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『ソウルストーン ~神々を滅ぼす最後の継承者~』  作者: シロの空


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第1章《太古の継承者編》 第13話《命令の外側》

●評価●ブックマーク●アクション●感想●

13話の感想待ってます!


読者様が応援してくれると嬉しいです!

 エリシアの頼みを聞いたバルガス・グレンが治療所を出てから半刻ほど経っても、村の外周から新しい報告は届かなかった。


 日が落ちた《エルダ村》では、昼間まで続いていた怒鳴り声や警戒鐘がひとまず止み、代わりに負傷者の治療を手伝う人々の足音と、水を運ぶ桶が床へ触れる音が治療所の中へ途切れず響いている。窓は夜気を防ぐため閉じられていたが、煮出した薬草の青臭さと血を拭った布の臭いが室内へ残り、エリシアは息を吸うたびに、今日起きた出来事がまだ終わっていないことを身体で感じていた。


 寝台の横には、昼間ノアから渡された小さな布袋が置いてある。


 中には半分ほど残った水、乾いたパン、治療用の布が二枚入っているだけだった。


 逃げる途中ではほとんど使わなかったものの、自分で持つと決めた荷物を手元へ戻してもらったことで、知らない場所に保護されているだけだった昨日より、ほんの少しだけ自分の生活が始まったように感じられる。


「食べられそう?」


 治療を担当している女性が、小さな木皿を持って近づいてきた。


 皿には柔らかく煮た麦と刻んだ根菜が少量盛られている。


「さっきよりは、お腹が空いてます」


「なら半分くらいから始めましょう。今日は走ったうえに緊張も続いたから、急にたくさん食べると気分が悪くなるかもしれないわ」


 エリシアは皿を受け取った。


 木の匙を持つ。


 昨日までは、この時代の食器の形さえ少し違和感があったのに、三度目の食事になると指が自然に柄の位置を探すようになっている。


 一口食べる。


 味は薄い。


 けれど温かい。


 口から胃へ落ちていく感覚を確かめながら、エリシアは自分が思っていた以上に空腹だったことに気づいた。


「レオンは?」


「隣でまだ治療中」


「右腕?」


「それもあるけれど、問題は中を通った魂力の方ね。外から見える傷より、本人が無理に流した力で内側へ負担が掛かってる」


「治りますか?」


「今の段階で、後遺症が残るとは考えていないわ。ただし今夜は絶対に力を使わせないし、明日も状態を見ないと何も言えない」


 エリシアは匙を止めた。


 レオンが二度目に力を使ったとき、右腕が震えていた。


 木箱を壊して逃げ道を作ったことで自分たちは助かった。


 けれど、その結果が今も彼の身体へ残っている。


「私を逃がすために使ったから……」


「そういう言い方は、本人にしない方がいいと思うわよ」


 女性の返事は思っていなかったものだった。


 エリシアは顔を上げる。


「どうして?」


「あなたを逃がすためだったことは間違っていないでしょうね。でも、力を使うと決めたのはレオン自身でしょう。あなたが頼んで無理に使わせたわけじゃない」


「でも、私がいなかったら――」


「その考え方を続けたら、今日ここで怪我をした人の全部を誰か一人のせいにできてしまうわ」


 女性は空になった水桶を持ち上げながら続けた。


「《灰牙》が村へ入ったから見張りが増えた。見張りが増えたから農作業を休んだ人がいる。逃げる途中で転んだ人もいれば、助けに行って怪我した人もいる。それぞれに原因はあるけれど、全部を一人の責任へまとめたら、誰が何を選んだのか見えなくなるでしょう」


