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八十八回目の夏 〜ぜんぶ読んでいた人が、ひとりだけいた〜  作者: ざわん


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第11話「表まで」

「下りたな、坊主。開けねえと言ったな」


猫は、戸の前にうしろ足で立っていた。ぼくは小屋で朝まで動かず、明るくなってから通路へ上がってきた。弦八《げんぱち》さんの「夜は、出るな」を、破っていない。


戸の前に、ぼくのサンダルが揃えて置いてあった。誰が置いたのかは、訊かなかった。


「……今日は開ける。おれがそう決めた。明日は知らねえ」


尻尾が一度振られた。猫が戸に前足を当てて、戸が動いた。肩から、力が抜けた。訊いたら閉められる気がして、なんでとは訊かなかった。


サンダルを履いて、敷居をまたいだ。うしろで戸が閉まる音がした。ふり向いても、閉まった戸があるだけだった。


商店街に、夕陽が入ったときと同じ高さで差していた。あっちで寝て、起きて、また寝た。こっちでは、まだ同じ夕方だ。


サンダルの底がアーケードの床を叩く音が、天井から返ってきた。裸足で坂を下りた足に、その音は大きすぎた。


家の台所の隅に、畳んだ段ボールが重ねてあって、いちばん上に母さんの字の紙が貼ってあった。


——はなびのひ、ひとがくる。にもつ、そとにだすよ。


朝に聞いたことが、紙になっていた。ひらがなばかりで、ぼくが小さいころに読めるように書いていた字のままだった。


母さんは仏間にいて、箪笥《たんす》のいちばん下の引き出しを開けていた。底から、紺の表紙の帳面を出して、膝に置いた。表紙に字があるのを、ぼくは戸口から見た。読める前に、母さんが帳面を両手で押さえた。


「おばあちゃんの。読まないでね、まだ」


「読まない」


母さんは帳面を底に戻して、引き出しを閉めた。


「ごはん、あるよ」


「うん」


母さんは仏間の電気を消して、台所へ行った。まだ、の先を訊く間は、なかった。


夜、ポケットが震えた。巴《ともえ》だった。


「お。生きてたか、汐見《しおみ》」


「生きてる」


「そっち、花火あるんだろ。田舎の夏なんだから。花火、行くの? 写真送れ。ブレたやつでいいから」


「行く」と言えばいい。行かないのなら、「行かない」でいい。どっちかを言おうとして、口の中で、どっちも出なかった。ぼくは台所の、畳んだ段ボールのほうを見ていた。


「汐見? なにその返事」


巴が笑った。息が受話口に当たる音が、耳にじかに届いた。行くとも行かないとも言っていないのに、話はもう笑いのほうへ行っていた。ぼくの口が、少しゆるんだ。


「行くのか行かないのか、どっちでもいいけどさ。ブレてても送れよ。おれ、ブレた花火のほうが好きなんだよ、じつは。ちゃんと写ってるやつ、誰が撮っても同じだろ」


「……うん」


「うんばっかだな。アイス、おごれよ。帰ってきたら。高いやつな」


「……」


「返事しろよ。切るぞ」


電話が切れた。ぼくは畳の上にスマホを置いて、画面が暗くなるまで、巴の笑った声を耳に残していた。


次の日の朝、秋良《あきら》さんの縁側に、麦茶が出ていた。氷が一つ、コップの中で鳴った。秋良さんはじょうろの水を鉢にやりながら、ぼくの顔を見なかった。


門の前で、ぼくの足は一度止まっていた。今日は、訊くつもりで来た。


「店の奥って、なにがあったんですか」


じょうろが空になった。秋良さんはそれを縁側の端に置いて、隣に腰を下ろして、軒を見上げた。隣の家の干し物の向こうに、山が薄く出ていた。


「知らんと言ったろう。……ただな、親父さんは最後の夏、店の奥で本を読む声がしとった。独りごとにしちゃ、長い。表まで聞こえた」


「誰かに、読んでたんですか」


「奥に、誰がおったかは、な。声だけだ」


麦茶の氷が、溶けて小さくなっていた。ぼくはコップを持ったまま、店の奥の、あの通路の床を思った。綴《つづり》が布を目に当てて寝ていた床だ。読む声は、あの上でしていたのか。誰に。


「あんたは、まだ書いとるか」


「……はい」


「あんたの婆さんも、よう書きよった。帳面に」


秋良さんはそう言って、空のじょうろを足ですこし転がした。


「なにを、ですか」


「見せてもらったことはない。書いとるのは、見た」


その夜、四畳半で、続きを開いた。親指を最後の行の下に置いた。一文字も、出なかった。


巴は、ブレていてもいいと言った。一文字でも、出せばいい。出せなかった。出したとしても、ぼくはたぶん消す。


消した字は、あの底へ行くのか。そう思ったら、親指がもっと重くなった。


箪笥の、いちばん下の引き出しの前まで行った。取っ手に指をかけた。祖母が書いていたのは、なんだったのか。「読まないでね、まだ」と母さんは言った。指を離した。


次の日、日が落ちる前を待って、アーケードへ行った。汀書房《みぎわしょぼう》のカーテンのすきまの奥が、夕方の色をしていた。


入りたい。あっちなら、一行が出る。……こわい。次の戸は、開かないかもしれない。前に書いた人は、戻らなかった。ポケットの中で、スマホに指が触れた。巴の笑った声が、まだ耳にある。


「明日は知らねえ」と猫は言った。戸に手をかけた。


戸が、動いた。


「来たな」


猫が、通路の奥から言った。それだけだった。


ぼくは、秋良さんの声を持ったまま、敷居をまたいだ。


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