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『ソウルストーン ~神々を滅ぼす最後の継承者~』  作者: シロの空


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第2章《神々の継承者編》 第16話《神王の答え》

●評価●ブックマーク●アクション●感想●

16話の感想待ってます!


読者様が応援してくれると嬉しいです!

 エリシアが《エルダ村》でそう決めた翌日、芽吹十九日の午後、《神殿都市アルヴァ》では北西から吹き込んだ強い風が七本の大通りを抜け、神殿騎士たちの白い外套を絶え間なく揺らしていた。


 七柱中央大神殿を中心として同心円状に広がるアルヴァは、祈りのためだけに造られた都市ではない。神殿へ勤める者の住居や食堂、武具工房、治療院、魂晶器具を扱う店舗、巡礼者向けの宿泊区までが一つの生活圏を形成しており、午後の鐘が鳴った直後には、交代勤務を終えた騎士と市場へ向かう住民が同じ石道を行き交っていた。


 その都市の北側、訓練院に隣接した第三演武場では、白銀の剣を持つ少年が一人、風上へ身体を向けて立っていた。


 短く整えられた濃紺の髪が風に乱れても、少年は直そうとしない。


 剣を握る右手には薄い革手袋を付け、灰白色の訓練服の上から軽い防護衣だけを着ている。神殿騎士が実戦で使う外套も胸甲も外しているため、十八歳という年齢相応の細身に見えるものの、足の置き方には無駄がなく、重心も風に引かれることなく一定だった。