 エリシアは皿へ視線を戻した。


 昨日までなら、遺跡で何か起きれば自分が目を覚ましたからではないかと考えた。


 《灰牙》が現れれば自分が狙われているのではないかと思った。


 今日、捕らえられた男の証言によって、少なくとも《灰牙》が最初から自分を探していた証拠はないと分かった。


 それでも、自分の周囲で起きた悪いことを全部自分へ結びつけようとする癖は、簡単には消えないらしい。


「じゃあ、レオンが怪我したことはレオンの責任?」


「そういう単純な話でもないわ」


「違うんですか?」


「襲った人間がいる。逃げなければならない状況もあった。その中でレオンは自分の力を使う判断をした。だから治療するときには、その全部を分けて考えるの」


 女性は少しだけ笑った。


「人間の身体を治すのに、一番悪い人を決める必要はないからね」


 エリシアはその言葉を聞きながら、残りの麦を口へ運んだ。


 温かさが少しずつ身体へ戻ってくる。


「全部食べられそう?」


「はい」


「なら食べて。そのあとは休む」


「バルガスが戻ってきたら起きていていいですか?」


「話を聞くくらいならね。ただし、外周まで自分で見に行くのは禁止」


「分かってます」


「本当に?」


 最近、レオンが何度も同じ確認をされていた理由が少し分かった。


「今日は本当に分かってます」


 女性はようやく頷き、水桶を持って廊下へ戻っていった。


 ◇


 食事を終えてしばらくすると、隣室からレオンが出てきた。


 一人ではない。


 ノアが左側へつき、右側には父のエドガーがいる。


 右腕は手首から肘の上まで広く布で固定され、指先だけが出ていた。左膝にも新しい固定布が巻かれているため、歩幅は昨日よりさらに狭くなっている。


「歩いていいの?」


 エリシアが尋ねると、レオンは少し不満そうに答えた。


「治療所の中だけ。しかも右腕を使わない、長く立たない、痛みが増えたらすぐ座るって条件付き」


「十分多いね」


「俺もそう思う」


「違うよ。制限が多いって意味じゃなくて、まだそれだけ条件が必要って意味」


 ノアが吹き出した。


 レオンは一瞬言葉を失ったあと、諦めたように椅子へ座った。


「エリシアまでそっち側になってきた」


「そっち側って何?」


「俺を止める側」


「止めてないよ。今の身体がどうなってるか言っただけ」


「最近それが一番効くんだよ」


 エドガーが小さく笑った。


「いい傾向だ」


 レオンは父を睨んだものの、右腕の痛みで肩を動かすことさえ避けているため、迫力はほとんどなかった。


 エリシアはその腕を見る。


「痛みは?」


「何もしなければ三くらい。指を強く動かすと四か五」


「痺れは?」


「さっきより減った。でも小指側はまだ変な感じする」


「明日、遺跡へ行ける?」


 尋ねた瞬間、ノアとエドガーが同時にレオンを見る。


 本人もその視線の意味を理解したらしい。


「行かないよ」


 先に答えた。


「少なくとも明日は、この腕であの力を使える状態じゃないし、膝も斜面を歩けるところまで戻ってない。今行ったら誰かに支えてもらう時間が増えるだけだ」


 エドガーは何も言わなかった。


 その代わり、少しだけ表情が和らいだ。


「嫌じゃない?」


 エリシアが聞く。


「嫌だよ」


 レオンはすぐに答えた。


「俺が見つけた場所だし、右手が反応する理由も知りたいし、あの砂が何なのかも気になる。今すぐ行けるなら行きたい」


「でも行かない?」


「ああ」


「どうして?」


 レオンはしばらく考えた。


「行きたいって気持ちと、今行くのがいいって判断が同じじゃないって、さすがに分かったからかな」


 答えたあと、自分でも気恥ずかしくなったらしく視線を逸らす。


 ノアが笑う。


「三日前のレオンに聞かせたい」


「俺もそう思う」


「本当に?」


「三日前の俺ならたぶん聞かないと思うけど」


 今度はエリシアも笑った。


 笑ったことで身体の疲れが少し軽くなる。


 それでも、レオンの右腕に巻かれた布を見るたび、今日の戦いが遠い出来事にはならなかった。


「バルガスが戻ったら、私も場所を見たい」


 レオンが言う。


「外周の印?」


「地図でな。現場へ行くんじゃない」


「それなら私も」


「そのためにエリシアが頼んだんだろ?」


「うん」


 ノアが持っていた記録帳を机へ置く。


 今ではもう、レオンが一人で抱えていた頃と違って、ノアの字やエリシアが口にした内容まで書き込まれている。


「バルガスが戻る前に、分かってることを整理しようか」


 ノアが言った。


 レオンは左手で記録帳を開こうとしたが、慣れていないため紙をうまく押さえられない。


 エドガーが無言で端へ手を添えた。


 レオンは少しだけ父を見る。


「ありがとう」


「右手を使うなと言われたばかりだろ」


「分かってる」


 ノアが筆を持つ。


「今日は私が書く?」


 レオンは一瞬だけ記録帳を見た。


 以前なら嫌がったかもしれない。


「ああ。頼む」


 ノアは頷いた。


「じゃあ、最初は?」


 レオンが答える。


「《灰牙》は古代の特殊魂波を出す石を探している。少なくとも捕まった男は、《レグナ・ゼオ》って名前を知らなかった」


「依頼人は別にいる可能性がある」


 エリシアが続ける。


「私のことは最初の依頼に入っていなかったって言ってた」


 ノアが書く。


「次は砂?」


「ああ」


 レオンはガラス容器に残された灰色の砂を見る。


「《灰牙》が複数持っていた。砂に混ざってる何かへ、俺の右手が反応する」


「砂そのものとはまだ決まってない」


 エリシアが付け加える。


「そうだった」


 ノアが文章を直す。


「それから、村の外に黒い印付きの袋が二つ見つかってる」


「位置はまだ分からない」


「だからバルガスが調べに行った」


 ここまで書いて、ノアが筆を止めた。


「最初、あれを何だと思ってた?」


 レオンが答える。


「《灰牙》が村へ戻るための目印か、仲間同士の位置を知らせる印だと思った」


「エリシアは?」


「私は、場所と何かをつなぐ印みたいに見えた。でも、本当に知ってるわけじゃない」


「じゃあ、それも分けて書くね」


 ノアは二つの欄を作った。


 《確認できたこと》


 《考えていること》


 単純な分け方だった。


 それでも、紙へ書き分けられるだけで頭の中がかなり整理される。


 エリシアはその二つを見比べた。


「こうすると、考えてることの方が多い」


「最初はそんなもんだろ」


 レオンが言う。


「俺なんて数日前まで、考えたことを確認したことみたいに書いてたからな」


「自覚あったんだ」


 ノアが笑う。


「今はある」


 そのとき、廊下から足音が近づいた。


 バルガスではない。


 村長ハベルだった。


 片手に紙束を持ち、もう片方には封蝋を押す前の報告書がある。


「少しいいかな」


「領主への報告?」


 レオンが尋ねる。


「そうだ。それと、君たちに確認したいことがある」


 村長は椅子へ座り、報告書を机へ置いた。


「グランゼへ出す文書には、遺跡の存在、灰牙の侵入、負傷者、古代魂波、そしてエリシアが遺跡から保護されたことを書く」


 エリシアは黙って聞いた。


 昨日までなら、自分のことが知らない場所へ書かれて送られることそのものが怖かった。


 今は、何を書くのか先に説明されている。


「私が自分で話したいってことも?」


「入れてある」


 村長が一枚を示した。


「本人は意思疎通が可能で、自身の移動や調査参加について説明を受けたうえで判断する機会を希望している、と」


 エリシアには王国の文字を完全には読めなかった。


 それでも、自分の意思が文書の中へ入っていることを確認できる。


「ありがとうございます」


「礼を言う必要はない。本人が話せるなら、本人の意見を記録するのは当然だと私は思う」


 村長はそこで少し間を置いた。


「ただし、ここから先は私の考えだけで決められないこともある」


「私をどこかへ連れていくこと?」


「それも含む」


 エリシアの指が布袋の縁を握った。


「王国から、保護のため別の場所へ移動するよう命令が出る可能性はある。未知の遺跡から現れた人物で、盗賊まで関係しているとなれば、安全上の理由から村へ置けないという判断もあり得る」


