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『ソウルストーン ~神々を滅ぼす最後の継承者~』  作者: シロの空


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第1章《太古の継承者編》 第14話《灰牙の道》

●評価●ブックマーク●アクション●感想●

14話の感想ってます!


読者様が応援してくれると嬉しいです!

 翌朝、エリシアが治療所の窓から外を見たとき、《エルダ村》の東側には薄い朝靄が残り、昨夜まで警戒に使われていた魂晶灯が一つずつ消され始めていた。


 村の周囲から《灰牙》が完全に退いたわけではなく、北側と西側には交代で自警団員が立っている。それでも警戒鐘が鳴らない朝は二日ぶりらしく、水桶を抱えて井戸へ向かう人や、止めていた荷車を点検する農家の姿が少しずつ道へ戻っていた。


 エリシアは窓際の椅子へ座ったまま、自分の両足を床へ置いた。


 昨日の走行で残った筋肉の重さはあるものの、寝台からここまで一人で歩いても息は乱れなかった。治療を担当している女性からも、午前中は治療所の周囲で二刻ほど過ごしてよいと言われており、布袋に入れた水と食べ物も自分で持つことを許されている。


 それだけのことが、思った以上に嬉しかった。


 誰かに運ばれなければ移動できなかった最初の日と比べれば、まだ小さな範囲でも、自分の身体で選べる場所が増えている。


「もう起きてたんだ」


 後ろから声がして振り返る。


 レオンが扉のところに立っていた。


 右腕は昨日と同じように布で固定されているが、左膝の巻き方は少し軽くなっている。治療所まで来るあいだに歩き方が崩れなかったらしく、今日は杖代わりの棒も持っていなかった。


