第9話「舟」
蛙が鳴いている。扇風機が首を振る。四畳半に、ぼくを見ている人はいなかった。
続きの最後の行の下に親指を置いて、一文字を出した。消した。もう一文字を出して、消した。次の一文字は、出す前に消していた。
打てない。あの土間では、この指は動いたのに。綴が布を取ってこっちを見た、それだけで動いた指が、ここでは石だった。
じゃあ、あの一行はなんだったんだ。ぼくが書いたんじゃなくて、見られたから出たのか。ぼくは、見られないと書けない人なのか。
母さんのメッセージは、「どこにいるの」の下に「ごはん、あるよ」が並んでいた。返事を打っていなかった。ぼくはもう帰っているのに。
朝になって、感想の欄を開いた。ぼくの質問の下は白いままで、メッセージも来ていなかった。
ぼくは上の人たちの前で、この人には読ませない、と言った。あの言葉が、こっちにまで届いているんじゃないか。いや、何も出していないんだから、感想が来るわけがない。質問の返事は、来なかっただけだ。
分かっている。分かっていて、画面を閉じる指が遅かった。
台所で、母さんが握り飯を握っていた。
「花火の日、この家を見に来る人がいるの。その日は荷物ぜんぶ、外に出すよ」
「うん」
返事をしてから、ぼくは外の田んぼのほうを見た。母さんの手は止まらなかった。
「ひとつ、持っていきなさい。昼、わたし、いないから」
「食べてから、夕方に出る」
昼に食べた握り飯の塩が強かった。土間の握り飯と、同じ強さだった。最後の一口を、ぼくはしばらく口の中に置いていた。昼のあいだ、続きは開かなかった。
日が落ちる前に、アーケードへ行った。汀書房のカーテンのすきまの奥が、夕方の色をしている。外より、奥のほうが明るかった。
戸は開かないと思って、手をかけた。戸が動いた。え。開くんだ、今日。手のひらが湿っているのに、ぼくはあとから気づいた。
本棚のあいだの通路に、猫がうしろ足で立っていた。
「開けたぞ、坊主。なんでかは訊くな。開けるのはおれで、閉めるのもおれだ。誰の用でもねえ、おれの用だ」
「訊きません。……明日も、開けますか」
猫は、前足を腰に当てた。
「それも訊くな、坊主。おれが猫だってこと、忘れんな」
尻尾が一度振られた。
坂の上に、綴が立っていた。綴はぼくを見た。ふつうに見た。目を伏せなかった。
「今朝、分かりました。来ましたね」
「家で、打てませんでした。一行も。もし打てたら、それも、ここに出るんですか」
「ここで打ったものだけです」
綴がぼくのサンダルを見た。ぼくは脱いで、渡した。袖から出た指がサンダルを受けた。指は薄い。うしろの屋根の色が、まだ透けている。訊きかけたぼくの口が、閉じた。
坂を裸足で下りはじめた。まひろ、走らんの。祖母の声がいちど来て、消えた。
下りかけた坂の途中、あの土間の戸口に、坊主頭が立っていた。屋根の綱が、まだ揺れている。坊主頭はぼくを見て、声を低くした。
「向こう岸の子。舟の着くところを、出せ。あんたが割った」
この人が、ぼくに。橋のとき、自分の口を手でふさいだ人が。
「書け、ってことですか。ぼくが、ここで」
坊主頭は、霧のほうを見て言った。
「渡し場が、ねえ。舟は、来る。割った奴が、出す」
土間の奥から、匙が先に出てきた。お甲さんだった。匙の先がぼくの胸を指した。
「上が切らなかった。あんたを、だ。町は、それを見た」
それから、匙が空の灯りの並びへ上がった。
「納めたもんは、あそこで光る。あんたのも、もう、光っている」
ぼくは灯りの並びを見上げた。どれだ。どれがぼくの灯りだ。ほかの灯りと同じにしか見えなかった。町は見た、とお甲さんに言われて、首の後ろが熱くなった。