「そのとき、私が嫌だって言ったら?」


 ハベルはすぐには答えなかった。


 その沈黙に、エリシアは以前ほど強い不安を感じなかった。


 簡単な答えがないから考えている。


 そう分かるようになったからだ。


「私は君の意見を伝える。ただ、領主や王国の規則がどこまで認めるかは約束できない」


「だったら、それは私のための保護でも、私が嫌なら命令になる?」


「そうなることもある」


「保護なのに?」


「保護する側は、本当に危険から守るためだと考えるだろう」


「でも、私が決めたことにはならない」


「その通りだ」


 ハベルは否定しなかった。


 エリシアは紙を見る。


 自分を守ろうとすることと、自分の代わりに決めること。


 同じ行動の中に、両方が入ることがある。


 単純に悪いと決められないからこそ難しい。


「村長は、どっちが正しいと思いますか?」


「何が?」


「危険だから移動させることと、本人が嫌なら残すこと」


 ハベルは少し考えた。


「状況次第だと思う」


「決めないんですか?」


「村長だからといって、何でも一つの答えを持っているわけじゃないよ」


「でも、村の人は村長の言うことを聞くでしょう?」


「聞いてくれることは多い。ただ、それは私が必ず正しいからではなく、誰かが判断をまとめなければ動けない場面があるからだ」


 エリシアはその言葉を聞いた。


「じゃあ、間違ったら?」


「直す」


 即答だった。


「命令を出したあとでも?」


「間に合うならね。間に合わないこともある。だから命令を出す前に、できるだけ当事者の話を聞く」


 ハベルは自分の報告書へ手を置いた。


「今日、北の畑を閉じたことで困っている家もある。収穫が遅れれば食料も減る。それでも、武装した者がいると分かっている場所へ人を出すよりはいいと判断した」


「みんな納得した?」


「していない人もいる」


「それでも命令した?」


「した」


 エリシアは少し考えた。


「だったら、誰かの選択を止めることが全部悪いわけじゃない?」


「私はそう思う」


「でも、止めれば全部正しいわけでもない」


「そうだね」


 エリシアは自分の手を見る。


 未来。


 遺跡。


 王国。


 まだ何も分からない。


 それでも一つだけ、以前よりはっきりしたことがある。


 自分が選ぶということは、誰にも止められないことではない。


 止められたときに理由を聞くこと。


 自分の理由も伝えること。


 そして、違う判断を持つ人と話し続けること。


 それも選ぶことの中に入るのかもしれない。


「村長」


「何かな」


「王国から命令が来たら、内容を私にも見せてください」


「読める?」


「全部は読めないと思います」


「なら説明する」


「説明したあとで、私がどうしたいかも聞いてください」


 ハベルは頷いた。


「約束する」


 エリシアは少しだけ力を抜いた。


 ◇


 夜が深くなる前に、治療所では今日使った物資の確認が始まった。


 エリシアには最初、何のためにそこまで細かく数えるのか分からなかった。


 包帯。


 消毒液。


 冷却布。


 乾燥薬草。


 飲み水。


 保存食。


 昼の戦闘で使ったものだけでなく、避難してきた住民へ渡した毛布や簡易寝具まで、一つずつ木札へ記録されている。


「足りないの?」


 エリシアが尋ねる。


 ノアは治療所の女性に頼まれ、使用済みの布を洗浄用と廃棄用へ分けていた。


「今すぐなくなるわけじゃないと思う。でも、明日また何かあったら同じだけ使うかもしれないでしょう?」


「村にたくさん置いてないの?」


「大きな町みたいな倉庫はないからね。薬も布も、次の荷便まで増えないものがある」


 エリシアは昼間、自分が使った布袋を見る。


 治療布が二枚。


 そのうち一枚はまだ使っていない。


「これ、返した方がいい?」


 ノアが手を止める。


「エリシアの分だよ」


「でも治療所で足りなくなるなら」


「避難用として持っててって渡したものだから、今返して明日必要になったらまた取りに来ることになるよ」


「じゃあ持ってた方がいい?」


「たぶん。でも私が決めるより、聞こう」


 二人で治療担当の女性へ確認する。


 女性は布袋の中身を見た。


「それはそのまま持っていて。エリシアが移動するときに必要になる最低限の分だから」


「治療所のものと別?」


「今日渡した時点で、エリシア用として数から外してあるわ」


「私のもの?」


「少なくとも避難が終わるまではね」


 エリシアは袋の布を指でなぞった。


 粗い。


 古代で持っていたものより硬い。


 けれど、今はその手触りが嫌ではなかった。


「なくしたら?」


「困る」


「怒られる?」


「先に困る方を考えましょう」


 女性は笑った。


「水がなくなれば飲めない。布がなくなれば怪我したときに使えない。その結果を考えれば、大事にしようと思うでしょう?」


「はい」


「怒られるから持つより、その方がいいわ」


 エリシアは袋を自分の膝へ置いた。


 誰かに守られているだけだった自分に、少しずつ管理するものが増える。


 荷物。


 情報。


 自分の身体。


 自分が言ったこと。


 選ぶためには、持つものも増えるらしい。


 ◇


 その頃、レオンは別の意味で持てるものを減らされていた。


「左手だけで食べるの、難しい」


 夕食用のスープを前にした彼は、匙から具を二度落としたあとで顔をしかめていた。


 右腕は固定されている。


 指先を少し動かすことはできるが、食器を持つために使うことは禁止されている。


「手伝おうか?」


 ノアが尋ねる。


「食べるくらい自分でできる」


「さっき二回落としたよ」


「三回目は成功する」


 匙を持つ。


 豆をすくう。


 ゆっくり持ち上げる。


 今度は口まで届いた。


 レオンが少し得意そうな顔をする。


 エリシアは向かいから見ながら言った。


「食べるのにそんなに集中してたら、冷めるよ」


「分かってる」


「器を持ってあげたら?」


「それくらいなら頼む」


 ノアが器の端へ手を添える。


 レオンは左手だけで匙を動かす。


 さっきより簡単になった。


「全部やってもらうのは嫌だけど、器押さえてもらうのはいいんだ」