「レオンも早いね」


「朝一番で腕を見てもらうって言われたから」


「どうだった?」


「右手の指は全部動くし、痺れもほとんどない。ただ、魂力を流すのは禁止で、重いものも持つなって」


「遺跡は?」


「聞く前から駄目って言われた」


 少し不満そうに言ったあと、レオンは自分で笑った。


「まあ、今は聞かなくても分かるけどな」


 エリシアはその返事を聞き、昨日までとの違いを感じた。


 レオンは相変わらず遺跡へ行きたがっている。


 右手の黒い痕に何が起きているのかも、《灰牙》が残した砂と針の意味も知りたがっている。


 それでも、行けないという判断をただ押しつけられたものとして受け取らず、自分の身体を見たうえで受け入れられるようになっていた。


「昨日の《二重反応》、考えた?」


 エリシアが尋ねる。


「寝る前まで考えてた」


「眠れた?」


「母さんにも同じこと聞かれた」


「答えは?」


「五刻くらいは寝た」


「なら前よりいい」


「何でみんな俺の睡眠まで管理するんだよ」


「寝ないからでしょう」


 エリシアが答えると、レオンは言い返すのを諦めた。


 彼は窓際のもう一つの椅子へ座る。


 朝の光が横から入り、右腕の白い布と、手の甲に残る薄い黒線を照らした。


「俺は、最初の反応が《レグナ・ゼオ》で、二つ目がエリシアか俺だと思ってた」


「どういうこと?」


「《灰牙》が遺跡の近くで最初に一つの反応を追って、そのあと村へ来たら二つに増えたなら、遺跡に残ってる何かと、村へ移動した何かに分かれた可能性もあるだろ」


 エリシアは考えた。


 昨日までは、二つの反応源が両方とも村へ移動しているように思っていた。


 しかし、記録板に《二重反応》と書かれていたのは最後の一回だけであり、そこから前の状態まで同じだったと決めることはできない。


「じゃあ、最初から二つあったとは限らない?」


「ああ。逆に、最初から二つあったけど近すぎて針で分けられなかった可能性もある」


「どっちか確かめられる?」


「今ある記録だけじゃ難しいと思う」


 レオンはそこで少し黙り、窓の外へ視線を向けた。


「昨日までなら、たぶん俺の右手が全部の原因だと思ってた」


「どうして?」


「一番分かりやすかったから。遺跡へ入ったときに熱くなって、力まで出たんだから、そう思いたくなるだろ」


「私は、自分が全部の原因かもしれないって思ってた」


「知ってる」


「どうして知ってるの?」


「第七環区の異常も自分のせいじゃないかって考えてたって、昨日話してただろ」


 エリシアは一瞬だけ息を止めた。


 《第七環区》。


 口にされた場所の名前ではない。


 もっと古い記憶の端が、言葉に引かれるように胸の奥へ浮かびかけた。


 しかし、はっきりした映像にはならない。


 エリシアは額へ手を伸ばさず、ゆっくり息を吐いた。


「今、少しだけ何か思い出しそうだった」


 レオンの表情が変わる。


「何を?」


「分からない。でも、無理に追わない」


「うん」


 以前なら、彼は続きを聞いたかもしれない。


 今は待った。


 エリシアはそのことに気づいた。


「レオン」


「何?」


「聞かないんだね」


「聞きたいよ」


「じゃあどうして?」


「聞いたら頭痛くなるかもしれないんだろ。だったら、今は聞かない方がいい」


「前なら?」


「たぶん聞いた」


 少し恥ずかしそうに答える。


「でも、それでエリシアが思い出せなくなったら、俺が知りたいことも結局減るからな」


「それだけ?」


「それだけじゃないけど」


「何?」


 レオンは少し考えた。


「俺が知りたいことを、エリシアが思い出したくないものより先にしていい理由がないから」


 その言い方は、治療所で初めて話したときより自然だった。


 エリシアは窓の外へ目を戻す。


「私、レオンが最初に来たときはちょっと怖かった」


「何で?」


「質問がいっぱいありそうな顔してたから」


「実際いっぱいあった」


「今も?」


「増えてる」


「増えてるんだ」


 思わず笑う。


 レオンも笑った。


「でも、全部いっぺんに聞く必要はないって分かった」


「だったら、私も一つずつ話す」


「思い出したら?」


「うん。それと、言いたくないことは言わない」


「分かった」


 返事が早い。


 エリシアは少しだけ安心した。


 ◇


 朝食後、治療所の前で短い歩行確認をした。


 今日は昨日の砂地とは違い、村の平らな石道を使う。


 エリシアは自分の布袋を肩へ掛け、治療担当の女性とノアに見てもらいながら、治療所から井戸まで往復することになった。距離は百メルにも満たないが、水と食べ物を自分で持った状態で歩くのは初めてだった。