 カイ・アルヴァレインは正面に並べられた五本の木柱を見ながら、まだ剣を抜かなかった。


 五本とも同じ太さではない。


 一本目は手首ほど。


 二本目は腕ほど。


 三本目から先には、異なる高さへ細い縄が渡されている。


 さらに柱の後方には、赤い布で囲われた人形が三体置かれていた。


「始めろ」


 背後から声が届く。


 カイは振り返らない。


「条件をもう一度確認します」


「さっき説明した」


「確認と聞き直しは違います。判定条件を一つでも取り違えれば、成功したように見える結果そのものが無効になります」


 少し離れた石壁の前に立つ男が、面倒そうに息を吐いた。


 三十五歳。


 灰銀色の髪。


 黒い瞳。


 左腕の袖から先には生身の手ではなく、半透明の魂力膜を纏った義手が伸びている。


 セリオス・ヴァルディン。


 カイが剣を学び始めた頃から指導を受けてきた神殿騎士であり、現在も実戦訓練の監督を担当する人物だった。


「一本目と二本目の柱を切断する。三本目には傷を付けず、二本の縄のうち上だけを切る。後方の人形へ衝撃を通した時点で失格だ」


「制限時間は?」


「十息」


「《天律》の使用範囲は?」


「第一段階まで。神装は禁止する」


「了解しました」


 カイはそこで初めて白銀の剣へ左手を添えた。


 鞘から刀身を抜いた瞬間、周囲の空気がわずかに変わる。


 剣そのものが光っているわけではない。


 刀身の根元へ嵌め込まれた白いソウルストーンから、ごく薄い魂力が周囲へ流れたためだった。


 神核級《天律》。


 アルヴァの一般住民でも名前だけなら知っている者がいるほど有名な石だが、訓練院では名前の大きさより、使った結果が何を壊したかで評価される。


 セリオスが右手を上げる。


「始め」


 カイが踏み込んだ。


 最初の柱まで七メル。


 走ればすぐ届く距離だが、カイは剣を振り上げながら近づかなかった。


 代わりに白銀の刀身へ魂力を通す。


 一本目。


 切断対象。


 二本目。


 同じ。


 三本目。


 非対象。


 縄。


 上のみ対象。


 赤布の人形。


 絶対に影響を通してはならない。


 頭の中で位置と関係を整理する。


 《天律》は、ただ大きな力を放つ石ではない。


 少なくとも、カイが現在扱える範囲では、認識した対象と対象のあいだにある関係へ干渉し、指定した繋がりを切断する形で最も安定する。


「《天律》――第一律」


 白い魂力が刀身から伸びる。


「《断絶》」


 振り下ろす。


 一本目の柱が途中から滑るように落ちた。


 同時に二本目も切れる。


 木片は飛ばない。


 衝撃もほとんど広がらない。


 そのまま三本目の前を白い線が通過し、上側の縄だけが張力を失って落ちた。


 下の縄は残る。


 三本目の柱にも傷はない。


 カイは剣を止めた。


 十息より早い。


 後ろの人形も動いていない。


「終わりです」


 セリオスは答えず、木柱へ近づいた。


 一本目。


 二本目。


 三本目。


 縄。


 順番に確認する。


 最後に赤布の人形の前へ立ち、表面へ指を当てた。


「失格だ」


 カイの眉がわずかに動いた。


「理由を」


「三体目の人形に魂力痕がある」


「接触はしていません」


「接触したとは言っていない」


 セリオスが人形の胸元を指す。


 見た目には何も変化していない。


 しかし、カイが近づいて指先へ魂力を集中させると、布の奥へごく薄い残留反応がある。


 切断に伴う直接衝撃ではない。


 《天律》を通した際、指定対象の外側へ漏れた魂力の一部だった。


「損傷は?」


「ない」


「なら実戦上は――」


「失格だ」


 同じ言葉で止められる。


 カイは口を閉じた。


 セリオスは赤布の人形から離れた。


「お前は今、敵二人の武器を切り、その背後に立つ避難民へ魂力を掠めさせた。怪我がなければ合格にするのか?」


「状況によります。避難民へ現実的な危険がなく、敵を止めなければより大きな被害が出るなら、許容すべき場合もあります」


「なら、今回の条件は?」


「後方人形へ影響を通さないこと」


「それを満たしていない」


「はい」


 カイは剣を下ろした。


 反論する必要はない。


 条件を満たしていない以上、今回の判定は失敗になる。


 ただし、失敗の理由を理解せず受け入れることも訓練にはならない。


「原因は指定範囲の広さですか?」


「半分はな」


「残りは?」


「お前が一度に終わらせようとした」


 カイは切断した二本の柱を見る。


「十息という制限がありました」


「十息以内なら、二度に分けてもいいとは考えなかったのか?」


 セリオスの問いに、カイは少し黙った。


 確かに禁止されていない。


 一本目と二本目をまとめて切り、その後、三本目の柱と縄へ近づいて上側だけを処理する方法もあった。


 時間内には収まる。


 それでもカイは、一度の《断絶》ですべてを処理する方を選んだ。


「必要以上に効率を優先したという評価ですか?」


「違う。効率を優先するのは悪くない。ただ、お前は自分が一度でできるから、一度でやる方が正しいと思った」


「結果的には失敗しました」


「だから今覚えろ」


 セリオスは切れた縄を拾い上げた。


「強い石を持っている奴ほど、『できること』と『やるべきこと』を混ぜる。お前はその癖が比較的少ない方だが、ないわけじゃない」


 カイは《天律》を見る。


 神核級。


 その階級名だけを聞けば、一般的な契約石よりはるかに強い存在として語られる。


 だが、強いという言葉だけでは不十分だった。


 広く切れること。


 遠くへ届くこと。


 複数対象へ同時に干渉できること。


 それらが増えるほど、間違えたときに巻き込む範囲も増える。


「もう一度お願いします」


「休憩は?」


「不要です」


 セリオスがカイの手を見る。


「右手を開け」


 言われた通り剣を左へ持ち替え、右手を開く。


 指先が僅かに震えていた。


 本人にはほとんど自覚がない。


「魂力消費は?」