 エリシアが言う。


「自分でできるところまで取られたくないだけだよ」


「それ、私も同じかも」


 レオンが顔を上げる。


「何が?」


「誰かに守ってもらうことが嫌なんじゃなくて、自分でできるところまで勝手に決められるのが嫌」


 少し前まで、自分でもそこまで分けて考えられていなかった。


 治療所へ運ばれる。


 歩くことを止められる。


 遺跡へ戻ることを止められる。


 全部「決められる」と感じていた。


 けれど、今レオンが自分で匙を持ちながら器だけ押さえてもらっている姿を見ると、助けてもらう範囲を本人が決めることもできるのだと分かる。


「じゃあ、俺たち似てる?」


 レオンが尋ねる。


「全部は似てない」


「そこは即答するんだ」


「レオンは危なくても先へ行きたがるし」


「最近は止まってる」


「最近はね」


 ノアがまた笑う。


 そのとき、治療所の入口が開いた。


 冷たい夜気と一緒にバルガスが戻ってくる。


 肩には薄く土埃が付き、靴の縁には湿った草が絡んでいる。大剣は背負ったままだが抜いた様子はなく、戦闘にならなかったことだけは外見から分かった。


「戻った!」


 エリシアが立とうとする。


 バルガスはすぐに手を上げた。


「座ってろ。俺が行く」


 机まで来る。


 手には折り畳んだ紙があった。


「言われた通り、見つかった場所を全部取ってきた。最初の二つに加えて、外周であと三つ見つかった」


「五つ?」


 ノアが記録帳を開く。


 バルガスは紙を広げた。


 簡単な村の地図。


 外周へ五つの印が付いている。


 エリシアはその配置を見る。


 北。


 西。


 南西。


 東寄り。


 そして旧採掘場へ続く北東側。


 村を均等に囲っているわけではない。


「思ってたのと違う」


 レオンが言う。


「何が?」


「村を囲むためなら、もっと同じくらいの間隔で置くと思ってた」


 バルガスが頷く。


「俺も最初は包囲位置かと思った。だが違う」


「じゃあ、道しるべ?」


「それも怪しい」


 バルガスは地図へ指を置いた。


「印があるのは、道の分岐じゃない。むしろ村がよく見える高い場所か、古い石壁、枯れた大木みたいに動かないものばかりだ」


「基準になる場所?」


 エリシアが尋ねる。


「そう見える」


「何の基準?」


「そこから先が分からねえ」


 レオンが砂の容器を見る。


「全部に同じ砂が入ってた?」


「ああ。量もほぼ同じだ」


「俺の手は?」


「お前を連れていってないんだから確かめてない」


「そうだった」


 レオンが少し悔しそうな顔をする。


 バルガスは地図へもう一つ線を引いた。


「それと、五つの印を置いた場所から旧第七採掘場が見えるかどうかも調べた」


「全部見える?」


「直接見えるのは二つだけだ。残りは丘や家に隠れる」


「じゃあ遺跡を見る目印でもない」


 エリシアは地図を見た。


 五つ。


 ばらばらに置かれているように見える。


 けれど、何の理由もなく置かれたとは思えない。


 《灰牙》は袋をわざわざ持ち込み、黒い印まで付けている。


「距離は?」


 エリシアが尋ねた。


 バルガスが少し笑う。


「聞くと思って測らせた」


 地図の端へ数字が書かれている。


 村の中心から。


 遺跡の入口から。


 それぞれの距離。


 エリシアには現代の距離単位へまだ完全には慣れていない。


 それでも数字の並びを見る。


 一定ではない。


「位置だけじゃ分からないね」


「だから、もう一つ持ってきた」


 バルガスが小さな布包みを出した。


「これは?」


「二つ目の印を見つけた木の近くにあったものだ」


 開く。


 細い金属片。


 灰色の砂が少し付いている。


 形は針に近い。


 片側だけ黒く変色している。


 レオンが身を乗り出す。


「触るなよ」


「分かってる」


「本当に?」


「今日は何回言われるんだよ」


 バルガスは金属片を机へ置いた。


「地面に刺さってた。袋のすぐ近くだ」


 エリシアの胸の奥に、また小さな違和感が動く。


 針。


 砂。


 固定された場所。


「それ……向きは?」


「向き?」


「どっちを向いてました?」


 バルガスが目を細める。


「細い方が地面へ刺さってたが」


「違います。黒くなってる側」


 バルガスは地図を見る。


「西北西だな」


「他の場所にも同じものあった?」


「最初は気にしてなかった。今見つけたのは一本だけだ」


 エリシアは金属片を見る。


 何かを思い出したわけではない。


 それでも、固定された点と向きという組み合わせが重要な気がする。


「他の四つも調べてほしい」


「同じ針がないか?」


「はい。それと、あったら黒い方がどっちを向いてるか」


 レオンが地図を見る。


「何か分かった?」


「分からない。でも、砂だけなら場所に置けばいいでしょう? わざわざ向きがあるものを一緒に使ってるなら、どっちを向けたかも意味があるかもしれない」


 バルガスは頷いた。


「筋は通ってる」


 ノアが聞く。


「今からもう一回行くの?」


 バルガスは窓を見る。


 夜はかなり深くなっている。


「俺一人なら行けるが、暗い中で小さい金属片を探すより明るくなってからの方がいい。見張りには触らせず残すよう伝える」


 エリシアは少し焦った。


「でも、《灰牙》が取りに戻ったら?」


「だから見張る。ただ、痕跡を守るために人を危険へ出すほどじゃねえ。相手が多ければ退く」


「調べるものがなくなっても?」


「なくなったら、なくなったって情報が残る」


 どこかで聞いたような言葉だった。


 レオンが笑う。


「父さんと同じこと言うな」


「何だ?」


「俺が遺跡のものが明日なくなってたらって聞いたとき、『なくなる理由があるならそれも記録だ』って」


 バルガスは肩を竦めた。


「親父さん、まともなこと言うじゃねえか」


「普段からまともだよ」


「今ちょっと間があったぞ」


 エリシアは二人の会話を聞きながら、机の地図へ目を戻した。


 ◇


 翌朝。


 エリシアが目を覚ますと、治療所の窓から淡い朝日が差し込んでいた。


 身体の疲れは残っている。


 昨日走ったせいで脚の筋肉が重い。


