療と、残った二人の拘束、それから荷車周辺の安全を優先したからです」
「一人逃げたらまた仲間呼ぶかもしれんぞ」
「その可能性はあります」
「じゃあ間違いだったかもしれないじゃねえか」
「そうですね」
年配の男が意外そうな顔をする。
「認めるのか?」
「結果がまだ出ていませんから」
もし逃げた一人が仲間を連れて戻れば、追わなかった判断は危険を増やしたことになるかもしれない。
反対に、林へ追い込んだ結果として待ち伏せを受ければ、別の危険が生まれた。
「あの時点では、確保済みの二人と一般人を残して追うより、現在の安全を固定する方がいいと判断しました」
「神殿の騎士なら、悪党は全部捕まえるもんだと思ってた」
「任務によります」
「殺せた?」
質問が直接的だった。
エレナが少しだけ視線を動かす。
カイは隠さなかった。
「おそらく」
「なのに殺さなかった?」
「殺す必要がなかったので」
「悪党でも?」
「強盗をしたことと、その場で殺す必要があることは同じではありません」
拘束された男の一人が、黙ってカイを見る。
カイはそちらへは目を向けなかった。
「俺たちが止めなければ、あなたたちへ危害が出ていた可能性が高い。だから止めた。それ以上の刑罰を決めるのは、この場の俺ではなく領主側です」
年配の男はしばらく黙り、それから器を持ち直した。
「神殿ってもっと何でも決めるのかと思ってた」
「決めることもあります」
「さっきは決めなかっただろ」
「俺が決める範囲ではなかったので」
それだけ答える。
カイは食事へ戻った。
しかし自分の言葉が、そのままエルダ村での任務へ重なることには気づいていた。
危険を止める。
それは必要。
だからといって、その後の人生まで自分が決めるわけではない。
では、レオンとエリシアについてはどうか。
もし《レグナ・ゼオ》との接続が本当に周囲へ重大な危険をもたらすなら、止める必要がある。
そのあと、中央大神殿へ連れていくか。
村へ残すか。
遺跡へ戻すか。
本人たちが決める範囲と、公共安全のため神殿が介入する範囲をどこで分けるか。
まだ答えはない。
「カイ」
エレナが小声で呼ぶ。
「何です?」
「考えているでしょう」
「何を?」
「エルダ村のことを」
隠す意味はない。
「はい」
「今日の人たちと比べていますか?」
「完全には」
「完全には?」
「今日の三人は、明確に一般人へ武器を向けていました。レオンとエリシアには、今のところ同じ証拠がない」
「それなら判断は違う」
「そうです」
「でも、能力の危険度は今日の三人より高い可能性がある」
カイは《天律》の柄へ触れた。
「だから難しいんです」
悪意があるが、力は限定的。
悪意が確認できないが、力の上限が分からない。
どちらが危険かを一つの数字で決めることはできない。
「今日、石を持った男を先に拘束しなかったのはなぜです?」
エレナが尋ねる。
「一般人が近かったからです」
「戦力だけ見れば最優先でした」
「はい」
「つまり、強い相手を先に倒すことが安全とは限らない」
「そうですね」
エレナは少しだけ頷いた。
「覚えておきます」
カイも同じことを頭へ残した。
エルダ村でも、最も強い反応を示す対象だけを先に拘束すればいいとは限らない。
誰が何をしているのか。
何を止めれば被害が止まるのか。
そこを見ないといけない。
夜が深くなる。
休憩小屋には煮込みの匂いと濡れた衣服の生活臭が残り、床へ敷いた毛布は長く使われているせいで少し硬かった。
カイは最初の見張りをエレナへ任せ、三刻後に交代することにした。
横になる前に、今日の戦闘記録を薄い紙へ書く。
敵三。
一般人四。
負傷者一。
敵一逃走。
二拘束。
死者なし。
《天律》使用二回。
一回目、契約石から火炎への魂力経路を一時切断。
二回目、石の固定具のみ切断。
目的。
一般人保護。
火炎攻撃停止。
拘束。
それから判断欄へ一文追加した。
《全員確保を勝利条件とせず、現場被害停止を優先》
紙を閉じる。
今日の判断が正しかったかは、明日にならなければ分からない部分もある。
それでも、何を基準に決めたかだけは残せる。
◇
翌日の午後、カイとエレナは予定より半日遅れて第二中継宿へ到着した。
朝には近隣領主の巡回警備が休憩小屋へ来て、拘束した二人と負傷した荷主を引き継いでいる。逃げた一人についても、林の西側へ足跡が続いていたことが確認されたが、追跡は領主側の仕事として任せることになった。
カイたちは馬へ荷を戻し、使った治療布と食料を補充してから再出発した。
半日の遅れ。
治療布二枚消費。
保存食四人分追加消費。
水も予定より減った。