「体感で一割未満です」


「体感は聞いていない」


 カイは演武場の端にある測定板を見る。


「測ります」


「最初からそうしろ」


 演武場脇へ移動する。


 白い石板へ右手を置く。


 魂力残量そのものを正確な数値にできる装置ではないが、訓練開始前の基準値と比べれば消耗の程度は確認できる。


 表示された値は、カイが考えていたより少し低かった。


「十二から十四パーセント程度」


 セリオスが言う。


「お前の一割未満は随分広いな」


「誤差です」


「便利な言葉だ」


「次回から測定を基準にします」


「そうしろ。遠征中は毎回使えないから、自分の感覚とのずれも覚えておけ」


 遠征。


 その言葉にカイは僅かに反応した。


 数日前から、神殿内では王国西部で観測された異常魂波について話が出ている。


 正式な任務として自分へ回ってきたわけではない。


 しかし《天律》と同じ神核級、あるいは既存の階級に収まらない可能性がある異常であれば、神殿騎士が調査へ派遣されることは十分に考えられた。


「西部の件ですか?」


 カイが聞く。


 セリオスの表情は変わらない。


「何の話だ」


「訓練内容が、普段の対人制圧より護衛を意識した配置に変わっています。それに先ほど遠征中の測定について言及されました」


「考えすぎだ」


「否定するなら、左腕の義手で口元を触らない方がいいですよ」


 セリオスの右眉が僅かに上がる。


 自分でも気づいていなかったらしい。


「お前は人の癖を見る前に、自分の癖を直せ」


「否定ではありませんね」


「訓練へ戻れ」


 カイはそれ以上追及しなかった。


 聞く必要があれば、正式に情報が渡される。


 逆に、まだ自分へ開示できない段階なら、ここで推測を増やしても判断材料にはならない。


 演武場へ戻る。


 新しい柱が運び込まれる。


 準備を担当している下級騎士たちは、カイが神核級の適合者だからといって特別に距離を取ることはなく、切断した木材を片づけながら次の配置を整えていく。


 一本目。


 二本目。


 三本目。


 上の縄。


 後方人形。


 条件は同じ。


 今度は一度で終わらせない。


 カイは距離を見る。


 最初の二本だけなら、指定範囲を狭くしても同時に処理できる。


 そこから三歩進めば、縄と人形の位置関係をより明確に把握できる。


「始め」


 セリオスの声。


 カイが動く。


 最初の《断絶》。


 二本の柱だけを切る。


 白い線が消える前に踏み込み、三本目の横へ身体を寄せる。


 縄を見る。


 上。


 下。


 三本目の柱との固定位置。


 後方人形。


 それぞれを別に認識する。


 二度目。


 上の縄だけを切る。


 終了。


 セリオスが確認する。


 しばらくして、彼は赤布の人形から離れた。


「合格だ」


 カイは剣を鞘へ戻す。


「所要時間は?」


「九息」


「一回目より遅い」


「当然だ」


「ただし条件は満たした」


「そういう訓練だ」


 カイは右手を軽く開閉する。


 二度に分けた分、操作時間は増えた。


 魂力消費も、感覚上では僅かに多い。


 それでも後方人形へ残留反応は出ていない。


 速さ。


 消費。


 安全。


 すべてを同時に最大化することはできない。


 何を優先するかは状況ごとに変わる。


「セリオス」


「何だ」


「実戦なら、一回目の方法を選ぶべき状況もあります」


「ああ」


 即答だった。


「否定しないんですか?」


「敵が次の一撃で誰かを殺すなら、微弱な魂力痕を気にして二回に分ける方が間違いだ」


 カイは少しだけ目を細めた。


「なら、最初からそう言えばいいのでは?」


「言ったら、お前は条件を覚えるだけで判断しなくなる」


「随分信用がありませんね」


「逆だ。判断できると思ってるから、自分で考えさせてる」


 セリオスは新しい訓練札を取った。


 そこには次の配置が書かれている。


「覚えとけ、カイ。規則は判断を減らすためにあるんじゃない。毎回ゼロから考えなくて済むように、先人が失敗した結果を残してるだけだ」


「規則が間違っている場合は?」


「直す」


 その返事は迷いがなかった。


「ただし、自分が気に入らないから間違いだという話とは分けろ。変えるなら、何が不足しているのか説明できる材料を持ってこい」


 カイは答えず、訓練札を受け取った。


 それは神殿で育った自分にとって、珍しい考え方ではない。


 秩序がある。


 命令がある。


 危険なものを管理する手続きがある。


 それでも手続きは神そのものではなく、人間が運用する以上、状況によって不足することもある。


 カイはそう教えられてきた。


 少なくとも、セリオスからは。


 午後の第二鐘が鳴る。


 同時に演武場入口から足音が近づいた。


 訓練用の靴ではない。


 金属板を仕込んだ神殿騎士の実務靴が石床を叩く音だった。


 カイが振り返る。


 短い淡青色の髪を耳へ掛け、銀灰色の瞳を持つ若い女性騎士が入口で足を止めた。白い軽装鎧の肩には中央大神殿直属を示す細い銀線が入り、腰には淡い青色の契約石を組み込んだ細剣を下げている。


 エレナ・サフィール。


 カイの任務連絡を担当することが多い神殿騎士だった。


「訓練中に失礼します」


「構わない」


 セリオスが答える。


 エレナはカイへ視線を向けた。


「カイ・アルヴァレイン。執務棟第三判定室への出頭要請です」


「時刻は?」


「直ちに」


「装備は?」


「訓練装備のままで構わないとのことです。ただし《天律》は携行してください」


 カイはセリオスを見る。


「西部の件ですね」


 セリオスは答えなかった。


 その沈黙で十分だった。


 ◇


 第三判定室へ向かう途中、カイは演武場から神殿本棟へ続く渡り廊下で一度だけ足を止めた。


 風が強い。


 高い位置へ造られた回廊には都市を遮る建物が少なく、白い上着が背中側へ何度も引かれる。訓練で身体が温まっているため寒さは強くないが、汗を吸った襟元へ風が入り込むたびに肌の温度が急に下がった。