 最初の半分は問題なかった。


 布袋の重さは軽い。


 昨日までの自分なら、これだけ持てれば遺跡にも行けると思ったかもしれない。


 しかし、井戸まで着いた頃には肩紐が少し食い込み、戻り始めると脚の重さも増してきた。


「痛みは?」


 ノアが尋ねる。


「痛くはない。でも、昨日の後半みたいに脚が重くなってきた」


「呼吸は?」


「少し速い」


 治療担当の女性が頷く。


「その言い方でいいわ。痛みがないから疲れていない、とは考えないでね」


「はい」


 エリシアは速度を落とした。


 前を歩く必要はない。


 誰かへ合わせる必要もない。


 自分の身体が今どのくらい動くのか確かめることが目的なのだから、速く到着しても意味はない。


 治療所まで残り三十メルほどのところで、横からレオンの声がした。


「荷物持つ?」


 彼は道の端で見ていた。


「レオン、右腕使えないでしょう」


「左なら持てる」


「自分の荷物は?」


「今日は持ってない」


 エリシアは少し考えた。


 肩は痛くない。


 それでも疲れている。


 昨日までは、最後まで自分で持たなければ「自分でやった」ことにならないような気がしていた。


「半分だけお願い」


 布袋から水筒を取り出す。


 レオンは左手で受け取った。


「これだけ?」


「残りは持つ」


「分かった」


 水筒一つ減っただけで、肩が少し軽くなる。


 エリシアはそのまま治療所まで歩いた。


 到着したとき、呼吸は速かったものの、倒れるほどではない。


「昨日よりずっといい」


 ノアが言う。


「でも遺跡まではまだ遠いよね」


「うん」


 エリシア自身にも分かった。


 この距離で疲れるなら、旧採掘場まで往復する体力はまだない。


 その事実は悔しい。


 けれど、誰かに言われるより、自分で歩いたあとでは受け取り方が違った。


「明日も同じくらい?」


 女性が答える。


「今日の疲れがどのくらい残るかを見てから。増やすとしても一気には増やさないわ」


「分かりました」


「それから、荷物を減らした判断は良かった」


 エリシアはレオンを見る。


 水筒を返してもらう。


「ありがとう」


「どういたしまして」


「最初から全部持つって言わなかったね」


「言ってもエリシアが嫌がるだろ」


「分かってきた?」


「少し」


 二人のやり取りを見ていたノアが笑う。


「二人とも、数日で変わったね」


 レオンが聞く。


「俺も?」


「レオンの方が変わってる」


「どういう意味だよ」


「前は人の荷物を持つかどうかでこんなに考えなかったでしょう」


「普通そこまで考えないだろ」


「今は考えてるじゃん」


 否定できない。


 エリシアは笑いながら、自分の布袋を肩へ戻した。


 そのとき、治療所の前へ一台の荷車が止まった。


 荷台には昨日使った防具や縄、空になった水桶、それに泥で汚れた外套が積まれている。


 バルガスが後ろから歩いてきた。


「起きてたか」


「外周見てきたの?」


 レオンが尋ねる。


「ああ。ただ、今日は《灰牙》を追ったんじゃねえ」


「何を見た?」


「昨日見つけた五つの印から、さらに外へ続く痕跡だ」


 エリシアが近づく。


「見つかった?」


「一つだけな」


 バルガスは荷車の上へ小さな木箱を置いた。


 中には泥の付いた灰色の布片が入っている。


「村から西へ半刻ほど歩いた森の中で、同じ砂袋の切れ端が落ちてた。針はなかったが、袋の底が破れて砂が少し残ってる」


「逃げた《灰牙》のもの?」


「可能性は高い。昨日の西側の逃走跡と方向が重なる」


 レオンがすぐに言う。


「追える?」


「追わない」


「何で?」


「森の中で相手の人数が分からない。昨日も同じ理由で止めた」


 レオンは口を閉じた。


 バルガスは続ける。


「ただし、痕跡そのものはもう少し見られる。地面が柔らかい場所なら足跡も残ってるからな」