巡回警備から一部を補給してもらえたものの、最初の計画と完全に同じ状態には戻っていない。
第二中継宿へ着くと、カイはまず馬の状態を確認した。
鞍を外す。
背中へ擦れはない。
脚も問題ない。
エレナ側の馬も同じ。
今日ここで十分休ませれば、明日は予定通り丘陵部へ入れる。
「通信があります」
エレナが宿の受付から戻ってきた。
手には神殿通信札。
「アルヴァから?」
「グランゼ経由です」
二人は人の少ない小部屋へ入った。
カイが通信板を開く。
内容は昨夜までに送られた情報の追加整理だった。
新しい事実そのものは少ない。
むしろ、神殿側が既知情報をどう判定へ使うかが書かれている。
《未知古代魂波案件を神律特級調査案件へ格上げ》
カイの視線が止まる。
エレナも読む。
「正式に上がりましたね」
「はい」
《神律特級調査案件》。
神殿内部で使われる実務上の区分だった。
神々に直接関係すると確定したという意味ではない。
既存の契約事故や一般的な古代遺物の範囲では処理できず、神核級を含む高位干渉能力を現地へ派遣して確認する必要がある案件という意味に近い。
「これで任務権限が変わります」
エレナが言う。
「どこまで?」
「現地で必要と判断した場合、周辺封鎖を村側へ正式要請できます。危険な魂力現象が確認された場合には、一時的な接触制限も可能です」
カイは文面の続きを読む。
「ただし、対象者拘束については従来通り個別判断。自動ではない」
「そこは変わらないですね」
「当然です」
案件の危険度が上がったからといって、そこにいる人間まで自動的に危険人物になるわけではない。
カイは次の項目を見る。
《現地到着後、第一報を出すまで中央移送判断を原則保留》
「こちらの裁量が狭くなりましたか?」
エレナが尋ねる。
「逆です」
「逆?」
「即時移送を急ぐ必要がなくなった。まず現地確認を求められています」
神殿側も、追加報告を受けて判断を修正している。
最初は必要時に中央移送。
今は、現地確認後に第一報。
少なくとも、情報が増えたことで一律に強硬になるわけではなかった。
「カイ」
「はい」
「もし現地で《レグナ・ゼオ》が神核級以上の危険を示したら?」
「それでも、何が危険なのか見ます」
「レオンとの接続?」
「可能性の一つです」
「エリシアとの反応?」
「それも」
「施設そのものだったら?」
「人物を移送しても解決しない」
エレナは頷く。
まさにそこだった。
《灰牙》の針は、最初に遺跡を指し、その後村へ動き、《二重反応》を示した。
対象を一人へ決めるには情報が足りない。
神殿がレオンだけを拘束しても、反応源の一つが施設側なら問題は残る。
エリシアだけを移送しても同じ。
「昨日の盗賊と同じですね」
エレナが言う。
「何がです?」
「誰を倒すかではなく、何を止めれば危険が止まるかを見る」
カイは少しだけ彼女を見る。
「同じではありません。ただ、使える考え方ではあります」
「認めるんですね」
「全部同じにすると誤ると言っているだけです」
通信札の末尾に、エルダ村側から新しく届いた短い文がある。
《レオン・アークレイアは神殿騎士との面談を了承》
その下。
《エリシア・アルセレアも同席または個別面談を了承。ただし、質問内容によっては回答を拒否する可能性あり》
カイは読み終える。
「二人とも話すつもりはある」
エレナが言う。
「はい」
「なら、到着後すぐ議論になりますね」
「そうでしょうね」
レオンは危険かもしれないだけで自由を奪うことへ反発する可能性が高い。
カイは、危険と分かってからでは遅いと考える。
完全には噛み合わない。
それでも、話す前から敵ではない。
「神殿の保護を受け入れると思いますか?」
エレナが尋ねた。
カイは返答文をもう一度見る。
「《保護》の意味次第でしょう」
「どういうことです?」
「村にいながら警戒を増やすことも保護です。中央大神殿へ移すことも保護と言える。本人たちが拒否しているのは、たぶん後者を勝手に決められることです」
「神殿側は、危険が高ければ後者を選ぶ可能性がある」
「はい」
「なら、最初から衝突するのでは?」
カイは少し考えた。
「衝突することと、敵になることは同じではありません」
昨日の盗賊は、武器を置かなかった。
一般人へ危害を加えようとした。
だから止めた。
レオンとエリシアは、少なくとも今は話すと言っている。
なら、最初にすることも違う。
「俺は神殿の判断を伝えます。二人の判断も聞きます。そのうえで危険を止めるために必要なことが一致しなければ、そこから議論すればいい」
「それでも合わなかったら?」
「そのとき初めて、どこまで強制する必要があるか判断します」
「最初から移送命令を出さない?」
