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『ソウルストーン ~神々を滅ぼす最後の継承者~』  作者: シロの空


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第1章《太古の継承者編》 第15話《七つの名》

●評価●ブックマーク●アクション●感想●

15話の感想待ってます!


読者様が応援してくれると嬉しいです!

 治療所へ戻る道は、数日前に担架で運ばれたときよりずっと短く感じられたが、それでも自分の足で最後まで歩ききるには、途中で一度速度を落とさなければならなかった。


 肩へ掛けた布袋には乾いた食べ物と治療布しか残っておらず、水筒はレオンが左手で持っている。数日前のエリシアなら、それを自分で持てなかったことだけを気にしていたかもしれないが、今は帰着後にも体力を残すため、自分から荷物を分けたという事実の方を意識していた。


 隣を歩くレオンも同じように万全ではない。


 右腕は肩から手首近くまで固定され、左膝にも薄い保護布が残っているため、三人の歩幅は自然と普段より狭くなっていた。ノアだけなら先に治療所まで着けるはずだったが、彼女は二人を急かさず、胸元へ抱えた記録帳がずれたときだけ持ち直しながら同じ速度を保っている。


「あと少しだけど、休む?」


 ノアが尋ねた。


 エリシアは治療所までの距離を見た。


 入口はすでに見えている。


 歩けないほど疲れてはいないが、脚には午前中から積み重なった重さがあり、このまま無理に速度を上げれば到着したあとに立っていられなくなるかもしれない。


「速度だけ落としたい。止まらなくても歩けると思う」


「分かった。じゃあ、このままゆっくりね」


 ノアがさらに歩幅を小さくする。


 レオンも何も言わず合わせた。


 エリシアは二人を見る。


 誰かに合わせてもらうことを申し訳なく思う気持ちはまだある。


 それでも、申し訳ないからと無理に速く歩いて倒れれば、結局もっと手を借りることになる。


 その程度のことを理解するまでにも、自分には何度か失敗が必要だった。


「レオン、水筒重くない?」


「水が半分も残ってないから大丈夫」


「右手、使ってない?」


「使ってない。左だけ」


 確認すると、確かに左手で持っている。


「だったらお願い」


「最初からそう言ってるだろ」


「確認しただけ」


「最近、エリシアも確認多くない?」


「レオンが確認される理由が分かってきたから」


 ノアが小さく笑った。


「二人とも似てきたね」


「どこが?」


 レオンとエリシアの声がほとんど同時に重なった。


 ノアはさらに笑う。


「そこ」


 二人とも何も返せなくなった。


 治療所へ到着すると、エリシアは布袋だけを持ったまま自分の寝台へ戻り、レオンは水筒を机へ置いてから隣室で右腕の状態を確認してもらうことになった。ノアは記録帳を持ったまま二人の間を行き来し、今日集会所で得た情報を治療担当者へ伝えるため、村長ハベルから預かった短い伝言まで読み上げていた。