「食事は?」


 隣を歩くエレナが尋ねた。


「昼は訓練前に取っています」


「水分は?」


「先ほど少し」


「少しでは分かりません」


 カイは腰の水筒を持つ。


 半分より少ない。


「残り四割程度です」


「判定室へ入る前に補給してください。内容によっては、そのまま移動準備へ入る可能性があります」


「やはり遠征ですか」


 エレナは少し黙った。


「私から話せる範囲ではありません」


「では質問を変えます。移動準備へ入る可能性があるという情報は開示可能なんですね?」


「はい」


「馬を使う距離ですか?」


「それも判定室で確認してください」


 余計なことを言わない。


 カイはそれ以上聞かなかった。


 情報を隠しているというより、自分が伝えてよい範囲を守っている。


 その違いは大きい。


 途中の補給所へ寄る。


 水筒を満たす。


 訓練で消費した分を補うため、薄い塩味のある飲料も一杯受け取った。


 エレナも同じものを飲む。


「エレナ」


「はい」


「今回、あなたも同行候補ですか?」


「正式決定はまだです。ただし待機指示は出ています」


「なら、危険度は通常の地方調査より高い」


「そう判断する理由は?」


「中央直属のあなたを待機させ、《天律》の携行を明示している。それに訓練終了を待たず出頭させた」


 エレナは器を返却口へ置いた。


「妥当だと思います」


「否定しないんですね」


「判定室で分かることを、ここで隠す意味はありませんから」


 二人は再び歩き出した。


 第三判定室は、中央大神殿の中でも一般の信徒や巡礼者が入らない実務区画にある。


 廊下の窓は狭く、代わりに壁際へ一定間隔で魂晶灯が埋め込まれている。祈りの場にある装飾的な彫刻は少なく、扉ごとに部屋番号と担当部署だけが記されていた。


 カイはこの場所を好んでいるわけではない。


 ただ、何のために使われる場所か分かりやすいとは思う。


 第三判定室。


 危険なソウルストーン。


 契約事故。


 未登録魂力現象。


 古代遺物。


 そうしたものについて、現地へ誰を派遣し、どこまで介入するかを決める場所だった。


 扉の前でエレナが止まる。


「入室許可は出ています」


「あなたは?」


「同席します」


 二人で入る。


 室内には三人いた。


 中央の机へ大量の記録を広げている白髪の男性。


 その横で通信板を操作する若い神官。


 さらに窓側には、訓練場から先に来ていたらしいセリオスが立っている。


「やっぱりいるじゃないですか」


 カイが言う。


 セリオスは腕を組んだ。


「何がだ」


「西部の件だと知っていた」


「知っていたとは言っていない」


「否定もしなかったでしょう」


「座れ」


 話を切られる。


 カイは指定された椅子へ座った。


 エレナも隣へ着く。


 机の中央へ、一枚の地図が広げられる。


 《アークレシア王国》西部。


 《グランゼ》。


 そこからさらに外れた山間部。


 小さな村名。


 《エルダ村》。


 カイは初めて見る地名だった。


 白髪の男性が口を開く。


「昨日、グランゼ領主代行から緊急報告が届いた。内容は複数あるが、まず現時点で確認済みと扱う情報だけ読む」


 カイは黙って聞く。


「エルダ村北方の旧採掘遺跡で、既知記録に存在しない古代施設が発見された。施設は現在一部起動しており、周辺で通常の登録基準へ一致しない魂波が複数回観測されている」


「観測地点は?」


 カイが聞く。


「グランゼの簡易観測塔と、王国西部第三中継塔。さらに遅れて中央神殿の広域観測網にも入った」


「三系統で同一波形?」


「完全一致ではない。距離と装置差を補正したうえで、同一事象由来と推定している」


「推定」


「そうだ」


 白髪の男は次の紙へ移る。


「施設を発見したのはエルダ村在住の十七歳、レオン・アークレイア。本人の右手には先天性とされる未分類の黒い紋があり、施設接近時に発熱と色調変化を示した」


 カイは初めて眉を動かした。


「契約紋ですか?」


「現地の旧検査では否定されている」


「再検査は?」


「グランゼから魂晶技師を派遣中」


「神殿側の鑑定は?」


「まだ行われていない」


「なら、未分類というより未確認ですね」


 白髪の男が少し目を細める。


「その指摘は正しい。報告書の『未分類』は現地表現だ。中央記録では《分類保留》として扱っている」


 カイは頷く。


 言葉一つで意味が変わる。


 未分類なら、既存分類で調べたうえで入らなかったように聞こえる。


 分類保留なら、まだ十分に調べていない。


「次」


 紙がめくられる。


「施設内部から少女一名が保護された。名前はエリシア。本人の申告では姓まで十分に確認できていないが、現地記録には《エリシア・アルセレア》と暫定記載されている」


 カイは地図から視線を上げる。


「施設居住者ですか?」


「不明」


「現在の住民ではない?」


「少なくともエルダ村側に身元記録はない。本人には記憶欠損があり、《アルセリア》という名称など、一部の古い語へ反応を示している」


「古代人という判断ですか?」


「現地ではその可能性を疑っている者がいる。しかし、神殿はまだ判断していない」


「当然です」


 一つの古代施設から現れた。


 古い言葉を知っている。


 それだけで数千年前の人間と断定できるはずがない。


 記憶障害。


 出自の偽装。


 施設内での長期隔離。


 未知の保存技術。


 考えられる説明はいくつもある。


「本人の身体状態は?」


「発見時は著しい筋力低下と脱水。現在は回復傾向。意思疎通は可能で、自身の扱いについて説明を求めている」


「危険行動は?」


「報告されていない」


「能力使用歴は?」


「確認されていない」


「なら現時点で拘束対象とする材料は薄い」


 セリオスが窓際から言った。


「まだ続きを聞いてないぞ」


 カイは少しだけ彼を見る。


「現時点で、と言いました」


「なら聞け」


 白髪の男が次の記録へ移る。


「遺跡周辺には盗賊団《灰牙》の探索隊が侵入している。彼らは第三者から、特殊な古代魂波を持つ何かを探す依頼を受けていた可能性が高い」


「依頼主は?」


「不明」


「灰牙が施設を起動した可能性は?」


「低いと見ている。施設最初の起動はレオンの接近後で、灰牙が現地へ到着した時刻より前だ」


「レオンが起動したことは確定?」


「因果は確定していない」


 白髪の男の答えに、カイは頷いた。


 右手が反応した。


 施設も動いた。


 時間が近い。


 しかし、それだけで少年が原因だとは限らない。


「灰牙が使用した探索道具について、異常反応を追跡する砂状物質と針が押収されている」


「その道具が何を追っていた?」


「そこが問題だ」


 別の地図が出る。


 複数の地点。


 針の方向。


 推定反応源。


「初期には旧採掘遺跡周辺を示した。その後、方向がエルダ村側へ移動し、最終記録には《二重反応》の略記が残されている」


 カイは地図を見る。


「候補はレオンとエリシア?」


「現地ではそう疑われている。ただし、二人の携行物や遺跡側に残った別の反応を分離できていない」


「灰牙は二人を確保しようとした?」


「村内で接触があり、実際に襲撃が起きた」


 カイの視線が止まる。


「被害は?」


「村人側に複数の軽傷。レオンは右腕と左膝を負傷。灰牙側にも負傷者と拘束者がいる。死者の報告はない」


「レオンの右腕は灰牙に斬られた傷ですか?」


「外傷はそうだ。しかし別に問題がある」


 白髪の男が一枚の紙をカイへ渡す。


 簡易な魂力経路図。


 右手から前腕にかけて、通常の契約経路とは異なる反応が記録されている。


「襲撃時、レオンは契約石を所持していない状態で高出力の魂力を二度放出した」


「石なしで?」


「現地記録ではそうなっている」


「発生源は?」


「不明」


「遺跡から遠隔供給された可能性は?」


「否定できない」


「本人の右手に石片が埋め込まれている可能性は?」


「現地検査では確認されていない。ただし精密検査前だ」