「どっちへ?」


「西へ出たあと、途中から北へ曲がってる」


「旧採掘場へ戻った?」


「そのまま行けば近づく。だが、途中で足跡が消えてる」


「どうして?」


「古い石道へ乗ったからだ」


 バルガスは村の外にある古道について簡単に説明した。


 現在ほとんど使われていないが、昔は北側の採掘場と西街道を結んでいた道が森の中へ残っているらしい。石が露出しているため足跡が消え、周囲には枝道も多い。


「追跡はそこまで」


「じゃあ、分からない?」


 エリシアが聞く。


「どこへ行ったかはな。ただ、村から逃げた連中が西へ出たあと北へ戻ろうとしたことは分かる」


「遺跡?」


「それも候補だ」


 レオンが少し苛立つ。


「また分からないのか」


 バルガスは笑わなかった。


「分からねえものは仕方ない。ただ、昨日より分かったことは増えてる」


「どこ?」


「奴らは村を襲って終わりじゃない。逃げたあとも北側へ移動してる。つまり、少なくともこの辺りから完全に退いたとは考えない方がいい」


 それは確かに違った。


 村へ入った《灰牙》を追い払ったことで事件が終わったわけではない。


 彼らの目的はまだ遺跡周辺にある可能性が高い。


「それで、俺たちどうする?」


 レオンが尋ねる。


 バルガスは肩を竦めた。


「俺が決める話じゃねえ。村長とダルが警戒範囲を決める」


「バルガスは?」


「頼まれれば外へ出る。ただし、護衛の仕事もあるからいつまでも村に残れるわけじゃない」


「いつ出るの?」


「荷隊の状況次第だ。北街道が危険なら、出発そのものを遅らせる」


 エリシアはそこで初めて、バルガスにも自分たちとは別の予定があることを意識した。


 強い。


 頼れる。


 だからずっとここにいるような気がしていた。


 実際には、彼にも仕事がある。


「私たちのために残ってるんじゃない?」


 思わず尋ねる。


 バルガスは少し考えた。


「それだけじゃねえな。俺が護衛してた荷隊も北を通る。灰牙がいるなら調べる理由はある」


「じゃあ、助けてくれたのは?」


「目の前で襲われてる奴がいたからだ」


「仕事じゃなくても?」


「放っておく理由がなかった」


 エリシアはその答えを聞いた。


 自分を特別扱いしたからではない。


 命令されたからでもない。


 その場で見て、自分で助けると判断した。


「ありがとう」


 バルガスが少し居心地悪そうに頭を掻く。


「昨日も言われた気がする」


「言ってないよ」


「なら今ので受け取っとく」


 彼は荷車を片づけるため歩き始めた。


 レオンが声を掛ける。


「バルガス!」


「何だ?」


「明日、身体が戻ってたら少し訓練してくれない?」


「何の?」


「右手の力じゃなくて、普通の動き方。昨日、逃げるだけでも全然動けなかったから」


 バルガスがレオンの固定された腕を見る。


「治療側の許可が出たらな」


「分かった」


「ただし、今のお前に武器は持たせねえ」


「そこまで言ってない」


「先に言っとく方がいい」


 バルガスは笑い、荷車と一緒に離れていった。


 エリシアはその背中を見送りながら尋ねた。


「強くなりたいの?」


「なりたい」


「右手の力を使えるようになりたい?」


 レオンは少し考えた。


「それもある。でも今は、力が出なくても逃げられるようになりたい」


 昨日までなら「敵を倒せるようになりたい」と言っていたかもしれない。


 エリシアはその違いを感じた。


 ◇


 午後、村長ハベルの許可を得て、エリシアは初めて治療所から少し離れた場所まで歩いた。


 目的地はレオンの家ではない。


 村の中央にある小さな集会所だった。


 距離は治療所から二百メルほどしかないが、現在のエリシアには十分な移動だったため、途中で一度休み、水も少量飲んだ。布袋は自分で持ち、ノアが隣を歩き、レオンは右腕の治療があるため少し遅れて父と来ることになっている。