 《灰牙》はまだ北側一帯から完全には離れていない。


 グランゼ側では別件を含めて調査が始まった。


 遺跡への一般人の立ち入りは一時停止。


 エリシアについては本人の同意なしに移送しないことを原則とする。


 レオンの右手については、二日ほどで領主側の魂晶技師が到着する予定。


 どれも昨日には存在しなかった条件だった。


 世界そのものが変わったわけではないのに、自分たちが次にできることは一日ごとに変わっている。


 エリシアは寝台へ座り、水筒を自分の布袋へ戻した。


「減ってる」


 残量を見て呟く。


 治療担当の女性が横を通りながら答えた。


「今日飲んだ分でしょう?」


「はい。明日の朝には足した方がいいですよね」


「そうね。明日は歩行量を少し増やせるかもしれないから、出る前に満たしておいた方がいいわ」


「自分で井戸まで行って入れてもいいですか?」


 女性はすぐに答えず、エリシアの脚へ視線を向けた。


「明日の朝の状態を見てから。井戸まで行けても、満杯の水筒を持って戻れるかは別だから」


「あ……」


 空の水筒なら軽い。


 水を入れれば重くなる。


 当たり前のことなのに、行きのことしか考えていなかった。


「じゃあ、どのくらい入れるかも考えないと駄目?」


「必要な量と、自分が持てる重さを比べればいいわ。全部満たすことだけが補給じゃないから」


 エリシアは水筒を見た。


 今まで、準備というものは誰かが整えてくれるものだったのかもしれない。


 古代で暮らしていた頃にも、自分で持ち物を選んだ記憶はある。


 けれど、何をどれだけ持てば目的地まで歩けるかを自分で考えていたかと聞かれれば、思い出せなかった。


「明日、考えます」


「それでいいわ」


 女性はそう言って、別の患者のところへ向かった。


 エリシアは布袋を閉じる。


 小さな袋。


 少ない水。


 一回分の食べ物。


 それでも、昨日よりは自分で扱えるものが増えている。


 ◇


 昼食を終えたあと、エリシアは治療所の一角に置かれた小さな机へ移った。


 向かいにはノア。


 その隣にはレオン。


 右腕の固定があるため、レオン自身は記録帳を開きにくく、今日は最初からノアが紙を押さえ、必要な箇所へ書き込む役を引き受けていた。


「昨日の《二重反応》から整理する?」


 ノアが尋ねる。


 レオンは頷く。


「ただ、最初から二つあったとは書かないで。最後に見つかった《灰牙》の記録板に二重って書いてあっただけだから」


「じゃあ、《最後の観測で二重反応との記載》」


「それならいいと思う」


 ノアが書く。


 エリシアはその横から記録を見る。


 確認できたこと。


 考えていること。


 まだ確認できないこと。


 いつの間にか三つに分かれていた。


 最初はレオン一人が思いついたことを何でも書いていた帳面が、今では誰かが読み返すことを前提にした記録へ変わり始めている。


「次は?」


 ノアが聞いた。


 エリシアが答える。


「《灰牙》は最初、石を探してるって聞かされてた。でも途中から、人や持ち物も調べるよう命令が変わった」


「それは確認できたこと?」


「捕まった人がそう言ったんだよね?」


 レオンが答える。


「ああ。ただ、その人が本当のことを全部言ってるかまでは分からない」


「じゃあ、《拘束された灰牙の証言では》って付けた方がいい?」


「その方がいいと思う」


 ノアが書き直す。


 エリシアは文字を追いながら考えた。


 情報は同じでも、誰が言ったのかを付けるだけで意味が変わる。


 村長が直接見た事実。