 カイは紙を机へ戻した。


 情報が足りない。


 それでも危険判定を始めるには十分だった。


 未確認の古代施設。


 分類保留の右手の紋。


 契約石なしの高出力魂力放出。


 その反動による本人の負傷。


 盗賊団が追跡できる異常魂波。


 記憶欠損の少女。


 一つずつなら即時拘束に値しない。


 組み合わさった場合の危険は別だった。


「放出規模は?」


「現地の木造構造物を破壊する程度。正確な出力は未測定」


「制御は?」


「一回目は対象を外して石壁へ命中。二回目は木箱を破壊して逃走経路を確保したとのことだ」


 カイは目を細めた。


「一回目より二回目の方が制御できていますね」


「そう読める」


「本人が意図的に修正した?」


「現地証言では、その可能性が高い」


 完全な暴走ではない。


 制御不能な現象でも、二度目には目的を限定して使っている。


 ならば本人の意思と能力発動には、何らかの関係がある可能性が高い。


「本人は三度目を使おうとした?」


「その後は治療側と周囲から使用を止められ、本人も従っている」


 カイは少しだけ姿勢を戻した。


 その情報は重要だった。


 強い力が出た。


 怪我をした。


 止められた。


 それでも使い続けた者と、理由を理解して停止した者では危険判定が変わる。


「命令違反歴は?」


「神殿に所属していない」


「表現を変えます。現地で安全上の制止を無視した記録は?」


「遺跡発見初期には単独行動傾向があった。ただし現在は村長、自警団、治療者の判断を受け入れている」


「変化理由は?」


「負傷と実地経験、それから周囲との対話と記録されている」


 カイは少しだけ眉を寄せた。


 そこまで細かく人物行動を記録する地方報告は珍しい。


「誰がこの報告を書いたんです?」


「エルダ村長ハベル・ロークを中心に、複数人の証言をグランゼでまとめた」


「一人の印象ではない?」


「できる限り分けてある」


 カイはもう一度紙を見る。


 レオン・アークレイア。


 十七歳。


 古代遺跡を偶然発見。


 未分類の紋。


 石を所持せず魂力放出。


 危険行動歴はあるが修正傾向。


 自分で考え、他者の制止を受け入れる。


 報告だけを読む限り、神殿に反抗する危険人物という像ではない。


 一方で、本人の善良さが能力の安全性を保証するわけでもない。


「神殿の現時点での危険判定は?」


 カイが聞く。


 白髪の男が答える。


「対象一、レオン・アークレイア。本人危険度は暫定中。能力危険度は判定保留。ただし再発時には上方修正」


「対象二、エリシア・アルセレアは?」


「本人危険度は暫定低。存在由来危険度は判定保留」


「存在由来という言葉は適切ではありません」


 部屋が少し静かになった。


 白髪の男がカイを見る。


「理由を」


「本人が危険行動をしていない状態で、その出自が不明という理由だけを《存在由来危険度》と表記すれば、後続の判断者が本人そのものを危険物と誤認する可能性があります」


 セリオスが腕を組んだまま聞いている。


 カイは続けた。


「《周辺現象との関連性判定保留》の方が正確です。危険が本人から発生しているのか、本人が別の現象に巻き込まれているのか、今の情報では区別できません」


 白髪の男は数秒考えた。


「記録官」


 隣の神官が顔を上げる。


「修正しろ」


「はい」


 記録板の表現が変えられる。


 カイはそれ以上何も言わなかった。


 危険を小さく扱いたいわけではない。


 むしろ逆だった。


 危険判定で使う言葉が曖昧なら、必要な警戒まで誤る。


「そして対象三」


 白髪の男が新しい紙を出す。


 カイが見る。


 記載は少ない。


 《古代施設内魂核反応体》。


 名称欄。


 《レグナ・ゼオ》――現地聞き取りによる仮称。


「これが問題の石ですか?」


「石かどうかも確定していない」


「形状は?」


「大型の魂晶状構造物とされる。レオンが最初に接触した際、右手の紋と相互反応したという」


「現在は施設内?」


「そうだ」


「灰牙が探しているものと一致する?」


「不明」


 カイは資料を読み進める。


 《レグナ・ゼオ》。


 聞いたことがない。


 神殿の一般登録記録にもない。


 ただし、名前そのものが現地の古代記録から出たものなら、中央の通常台帳へ存在しないことは不自然ではない。


「分類候補は?」


「上級以上の古代魂晶。真名級相当。あるいは神核級に近い可能性も排除していない」


「根拠が弱い」


「だから候補だ」


「波形だけで神核級を疑っている?」


「波形と、レオンへの影響だ」


 カイは《天律》の柄へ視線を落とした。


 神核級。


 その名称は、単純に大きな魂力を持つ石を指すだけではない。


 神殿では契約安定性、影響範囲、法則性、対人・対環境危険度など複数の要素を見て扱いを決める。


 第二章に入って初めて、カイの立場からその実務上の意味が見えてくる。


 しかし今の資料だけで《レグナ・ゼオ》を同列へ置くのは早い。


「俺に何をさせるつもりですか?」


 ようやく本題へ入る。


 白髪の男は一枚の命令書を出した。


「エルダ村へ向かってもらう」


 カイは命令書を取らず、内容を聞く。


「目的は?」


「第一に、未知古代魂晶レグナ・ゼオの危険性確認。第二に、レオン・アークレイアとの接続状況の確認。第三に、エリシア・アルセレアの保護状態確認」


「保護状態?」


「本人が現地で十分な説明を受け、自身の意思を表明できる状態にあるかも含む」


 その一文で、カイは先ほどの地方報告を思い出す。


 《本人は意思疎通が可能で、自身の扱いについて説明と選択の機会を求めている》


「第四に?」


「必要と判断した場合、《レグナ・ゼオ》とレオンの接続を解除する」


 カイの視線が命令書へ落ちる。


「解除方法は?」


「現地判定」


「つまり、方法は分かっていない」


「そうだ」


「《天律》を使えという意味ですか?」


「可能性の一つとして携行させる」


 カイは少しだけ息を吐いた。


 《天律》は関係へ干渉できる。


 だが、何かと何かが接続しているというだけで、何でも切れるわけではない。


 少なくともカイ自身が対象と関係を認識できなければ、正確な指定はできない。


 その制約を中央が知らないわけではない。


「第五は?」


「危険が高く、現地で管理不能と判断した場合、対象を中央大神殿へ移送する」


 カイの声が少し低くなる。


「対象とは?」


「状況による。《レグナ・ゼオ》、レオン、エリシアのいずれか、または複数」


「本人の同意は?」


「原則取る」


「例外は?」


「公共安全上、放置できない危険がある場合」


 予想していた答えだった。


 神殿が危険なソウルストーンや契約事故へ介入する以上、本人が拒めばすべて終わりという制度にはできない。


 暴走した石。


 周囲へ被害を出す契約者。


 本人が正常な判断をできない状態。


 そうした場面で同意が取れるまで待てば、人が死ぬ。


 一方で、「危険かもしれない」だけで人間を拘束するなら、その制度は簡単に濫用できる。


「現時点で、強制移送の基準を満たしていると判断していますか?」


 カイが尋ねる。


「まだだ」


「なら俺の任務は、連れて帰ることではなく、連れて帰る必要があるか判断することですね」


「そう理解していい」


「現地側は、その違いを知っていますか?」


 白髪の男は少し黙った。


「まだ正式通知は届いていない」


 カイは命令書を見る。


 ここに問題がある。


 神殿から神核級《天律》を持つ騎士が来る。


 古代の石を調べる。


 必要なら接続解除。


 中央への移送。


 内容だけを先に聞けば、現地側は最初から拘束しに来たと受け取る可能性がある。


「到着前に命令概要を送ってください」


「なぜだ?」


「突然行けば、こちらが説明する前に対象側が逃げる可能性があります。特にレオンは遺跡への関心が強く、灰牙から襲撃も受けている。神殿まで自分たちを狙う側だと誤認されれば、調査そのものが難しくなります」