 それでも、寝台から起き上がる動作は一日前より自然になっている。


 布袋を持つ。


 水筒の残りを確認する。


 半分より少ない。


 朝食のときに補給してもらう必要がある。


 自分でそれに気づいたことが、少し嬉しかった。


 廊下へ出る許可を得て、食事室まで歩く。


 昨日より歩幅は広い。


 途中で息切れもしない。


 レオンはすでにそこにいた。


 右腕は固定されたままだが、左手でパンを食べる動作は昨夜よりかなり上手くなっている。


「おはよう」


「おはよう」


「身体どう?」


「昨日よりいい。レオンは?」


「腕の痛みは二か三。痺れはほとんどなくなった。でも今日も力は絶対使うなって」


「遺跡は?」


「当然駄目」


 答え方に悔しさはある。


 でも反論する気はなさそうだった。


 エリシアも食事を受け取る。


 今日は柔らかいパンと卵、それに温めた野菜のスープだった。


 温かい器を両手で持つ。


 指先へ伝わる熱が心地よい。


「昨日の印、どうなったかな」


 レオンが言う。


「バルガスは朝になったら見に行くって」


「俺も地図だけなら見たい」


「一緒に見よう」


 二人で食べる。


 ノアも少し遅れて来る。


 昨日使った治療物資の確認を手伝ったせいで、眠るのが遅くなったらしい。


「眠そう」


 レオンが言う。


「誰のせいだと思ってるの?」


「俺?」


「レオンの包帯だけじゃないけど、半分くらいはそう」


「半分も?」


「右腕と膝と、その前の傷でいっぱい使ってるからね」


 ノアはパンを食べながら説明する。


「治療用の冷却布、村の残りがいつもの半分くらいになったって」


 レオンの顔が少し曇る。


「俺のせいで?」


 エリシアは昨夜言われたことを思い出した。


「全部レオンのせいじゃない」


 レオンがこちらを見る。


「他にも怪我した人がいるし、避難した人も使った。それにレオンが使った分も、レオンが怪我したから必要だったんでしょう?」


 ノアも頷いた。


「そう。だから節約は必要だけど、使ったこと自体が悪いわけじゃないよ」


「でも次の荷便まで足りる?」


「普通に使えば足りる見込みだって。ただ、また戦いになったら分からない」


 物資。


 昨日までレオンたちが何度も話していた意味が、エリシアにも少しずつ分かってくる。


 戦いが一度終わっても、そのために使ったものは元へ戻らない。


 血が止まっても包帯は減る。


 傷が塞がるまで時間が掛かる。


 畑へ出られなかった時間も戻らない。


「遺跡へ行くなら、私たちの分の食べ物も必要になる?」


 エリシアが聞く。


「もちろん」


 ノアが答える。


「水も。途中で怪我すること考えたら治療布も必要だし、暗いなら灯りもいる」


「じゃあ、行くって決めるだけじゃ駄目なんだ」


「そうだね」


 エリシアは自分の布袋へ触れた。


 行きたい。


 その言葉の後ろには、誰かが準備するものがある。


 それを知らないまま「自分で決めた」と言っても、実際には他人へ費用を渡しているだけになるのかもしれない。


「私、自分の食べ物くらい持てるようになってから行きたい」


 エリシアが言った。


 レオンが少し驚く。


「昨日も荷物持ってただろ?」


「あれは水と少しだけ。遺跡まで行って帰ってくる分はもっと重いんでしょう?」


「まあな」


「だったら、それが持てるかも確認したい」


 ノアが笑った。


「治療所の人が聞いたら喜びそう」


「何で?」


「昨日まで歩けるかだけ聞いてたのに、今日は帰る分まで考えてるから」


 エリシアは少しだけ笑った。


 そのとき、外からバルガスの声が聞こえた。


「起きてるか?」


 三人が顔を上げる。


 バルガスが入ってくる。


 手には昨日の地図。


 さらに、細い金属片を収めた小箱を持っている。


「見つかった?」


 エリシアが尋ねる。


「ああ。五か所全部に同じものがあった」


 机へ地図を広げる。


「向きも取ってきた」


 五つの点。


 それぞれから一本の線が引かれている。


 エリシアは最初、意味を理解できなかった。


 線は平行ではない。


 村の中心へも向いていない。


 旧採掘場にも集まっていない。


 それぞれ別の方向を向いているように見える。


「ばらばら?」


 ノアが言う。


「そう見えるな」


 バルガスが答える。


 レオンは身を乗り出す。


「線を延ばしたら?」


「もうやった」


 バルガスが別の紙を重ねる。


 五本の線を長く延ばした図。


 そのうち三本が、一つの範囲で交わっている。


 残り二本は少しずれている。


 交点は村ではない。


 遺跡でもない。


「ここ、どこ?」


 エリシアが聞く。


「最初は分からなかった」


 バルガスは指を置く。


「だが昨日の《灰牙》が村へ入った経路と重ねると、この辺りを通ってる」


「じゃあ、《灰牙》の集合場所?」


 レオンが言う。


「それも考えた。ただ、それだと二本がずれる理由がない」


「置き方を間違えた?」


「可能性はある」


 エリシアは線を見る。


 五本。


 三本。


 二本。


 何かがおかしい。


「置いた時間は同じ?」


 全員がこちらを見る。


 バルガスが答える。


「分からない」


「最初に見つけた二つと、あとで見つけた三つは同じ日に置かれたとは限らないですよね?」


「ああ」


「だったら、同じものを指してるのに場所が動いたとか?」


 レオンが眉を寄せる。


「場所が動く?」


「人なら動くでしょう」


 部屋が静かになった。


 エリシア自身、口にしてから気づいた。


 固定された遺跡を探すなら、指す方向は時間が変わっても同じ一点へ集まるはずだ。


 しかし、探しているものが動くなら、印を置いた時間によって方向が変わる。


「《灰牙》は石を探してるんだぞ」


 レオンが言う。


「石を持ってる人を探してるなら?」


 ノアが続ける。


 バルガスの表情が変わった。


「待て」


 彼は地図を取り、昨日の時系列を確かめる。


 最初に見つかった袋。


 治療所裏の襲撃。


 北側の見張り。


 逃走経路。


 一つずつ重ねていく。


「こっちの二つは、たぶん村へ入る前に置かれてる」