 バルガスが現地で確認した跡。


 捕まった男が話した内容。


 レオンが感じた右手の熱。


 自分が「知っている気がする」と感じた古代の記憶。


 全部を同じ重さで並べてはいけない。


「私が《レグナ・ゼオ》って名前を知ってる気がすることも、確認できたことじゃないよね」


 エリシアが言う。


 レオンが少し考える。


「名前を聞いて反応したこと自体は確認できる。でも、本当に古代で知ってたかはまだ分からない」


「じゃあ、どう書く?」


 ノアが聞く。


 エリシアは自分で考えた。


「《名称に既視感あり。ただし記憶由来か不明》」


 ノアが筆を止める。


「エリシア、急に記録っぽくなったね」


「変?」


「ううん。分かりやすい」


 レオンも少し笑った。


「俺より記録向いてるかも」


「字はノアが書いてるけどね」


「そこは言わなくていい」


 三人で笑う。


 ほんの数日前、自分は誰の名前も知らなかった。


 今は二人と同じ机で、自分の記憶まで一緒に整理している。


 その変化に気づいた瞬間、エリシアは不意に胸の奥が温かくなるのを感じた。


 けれど、それを言葉にしようとは思わなかった。


 今はただ、同じ紙を見ていることだけで十分だった。


「そういえば」


 ノアが記録帳の前の方をめくる。


「この辺、最初に遺跡で見つけた文字だよね」


「そう」


 レオンが答える。


 壁から写した記号。


 入口近くに刻まれていた線。


 エリシアは以前も見た。


 形には覚えがある。


 意味までは出てこない。


 ノアがページを開いたまま、隣の紙へ置く。


「昨日まで灰牙の砂ばっかり見てたけど、これもまだ何も分かってないよね」


「グランゼの技師なら読めるかな」


「魂晶技師なんでしょう? 古代文字まで専門かは分からないよ」


「じゃあ誰に見せる?」


 レオンが考える。


「ドル爺」


 ノアが即座に首を振った。


「ドル爺が読めるなら、レオンがもっと前に教えてもらってるでしょう」


「でも昔話の出どころくらいは分かるかもしれない」


「それはありそう」


 エリシアは二人の会話を聞きながら尋ねた。


「ドル爺って、まだ会ってない人だよね?」


「そうだった」


 レオンが顔を上げる。


「俺が遺跡に興味持ったきっかけの爺さん。北の採掘場には鉱山より古い何かがあるって、昔から言ってた」


「その人はどうして知ってたの?」


「祖父さんから聞いたって言ってたと思う」


「記録じゃなくて?」


「たぶん話だけ」


「会ってみたい」


 エリシアが言うと、レオンは少し意外そうにした。


「遺跡のこと聞きたい?」


「それもある。でも、私がいた場所のことを昔から話として知ってたなら、古代から今までの間にどう残ったのか知りたい」


 ノアが頷く。


「それなら治療所からも遠くないよ。ドル爺の家、村の東側だから」


「歩ける?」


 レオンが尋ねる。


 エリシアはすぐに大丈夫とは答えなかった。


「今日の残りの体力を見てから。治療してくれてる人にも聞く」


 レオンが笑う。


「俺よりちゃんとしてる」


「昨日からずっと言われてるから覚えた」


「俺も同じくらい言われてるんだけどな」


「レオンは覚えるまで回数が必要なんじゃない?」


 ノアが言う。


 レオンは何も返せなかった。


 ◇


 午後になると、村の外から荷車の音が聞こえてきた。


 警戒が続いているため通常の荷便ではなく、北側の農地へ出られない家へ食料を移すための荷車だった。治療所の前でも保存食や水の再配分が行われ、使用した包帯や薬草の数量がもう一度確認されている。