 エレナが隣で頷いた。


「私も事前通知には賛成です」


 白髪の男がカイを見る。


「通知内容は?」


「目的が危険性確認であること。現時点で即時拘束命令は出ていないこと。本人たちから事情を聞くこと。そして、危険が確認された場合には接続解除や移送を求める可能性があることまで隠さず伝えるべきです」


「最後まで送れば逃げるかもしれんぞ」


 セリオスが初めて口を挟む。


 カイは彼を見る。


「隠して近づき、現地で初めて移送の可能性を告げる方が信頼を失います」


「安全を優先するなら、知らせず近づいた方が確実だ」


「相手が即時危険対象ならそうです。でも今の判定は違う」


 セリオスはそれ以上言わない。


 試している。


 訓練場と同じだと気づいた。


 条件。


 優先順位。


 何を守るために、何を許容するか。


「カイ」


 白髪の男が尋ねる。


「現地でレオンが接続解除を拒否した場合はどうする?」


「解除が必要だと判断した理由を説明します」


「それでも拒否したら?」


「拒否したこと自体を危険判定の理由にはしません」


「では放置するのか?」


「違います」


 カイは命令書へ手を置いた。


「接続を維持することで本人または周囲へ具体的な危険があるなら、その危険の大きさと切迫性を見ます。本人の拒否より公共安全を優先すべき水準なら、強制解除を検討します」