「出す理由がまだありません」
エレナは通信札を閉じた。
「分かりました」
宿の外から馬の鳴き声が聞こえる。
夕方まではまだ時間がある。
しかし今日は予定より遅れているうえ、馬を休ませる必要がある。
ここから次の宿へ無理に進めば、日没後に丘陵へ入ることになる。
「今日はここで止まります」
カイが言う。
「予定をさらに戻せますか?」
「無理に進んでも、明日の馬が遅くなれば同じです」
「了解」
「その代わり、今夜のうちに面談項目を整理します」
「レオンとエリシアで別に?」
「共通項目と個別項目へ分けます」
エレナが筆記具を出した。
「共通は?」
カイは考える。
旧第七採掘遺跡で何が起きたか。
《灰牙》の砂と針。
《二重反応》。
《レグナ・ゼオ》。
そこまでは二人へ聞ける。
「レオン個別は、右手の紋と魂力使用時の感覚。それから、再使用意思」
「再使用意思?」
「止められている現在も、必要なら使うつもりがあるかどうかです」
「答え次第で危険判定を変える?」
「はい。ただし使うと言っただけで危険人物にはしません。どの状況なら使うと考えているかを聞きます」
「エリシア個別は?」
「記憶欠損について、本人が話せる範囲だけ。《アルセリア》《アルクレイン》《レグナ・ゼオ》への既視感。それから本人が今後どうしたいか」
エレナが筆を止める。
「最後も危険判定に必要ですか?」
「必要です」
「なぜ?」
「本人が遺跡へ戻るつもりなのか、村へ残るつもりなのか、中央へ行くことを検討できるのかで、こちらが用意すべき安全策も変わります」
「それなら、本人の希望を聞くこと自体が保護にも使える」
「そうです」
カイは窓の外を見る。
まだ会っていない。
どんな声で話すのかも知らない。
それでも、昨日までより接触条件は整った。
そして神殿側の案件区分も変わったことで、カイ自身の立場も変わっている。
単なる地方調査へ向かう神殿騎士ではない。
《神律特級調査案件》の現地判断者。
自分が下した判断は、二人だけではなく、村と神殿双方の次の行動を変える。
だからこそ、最初から結論を持って会うわけにはいかなかった。
「エレナ」
「はい」
「エルダ村へ着いたら、最初の面談では《天律》を抜きません」
「当然では?」
「念のため確認です」
「相手が攻撃してきたら?」
「そのときは抜きます」
「レオンが右手の力を見せたいと言った場合は?」
カイは少し考えた。
「今の負傷状態で再使用させる必要はありません。記録と本人の説明を先に取ります」
「本人が『実際に見ないと分からないだろ』と言ったら?」
「その意見は正しい部分もあります」
「では?」
「安全な試験条件を作れるまで待ちます」
「拒否されたと思うかもしれませんよ」
「理由を説明します」
エレナは頷いた。
「最後にもう一つ」
「何です?」
「《レグナ・ゼオ》との接続解除を本人が拒否したら、どうしますか?」
カイはすぐに答えなかった。
昨日なら、危険が高ければ解除する、と先に言っていた。
今も基本は変わらない。
ただ、解除そのものを勝利条件にしてはいけないことは分かってきた。
止めたいのは接続ではない。
危険だ。
接続が危険を生むなら切る。
接続が原因ではないなら、切っても意味がない。
「まず、何を止めるための解除なのか確認します」
エレナが静かに聞く。
「危険そのものが別にあるなら?」
「解除しません」
「神殿命令に《必要時接続解除》とあります」
「《必要時》です」
カイは命令書を取り出さずに答えた。
「必要かどうかを判断するのが俺の任務です」
エレナは少しだけ目を細め、それから頷いた。
「了解しました」
小部屋の机には、エルダ村までの地図と、二人へ聞くための質問項目が並んでいる。
その中には、誰かを倒すための手順は一つもない。
それでもカイは、昨日の街道で刃を交えたときより慎重に言葉を選ぶ必要があると感じていた。
武器を持つ相手なら、攻撃を止めれば一度の危険は終わる。
しかし、互いに自分の判断が正しいと考えている相手との対話では、力で黙らせた瞬間に何が失われるのかまで見なければならない。
翌朝の出発時刻を確認したあと、カイは最後の面談項目を自分の字で書き加えた。
《本人が守ってほしいものと、神殿が守ろうとしているものは同じか》
エレナが横から読む。
「質問として聞くんですか?」
「そのままは聞きません」
「では何のために?」
「俺が忘れないためです」
書き終えて、紙を閉じる。
次に必要なのは、報告書ではない。
本人たちの返答だった。
「神殿が守るべきだと考えているものと、レオンたちが守りたいものは、本当に同じなのかを直接確かめる。」