 エリシアも自分の布袋を持ってその様子を見ていた。


 怪我を治すために必要なもの。


 逃げるために必要なもの。


 誰かを守るために使われたもの。


 それらは戦いが終わったからといって戻ってこない。


 治療担当の女性が乾燥薬草の束を数える。


「思ったより減ってる」


 手伝っていたノアが聞く。


「足りない?」


「通常の治療だけなら足りる。でも昨日みたいな負傷者がもう一度まとめて来たら厳しいわね」


「グランゼから買える?」


「買えるけれど、すぐ届くとは限らない。灰牙のせいで街道の荷便も遅れているでしょう」


 エリシアは倉庫棚を見る。


 空いている場所がいくつかある。


 昨日までなら気づかなかった。


「私たちが遺跡へ行くときの治療布も、ここから持っていく?」


「村から出発するならそうなる可能性が高いわ」


「だったら、今足りないのに持っていけない?」


 女性はエリシアを見る。


「行く時点で必要量が確保できなければ、出発条件を変える理由にはなるわね」


「身体が元気でも?」


「身体が元気でも、怪我したあと治療できなければ帰れないでしょう」


 エリシアは棚を見る。


 行きたいと思えば行けるわけではない。


 身体。


 水。


 食料。


 治療物資。


 護衛。


 情報。


 目的。


 一つずつ条件が増える。


 けれど、不思議と窮屈には感じなかった。


 むしろ、自分が何を準備すれば行けるのか少しずつ形になっている。


「必要なもの、書いてもいいですか?」


「遺跡へ行く準備?」


「はい」


「今すぐ行くためじゃないなら、書いておくのはいいと思うわ」


 エリシアはノアを見る。


「記録帳、借りていい?」


「もちろん」


 ノアが持ってくる。


 空いているページ。


 エリシアは書こうとして、まだ現代の筆記具をうまく扱えないことを思い出す。


「また書いてもらっていい?」


「何て?」


「《遺跡へ戻る条件》」


 ノアが見出しを書く。


 その下へ、エリシアが思いつくものを一つずつ挙げる。


 自分で往復できる体力。


 レオンの腕と膝の回復。


 水と食料。


 最低限の治療物資。


 現地の安全確認。


 《灰牙》の位置。


 誰が同行するか。


 途中まで書いたところでノアが言う。


「七つある」


 エリシアは紙を見る。


 本当だった。


「七つ?」


 レオンも横から覗く。


「何か意味あるのか?」


「ただ数えただけ」


 ノアが笑う。


 エリシアも笑いかけたが、紙に並んだ七つの項目を見ているうちに、別の感覚が胸の奥へ触れた。


 七つ。


 その数。


 昔も何かで見た。


 しかし、それ以上は出てこない。


 エリシアは息を整えた。


 頭痛はない。


 無理に追う必要もない。


「どうした?」


 レオンが尋ねる。


「七つって数に、少し覚えがある気がした」


「何の?」


「分からない」


 以前なら、そこで無理に思い出そうとした。


 今はしない。


「記録だけしておく」


 ノアが頷く。


 《「七」という数に既視感。ただし対象不明》


 そう書き足す。


 レオンはその文字を見ながら言った。


「これで八つになったな」


 エリシアが思わず笑う。


「条件と記憶を一緒に数えないで」


「そうだった」


 たったそれだけのやり取りで、思い出せないことへの怖さが少し薄れた。


 七という数が何を意味するのかは分からない。


 今は分からなくていい。


 後で何かと繋がれば確かめる。


 繋がらなければ、それもまた一つの記録として残る。


 ◇


 夕方近くになると、治療所へ村長ハベルとバルガスが来た。


 バルガスは昼前に北側を見回っていたらしく、靴には乾いた泥が付いている。戦闘はなかったようで、大剣も鞘に収まったままだった。


「北は?」


 レオンが尋ねる。


「新しい《灰牙》の姿は見えてねえ。足跡も昨日より増えてない」


「逃げた?」


「そうかもしれんし、もっと遠くで見てるかもしれん」


「分かってる。確定じゃないんだろ」


「覚えたな」


「もうそれ言わなくていい」


 バルガスが笑う。


 村長ハベルは机へ一枚の紙を置いた。


「グランゼから二通目の返事が来た」


「早くない?」


 ノアが言う。


「こちらへ向かっていた巡回騎手を使っているからね。詳しい調査結果ではなく、当面の対応だけだ」


 エリシアは座り直した。


「何が決まりましたか?」


「まず、魂晶技師は予定通り明後日までに来る。レオンの右手と灰色の砂、それから針を現地で確認する」


 レオンが右手を見る。


「検査内容は?」


「到着後に本人へ説明するよう伝えてある」


「なら聞いてから決める」


「それでいい」


 ハベルは続ける。


「それから、ラゼル村周辺にいるという灰牙の仲介役については、グランゼ側の人間が調査する。エルダ村から追跡要員を出す必要はない」


「じゃあ俺たちは行かない?」


 レオンが尋ねる。


「少なくとも今すぐ行く必要はなくなった」


「禁止?」


「必要性が下がった、という方が近い」


 レオンは少し考えたあと、頷いた。


「分かった」


 エリシアには、その返答が以前よりずっと早く感じられた。


「遺跡は?」


「立ち入り停止は継続。ただし、入口周辺の見張りは村側で行う。異常があれば記録だけ取り、内部へは入らない」


「私たちは?」


「君たちについては、身体の回復と技師の調査結果を待ってから改めて判断する」


 エリシアは、自分たちが書いた七つの条件を見る。


 少なくとも二つ。


 身体。


 情報。


 それがまだ不足している。


「だったら、今は待つしかない?」


 エリシアが聞く。


 ハベルは少し首を傾けた。


「待つだけだと思う?」


「違うんですか?」


「回復する。記録を整理する。必要な物資を確かめる。ドルガから昔話を聞く。技師へ聞きたいことをまとめる。できることはあると思うよ」


 エリシアは紙へ目を落とした。


 確かにそうだった。


 行けないことだけを見れば、止まっている。


 しかし、次に進むための準備へ目的を変えれば、今できることは残っている。


「私、ドル爺に会いたいです」


 エリシアが言った。


 レオンが顔を上げる。


「やっぱり?」


「古い採掘場の話がどこから残ったのか聞きたい。それと、《アルセリア》って名前を知ってるかも」


「今日行く?」


 バルガスがエリシアを見る。


「お前、朝からどのくらい歩いた?」


「治療所から井戸まで往復して、集会所にも行きました」


「なら今日の残りは休んだ方がいい」


「明日は?」


「それは治療する奴に聞け」


「分かりました」


 バルガスは少し笑った。


「素直だな」


 レオンが横から言う。


「俺と反応違わない?」


「お前は最初に毎回食い下がるからだ」


「最近は違うだろ」


「最近はな」


 エリシアとノアが同時に笑った。


 ◇


 その日の夕食後、エリシアは自分からレオンたちを治療所の机へ呼んだ。


 外では一日の仕事を終えた村人の声が聞こえ、少し離れた家からは夕食の鍋を洗う水音が届いている。警戒のため夜遅くまで外を歩く人は減っているものの、昨日までより生活音は戻っており、治療所の窓にも柔らかな魂晶灯の光が映っていた。