「誰がその水準を決める?」


「現地で最終判断権を与えられるのは俺ですか?」


「そうなる」


「なら俺が決めます。ただし、記録を残します」


「なぜ?」


「帰還後に判断が正しかったか検証できるようにするためです」


 白髪の男はカイをしばらく見ていた。


「自分が間違える前提か?」


「間違えない前提で権限を渡す方が危険でしょう」


 部屋が静かになった。


 カイ自身には当然の答えだった。


 神殿の判断が常に正しいとは思っていない。


 だからといって、誰にも判断させないわけにもいかない。


 危険な場面では決める者が必要になる。


 なら、後から修正できるよう記録を残すしかない。


 セリオスの義手が小さく動いた。


「さっきの訓練、覚えてるみたいだな」


「忘れるほど時間が経っていません」


「ならいい」


 白髪の男が命令書をカイの前へ押した。


「任務を受けるか?」


 カイはすぐには署名しなかった。


 目的地までの距離。


 出発時刻。


 同行者。


 補給。


 現地の地形。


 灰牙の残存状況。


 確認していない条件がある。


「出発は?」


「明朝を予定している」


「移動手段は?」


「神殿馬二頭。途中の中継宿で交換可能」


「同行者はエレナ?」


「第一候補だ」


 エレナが答える。


「私は受命可能です」


「セリオスは?」


「行かん」


 セリオス自身が答えた。


「俺はアルヴァに残る」


「理由は?」


「お前が一人で判断する任務だからだ」


 カイは少しだけ不満を感じた。


 セリオスがいれば、危険判定について意見を求められる。


 戦闘になっても戦力は上がる。


 しかし、それでは自分に最終判断権を与える意味が薄くなる。


「補給量は?」


 エレナが別紙を出す。


「天候が安定していれば二日分で中継宿へ到達できます。ただし西側は今夜から風が強まる予報なので、三日分を携行する案です」


「馬への負荷は?」


「二名なら許容範囲です。防具を重装に変更すると交換が必要になります」


「軽装で行きます」


 白髪の男が尋ねる。


「危険地域だぞ」


「灰牙との戦闘可能性はありますが、重装で速度を落とす方が到着までの時間と補給量を増やします。《天律》も携行する以上、現時点では軽装が妥当です」


 エレナが記録する。


「食料は乾燥食中心で三日、水は途中補給を前提に二日分。治療物資は標準遠征量の一・五倍を申請します」


「理由は?」


「現地で既に負傷者が出ており、村側の治療物資も消耗しているという報告があるからです。私たちだけの分を持てば、現地へ負担を増やします」


 カイはエレナを見る。


「賛成です」


 白髪の男が頷く。


「申請を通す」


 必要条件が揃っていく。


 その代わり、荷物は増える。


 馬の速度は少し落ちる。


 到着時刻も変わる。


 訓練場と同じだった。


 一つの条件を安全側へ寄せれば、別の負担が増える。


 最善という言葉は、すべてを最大にすることではない。


「最後に一つ」


 カイが言った。


「《レグナ・ゼオ》を神殿所有物として扱う命令はありますか?」


 白髪の男の眉が僅かに動く。


「ない」


「発見者から回収する権限は?」


「危険物に該当すれば一時保全権限はある」


「危険物と確定する前は?」


「現地法と所有権確認が先だ」


「分かりました」


 これでいい。


 少なくとも現時点では、神殿が正体不明の古代石を奪いに行く任務ではない。


 危険なら介入する。


 危険でなければ調べる。


 その境界を決めるために自分が行く。


 カイは命令書を取った。


 署名欄へ名前を書く。


 《カイ・アルヴァレイン》。


「受けます」


 エレナも同行命令へ署名する。


 白髪の男が二枚を回収した。


「出発準備へ入れ。今夜は第三宿舎へ戻り、明朝第一鐘前に北門集合」


「了解しました」


 カイが立ち上がる。


 そのとき、セリオスが窓際から言った。


「カイ」


「何です?」


「現地へ行って、報告と全然違う奴だったらどうする?」


「誰が?」


「レオンでも、エリシアでもいい」


 カイは少し考えた。


「見た方を基準にします」


「報告を捨てるのか?」


「捨てません。報告と現地の差を調べます」


「相手が自分に都合よく見せてるだけかもしれないぞ」


「その可能性も入れて判断します」


「神殿の命令と、本人の主張が真っ向から違ったら?」


 今度は少し長く考えた。


 命令。


 安全。


 本人の意思。


 訓練場での柱とは違う。


 人間は、切断対象と非対象へ簡単に分けられない。


「どちらかの言葉だけで決めません」


 カイは答えた。


「俺が現地で確認できる事実と、それぞれがそう考える理由を見ます」


「時間がなかったら?」


「そのときは、被害が出た場合に戻せない方を優先します」


「自由より安全か?」


「場合によります」


 カイは即答しなかった。


「人を一時的に止めることは、後から謝って解除できる場合がある。でも、止めなかった結果として誰かが死ねば戻せない。だから切迫した危険では安全を先に取ります」


 セリオスは何も言わない。


「ただし」


 カイは続けた。


「危険が切迫していないのに、将来危ないかもしれないという理由だけで自由を奪うなら、その判断にも同じくらい強い根拠が必要です」


「それが神殿の命令でも?」


「命令なら従う義務はあります」


「質問の答えになってない」


 カイはセリオスを見る。


「命令の根拠を確認します。それでも俺に裁量がない正式命令なら、従ったうえで記録と異議を残します」


「神王の教えと違っても?」


 その言葉で、カイは少しだけ表情を変えた。


 神王アーディオス。


 七柱教会で最も強く語られる神。


 人々を守り、争いを抑え、世界の秩序を保つ存在として信仰されている。


 カイ自身も、神々の存在を疑ってはいない。


 神殿で育ち、祈りも捧げる。


 《天律》のような神核級を扱う以上、神々の法と無関係に生きているとも思わない。


 しかし。


「神王の教えを、俺が都合よく読んでいいとは思いません」


 セリオスが眉を上げる。


 カイは続けた。


「もし神王が本当に人を守るため秩序を求めるなら、その秩序が何のためにあるか考えることまで禁じてはいないはずです」


「ずいぶん勝手な読み方だな」


「だから《俺はそう考える》としか言いません」


 カイは白銀の剣へ手を添えた。


「神王本人に聞いたわけではありませんから」


 その場にいた誰も、それを不敬だとは言わなかった。


 セリオスはしばらくカイを見たあと、わずかに笑った。


「なら、現地でもその調子で聞け」


「誰に?」


「決まってるだろ。お前と違う答えを持ってる奴にだ」


 カイは命令書を折り、携行袋へ入れた。


 ◇


 第三宿舎へ戻ったのは、日が完全に落ちる少し前だった。


 遠征準備用の部屋には、すでにエレナが申請した物資が運び込まれている。


 乾燥パン。


 保存肉。


 塩。


 水筒。


 治療布。


 止血薬。


 簡易固定具。


 携帯魂晶灯。


 雨避け布。


 交換用の靴紐。


 飼料袋。


 地図。


 通信札。


 カイは床へ並べられた荷物を一つずつ確認した。


「治療布が多いですね」


 エレナが答える。


「現地供給を使わない前提です。それと、村側へ渡せる余剰を少量だけ追加しました」


「任務物資から?」


「補給官の許可済みです。現地で不要なら中継宿へ戻します」


「重量は?」


「私の馬側へ少し多く載せれば、カイの方に《天律》用の予備装備を置けます」


「均等にしてください」


「理由は?」


「馬を分ける状況になった場合、片方に治療物資が集中すると困ります」