打つのか。打って、その中に入れば、一行は消える。綴さんの指が、また薄くなるかもしれない。上は、書く子の手を切ると言った。
ぼくは上に、もう書きません、と言って、それを読ませませんに変えた。どっちもぼくの口だ。
その口で、舟の着くところを頼まれた。頼まれたから書くのか。いや。ぼくが書きたいんだ。壊した岸の隣に、舟が着くところを、ぼくの手で。
こわい。手がこわい。こわいのに、足が霧のほうへ向いていた。
坂の下で、綴が先に霧に入った。ぼくは追った。入り江だった。渡し場は踏み抜かれたままで、脚のまわりには割れた板がまだ浮いている。ぼくの橋は水の上にまっすぐあって、その先は霧だった。
綴が、渡し場の脇に立った。
「先に、立ちます。今日は、見ません」
綴は、ぼくの画面から顔をそらした。
この人は読まないで立つのか。「読ませない」と言ったのはぼくだ。この人はぼくの言葉を、そのままやっている。
ぼくは打った。
〝入り江の岸に、舟が着いた。〟
指が動いた。綴に見られていないのに。峠の一行のときも、この人は目を閉じていた、はずだ。見られたから動くんじゃなくて、隣にいるから動く、なのか。家には、隣に誰もいなかった。
霧が、横に割れた。割れ目の底から板が水の上へ出た。新しい板で、割れていない。綴が背を向けたまま、その板に足を置いた。板は鳴らなかった。
「出ましたね」
見ていない人が、そう言った。
霧の奥で、水を割る音がした。
舟が出てきた。霧から、こっちへ。荷が積まれている。誰も乗っていない。漕ぐ手もない。動かない水の上を、舟はそれでもこっちへ来る。
うわ。出た。来た。ぼくのだ。舟だ。誰も漕いでないのに、来る来る来る。
「綴さん、あれ、誰も乗ってないですよ。漕いでない。なのに、来る。ぼくが、書いたから」
ぼくの声が屋根に返った。手で口を押さえた。橋のとき、坊主頭がしたのと同じ手だった。
板の岸に、舟のへりが、こつ、と当たった。
坊主頭があとから来て、板の岸に立った。舟から荷を下ろす。布に包んだ、重そうな荷だった。坊主頭はぼくを見なかった。
屋根から人がひとり降りてきて、抱えていた荷を舟に載せた。あのとき下ろせなかった荷だ、とぼくは思った。載せる場所が、いまはある。
屋根の上で、いちばん近い顔がこっちを見ていた。その口が開きかけて、閉じた。
ぼくの手が、綴のほうへ伸びて、止まった。綴はまだ背を向けたままだ。ぼくにも、画面にも。ぼくは手を下ろした。
板の岸に、足を置いた。板は冷たかった。入った、と足の裏で分かった。画面を見る。一行が、ない。
「綴さん。いま、ぼく、なんて打ちましたか」
「見ていません」
背中のまま、綴は言った。
じゃあ、誰も見ていない。ぼくの頭にもない。舟はそこに着いているのに、なんて打ったのかは、誰の頭にもないんだ。
坊主頭が荷を抱えて坂を上っていった。礼はなかった。舟が着いたのはぼくの岸なんだけど、とぼくは思いかけて、やめた。
坂を上って、土間の戸口まで戻った。お甲さんが立っていた。匙は、腰にある。
「置くのは今夜だけ、と言った。置かん」
「……はい」
その一言を言うまでに、ひと呼吸かかった。
空が暗くなっていた。綴が先に坂を上り、ぼくはついていった。本棚のあいだの通路で、戸に手を当てた。戸は動かない。
「明るいうちだけ」と綴は言った。「下りたら次の日の戸は開けねえ」と猫は言った。ぼくは今日、下りた。明日も、開かない。
通路の床に座った。本の匂いがする。綴が袖から布を出して目に当てて、横になった。
「綴さん」
返事はなかった。寝息が、暗がりで小さく続いていた。
「舟、着いたんですよ。ぼくの岸に。……寝るところは、ないんですけど」
寝息は、変わらなかった。