 ノアが記録帳を開く。


 昼に書いた《遺跡へ戻る条件》が残っている。


 七つ。


 エリシアは改めて読む。


 体力。


 レオンの回復。


 水と食料。


 治療物資。


 安全確認。


 灰牙の位置。


 同行者。


「これ、全部揃ったら行く?」


 レオンが尋ねる。


 エリシアは首を横へ振った。


「そのとき、まだ行きたいと思ってるか自分でもう一回決める」


「揃っても?」


「条件が揃うまでに新しいことが分かるかもしれないでしょう。それで行く理由がなくなるかもしれないし、もっと危険になるかもしれない」


 レオンはしばらく黙った。


「なるほど」


「レオンは?」


「俺はたぶん行きたいと思う」


「今の時点では?」


「ああ。でも、そのとき決め直す」


「じゃあ同じだね」


 完全に同じではない。


 エリシアは自分の過去を探したい。


 レオンは遺跡と右手の正体を知りたい。


 目的は重なるが、同一ではない。


 それでも、次の判断を今の自分たちで固定しないことだけは同じだった。


「ノアは?」


 エリシアが尋ねる。


「私?」


「一緒に来たい?」


 ノアは突然聞かれ、少し驚いた。


「前なら当然ついていくつもりだったけど……」


「今は?」


「考える」


 レオンが目を見開く。


「ノアが?」


「何その反応」


「絶対来るって言うと思ってた」


「だって、今は灰牙もいるし、村を離れれば家の手伝いもできなくなるでしょう。それに私、戦えないし」


「だから来ない?」


「まだ決めてない」


 ノアは記録帳へ手を置いた。


「でも、レオンが行くから私も行くって決めるのは違うと思った」


 レオンは返事をしなかった。


 少し寂しそうに見えた。


 エリシアには、それが分かった。


「来てほしい?」


 エリシアが尋ねる。


 レオンは少し迷った。


「来てほしいとは思う」


 ノアが見る。


「でも、行けとは言わない?」


「言わない」


「どうして?」


「俺が遺跡へ行きたいのと、ノアが行きたいかは別だから」


 ノアは何も言わなかった。


 少しの沈黙。


 外では誰かが桶を落としたらしく、乾いた音のあとに笑い声が聞こえた。


 やがてノアが言った。


「じゃあ、私も決めたら言う」


「ああ」


 それだけだった。


 けれど、エリシアには二人の距離が少し変わったように感じた。


 長く一緒にいたから、同じ場所へ行くのが当然。


 幼なじみだから、ついてくるのが当然。


 そう決めなくなったことで、むしろノアが何を選ぶのかをレオンが初めて待ったように見えた。


「バルガスは?」


 エリシアが聞く。


「何が?」


「もし私たちが遺跡へ行けるようになったら、一緒に来てほしい?」


 レオンは考える。


「来てくれたら心強い。でも、バルガスにも護衛の仕事がある」


「じゃあ頼む?」


「必要になったら」


「断られたら?」


「別の方法を考える」


 以前のレオンなら、強い人がいるなら連れていけばいいと考えていたかもしれない。


 今は、相手にも事情があることを前提にしている。


 エリシアは記録帳の七つの条件を見る。


 同行者。


 そこへ「バルガス」と名前を固定する必要はない。


 誰が来るのかは、その人が決める。


「条件を書き直してもいい?」


「どこ?」


 ノアが筆を持つ。


「《同行者》のところ」


「何て?」


 エリシアは考えた。


「《必要な役割を確認し、本人へ頼む》」


 ノアがそのまま書く。


 レオンが笑った。


「なんか急に堅いな」


「でも、誰かを勝手に入れるよりいいでしょう?」


「それはそう」


「レオンも、これでいい?」


「ああ」


 ノアが書き終える。


 七つの条件。


 そのどれも答えではない。


 ただ、次に何を考えればいいかを示すものだった。


 ◇


 翌日。


 エリシアは朝の診察で、昨日より少し長く歩いてよいと言われた。


 ドルガ・ネインの家までは治療所から片道十分ほどで、途中に急な坂もない。水筒は半分だけ満たし、自分で持つ食べ物も一回分だけに減らしたため、布袋の重さは昨日より軽い。