 エレナは少し考え、配置を変えた。


「了解です。食料も二分します」


 カイは自分の荷袋を開く。


 私物は少ない。


 着替え。


 洗浄布。


 小さな筆記具。


 予備の手袋。


 神殿証明札。


 祈祷用の小型札。


 それ以外は必要ない。


「本、持っていかないんですか?」


 エレナが尋ねた。


「何の本です?」


「前回の遠征では法規集を二冊持っていました」


「あれは重かったので、必要な箇所だけ写しました」


 薄い紙束を出す。


 古代遺物保全規則。


 未登録契約事象の臨時対応。


 地方自治体との共同調査手続き。


 本人同意が取れない場合の緊急安全措置。


 必要な部分だけ。


 エレナが少し笑った。


「準備が良すぎます」


「現地で調べられない方が困ります」


「カイなら全部覚えていると思ってました」


「覚えていることと、引用できることは違います」


 紙を戻す。


 規則を使って誰かを止めるなら、少なくとも何条を根拠にしているかは示せる方がいい。


 それを「神殿だから」で済ませたくはなかった。


 夕食は宿舎食堂で取った。


 豆と肉の煮込み。


 黒パン。


 酸味のある葉野菜。


 明朝が早いため量は普段より少し多い。


 カイは食べながら移動予定を確認した。


 アルヴァから西へ。


 初日は平地を中心に進む。


 二日目から丘陵。


 天候が崩れれば中継宿で一度止まる。


 最短なら二日半。


 安全を取れば三日。


「急行命令じゃないんですね」


 エレナが言う。


「現時点で生命危機を伴う暴走は報告されていません。馬を潰して半日早く着く必要はないでしょう」


「灰牙が再襲撃した場合は?」


「連絡が入れば変えます」


「途中で命令が更新されたら?」


「内容を見て判断します」


 食堂の外では、夜間巡回へ向かう騎士たちが装備を整えている。


 金具が触れ合う音。


 厨房から皿を洗う水音。


 遠くの礼拝堂から聞こえる夜鐘。


 アルヴァの日常だった。


 カイはこの街を離れることに特別な感傷を持っていない。


 任務で外へ出ることは珍しくない。


 それでも今回は、普段より情報が少ない。


 分からないことが多い。


 《レグナ・ゼオ》。


 レオン・アークレイア。


 エリシア・アルセレア。


 灰牙の依頼人。


 二重反応。


 報告書の文字だけでは、どれも形が定まらない。


「カイ」


 エレナが呼ぶ。


「何です?」


「現地に着いたら、最初に誰へ会いますか?」


「村長です」


「レオンではなく?」


「地方の管轄内で起きた事件です。まず現地責任者から、神殿へ送られていない情報がないか確認します」


「その次は?」


「レオン」


「エリシアは?」


 カイは少し考えた。


「レオンと別に話します」


「なぜ?」


「二人の証言を最初から一緒に取れば、互いの話へ影響する可能性があります」


「疑っている?」


「嘘をついているという意味ではありません。人は隣にいる人間が話せば、自分の記憶までその形へ寄ることがあります」


 エレナは頷く。


「なら、本人たちへ別々に聞く理由も説明した方がよさそうですね」


「当然です」


「エリシアが拒否したら?」


「無理に聞きません」


「危険判定に必要でも?」


「必要性を説明します。それでも拒否されれば、拒否した状態で判定できる範囲を決めます」


「それで不足したら?」


「その不足自体を記録します」


 エレナは食事を終え、器をまとめた。


「カイは、情報が足りないことを嫌いますね」


「好きな人がいるんですか?」


「そういう意味ではありません」


「なら当然です。足りない情報で判断すると、相手にとってもこちらにとっても危険が増える」


「でも、全部揃うことはありませんよ」


 カイは一度止まった。


「分かっています」


「本当に?」


 訓練場でセリオスに言われた言葉と似ている。


 カイは少しだけ笑った。


「今日、何度目でしょうね。それを確認されるの」


「何を?」


「分かっているのか、と」


 エレナも僅かに笑った。


「なら、私からも確認しておきます」


「どうぞ」


「全部分かるまで、何も決めないつもりではありませんよね?」


 問いの意味は分かる。


 現地へ行けば、情報が足りないまま決めなければならない場面がある。


 危険が起きる。


 人が動く。


 本人たちの意見が食い違う。


 待てないこともある。


「決めます」


 カイは答えた。


「ただし、何が足りないまま決めたのかは忘れないようにします」


 エレナは頷いた。


 それ以上は聞かなかった。


 ◇


 翌朝、第一鐘が鳴る前に二人はアルヴァ北門へ着いた。


 空はまだ完全には明るくない。


 風は昨夜より弱まっているが、地面には夜露が残り、馬の吐く息が白く見える。


 二頭。


 荷物は左右へ均等に分けられている。


 カイは自分の馬の腹帯を確認し、鞍袋の固定具を一つずつ触って緩みがないか見る。


 エレナも同じことをしている。


 門番が神殿証明札と出立文書を確認する。


「目的地、グランゼ経由エルダ村」


「はい」


「帰還予定は?」


 カイが答える。


「未定。初回報告を現地到着後に送ります」


「了解」


 門が開く。


 外には朝の街道が伸びている。


 アルヴァを出れば、神殿の規則だけで動く場所ではなくなる。


 王国の領主。


 村の判断。


 当事者の意思。


 それぞれが重なる。


 カイは馬へ乗る前に、携行袋の命令書をもう一度確認した。


 危険性確認。


 接続状況確認。


 保護状態確認。


 必要時接続解除。


 必要時中央移送。


 最後の二つだけを見れば、現地側が警戒しても不思議ではない。


 それでも隠すつもりはなかった。


 エレナが馬へ乗る。


「カイ」


「何です?」


「事前通知の返答は、まだ届いていません」


 昨日送った神殿の通知。


 エルダ村へ向けた説明。


 即時拘束命令ではないこと。


 しかし危険が確認された場合には接続解除や移送を求める可能性があること。


 それを受けた側がどう答えるか。


 まだ分からない。


「出発を待ちますか?」


 エレナが尋ねた。


 カイは街道を見る。


 返答を待てば半日ほど遅れる可能性がある。


 今すぐ出ても、最初の中継地点までは通知の返事を受け取れる。


 危険事象の調査そのものは、相手の許可がなければ開始できない類の任務ではない。


 一方で、到着前から対話を求めている相手なら、その返事を読まず接触する必要もない。


「最初の中継宿までは進みます。そこで返答が届いていなければ、次の移動前に判断しましょう」


「了解」


 カイも馬へ乗る。


 北門の石床から街道の土へ蹄が移る。


 アルヴァの鐘の音が背中側へ遠ざかっていく。


 カイはまだレオンを知らない。


 エリシアも知らない。


 報告書に書かれた人物像が、実際の二人と同じだという保証もない。


 だからこそ、現地で聞かなければならない。


 なぜその力を使ったのか。


 なぜ遺跡へ戻りたいのか。


 何を危険だと思っているのか。


 神殿から見た安全と、本人たちが考える自由が食い違ったとき、どこまで互いの理由を出せるのか。


 二人の馬が街道へ速度を上げる。


 朝日が東から差し始め、濡れた地面へ細長い影が伸びた。


 最初の中継宿へ着く頃には、エルダ村からの返答が届いている可能性がある。


 その返答を読むまでは、カイも次の接触方法を決めきるつもりはなかった。


「レオン・アークレイアとエリシア・アルセレアは、神殿からの保護と危険性確認を受け入れるつもりがあるのか?」


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