 別の三つ。


「こっちは昨日の昼以降に置かれた可能性が高い」


「向きは?」


 エリシアが尋ねる。


 バルガスは線を延ばす。


 古い二本。


 交点。


 そこは――


「旧第七採掘場の近くだ」


 レオンの声が低くなる。


 新しい三本。


 交点。


 少しずれている。


 村の西寄り。


「昨日、俺たちがいた場所に近い」


 レオンが右手を見る。


 エリシアも同じものを見る。


 黒い痕。


 灰色の砂へ反応した。


 《灰牙》が探している特殊魂波。


「石じゃない」


 ノアが呟く。


 レオンが顔を上げる。


「何?」


「少なくとも、この印が追ってるものは、遺跡そのものじゃない」


 バルガスも地図を見たまま動かない。


 エリシアは胸の奥が冷たくなるのを感じた。


 最初の二つは遺跡近くを指していた。


 その後、レオンが村へ戻った。


 新しい三つは村の方角へずれている。


 もし印が何らかの魂波を探すために使われているなら、動いたのは遺跡ではない。


 動いた何か。


「レオンの右手?」


 エリシアが言った。


 レオンはすぐには答えなかった。


「でも、《灰牙》は石を探してるって――」


「本人たちがそう聞かされてるだけかもしれない」


 バルガスが低い声で言う。


「依頼人が何を探させてるのかと、現場の連中が何だと思ってるかが同じとは限らねえ」


 それは新しい可能性だった。


 これまで、《灰牙》は旧第七採掘場の古代ソウルストーンを探していると考えていた。


 特殊な魂波が遺跡から出た。


 だから彼らが来た。


 その説明は自然だった。


 しかし、痕跡の向きが時間によって変わっているなら、それだけでは足りない。


「捕まってる男に聞ける?」


 レオンが尋ねる。


「聞く」


 バルガスが即答した。


「こいつらが袋を置くとき、何を基準に向きを決めたのか。それが分かればかなり絞れる」


「私も聞いていい?」


 エリシアが尋ねる。


 バルガスは少し考えた。


「直接会わせるのは駄目だ。相手がお前をどう見てるか分からねえ」


「じゃあ、質問だけ渡します」


「何を聞きたい?」


 エリシアは地図を見る。


 《灰牙》が何を探しているか。


 それだけでは足りない。


 本人たちが、自分で何をしていたと理解していたのかを知りたい。


「砂袋と針を置いたとき、自分たちで向きを決めたのか、それとも道具が示した方向へ置いただけなのか聞いてください」


 バルガスが頷く。


「他には?」


「その方向が変わったことに気づいていたか」


「分かった」


 レオンも口を開く。


「あと、反応が強くなったときに何か合図を受けてたか。誰かから新しい命令が来てたなら、それも知りたい」


「それも聞く」


 ノアが記録帳へ書き込む。


 バルガスは地図を畳まず、そのまま机へ残した。


「これはお前らも見てろ。俺が戻るまで別の説明がないか考えてくれ」


「持っていかなくていいの?」


「写しはある」


「準備いいね」


「一回村中走り回ったからな。同じものは二枚作らせた」


 そう言って治療所を出ていく。


 ◇


 返事が来たのは、朝食を終えて一刻ほど経った頃だった。


 バルガスだけではない。


 村長ハベルとダルも一緒だった。


 三人の顔を見た時点で、エリシアは何か分かったのだと感じた。


「話した?」


 レオンが尋ねる。


 バルガスが頷く。


「かなりな」


「何て?」


「まず、砂と針の置き方だ」


 バルガスは机の地図を指した。


「《灰牙》の連中は、向きを自分で決めてない」


「じゃあ?」


「砂を袋から少し出して針へ付ける。そのあと、針が僅かに引かれる方向へ黒い側を向けて地面へ刺す。そう教えられてた」


 エリシアは金属片を見る。


「針が動く?」


「本人の話じゃ、本当に動くってほどじゃないらしい。手で持ってると少し抵抗を感じる程度だそうだ」


「何を探してるかは?」


 レオンが聞く。


「《目的の魂波》だとしか聞いてない」


「石じゃない?」


「現場の連中は石だと思ってた。依頼を受けた上の奴から、『珍しい魂波を出す古代石がある』と説明されたらしい」


「でも道具の方は?」


「石か人かなんて区別してねえ可能性がある」


 部屋の空気が重くなる。


 エリシアは聞いた。


「向きが変わったことは?」


「気づいてた」


「どう思ってた?」


「最初は、地下にある石の反応が通路を伝って別の場所から出てるんだと思ったそうだ」


 レオンが右手を見た。


「俺たちと同じように、遺跡が原因だって考えてた?」


「ああ」


「新しい命令は?」


 バルガスはそこで村長を見る。


 ハベルが代わりに答えた。


「昨日の朝、彼らへ追加の指示が届いている」


「誰から?」


「依頼を受けた灰牙の上役からだそうだ。依頼主そのものではない」


「内容は?」


 ハベルは一度息を置いた。


「《反応源が移動している可能性あり。石だけに限定せず、反応する人間または携行物も確保せよ》」


 レオンの表情が固まった。


 エリシアもすぐには言葉が出なかった。


 だから、治療所裏へ来た男はレオンの右手を見た。


 だから、自分まで連れていこうとした。


 最初から二人を名指しで探していたのではない。


 現場で「反応源になり得る人間」と判断した。


「私を連れていこうとしたのは、遺跡から出てきたから?」


「捕らえた男はそう言ってる」


 ハベルが答える。


「君自身が反応源だと確認したわけではない。ただ、古代施設から現れた以上、何か知っているかもしれないと考えた」


「レオンは?」


「右手の痕を見た仲間から報告を受け、候補だと考えたらしい」


 レオンが地図を見る。


「じゃあ、あの砂袋は俺を追ってた可能性がある」


 バルガスがすぐに言う。


「可能性は高い。ただし確定はまだしない」


「分かってる」


 返事は早かった。


「俺が村へ戻った時間と、新しい印が置かれた時間を比べればもっと分かる」


 ノアが記録帳を開く。


「それ、調べられる?」


「ある程度は」


 村長ハベルが答える。


「見張りの交代記録と、印が見つかった場所を通った村人の証言がある。正確な時刻までは無理でも、午前か午後かは絞れる」


「だったらやろう」