 集会所の中には、昨日までの報告書や地図がまとめられていた。


 紙。


 古い木机。


 金属製の文鎮。


 窓際には小さな油差しが置かれ、紙と金属、それに機械油が混じった匂いが室内へ残っている。


 エリシアはその匂いを嗅いだ瞬間、立ち止まった。


「どうしたの?」


 ノアが尋ねる。


「この匂い……」


 何かを思い出したわけではない。


 けれど、古代施設の記録室にいたときと似ている。


 紙の匂いは違う。


 油も違う。


 それでも、記録を扱う場所特有の混ざり方が記憶の奥へ触れた。


「知ってる場所と似てる?」


「少しだけ」


「頭痛い?」


「大丈夫。今は追わない」


 ノアが頷いた。


 机には、昨日の《灰牙》の記録板の写しがある。


 エリシアは椅子へ座り、王国文字を完全には読めないため、ノアに内容を読み上げてもらった。


 反応値。


 方角。


 設置時刻。


 《二重反応》。


 さらに、今日見つかった西側の砂袋の位置が追加されている。


「逃げた人たちも、同じ道具持ってたのかな」


 エリシアが言う。


 ノアが答える。


「持ってた可能性はあるよね。村から出たあとも反応を追ってたなら」


「でも針は見つかってない」


「落とさず持っていったのかも」


「だったら、今も使ってる?」


 二人が考えているところへレオンが入ってきた。


 父のエドガーもいる。


「何の話?」


「逃げた《灰牙》が、今も砂と針で反応を探してるかもしれないって」


 レオンは席へ着き、左手で地図を寄せる。


「だったら、今どこを指してるか分かれば反応源も分かる」


「見つけないと無理だけどね」


 ノアが言う。


「追いかける?」


「今の俺たちじゃ無理だろ」


 返事に迷いがない。


 エドガーが横で少しだけ笑った。


「成長したな」


「父さんまで言うのやめてくれ」


「いいことだろ」


 レオンは聞こえないふりをして地図を見る。


「でも、相手が持ってる道具が何に反応してるか確かめたいなら、逃げた奴らを追う以外にも方法あるかもしれない」


「どういう方法?」


 エリシアが聞く。


「村に残ってる砂と針を使えるようにすればいい」


「昨日、バルガスが今は使うなって言ってたでしょう」


「俺を使って試すんじゃなくて、道具そのものを調べる」


 エドガーが口を挟む。


「誰が?」


「グランゼから人が来るだろ」


「それなら話は分かる」


 レオンは少し不満そうにする。


「すぐ自分で試さないって言ったのに」


「お前の場合は言葉だけじゃ信用が戻ってない」


「ひどいな」


「三日前までの実績だ」


 また同じことを言われる。


 エリシアは笑いを堪えた。


 机の反対側へ村長ハベルが座った。


「ちょうどその話をしようと思っていた」


「グランゼから返事?」


 レオンが聞く。


「まだだ。ただ、昨日出した使者とは別に、南街道から商人が一組戻ってきた」


「何か知ってた?」


「灰牙について少し」


 部屋の空気が変わる。


「何て?」


「ここ最近、灰牙が街道の荷を襲う回数が減っていたらしい」


 エリシアには、それがどう重要なのかすぐには分からなかった。


「盗賊なのに?」


「そう。普通なら仕事が減ったと考えるところだが、代わりに人を雇っているという話が出ている」


 レオンが眉を寄せる。


「金はどこから?」


「分からない。ただ、商人の間では『最近の灰牙は盗むより探す方で稼いでいる』という噂がある」


「探す?」


「遺物。石。古い施設。そういうものの場所を探す仕事を請けているらしい」


 ノアが言う。


「じゃあ、今回だけじゃない?」


「その可能性が高くなった」


「誰が頼んでる?」


「それは誰も知らない。ただし、依頼の受け渡しに使われる場所について、一つ名前が出た」


 エリシアは話を聞く。


「どこ?」


「《ラゼル村》の北にある旧街道沿いだ」


 レオンが顔を上げた。


「ラゼル村って、ここからどのくらい?」


「徒歩なら一日ほど。馬ならもっと早い」


「灰牙の仲間がいる?」


「そこまでは分からない。商人が聞いた話では、人の少ない旧街道に灰牙と取引する仲介役が出ることがあるらしい」


