第11話「表まで」
「下りたな、坊主。開けねえと言ったな」
猫は、戸の前にうしろ足で立っていた。ぼくは小屋で朝まで動かず、明るくなってから通路へ上がってきた。弦八さんの「夜は、出るな」を、破っていない。
戸の前に、ぼくのサンダルが揃えて置いてあった。誰が置いたのかは、訊かなかった。
「……今日は開ける。おれがそう決めた。明日は知らねえ」
尻尾が一度振られた。猫が戸に前足を当てて、戸が動いた。肩から、力が抜けた。訊いたら閉められる気がして、なんでとは訊かなかった。
サンダルを履いて、敷居をまたいだ。うしろで戸が閉まる音がした。ふり向いても、閉まった戸があるだけだった。
商店街に、夕陽が入ったときと同じ高さで差していた。あっちで寝て、起きて、また寝た。こっちでは、まだ同じ夕方だ。
サンダルの底がアーケードの床を叩く音が、天井から返ってきた。裸足で坂を下りた足に、その音は大きすぎた。
家の台所の隅に、畳んだ段ボールが重ねてあって、いちばん上に母さんの字の紙が貼ってあった。
——はなびのひ、ひとがくる。にもつ、そとにだすよ。
朝に聞いたことが、紙になっていた。ひらがなばかりで、ぼくが小さいころに読めるように書いていた字のままだった。
母さんは仏間にいて、箪笥のいちばん下の引き出しを開けていた。底から、紺の表紙の帳面を出して、膝に置いた。表紙に字があるのを、ぼくは戸口から見た。読める前に、母さんが帳面を両手で押さえた。
「おばあちゃんの。読まないでね、まだ」
「読まない」
母さんは帳面を底に戻して、引き出しを閉めた。
「ごはん、あるよ」
「うん」
母さんは仏間の電気を消して、台所へ行った。まだ、の先を訊く間は、なかった。
夜、ポケットが震えた。巴だった。
「お。生きてたか、汐見」
「生きてる」
「そっち、花火あるんだろ。田舎の夏なんだから。花火、行くの? 写真送れ。ブレたやつでいいから」
「行く」と言えばいい。行かないのなら、「行かない」でいい。どっちかを言おうとして、口の中で、どっちも出なかった。ぼくは台所の、畳んだ段ボールのほうを見ていた。
「汐見? なにその返事」
巴が笑った。息が受話口に当たる音が、耳にじかに届いた。行くとも行かないとも言っていないのに、話はもう笑いのほうへ行っていた。ぼくの口が、少しゆるんだ。
「行くのか行かないのか、どっちでもいいけどさ。ブレてても送れよ。おれ、ブレた花火のほうが好きなんだよ、じつは。ちゃんと写ってるやつ、誰が撮っても同じだろ」
「……うん」
「うんばっかだな。アイス、おごれよ。帰ってきたら。高いやつな」
「……」
「返事しろよ。切るぞ」
電話が切れた。ぼくは畳の上にスマホを置いて、画面が暗くなるまで、巴の笑った声を耳に残していた。
次の日の朝、秋良さんの縁側に、麦茶が出ていた。氷が一つ、コップの中で鳴った。秋良さんはじょうろの水を鉢にやりながら、ぼくの顔を見なかった。
門の前で、ぼくの足は一度止まっていた。今日は、訊くつもりで来た。
「店の奥って、なにがあったんですか」
じょうろが空になった。秋良さんはそれを縁側の端に置いて、隣に腰を下ろして、軒を見上げた。隣の家の干し物の向こうに、山が薄く出ていた。
「知らんと言ったろう。……ただな、親父さんは最後の夏、店の奥で本を読む声がしとった。独りごとにしちゃ、長い。表まで聞こえた」
「誰かに、読んでたんですか」
「奥に、誰がおったかは、な。声だけだ」
麦茶の氷が、溶けて小さくなっていた。ぼくはコップを持ったまま、店の奥の、あの通路の床を思った。綴が布を目に当てて寝ていた床だ。読む声は、あの上でしていたのか。誰に。
「あんたは、まだ書いとるか」
「……はい」
「あんたの婆さんも、よう書きよった。帳面に」
秋良さんはそう言って、空のじょうろを足ですこし転がした。
「なにを、ですか」
「見せてもらったことはない。書いとるのは、見た」
その夜、四畳半で、続きを開いた。親指を最後の行の下に置いた。一文字も、出なかった。
巴は、ブレていてもいいと言った。一文字でも、出せばいい。出せなかった。出したとしても、ぼくはたぶん消す。
消した字は、あの底へ行くのか。そう思ったら、親指がもっと重くなった。
箪笥の、いちばん下の引き出しの前まで行った。取っ手に指をかけた。祖母が書いていたのは、なんだったのか。「読まないでね、まだ」と母さんは言った。指を離した。
次の日、日が落ちる前を待って、アーケードへ行った。汀書房のカーテンのすきまの奥が、夕方の色をしていた。
入りたい。あっちなら、一行が出る。……こわい。次の戸は、開かないかもしれない。前に書いた人は、戻らなかった。ポケットの中で、スマホに指が触れた。巴の笑った声が、まだ耳にある。
「明日は知らねえ」と猫は言った。戸に手をかけた。
戸が、動いた。
「来たな」
猫が、通路の奥から言った。それだけだった。
ぼくは、秋良さんの声を持ったまま、敷居をまたいだ。