 レオンが言う。


「今ここで?」


「俺、歩けないんだから記録を見るくらいしかできないだろ」


 バルガスが少し笑う。


「自分で言えるようになったなら大したもんだ」


「それ、何回目だよ」


 エリシアは二人のやり取りを聞きながら、別のことを考えていた。


 《灰牙》の命令。


 最初は石を探す。


 途中から人間や携行物まで対象へ広げる。


 現場の男たちは、なぜその指示が変わったのか知らない。


 依頼人が何を見ているのかも分からない。


 彼らは命令を受け、砂と針を置き、その結果だけを追っている。


「その人たち、命令が変だって思わなかったの?」


 エリシアが尋ねた。


 ダルが答える。


「盗賊に毎回仕事の理由を説明する依頼人なんて少ないだろうな」


「でも、石を探せって言われてたのに、人も捕まえろに変わったんでしょう?」


「ああ」


「どうして聞かなかったの?」


「金をもらう仕事だから、じゃないか」


 簡単な答えだった。


 しかしエリシアには重く聞こえた。


 命令された。


 だからやる。


 意味が分からなくても。


 相手が嫌だと言っても。


 自分で確かめなくても。


「嫌だな」


 思わず口から出た。


「何が?」


 レオンが尋ねる。


「命令されたからって、何をしてるか考えなくなること」


 言ったあとで、自分が序章の記憶の中にある何かへ触れかけた気がした。


 父。


 母。


 研究区。


 何かを巡る争い。


 命令。


 けれど、無理に追えばまた頭が痛くなる。


 エリシアはそこで止めた。


「エリシア?」


「大丈夫。今は思い出そうとしない」


 自分から言えた。


 治療担当の女性が近くにいれば褒められたかもしれない。


 レオンは少し安心したように息を吐いた。


 村長ハベルが言う。


「命令が必要な場面はあるよ」


 エリシアが見る。


「昨日も話したね。村を守るために人を動かすとき、全員の判断が揃うまで待てないこともある」


「でも、《灰牙》の人たちと同じじゃない?」


「同じ部分もある」


 ハベルは否定しなかった。


「違いを作るなら、命令する側が何のためか説明できることと、受ける側が疑問を言えること、それから間違っていれば変えられることだと私は思う」


「《灰牙》は?」


「少なくとも捕らえた男は、指示の理由を聞くつもりがなかった。上役も、依頼人の目的を十分に知らないらしい」


 レオンが低く言う。


「命令の外側が見えてないってことか」


 エリシアはその言葉を聞いた。


 命令された範囲だけを見ている。


 その外側で、誰が何を求め、誰が危険になるのかを考えない。


 自分が連れていかれそうになったとき、男は「お前に聞いていない」と言った。


 彼にとって自分の意思は、命令の外側にある不要なものだったのかもしれない。


「私は、そういうふうになりたくない」


 エリシアが言った。


「何が?」


 ノアが尋ねる。


「誰かに正しいって言われても、その外にいる人のことまで見えなくなるのは嫌」


 レオンはしばらく黙っていた。


「俺も気をつける」


「何でレオン?」


「俺、自分が守るって決めたら、相手がどうしたいか忘れそうだから」


 エリシアは少し驚いた。


「今は聞いてくれてるよ」


「今はな」


「じゃあ、忘れたら言う」


「頼む」


「怒るかもしれないよ」


「それでも言って」


 エリシアは頷いた。


 ◇


 午後まで掛けて、村の記録と五つの印が置かれた推定時刻を照らし合わせた。


 完全な時間は分からない。


 それでも、古い二つがレオンの遺跡発見から村へ戻るまでの間に置かれ、新しい三つが彼の帰還後に設置された可能性が高いことまでは確認できた。


 さらに、新しい三本の針が示す方向を時系列順に並べると、反応源らしき位置が旧採掘場から村へ向かって移動しているように見える。


「かなりレオンっぽい」


 ノアが言った。


「っぽいって何だよ」


「移動した時間が合うから」


「でも俺じゃないかもしれない」


 レオンは地図を見る。


「エリシアも同じ日に遺跡から村へ来てる」


「私はレオンたちより後?」


 エリシアが尋ねる。


「同じ救助隊で戻ってるから、ほとんど一緒だ」


「じゃあ二人を分けられない」


 ノアが言う。


「それに、レオンが持ってきた何かって可能性もある」


「俺、遺跡から勝手に何も持ってきてないぞ」


「服とか靴に砂や破片が付いた可能性」


「それはある」


 また一つ、答えが広がる。


 それでも以前とは違う。


 仮説が増えても、混乱しているとは思わない。


 何が分かっていないかを並べられる。


「次に必要なのは?」


 エリシアが尋ねる。


 レオンが考える。


「俺とエリシアを離した状態で、この砂と針がどっちへ反応するか見ること?」


 バルガスが首を横へ振った。


「その実験は今やらねえ」


「何で?」


「お前の右腕が荒れてる。砂へ近づけただけでまた反応するかもしれん。それに、エリシアへ何が起きるか分からない」


 レオンはすぐに頷いた。


「じゃあ治ってから」


「それでも本人の同意と、できればもっと詳しい道具を持ってる人間が必要だ」


「グランゼ?」


「少なくとも村の測定具よりはましなのがあるだろう」


 エリシアが聞く。


「私も調べてもらう?」


 バルガスは答える前に確認した。


「嫌か?」


「怖い。でも、自分が反応源かもしれないなら知りたい」


「なら、それを報告に書く。ただし、何をする検査か説明を受けてから決めろ」


「はい」


 村長ハベルが報告書へ追加する。


 紙の上で、自分たちの状況が少しずつ村の外へ渡される形になっていく。


「使いはいつ出るんですか?」


 エリシアが尋ねる。


「日が傾く前だ」


「何日で返事?」


「グランゼまで馬なら一日半ほどだが、向こうが返事を出す時間もある。早くても三日くらいは見た方がいい」


 三日。


 未来へ何千年も飛んだかもしれない自分にとっては短いはずなのに、今は長く感じる。


 《灰牙》は待ってくれないかもしれない。


「その間、村にいる?」


「今のところは」


「《灰牙》がまた来たら?」


「村の守りを優先する。遺跡へは無理に近づかない」


「私たちを別の場所へ移すことは?」


