第10話「底」
目が覚めたとき、通路に綴がいなかった。
布も、袖も、寝息も、ぼくの隣にはなかった。綴が寝ていた床に手を当てた。床は冷たい。だいぶ前に起きたんだ。
え、置いていかれた? 起こしてよ。いや起こさないか、この人は。
戸に手をかけた。戸は動かなかった。次の日の戸だ。ぼくは家に帰れないまま、この町の朝にいる。
通路の先、坂のほうから、屋根の人たちの手の音が上がってきていた。そっちから、絣が来た。袖をまくって、通路の端に立って、ぼくを見ている。
「で? 見る? 底。あんたのが、増えてる、って綴が言ってた」
「増えてる、って。なにが」
「知らね。おれは中身は見えねえの。灯りも一つ増えたはずだって、綴が。あの言い方だよ。見えねえのに言うやつ」
灯りが一つ増えた。舟の岸の分だ。耳が熱くなった。見たい。どれがぼくのか。
「綴さんは、どこですか」
「底。先に行ってる。で? 来るの、来ねえの。おれは仕事があるんだよ。あんたを連れて下りるのが、今朝の仕事」
絣はもう歩き出していた。ぼくはサンダルを探して、綴が持っていることを思い出して、裸足で追った。
坂を下りた。灯りの並びを見上げても、どれが増えたのかは分からない。それより、底で増えているのはなんだ。足が速くなった。
坂の下に霧があった。絣はその前で止まらなかった。ぼくは霧の前で一度止まった。霧に先に入るのは、いつも綴だった。いま前にいるのは、絣の背中だけだ。
見たい。増えてるって、なに。ぼくの、なにが。……こわい。入ったら、また、なにかが減る。
足を出した。減るほうより、見るほうを取った。霧は、ぼくを止めなかった。
入り江だった。橋が水の上にあって、その脇に昨日の板の岸があって、舟はもういなかった。
踏み抜かれた渡し場の脇、水際の陸に、絣は下りていった。ぼくもついていった。
そこに、人が溜まっていた。
水際に沿って、列のように、立っている人と座っている人がいた。みんな薄い。綴の指より、もっとだ。うしろの霧の白が、体を通して見えた。列の奥は、霧よりも暗かった。
いちばん手前の影が、顔を上げないまま、口を開いた。
「上げたら、言ってしまうから」
は? え、それ。それ、ぼくの。
足が、止まった。出す前に消した、うしろの半分だ。綴さんが読んでいたのは知っている。でも、この人は誰だ。ぼくの言葉を、ぼくの知らない声が言った。
「底、って呼んでる。おれらは」
絣が、声を落として言った。この人の声がこんなに小さいのを、ぼくははじめて聞いた。
ぼくは一歩、影のほうへ寄った。影は、書いたとおりに顔を上げなかった。消した夜の親指の感触が、指に戻ってきた。
隣の影が、続けた。
「峠の手前で、荷運び係は、荷を下ろして、座った」
それも、ぼくの行だ。前の版で書いて、次の版で消した。座らせたら、峠を越えないと思ったから。ぼくは全部覚えている。どの版で足して、どの版で引いたか。引いたあとに空いた場所の形まで。
うわ。立ってる。しゃべってる。ぼくが消したのが、ここで、しゃべってる。
「なに、これ。絣さん、これ、ぼくの」
「知らね。おれは読めねえの。あんたが増えてるって聞いただけ」
影の列のいちばん向こうに、影だと思っていたひとつが、こっちに背中を向けて座っていた。袖が、影より濃かった。綴だった。
「綴さん」
綴はふり向かなかった。
「読みました、と言いました。ここでは、聞いていました」
あの坂の上の日の、綴の言葉だ。「読みました。消す前のも、ここで」と言われて、「ここで、って、どこ」とぼくは訊いた。この人は町の名前を答えて、どこで読んだかは答えなかった。答えが、ここだった。
ぜんぶ? 消したの、ぜんぶ? 峠で座らせたのも? うそでしょ。……顔が、熱い。