 レオンも同行する。


 右腕はまだ固定されているが、左膝については村内の歩行に問題ないと判断された。


 ノアは記録帳を持つ。


 三人で治療所を出る。


 朝の《エルダ村》には、数日前より多くの人が道へ戻っていた。


 北側の遠い畑はまだ使われていない。


 それでも中央部の畑では作業が再開され、家の軒先では濡れた布が干され、パンを焼く匂いが細い道へ広がっている。


 エリシアは歩きながら、その匂いを吸った。


 知らない時代。


 知らない村。


 それでも、数日前より知らないものが減っている。


「あそこ」


 レオンが少し先の家を指した。


 他の家より古い。


 壁の木材は何度も修理され、入口横には使い込まれた杖が立てかけてある。


「ドル爺の家」


 エリシアの胸が少し高鳴った。


 自分の過去へ直接繋がる答えがあるとは思っていない。


 それでも、古い採掘場の話を何十年も前から知っていた人物なら、現在の記録にはない何かを持っているかもしれない。


 レオンが扉を叩く。


 返事がない。


 もう一度。


 少しして、中から物を動かす音が聞こえた。


 扉が開く。


 白髪の老人が顔を出した。


 背は少し曲がっている。


 しかし目は思ったより鋭い。


 老人は最初にレオンを見た。


 次に右腕。


 ノア。


 最後にエリシア。


 そこで動きが止まった。


「レオン」


「何?」


「お前、また面倒なもの見つけたな」


「エリシアはものじゃない」


 レオンの返事がすぐに出た。


 エリシアは彼を見る。


 老人も少し目を細めた。


「そうか」


「この子はエリシア。あの遺跡の中で見つかった」


「聞いとる」


「それで、聞きたいことがある」


「何をだ」


 レオンはすぐに説明を始めようとしたが、途中で止まった。


 エリシアを見る。


「自分で聞く?」


 問いを渡された。


 エリシアは頷く。


 一歩前へ出る。


「ドルガさん」


「ドル爺でいい。村の連中はみんなそう呼ぶ」


「じゃあ、ドル爺」


 言い慣れない呼び方だった。


 老人の口元が僅かに緩む。


「私は、自分がいた場所をほとんど覚えていません。でも、《アルセリア》って名前だけは少し覚えています」


 ドルガの表情から笑みが消えた。


「もう一度言ってみろ」


「《アルセリア》」


 老人はしばらく黙った。


 エリシアは答えを急かさなかった。


 やがてドルガは扉を大きく開く。


「中へ入れ」


「知ってるの?」


 レオンが尋ねる。


「名前だけならな」


 胸が動く。


 エリシアはそれでも、すぐに「やっぱり古代の都市だ」と決めなかった。


「どこで聞いたんですか?」


 ドルガは家の奥へ歩きながら答えた。


「俺の爺さんからだ。もっと昔の爺さんが、鉱山を掘る前からこの辺りに残っとった話だと言ってた」


「場所は?」


「知らん」


「都市?」


「それも知らん」


 エリシアは少しだけ肩の力を抜いた。


 答えではない。


 けれど、記憶の中だけにあった名前が、この時代にも残っている。


 それだけで十分に大きかった。


 ドルガは古い棚から木箱を下ろした。


「ただな、《アルセリア》だけじゃない」


 レオンが近づく。


「何が?」


「爺さんが教えた古い名前は、ほかにもあった」


 エリシアは息を止めそうになった。


 ドルガは木箱を開き、中から薄い板を取り出した。


 文字そのものは新しく書き写されたものらしく、古代文字ではない。


「いくつ?」


 ノアが尋ねる。


「七つだ」


 エリシアの胸の奥が、今度ははっきり反応した。


 七。


 昨日、条件を書いたときに覚えた違和感。


 それと同じ。


 しかし、ここで意味まで決めてはいけない。


 ドルガは板を机へ置いた。


「俺が聞いたのは場所の名か、人の名か、何かの呼び名かも分からん。爺さん自身が意味を知らんかったからな」


「読んで」


 レオンが言う。


 ドルガは最初の一つを指した。


「《アルセリア》」


 エリシアは知っている。


 次。


「《セレスティア》」


 知らない。


 少なくとも記憶は反応しない。


 次。


「《アルクレイン》」


 胸の奥が僅かに揺れた。


 それでも意味は出ない。


 四つ目。


 五つ目。


 六つ目。


 七つ目。


 どれも現在のエリシアには、名前以上の意味を持たなかった。


 レオンはすべてを記録しようとしたが、ノアが先に帳面を開いて書く。


 エリシアは板を見る。


 七つの名前。


 だからといって、七つが同じ種類のものだとは限らない。


 同じ時代の地名とも限らない。


