第12話「光」
鋏の音が、また鳴った。
きのうの夕方に戸をくぐって、小屋で寝た。朝の椀を、飲みかけている。屋根の手の音が止んでいて、その静けさの底に、紙を切る乾いた音が霧の向こうから届く。ぼくは椀を置いて、サンダルを履いて、戸口に出た。
え、また。前に切って、また。もう始まってる。ぼくのが、いま減ってる。
屋根の上の坊主頭が、下を見ていた。土間の戸口に、お甲さんが匙を差して立っていた。
「与太が、また来た。切り屋だ」
与太。名前があるんだ、あの人に。お甲さんは腕を組んで、坂の下を見ている。
「綴さんは」
「使いに出した。糸だ。夜までは戻らん」
いない。今日、いないのか。前は底に座っていた人が、今日はいない。霧の帯の中で、音がまた一つ聞こえる。
絣が土間から出てきて、ぼくの前を通り過ぎる。ふり向かないで、顎で坂の下を示した。
「で? 行くの。おれは行くぞ。あんたの分が減るのを、あんたが見ねえって、それはねえだろ」
「見るだけにしな。絣、あんたもだ」
お甲さんの声が背中に当たった。ぼくの足は、絣の背中についていく。ぼくのだ。見なきゃ。坂を下りて、霧に入った。絣が先で、霧はぼくを止めない。
入り江の水際に、影の列がいる。列のいちばん手前に、あの人が立っていた。腰から鋏を抜いて、刃を開いて、手の中で一度回す。
「滑るなよ」
誰に向けた声でもなかった。鋏に言った、とぼくは思った。それから与太は、手前の影の前に立った。影は顔を上げない。与太も、影の顔を見ない。
「軽くなるぜ」
鋏が鳴った。影が、立った形のまま灰になって、崩れる。与太はしゃがんで、陸の灰を指ですくって舐めた。立ち上がるとき、親指で、指の関節を一つ押す。それから次の影の前へ、一歩ずれた。
ぼくは列の奥を見た。荷を背負った肩は、前と同じ、列の奥にいた。与太が一つ切って一歩ずれるたびに、その肩に近づく。
「待って。待ってください。それ、ぼくの」
「誰のでも同じだ。今日の分だ」
与太はこっちを見ないで言って、鋏を鳴らした。もう一つ、灰になった。
「前にもいたな、あんた。声がした。見てるだけなら、そこにいろ。邪魔しなけりゃ、切らねえよ。あんたはな」
は? ぼくは、切らない? なんだそれ。ぼくの言葉は切るのに。
やめて。やめてって。順番に来る。来る来る。見たくて来たんだ。……減るとこを、じゃない。
「絣さん、止められないんですか」
「止めたら、おれが上に知られんだよ。で? あんたが止めんの」
絣の声が小さい。いつのまにかぼくの後ろに回っていて、袖を握っている。
与太が、列を飛ばした。手前を切るのをやめて、奥へまっすぐ歩いて、荷運び係の影の前で止まった。鋏を持ち直す。刃が、影の薄い肩のところにある。
袖が、絣の指から抜ける。ぼくは列に沿って走った。与太と影のあいだに、体が入っていた。
守りたい。この人だけは。こわい。鋏が、目の前にある。足は、出たあとだ。出てから、こわくなった。
与太の目が、初めてぼくに向いた。
「なんだよ」
「切らないでください」
与太は、鋏を下ろさなかった。
「なんで」
理由が、なかった。ぼくが書いた人だから。ぼくが消した人だから。どっちも、この人には理由にならない。口を開けて、閉じた。喉の奥に言葉の形だけがあって、音にならない。
「なんでもねえなら、どけ。あんたを切る気はねえが、鋏が滑ったら知らねえぞ」
言え。なにか言え。なんでもいい。なんで出ないんだ。
与太が鋏を上げる。刃が、ぼくの肩の上に来た。ぼくのうしろで、影の声がした。
「荷は、」
その先を、ぼくは知っている。読点の位置も、次の息も。消した版の峠の手前で、ぼくがこの人に言わせた台詞だ。
口が開きかけた。……いや。勝手に、じゃない。言いたい。この人の声を、ひとりにしたくない。こわい。誰も読まなくていい、と上の前で言ったのは、この口だ。その口で、言う。
「あとで数える。いまは、歩く」
影の声と、ぼくの声が重なった。さっき音にならなかった喉から、ぼくの書いた台詞が出た。息が足りなくて、「歩く」の終わりがかすれた。
影の声は震えていない。ぼくの声のほうが震えている。何回も直した台詞だ。声に出したことは、一度もなかった。
坂の上のほうで、重いものが石に当たる音がした。
霧の際に、坊主頭が立っていた。屋根にいた人が、いつ下りてきたのか。低い声が、霧を抜けて届いた。
「呼んどる」
与太の鋏が、止まった。刃が開いたまま、そこで止まっている。
止まった。止まってる。刃が、止まってる。ぼくは首を回して、うしろの肩を見た。荷を背負った肩が、まだあった。
なんで。ぼくが言ったから? ……違う。「呼んどる」と、あの人は言った。上だ。前のときと同じなら、綱だ。
坊主頭は、それだけ言って、先に坂を上っていった。
影は、平らな声のまま、もう一度言った。
「荷は、あとで数える。いまは、歩く」
ぼくは、もう言えない。言ったら、喉が裂ける。震えが、膝まで下りている。
与太は、坂の上を見た。それから鋏を見て、鋏をゆっくり閉じた。
「……上が呼んだなら、おれの鋏じゃねえ」
腰に戻す。列の奥へ、目を一度やる。
「残りは、上が言ったらだ」
与太はぼくを見ないで、影の列の脇を通って、坂のほうへ上っていく。すれ違うとき、小さく言った。
「今日の分、足りねえじゃねえか。怒られんのは、おれだぞ」
灰を舐めなかった。
絣が、ぼくの背中を叩いた。一度だけ、強く。
「なにあれ。で? あんた、なにしたんだよ」
「言っただけです。一緒に。……変でしたか、ぼくの声」
言ってしまってから、ぼくは霧の上を見た。屋根は見えない。それでも、誰かに見られていた気がして、顔が熱くなった。
「言っただけで、上が呼ぶのかよ」
分からない。一緒に言った。それだけだ。荷運び係の影は、荷を背負ったまま、顔を上げないで立っている。切られなかった。ぼくの書いた肩が、まだある。
「借り、また増えたぞ。あんた、おれの前で切られそうになるな」
絣はそう言って、先に坂を上りはじめた。
坂を上った。膝が、まだ言うことを聞かない。霧を抜けたところで見上げると、灯りのひと並びから、綱が一本、まだ揺れながら垂れていた。灯りの色が、綱の一筋だけに移っている。
屋根の人たちが手を止めて、こっちを見ている。しゃりしゃりの音は、どこからもしない。
坂の上の外れ、石だけの床に、綱の先が着いていた。坊主頭が、その先の輪を持って立っていた。
「あんただ」
足の裏が、冷たくなる。前は、読んだ子を呼んだ。ぼくは、行くと言って行った。今度は、名指しだ。
なんで。守っただけだ。一緒に言っただけだ。書いてない。今日は一行も書いてない。なのに、呼ぶのか。
右手を、握りこむ。「書く子は、書く手を切る」と、上は言った。
「綴さんは、いません」
「あんただ。上が、そう言っとる」
輪が、ぼくの腰に回った。坊主頭は、ぼくの顔を見なかった。輪を締める手が、前より遅かった。
「弦八さん」
返事はなかった。手が輪から離れた。
綱が動いた。サンダルの底が、石を離れた。