「書いたものは、現れます。消したものは、来ます」
現れる。来る。違うんだ。昨日の板は、現れた。この人たちは、来た。「ここで打ったものだけ」と言ったのは、現れるほうの話だったのか。
「消したものって、ぼくが消したものが、ぜんぶ、ここに」
綴は答えなかった。列の奥、荷を背負った影が口を開いた。顔は薄くて見えない。それでも、荷の背負い方で分かった。ぼくが書いた肩だ。
「荷は、あとで数える。いまは、歩く」
消した版の峠の手前で言わせた台詞だ。出した版の荷運び係は、そんなことを言わない。
口の端が、勝手に上がった。上がったまま、みぞおちが冷えた。笑ってる。ぼく、いま笑ってる。気持ちわるっ。捨てたのに。
「あなたが消した人たちです」
背中のまま、綴は言った。行じゃない。人だ。
「ほかのも。ほかのも、言って。まだあるでしょ、ぼくの」
ぼくは列の奥へ身を乗り出していた。もっと聞きたい。どの版のどこか、全部当ててやる。
そのとき、列の奥の暗いところから、人が歩いてきた。
薄くない。ぼくたちと同じ濃さの人だった。腰に、鋏を下げている。その人は影の列を見もしないで、列の途中の、ぼくがまだ聞いていない影の前に立って、鋏を抜いた。
「ちょっと、待って。それ、なに。なにするんですか」
ぼくの声に、その人はふり向かなかった。止めたい。こわい。足は、動かなかった。ぼくはまた、見るほうに立っていた。鋏が鳴った。紙を切るときの、乾いた短い音だった。
影が、立っていた形のまま灰になって、崩れて、足元の陸と水の上に落ちた。水は動かない。水に落ちた灰は浮いたまま薄く広がって、見えなくなった。
鋏の人はしゃがんで、陸に残った灰を指の先ですくって、舐めた。
喉の奥が、ぎゅっと閉まった。あれ、ぼくのだ。ぼくのを、舐めた。
「切り屋だ。上が黙って通す」
絣が、ぼくの袖を引いて、低く言った。
「なんで切るんですか」
「知らね。訊くなよ」
鋏の人は立ち上がって、鋏を腰に戻して、列の奥の暗いほうへ歩いていった。
え、待って。いまの、どれ。どれだよ。全部覚えてるんだ、ぼくは。なのに、聞く前に切られた。ぼくのどの言葉が灰になったのか、ぼくには分からない。
「綴さん。いまの、どれ。ぼくの、どれですか。ねえ」
綴は答えなかった。背中が、少し小さくなった。
「サンダルは、そこに」
綴が、背中を向けたまま言い足した。渡し場の脇の板の上に、ぼくのサンダルが揃えて置いてあった。ぼくは履かなかった。
坂を上った。絣が先で、ぼくが後ろで、綴はまだ底に座っていた。
「借りだぞ、あれ。連れてったの」
「はい」
「軽く言うなよ。おれは数えてるから」
底で聞いていたあいだに、空はもう濃くなりはじめていた。土間の戸口の脇に、小屋があった。昨日は気づかなかった小さい戸で、坊主頭がその戸を開けて立っていた。
「底へ、行ったか」
「はい」
「見張る。ここで寝ろ」
小屋の中に、椀が一つ置かれていた。湯気が上がっている。坊主頭は椀を見なかった。ぼくを見なかった。
「夜は、出るな」
戸を開けたまま、坊主頭は屋根へ上がって、小屋の戸口が見下ろせるところに座った。
「お甲さんの土間じゃねえ。小屋は弦八さんのだ。弦八さん、見張るって言ったら寝ねえぞ。あんたのせいで」
絣はそれだけ言って、坂のほうへ戻った。
「弦八さん」と、ぼくはその名前を口の中で繰り返した。
小屋の床に座った。椀を持って、ひとくち飲んだ。熱い。礼は言われていない。屋根の上から見張られている。それでも、椀は熱かった。
いちばん手前の、あの影は。「上げたら、言ってしまうから」の人は。まだ、いるのか。
霧の向こうから、鋏の音が、一度、鳴った。