「なら、そこを調べれば依頼人に近づける?」


 レオンが前のめりになる。


 エドガーが右腕を見る。


「お前は行かないぞ」


「まだ言ってない」


「顔が言ってる」


「聞いてから決めるだけだよ」


 エリシアも《ラゼル村》という名前を頭へ入れた。


 今の時代で初めて聞く、エルダ村以外の小さな土地の名前。


 遺跡だけを調べても、《灰牙》がなぜ来たのかは分からない。


 《灰牙》だけを追っても、彼らへ依頼した者までは分からない。


 目的が少しずつ外へ広がっている。


「その場所、村長たちが調べる?」


 エリシアが聞く。


「すぐには動かない」


 ハベルは答えた。


「エルダ村の自警団は、村を守るための人間だ。噂だけを頼りに他村の近くまで出して、こちらの守りを薄くするわけにはいかない」


「バルガスは?」


「彼は王国の兵ではない。頼むことはできても、命令はできない」


 その言い方をエリシアは覚えた。


 頼むことはできる。


 命令はできない。


「本人に聞く?」


「必要ならね」


「私たちは?」


 ハベルはエリシアとレオンを見た。


「今の二人に、村外へ一日歩く選択肢はない」


「身体が戻ったら?」


「それだけでは決められない」


 レオンが少し不満そうにする。


 ハベルは続ける。


「灰牙が関係している以上、危険はある。君たちを狙う理由も以前より増えている可能性がある。身体が治れば自由に行けるという話ではない」


「じゃあ、ずっと行くなってこと?」


「そうは言っていない」


「何が変われば?」


 エリシアが先に聞いた。


 ハベルは少し考える。


「護衛。情報。行く必要性。その三つを見たい」


「行く必要性?」


「危険を冒してまでラゼル村近くへ行く理由があるかどうかだ。噂だけなら、グランゼ側へ調査を頼む方が安全かもしれない」


 レオンが言う。


「でも依頼人が俺たちの反応を追ってるなら、こっちから調べないとまた来るかもしれない」


「それは理由になる。ただ、それでも君本人が行く必要があるかは別だ」


「俺の右手が関係してるなら?」


「だからこそ連れていかない方がいいという判断もある」


 レオンは黙った。


 エリシアには両方の意味が分かった。


 必要だから行く。


 危険だから行かない。


 同じ情報から反対の判断が出る。


「じゃあ、どうやって決めるの?」


 エリシアが聞く。


 村長ハベルが答える。


「話すしかない」


「それだけ?」


「それだけだよ」


 エリシアは少し意外だった。


 もっと特別な方法があると思っていた。


「絶対に正しい人が決めるんじゃないの?」


「そんな人がいるなら、村長は楽なんだけどね」


 ハベルは笑った。


「分かっていることを出して、危険も出して、本人の希望も聞く。そのうえで今の時点で一番ましだと思う判断をする。あとで情報が変われば、判断も変える」


「昨日と同じだね」


「そうだね」


 エリシアは頷いた。


 ◇


 夕方。


 空の光が西の山へ傾き、集会所の窓から差す光が机の上の地図を横切る頃、グランゼへ向かった使者から最初の返答が届いた。


 予想より早い。


 途中でグランゼからエルダ村へ向かう巡回騎手と出会い、報告を託すことができたらしい。


 持ち帰られた文書は短かった。


 村長ハベルが開く。


 レオン、エリシア、ノア、バルガス、エドガーも同席している。


「何て?」


 レオンが尋ねる。


 ハベルは読み上げる前に一度文面を確認した。


「まず、遺跡周辺への一般人の立ち入りを一時停止するよう要請が来ている」


 レオンの眉が寄る。


「要請?」


「命令ではない。現時点では領主側も詳細を確認できていないから、村の判断を尊重する形だ」


「次は?」


「灰牙の侵入については、周辺街道へ警戒情報を回す。ラゼル村にも連絡が行く」


 エリシアが身を乗り出す。


「私については?」


 ハベルは紙を持ち直した。


「《遺跡から保護された少女について、本人の意思疎通が可能であるなら現地保護を継続し、本人の同意なく移送しないこと。ただし安全上の重大な危険が認められる場合は例外とする》」