 後世の人が別々の言葉を一緒に記録した可能性もある。


「これ、全部一緒に伝わったんですか?」


 エリシアが尋ねる。


 ドルガは首を横へ振った。


「そこが分からん。俺の爺さんはまとめて教えた。それより前がどうだったかは知らん」


「順番は?」


「今書いてある順だったと思うが、意味があるかは知らん」


「どこからこの村へ?」


「それも知らん」


 分からないことばかり。


 それでも以前ほど失望しなかった。


 名前が残った。


 そこまでが事実。


 意味はこれから確かめる。


 エリシアは七つの名前を見つめながら、自分の記憶がどれに反応するかだけを確かめた。


 《アルセリア》にははっきりした既視感がある。


 《アルクレイン》にも弱い反応がある。


 残りは今のところ何もない。


 それ以上は進まない。


「エリシア」


 レオンが呼ぶ。


「大丈夫?」


「うん。頭も痛くない」


「思い出した?」


「二つだけ、知ってる気がする。でも意味は分からない」


「どれ?」


 指す。


 《アルセリア》。


 《アルクレイン》。


 ノアが記録する。


 《既視感あり》


 それ以上は書かない。


「この七つが、昨日感じた『七』と同じものかは分からない」


 エリシアが言う。


「そうだな」


 レオンも同意した。


「ただ、次に調べるものは増えた」


 ドルガが怪訝そうに見る。


「お前ら、何を調べとるんだ」


 レオンは答えようとした。


 しかし今度は、自分だけで説明を始めなかった。


 エリシアを見る。


 ノアを見る。


「どこから話す?」


 エリシアはその問いに、少しだけ笑った。


 数日前なら、レオンは自分が知っていることを全部先に話していたかもしれない。


 今は、何を共有するかまで三人で決めようとしている。


「遺跡を見つけたところからでいいと思う。でも、《灰牙》のことは村長が話していいって言った範囲だけ」


「右手は?」


 レオンが尋ねる。


「レオンが話したいなら」


「じゃあ話す」


「私の記憶は?」


「エリシアが決めて」


「《アルセリア》を覚えてることまで」


「分かった」


 ノアが記録帳を開いたまま頷く。


 三人で決める。


 ドルガは少し面倒そうな顔をしながらも、急かさず椅子へ座った。


 レオンが話し始める。


 旧第七採掘場。


 加工された石。


 金属の入口。


 右手の反応。


 エリシアの発見。


 《灰牙》。


 砂と針。


 二重反応。


 エリシアは自分が話す箇所になったときだけ補う。


 ノアは途中で事実と仮説が混ざると止める。


 誰か一人の話ではなかった。


 ドルガは全部を聞き終え、長く息を吐いた。


「俺がガキの頃に聞いた昔話が、ずいぶん面倒なところへ繋がったもんだ」


「ドル爺、何か分かる?」


 レオンが尋ねる。


「分からん」


「即答かよ」


「分からんものを知っとるふりするほど耄碌しとらん」


 レオンは苦笑した。


 エリシアは少し笑う。


 ここでも同じだった。


 答えを知る老人が待っていたわけではない。


 代わりに、次に調べられる名前が残った。


「ただし」


 ドルガが板へ手を置く。


「この七つを聞いた場所なら、一つだけ覚えとる」


 三人が見る。


「爺さんは、北の鉱山の話をするときじゃなく、街道の向こうへ昔あったっていう祠の話をするときに教えた」


「祠?」


「もう残っとらん。俺が若い頃には石だけだった」


「どこ?」


「西街道へ出る途中だ」


 レオンの表情が変わる。


 西街道。


 《灰牙》が逃げた方向。


 ラゼル村へも繋がる道。


 偶然かもしれない。


 だから結びつけるのは早い。


 エリシアは自分から言った。


「《灰牙》と関係があるとは、まだ決めない方がいい」


 レオンも頷いた。


「ああ。でも場所は記録しておこう」


 ノアが書く。


 また一つ目的地が増えた。


 けれど、今すぐ行くとは決めない。


 身体。


 安全。


 情報。


 物資。


 必要性。


 それらを確認したあとで選ぶ。


 エリシアは七つの名前が書かれた板をもう一度見た。


 過去は、いきなり全部戻ってくるものではないのかもしれない。


 一つの名前。


 一つの匂い。


 一つの場所。


 誰かが残した話。


 そういう小さなものが、現在の自分へ少しずつ渡される。


 それを拾うかどうかは、自分で決められる。


 ◇


 ドルガの家を出た頃には、午後の光が村の屋根へ斜めに落ちていた。


 往路より疲れている。


 だから帰りは一度休む。


 エリシアが自分でそう決め、三人は道沿いの低い石壁へ腰掛けた。


