第三章 優しいだけじゃ、ダメですか
ライブ前日のレッスン場は、いつもより少しだけ慌ただしかった。
最終確認。
立ち位置。
歌割り。
衣装の動き。
本番を想定して、細かいところまで何度も合わせる。
「そこ、もう一回いこう」
振付の先生の声で、全員が位置に戻った。
日和莉も小走りで自分の場所へ向かう。
その途中。
少し離れたところで、一人のメンバーが俯いているのが見えた。
さっきから、何度か同じところでミスをしている。
大きな失敗ではない。
でも本人にとっては、そうではないらしい。
音楽が始まる。
日和莉は前を向いた。
踊る。
一曲。
もう一曲。
休憩の声がかかる。
みんながそれぞれ水を取りに行く中、その子だけが鏡の前に残っていた。
日和莉はペットボトルを持ったまま、そちらを見る。
いつもなら。
たぶん。
近くへ行っていた。
何か言うわけでもなく。
ただ隣に座ったり。
「お腹すいたね」
とか。
「今日、靴下左右違った」
とか。
そんなことを言って。
気づけば相手が笑っていた。
でも。
今日は足が止まった。
――それって、何か意味あるのかな。
この前から。
ずっと頭の中に残っている。
自分の武器。
歌。
ダンス。
表現。
誰かに教えられるもの。
誰かを引っ張れるもの。
自分には、何があるんだろう。
隣に座るだけ。
話を聞くだけ。
変なことを言って、たまたま笑ってもらうだけ。
そんなの。
誰にでもできる。
「ひーちゃん?」
声をかけられた。
振り返る。
真姫だった。
「何見てるの?」
「……ううん、別に」
日和莉は水を一口飲む。
もう一度そちらを見る。
さっきのメンバーは、一人で振付を確認していた。
真姫も視線を追う。
「行かないの?」
「どこに?」
「そっち」
日和莉は少し黙った。
「……今日はいいかな」
「そう」
真姫はそれ以上言わなかった。
◇
レッスンが再開した。
さっきの子は、また同じ場所でタイミングを外した。
「あ、ごめん」
音楽が止まる。
「大丈夫。もう一回確認しよう」
振付の先生が言う。
「はい」
返事はする。
でも。
声が小さい。
日和莉は鏡越しにその姿を見た。
胸の奥が少しだけざわつく。
――声かけた方がいいかな。
でも。
何て?
大丈夫だよ。
次できるよ。
気にしないで。
それくらいしか浮かばない。
誰でも言える。
それに。
ちゃんとしたことを言える人が他にいる。
楓花なら。
真姫ちゃんなら。
もっと、その子が安心できる言葉を知っているかもしれない。
だから。
日和莉は何も言わなかった。
◇
その日の帰り。
レッスン場を出る準備をしていると。
「日和莉」
名前を呼ばれた。
顔を上げる。
さっきの子だった。
「ん?」
少し迷っている。
何か言いたそうで。
でも、言葉が出ない。
日和莉は待った。
「……今日さ」
「うん」
「なんか変じゃない?」
「私?」
「日和莉が」
「そうかな」
「うん」
日和莉は首を傾げる。
「どこが?」
相手は少し困ったように笑った。
「今日、何も言わないんだね」
日和莉の表情が止まった。
「何も?」
「うん」
「何か言った方がよかった?」
「そういう意味じゃないけど」
少し沈黙。
相手が続ける。
「いつもだったら、なんか言うじゃん」
「私、そんなに喋ってる?」
「そういうことじゃなくて」
日和莉には、よく分からなかった。
だから。
そのまま聞いた。
「じゃあ、どういうこと?」
相手はしばらく考えた。
「……分かんない」
「そっか」
「でも、今日は来ないんだなって思った」
「どこに?」
「隣」
その一言で。
日和莉は動けなくなった。
隣。
それだけ。
「なんで?」
思わず聞いた。
「なんでって?」
「私が隣に行くの、待ってたの?」
相手は少し恥ずかしそうに目を逸らした。
「別に、待ってたっていうか」
「うん」
「……いたら、ちょっと楽かなって」
日和莉は何も言えなかった。
◇
「私、何もできないよ」
気づけば。
そんな言葉が出ていた。
相手が顔を上げる。
「え?」
「今日、ずっと考えてたの」
「何を?」
「私が行っても、何もできないなって」
日和莉は自分の指先を見る。
「歌を教えられるわけじゃないし」
一つ。
「ダンス直せるわけでもないし」
もう一つ。
「大丈夫って言っても、本当に大丈夫か分かんないし」
声が少し小さくなる。
「だから」
「だから来なかったの?」
「……うん」
相手は黙った。
日和莉も黙る。
「ねえ」
やがて相手が言った。
「日和莉ってさ」
「うん」
「私が日和莉のところに来る時、何かしてほしくて来てると思ってる?」
日和莉は目を瞬いた。
「違うの?」
「違うよ」
「じゃあ、なんで?」
「分かんない」
「また分かんない」
「でも」
相手は少し笑った。