 エリシアは言葉をゆっくり理解した。


「今すぐ連れていかれない?」


「今のところは」


「私が嫌だって言ったら?」


「原則としては移送しない」


「例外は?」


「ここに置くことで生命の危険が高いと判断された場合だろうね」


 完全な自由ではない。


 それでも、自分の意思が条件の一つとして扱われている。


「レオンは?」


 ハベルが続ける。


「右手の痕については、グランゼから魂晶技師を一人寄越す予定だ。到着まで二日程度」


「神殿じゃなくて?」


「まず領主側の技師だ」


 レオンは少し安心したように見えた。


「検査は断れる?」


「内容次第では断れると思う。ただ、危険性の確認だけは受けてほしいという要請がある」


「じゃあ、何をされるか聞いてから決める」


「それでいい」


 さらに文書を読む。


「灰牙が古代遺物探索の仕事を受けているという噂については、グランゼ側も別件で把握していた」


 部屋が静かになる。


「別件?」


 バルガスが尋ねる。


「ああ。エルダ村以外でも、古い遺跡周辺に灰牙が現れた記録が二件あるらしい」


 レオンが机へ左手を置く。


「同じ砂?」


「そこまでは書かれていない」


「何を探してた?」


「一件は古い魂晶器具。もう一件は不明」


「依頼人は?」


「どちらも分かっていない」


 エリシアはその情報を頭の中へ置いた。


 今回だけではない。


 自分たちの遺跡だけが狙われたわけでもない。


 灰牙は複数の古い場所を探っている。


 従来の仮説がまた少し変わる。


「じゃあ、私たちだけが特別だから来たわけじゃない」


「そう言い切ることはできない」


 レオンが答えた。


「でも、少なくとも灰牙が古代遺跡を探す仕事を今回だけしてるわけじゃない」


「うん」


 バルガスが文書を見る。


「依頼人が同じかどうかが重要だな」


「グランゼ側も調べるそうだ」


 ハベルが言う。


「ラゼル村周辺の仲介役についても確認を始める」


 レオンの顔が少し変わる。


「じゃあ、俺たちが行かなくても調べてもらえる?」


「ああ」


 その返事を聞いた瞬間、レオンはすぐには喜ばなかった。


 エリシアにはその理由が少し分かる。


 自分で行きたい。


 自分で見たい。


 それでも、自分が行かなくても進む方法がある。


 そのことを受け入れられるかどうかは、また別の問題なのだろう。


「不満?」


 エリシアが聞く。


「ちょっと」


「どうして?」


「俺が何もしてないみたいになる気がするから」


「でも、レオンが見つけた記録があるからグランゼも動いたんでしょう?」


「それはそうだけど」


「じゃあ何もしてないわけじゃない」


 レオンは黙る。


 ノアが横から言う。


「レオンって、自分で歩かないと進んだ気がしないんだよ」


「そんなことない」


「あるよ。遺跡調べるときも、誰かが代わりに見たって聞くだけだと嫌そうだし」


「自分で見たいのは普通だろ」


「普通だけど、自分で見ないと意味がないわけじゃないって話」


 レオンは地図を見る。


 しばらくして、小さく息を吐いた。


「分かった」


「本当に?」


「分かったけど、行きたくなくなったわけじゃない」


「それならいいんじゃない?」


 エリシアが言う。


「何が?」


「行きたいって思ったまま、今は行かないでも」


 朝の自分と同じだった。


 遺跡へ戻りたい。


 でも身体が足りない。


 だから待つ。


 待つことと、諦めることは同じではない。


 レオンは少し笑った。


「エリシアに言われると反論しづらいな」


「私も同じだから」


「そうだった」


 二人の間で小さな笑いが生まれた。


 ◇


 話し合いが終わったあと、エリシアは治療所へ戻る前に、集会所の前で少し休んだ。


 夕方の光が石道へ長く伸びている。


 朝より遠くまで歩いたせいで脚は重い。


 それでも、帰り道を自分で歩けるくらいの体力は残してある。


 布袋には水が三分の一。