 ハベルは少し考えた。


「状況によってはある」


 エリシアは頷いた。


 嫌だとは思う。


 それでも、今度は理由を聞く。


「そのときは先に教えてください」


「約束する」


 ◇


 夕方。


 グランゼへ向かう使者が村を出た。


 二頭の馬。


 報告文書。


 灰色の砂の試料。


 針の一本。


 ただし、村にも同じ砂と別の針を残している。


 何かあったとき比較できるようにするためだった。


 エリシアは治療所の窓から出発を見送った。


 隣にはレオンがいる。


 まだ外へ長く出られないため、二人とも窓越しだった。


「行っちゃったね」


「何が?」


「私たちのことが書いてある紙」


「今さら怖くなった?」


「少し」


「俺も」


「レオンのことも?」


「ああ。右手の話まで王国側へ行くんだから、何も思わないわけじゃない」


「調べられるの嫌?」


「知りたい。でも、知らない奴に勝手に決められるのは嫌」


「同じだね」


「そこは似てるな」


 二人は少し笑った。


 馬の音が遠ざかっていく。


 それと入れ替わるように、村の北側から見張りの男が戻ってきた。


 急いでいる様子ではない。


 しかし、その手には何かがある。


 男はそのまま集会所へ向かった。


 しばらくして、村長ハベルが治療所へ来る。


「もう一つ見つかった」


「砂袋?」


 レオンが聞く。


「違う」


 ハベルは紙を机へ置いた。


「旧採掘場から村へ続く途中で、灰牙が残したものと思われる小さな記録板が見つかった」


「読める?」


「一部だけ」


「何て?」


 ハベルの表情が重い。


「これは彼ら自身の記録らしい。印を置いた位置と、針の反応の強さが数字で残されている」


 エリシアは地図を見る。


「だったら、もっと分かる?」


「分かったことはある」


 村長は記録板の写しを開いた。


「旧採掘場近くで最初に測った反応より、村へ近づいたあとの反応の方が強い」


 レオンが黙る。


「俺が村に来たから?」


「それだけなら説明できる」


 ハベルが言った。


「だが、問題はその後だ」


「何?」


「昨日、君が《灰牙》と戦ったあとに置かれた最後の印だけ、反応値がそれまでの倍近くまで上がっている」


 レオンが右腕を見る。


 昨日。


 初めて赤い力を使った。


 二度。


 壁を壊し、木箱を壊した。


「俺が力を使ったから?」


「時間は近い」


「じゃあ……」


 レオンが言いかけた。


 エリシアは別のことへ気づいた。


「待って」


 二人が見る。


「最後の印が置かれたのは、戦ったあとなんですよね?」


 ハベルが頷く。


「そう見られている」


「だったら、《灰牙》は逃げたあとも針を使ってた」


「そうなる」


「でも、そのときレオンはもう治療所にいた」


「そうだ」


「最後の印はどっちを向いてた?」


 ハベルが地図を見る。


 指す。


 村の中央。


 治療所に近い。


 それだけならレオンと合う。


 しかし、エリシアはもう一つ思い出した。


 昨日。


 レオンが力を使ったあと。


 自分も治療所にいた。


 二人は同じ場所に近かった。


 また分けられない。


「やっぱり、どっちか分からない」


 エリシアが言う。


「そうだな」


 レオンも答える。


 村長は記録板を閉じなかった。


「まだ続きがある」


「何?」


「最後の印の横に、現場の者が書いたらしい短い記号がある」


「何て?」


 ハベルは少し迷った。


「王国語の略記に近い。《二重反応》と読める」


 エリシアは言葉を理解するまで数秒掛かった。


「二重?」


「反応源が二つあると判断した可能性がある」


 レオンが顔を上げる。


「俺とエリシア?」


「そう考えることもできる」


 バルガスなら、すぐ確定するなと言うだろう。


 エリシアにも分かる。


 しかし、この一行がそれまでの考えを大きく変えた。


 一つの反応源が遺跡から村へ移動した。


 そう考えていた。


 レオンかもしれない。


 エリシアかもしれない。


 何かの携行物かもしれない。


 ところが《灰牙》自身の記録に「二重反応」と残っているなら、最初から一つだけを探していたという前提が崩れる。


「二つって、いつから?」


 エリシアが聞く。


「そこまでは分からない。記号があるのは最後だけだ」


「だったら、最初は一つで、途中から二つになった可能性もある?」


「ある」


「最初から二つあったけど、近すぎて分けられなかった可能性は?」


「それもある」


 レオンは地図と右手を交互に見る。


「俺の右手と、エリシア?」


「分からない」


 エリシアは答えた。


「でも、どっちか一人だけが原因だって考えるのは、もう違うかもしれない」


 その言葉を口にした瞬間、自分の中にも変化が起きた。


 これまで、異常の原因が自分ではないかと何度も考えた。


 レオンも、自分の右手がすべてを起こしているのではないかと考え始めていた。


 けれど、二つの反応があるなら、そのどちらか一人へ全部を押しつける考え方自体が間違っている可能性がある。


 何が反応しているのか。


 なぜ二つなのか。


 関係しているのか。


 別々なのか。


 答えはまだない。


 それでも、従来の仮説だけはもう使えなかった。


 レオンが低い声で言う。


「じゃあ、俺の右手だけを調べても足りない」


 エリシアは頷いた。


「私だけ調べても足りない」


 二人の間に置かれた地図には、《旧第七採掘場》と《エルダ村》、五つの印、そして最後に記された《二重反応》の文字が残っている。


 使者はすでにグランゼへ向かっている。


 その報告書にはまだ、この情報が入っていない。


 村長ハベルが窓の外を見る。


「追い使いを出す。最初の使者へ追いつかせる」


「この記録も送る?」


 レオンが尋ねる。


「写しを送る。本物は村へ残す」


 エリシアは地図を見たまま、静かに言った。


 **《灰牙》が追っていた反応は一つではなく、レオンだけを原因とするそれまでの仮説は、この時点で初めて崩れた。**


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