「今日、日和莉が来なかったから、分かった」
日和莉はじっと見る。
「何が?」
「私、日和莉が何言うか待ってたんじゃないんだと思う」
「……じゃあ何?」
「そこに来てほしかっただけ」
日和莉は返事ができなかった。
その時。
廊下の向こうからスタッフに呼ばれる声がした。
「ごめん、行かなきゃ」
「うん」
相手は数歩進んで。
振り返る。
「明日は来てよ」
「どこに?」
「だから、隣」
そう言って。
今度は少しだけ笑って行ってしまった。
日和莉は一人。
その場に残った。
◇
「まだ帰らないの?」
また声。
今度は真姫だった。
「真姫ちゃん」
「うん」
真姫は日和莉の隣に立つ。
「何かあった?」
日和莉はしばらく黙っていた。
そして。
「真姫ちゃん」
「ん?」
「私って、優しい?」
真姫が少しだけ目を丸くする。
「急だね」
「みんな、そう言ってくれるから」
「うん」
「天使とか、良心とかも」
「うん」
「でも私、自分ではよく分かんないの」
真姫は黙って聞いている。
「優しくしようって思ってるわけじゃないし」
「うん」
「困ってる人がいたら気になるし、一人だったら隣に行くし」
「うん」
「私には、それがそんなに特別なことに思えなくて」
日和莉は少し俯く。
「なのに、みんなはそこを褒めてくれる」
「うん」
「だから余計に分かんなくなった」
「何が?」
「それが私の武器なのかなって」
真姫はすぐには答えなかった。
日和莉が続ける。
「莉歌しゃんみたいに歌えるわけじゃない」
「うん」
「莉緒みたいに踊れるわけでもない」
「うん」
「恋みたいに真ん中に立ったら目がいくわけでもない」
「うん」
「私、何ができるんだろうって」
少しだけ笑う。
でも、その笑顔はいつもより頼りなかった。
「みんな、私のこと優しいって言ってくれるけど」
そこで言葉が止まる。
真姫は待った。
日和莉は、自分の中にある言葉を探すようにゆっくり続けた。
「私には、それがそんなに特別なことに思えなくて」
「うん」
「もし、それしかないなら」
少し迷って。
「……優しいだけじゃ、ダメなのかなって」
静かになった。
真姫は日和莉を見る。
「ひーちゃん」
「ん?」
「“だけ”って、誰が決めたの?」
日和莉が顔を上げた。
「え?」
「優しい“だけ”って」
「……私?」
「たぶん」
真姫はそれ以上、すぐには続けなかった。
日和莉が考える時間を待つように。
「でも」
日和莉が言う。
「優しいって、誰でもできるよ」
「できると思う」
「じゃあ」
「でも」
真姫が遮る。
「誰でも、ひーちゃんにはなれないよ」
日和莉は黙った。
「それって、どういう意味?」
「分かんない」
「え」
「私も全部は分かんない」
真姫は少し笑った。
「でも、私はひーちゃんと話すと安心する」
「なんで?」
「それも分かんない」
「真姫ちゃん今日、分かんないばっかり」
「ひーちゃんもいつもそうじゃん」
「あ」
少しだけ。
日和莉が笑った。
真姫も笑う。
そして。
少し間を置いて。
「ひーちゃんがいなくなったら、私は困るよ」
真姫が言った。
日和莉の笑顔が止まる。
「……なんで?」
「だから、分かんないって」
「そこ大事なのに」
「でも、困る」
それだけ。
真姫は答えを教えてくれなかった。
“優しさは武器だよ”とも。
“そのままでいいよ”とも。
ただ。
困ると言った。
日和莉がいなくなったら。
困る。
◇
帰り道。
二人で駅へ向かう。
夕方の風が少し冷たい。
日和莉は、いつもより静かだった。
「真姫ちゃん」
「なに?」
「私がいなくなったら、本当に困る?」
「困るよ」
「どれくらい?」
真姫が考える。
「……プリン一個足りない時くらい?」
日和莉が真姫を見る。
「それ、私が譲る方じゃん」
「あ、そっか」
「真姫ちゃんも天然?」
「違う」
「今ちょっと怪しかったよ」
二人で笑う。
少し歩く。
日和莉は空を見る。
今日は雲がほとんどない。
「今日、空広いね」
「うん」
「昨日は月薄かったのに」
「そうだね」
「でも今日はちゃんと見える」
真姫が日和莉を見る。
「月?」
「うん」
「……ひーちゃん」
「なに?」
「今の、どういう意味?」
日和莉は少し考えた。
「分かんない」
真姫が笑った。
「やっぱり」
「でも、なんかそう思った」
日和莉は空を見たまま歩く。
自分の武器は。
まだ分からない。
優しいと言われる理由も。
それが何になるのかも。
誰でもできることと。
自分にしかできないことの違いも。
まだ。
分からない。
でも。
今日、一つだけ。
昨日までとは違うことがあった。
自分が何かをしてあげられなくても。
ただ、そばにいてほしいと思ってくれる人がいる。
そのことだけが。
日和莉の胸の中に。
小さく。
あたたかく残っていた。
ーー続く