 乾いた食べ物はまだ一回分。


 明日は補給する。


 そう考えることが、少しずつ普通になっている。


 隣へレオンが座った。


 右腕は固定されたまま。


「疲れた?」


「少し。でも帰れる」


「荷物は?」


「持てる」


「本当に?」


 エリシアは少し考えた。


 肩の疲れは四くらい。


 まだ持てる。


 でも帰りの途中で増える可能性がある。


「今は持てる。でも、治療所までの半分で重くなったら水だけお願いする」


 レオンが頷く。


「分かった」


 以前なら「大丈夫」とだけ答えていた。


 今は条件を付けて頼める。


 それが少し嬉しい。


「レオン」


「何?」


「今日の話で、私たちがラゼル村まで行かなくても調べてもらえるって分かったでしょう」


「ああ」


「それでも行きたい?」


「行きたい」


「私も」


「エリシアも?」


「灰牙の依頼人が、古い施設をいくつも探してるなら気になる。私のいた時代と関係あるかもしれない」


「じゃあ身体が治ったら?」


 エリシアはすぐには答えなかった。


 行きたい。


 けれど、それだけで決めないと学んだ。


「そのとき分かってることを見てから決める」


「そっか」


「レオンは?」


「同じにする」


「私の真似?」


「いい答えなら使う」


 エリシアは笑った。


 少ししてノアが集会所から出てくる。


 手には例の記録帳。


「これ、忘れてるよ」


 レオンが左手を伸ばす。


「ありがとう」


 ノアは渡そうとして、少し止めた。


「私が持って帰ろうか?」


「何で?」


「右腕使えないし、エリシアも荷物持ってるから」


 レオンは少し考えた。


 以前なら自分の記録帳を他人へ預けることに抵抗があったはずだ。


 今は違う。


「頼む」


 ノアが受け取る。


「いいの?」


「もう何回も書いてもらってるし」


「じゃあ、治療所でまた一緒に見る?」


「ああ」


 エリシアはそのやり取りを見た。


 記録帳。


 最初はレオンだけのものだった。


 今はノアが持ち、エリシアの言葉も書かれ、村長やバルガスが持ってきた情報もそこへ足されている。


 誰か一人の答えではなくなっている。


 それでも、レオンが大切にしていないわけではない。


 むしろ、他の人へ渡すようになったからこそ、もっと多くのことが残るようになった。


 三人で治療所へ向かう。


 石道を歩く足音が並ぶ。


 レオンは以前より少し遅い。


 エリシアも普通の村人より遅い。


 ノアはその二人の間に合わせて速度を落としている。


 誰も先へ急がない。


 道の半分ほどで、エリシアの肩が重くなった。


「レオン」


「何?」


「水だけお願い」


「分かった」


 水筒を渡す。


 レオンは左手で持つ。


 自分の記録帳はノアが持っている。


 それぞれが、今持てるものを持つ。


 治療所の明かりが見えてくる。


 そこまで残り数十メル。


 エリシアは足を止めず、隣を歩く二人を見た。


 昨日までは、誰かに守られることと、自分で決めることを反対のものだと思っていた。


 今は少し違う。


 自分で決めたからこそ助けを頼むこともある。


 相手が自分で決めたことを尊重するために、代わりに荷物を持つこともある。


 誰かと一緒に進むことは、自分の選択を失うことではない。


 治療所の入口へ着いたところで、ノアが先に扉を開ける。


 レオンは水筒をエリシアへ返そうとしたが、彼女は首を横へ振った。


「部屋まで持ってて」


「いいの?」


「うん。今日はもう肩が疲れたから」


 レオンはそのまま持つ。


 エリシアは自分の布袋だけを抱え直す。


 ノアは記録帳を胸元へ持つ。


 三人は狭い入口を一人ずつ通った。


 **エリシアは自分の荷物をすべて取り戻そうとはせず、水筒を持つレオンと記録帳を預かったノアの間を、自分の布袋だけを抱えて歩いた。**


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