 ノアが記録帳を開く。


 ドルガから聞いた七つの名前が一頁へ並んでいる。


 エリシアはそのうち二つだけを指で追った。


 《アルセリア》。


 《アルクレイン》。


 知っている気がする。


 でも、それだけ。


「次、何をしたい?」


 レオンが尋ねた。


 エリシアは顔を上げる。


 以前なら、レオンが「次はここへ行こう」と先に決めていたかもしれない。


 今は尋ねている。


 自分が何をしたいか。


 その問いへ答えるため、エリシアは急がず考えた。


 遺跡へ戻りたい。


 《アルセリア》を知りたい。


 《アルクレイン》が何なのか確かめたい。


 灰牙の依頼人も気になる。


 レオンの右手と自分が二重反応に関係するかも知りたい。


 全部やりたい。


 でも今、一番先にやるべきことは何か。


「私は、まず自分の身体を戻したい」


 レオンが少し意外そうにする。


「遺跡じゃなくて?」


「行きたい。でも、今のままだとまた誰かに運んでもらわないと帰れないから」


「それから?」


「グランゼから来る人に、レオンの右手と砂を調べてもらう。そのとき私も検査の内容を聞いて、自分が関係してるか調べるか決める」


「七つの名前は?」


「その間に調べられる範囲で調べる。ドル爺が言ってた祠も、場所だけ先に聞いておく」


 ノアが記録帳へ書く。


「それで全部終わったら?」


 エリシアは少し笑った。


「そのとき、遺跡へ戻るかもう一回決める」


 レオンも笑う。


「結局そこなんだな」


「レオンは?」


「俺も、腕と膝を治す。それから技師に右手を見せる」


「嫌じゃない?」


「何するか聞いてから決める」


「それから?」


「遺跡へ戻りたい」


「やっぱり同じ」


「でも俺も、そのときもう一回決める」


 ノアが二人を見る。


「私も、行くかはそのとき決める」


 三人とも、今ここで未来を固定しなかった。


 それでも次にすることは決まっている。


 待つだけではない。


 治す。


 調べる。


 聞く。


 準備する。


 そして、そのあとで選び直す。


 エリシアは立ち上がった。


 脚には疲労がある。


 けれど、自分で治療所まで戻れる。


 布袋も持てる。


 水筒は半分。


 記録帳はノア。


 レオンの右手はまだ固定されたまま。


 三人の状態は完全ではない。


 それでも昨日よりできることは増えている。


「帰ろう」


 エリシアが言う。


 レオンも立つ。


 ノアが記録帳を閉じる。


 村の道へ戻る前に、レオンがエリシアへ尋ねた。


「明日も一緒に記録見る?」


 エリシアはすぐに頷いた。


「うん。それと、技師が来たら、説明も一緒に聞きたい」


「俺の検査だぞ?」


「嫌なら入らない」


 レオンは少し考える。


「嫌じゃない。俺一人だと聞き漏らすかもしれないし」


「じゃあノアも?」


 ノアが笑う。


「本人がいいなら」


 レオンは二人を見る。


「二人とも来て」


 その言葉は、以前なら出なかったかもしれない。


 自分の右手。


 自分の遺跡。


 自分の記録。


 そう抱えていたものへ、今は他人が入ることを自分から選んでいる。


 エリシアはその変化を言葉で指摘しなかった。


 代わりに、自分の布袋を肩へ掛け直し、ノアが記録帳を持っていることを確かめてから、レオンの隣へ並んだ。


 西へ傾いた光の先には、治療所へ続く見慣れ始めた道がある。


 その向こうには旧第七採掘場があり、さらに外側には自分たちの知らない街道と町、神殿、そして今回の異常を調べ始めた人々がいる。


 エリシアはまだ、その誰とも会っていない。


 だから今のうちに、自分が何を望んでいるのかだけは自分の言葉で持っていたかった。


 誰かが安全のために別の答えを出すかもしれない。


 そのときは理由を聞く。


 自分の理由も話す。


 必要なら選び直す。


 それでも最後まで、自分がどうしたいのかを聞くことだけは諦めない。


 三人は歩き始めた。


 治療所へ戻れば、明日の歩行量を確認する。


 水を補給する。


 技師へ聞く質問を整理する。


 ドルガから聞いた七つの名前について、村に残る古い記録も探してみる。


 どれも世界を変えるような大きな決断ではない。


 けれど、今のエリシアが自分で選んだ次の一歩だった。


 治療所の入口が見えてきたところで、エリシアはレオンとノアへ顔を向けた。


 **「身体を戻して、分かることを確かめてから、私は自分であの遺跡へ戻るか決める。」**


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