第13話「閉じる」
綱を、両手で握った。
輪は腰に回っている。それでも手を離す気にならなくて、ぼくは綱の毛羽立ったところを、指の腹で押さえていた。
屋根の上の顔が、足の下に来て、小さくなった。どの顔も、こっちを見ている。前のときは、絣ひとりだった。
隣に、綴さんがいない。綱の余りが、誰の腰にも結ばれずに、揺れていた。
綱が上る。「書く手を切る」と、上は言った。右手を綱から離して、握って、また綱に戻した。
糸巻きの太い音が、横を過ぎた。巻かれていく糸が、目の高さで光っている。
床のへりが、上から近づいてきた。
綱が、止まった。
床には、届かなかった。ぼくの目の高さに、床のへりがある。へりに掛かった光る束が、目の前に並んでいた。手を伸ばせば触れる近さだ。前のときは、この上まで行った。今日は、上げてもらえない。
え。ここ? ここで止まるの。
束は、近くで見ると、糸の一本一本が光っていた。光は白くなくて、夕方の色をしている。頬に、あたたかい。
どれが、ぼくのだ。道の分。橋の分。舟の岸の分。同じ色で、同じ太さで、同じに光っている。それでも、この並びのどこかに、ぼくの分がある。
きれいだ。……見ていられる。ずっと見ていられる。
床の奥から、声がした。まんなかの人の声だ。低くて、前と同じだ。
「受け入れた。だから、呼ばなんだ」
受け入れた。
なにを。……あれか。「誰も読まなくて、いいです」だ。あのとき、なにも言わなかったくせに。受け入れてたのか。
受け入れた、なら。綴さんは、払わない。……よかった。
「書いた子が、読んだ」
読んだ。ぼくが。ぼくは、読んでいない。読んだ子は。……目。
黙っていれば、目だ。言えば、糸を巻く手が止まる。止まった手が、そのあとなにをするのかは、知らない。前に止まったとき、上は、なにも言わずに巻きはじめた。こわい。
言おう。あれは、読んだんじゃない。守っただけだ。それだけは、上に言わせない。
「言っただけです。読んでません」
「声にすれば、読んだのだ。書いた子でも」
ぼくの喉が、あの台詞を出した。影と一緒に。読点の位置まで揃えて。それで、読んだ子か。
「読んだ子は、目を閉じさせる」
まぶたが、下りた。
自分で閉じたんじゃない。上から重いものが乗ったみたいに、まぶたが落ちた。片手を綱から離して、まぶたを指で引いた。皮が伸びるだけで、まぶたは動かない。
暗い。束の光が、まぶたの裏に残っている。並んだ光の形のまま、薄くなっていく。ぼくの分を、見つけないうちに。
見えない。うそだろ。守ってたのは、手だった。目は、開けっぱなしで。
綱を、両手で握り直した。輪があるから、落ちはしない。分かっている。それでも手は、綱を探した。
「手は、次だ」
暗い中で、その声が来た。糸を巻く乾いた音が、床の奥で続いている。
「次って。いつですか。ぼくは、まだ、なにも」
返事は、なかった。なんだよ。次って言ったなら、いつか言えよ。
綱が、下へ動いた。
まぶたの裏の光が、消えた。あとは暗いだけだ。空気が、下から顔に当たる。耳の横で、糸巻きの音が、通り過ぎていった。
下りている。どこまで来たか、分からない。前は、見えていた。町が、下から来た。いまは、なにも近づいてこない。
サンダルの底が、石に着いた。
膝が、勝手に折れた。石の上に、座っていた。立てない。立てよ。
坊主頭の声が、目の前でした。
「輪を、外す」
腰の輪が、ゆるんで、抜けた。綱が、握ったままの手の中から、上へ抜けていった。
「戻れ。小屋だ」
見えないのに、戻れって。どこに戸があるんだよ。
「見えないんです。弦八さん。目が、開かなくて」
坊主頭は、なにも言わなかった。石を踏む音が、こっちへ近づいてきた。坊主頭の足音は、それと入れ替わって、離れていった。
誰だ。誰か来る。見えない。
そのとき、手を、取られた。
ぼくの右手に、指が回った。細い指だった。冷たかった。骨のところが、ぼくの手のひらに、じかに当たっている。
誰の手だ。……この細さは。
「綴さん?」
「ここです」と、綴さんの声がした。いた。綴さんだ。声が、低いところから来る。
この人の目じゃない。ぼくのだ。……それで、いい。
「夜までは戻らん、って、お甲さんが」
「……ここです」
答えは、それだけだった。糸の使いは、どうしたんだ。訊いても、答えない人だ。
綴さんの手が、ぼくの手を引いた。立った。サンダルの底に石があって、その先が、分からない。一歩が、出なかった。
「見えるものを、言います。坂です。石が濡れています」
声が、前から来た。手は、ぼくの手を握ったまま、前にある。
「下がります。次の石です」
足を、出した。石が、言われたとおりに下がっていた。サンダルが濡れた石で滑って、綴さんの手が、それを止めた。
「濡れてる。ほんとだ」
「はい」と、手の先から返ってきた。
次の石、って、もう一回言ってほしかった。
「綴さん。上が、受け入れた、って。あの日の、あれ。受け入れてたって。……それで、目を」
「……そうですか」
それだけかよ。握られた指が、一度だけ、強くなった。
「底、と絣は呼びます。わたしは、影の町、と呼んでいます」
坂の途中で、綴さんがそう言った。この人が、自分から、あそこの呼び名を言った。
影の町。あの人たちの町。ぼくの、消したもの。
行きたい。あの人たちのところへ。切られる前に。
「見えなくても、行けますか。あそこ」
「行けます。わたしが、います」
前を歩く手が、また強くなった。
「向こう岸なら、開くと思います。上の声は、こちらにしか届かないので」
「開く、って。目が?」と、ぼくは声を上げた。
「……思います。試したことは、ないので」
帰れば、見えるのか。ここにいたら、見えない。行きたいのに。見えないまま、行くのか。
石の坂が、平らになった。しゃりしゃりの音が、頭の上から、また始まっていた。
ぼくの道も、橋も、舟の岸も、あの並びで光っている。それでも、上は、ぼくが書くのを嫌う。
「小屋です。戸は、この手の先です」
綴さんの手が、ぼくの手を、戸の木に当てた。ざらついた木だった。
握ったままの指が、冷たい。こんなに冷たい手なのか、この人は。袖から出た指が薄く透けているのを、前に見た。いまの指は、見えない。薄くなってるのか。確かめられない。
「綴さん。手、冷たいです」
「……はい」
細い指が、一度だけ、ぼくの指を握り直した。




