第14話「三度」
桶の水に、手を入れた。
冷たさが、指の先から手首まで、いちどに上がってきた。小屋の床の、ぼくの膝の前に桶がある。絣が置いたとき、水が揺れる音がしていた。
起きて、まずまぶたを指で引いた。皮が伸びるだけだった。開けよ。……開かない。屋根の手の音がもう始まっていて、それで朝だと分かった。まぶたの裏は、暗いままだった。
「洗わせるって言ったろ。見えねえなら、ちょうどいい。手でやれ」
絣の声は、戸口のほうからした。ぼくは桶の中に両手を入れて、底をさぐった。木の底に、ぬるついたものがついている。
「なにが、入ってるんですか」
「飯の桶。ゆうべの。で? やんの、やんねえの」
やる。やるよ。目が開かないから、って、なんにもしないで座ってるのは、いやだ。
爪で、桶の底をこそげた。米の粒が、指の先で潰れる。水が、手首の上まで冷たい。
足音が近づいて、絣の声が、頭の上に来る。
「そこ、まだ残ってる。左。もっと左だよ。あんた、手も見えねえの」
「見えないって言ってるじゃないですか」
言ってから、笑っていた。自分で。桶の底を、こそげているのが、なんだかおかしかった。絣も笑った。短く、鼻で。
「で? 終わり? まあ、洗えてる。おれほどじゃねえけど」
桶が、ぼくの膝の前から引かれた。水を捨てる音が、戸口の外でする。
戻ってきた絣の手が、ぼくの手を取る。なにかを割る音がして、手のひらの上に、置かれた。
「おれの飯。半分。桶、洗ったから」
握り飯だった。割れた面が、まだぬくい。米の粒が、手のひらにいくつも残った。
半分。この人の。桶を洗ったから、って。
「借りに、なりますか」
「なるよ。数えてるからな。食え」
塩が、強かった。噛んでいると、口の中だけが、この町だった。
戸口の板が、重く鳴った。外から入っていた風が、ふさがれた。
「舟が、三度着いた。次が、来とる」
低い声だった。坊主頭だ。
「あんたの岸だ。見に来い」
そんなに。……ぼくの岸に。
あんたの岸。ぼくが思いかけて、やめたやつだ。舟の着いた日に、板の岸で。この人が、口に出した。「割った奴が、出す」と言った人が。
握り飯を持つ手が、止まっていた。
行きたい。見たい。ぼくの岸に、舟がそんなに着いたなら、それを、この目で。
……この目は、開かない。行っても、暗い。入り江の水に、落ちたら。屋根の顔が、ぜんぶ、ぼくを見る。ぼくは、見返せない。
「見に来い、って。ぼく、目が」
「来い」
それだけだった。足音が、戸口から離れていく。
絣が、ぼくの膝を、指で叩いた。
「行くんだろ。綴が、外にいる」
綴さんが。きのう、戸の木にぼくの手を当てて、「……はい」と言って、それきりだった人が、外に。
握り飯の残りを、口に押しこんだ。
「行きます」
立った。膝は、きのうより言うことを聞いた。壁を伝って、戸口まで行った。ざらついた木。その先に、指があった。細くて、冷たい。
「綴さん」
「ここです。坂を、下ります」
この人の手を、また握っている。
石を踏むたび、サンダルの底で、次の石を探った。綴さんの手が、先に下がって、ぼくの足が、あとから着く。
頭の上の、しゃりしゃりの音が、あちこちで止まった。
「屋根の人、こっちを見てますか」
「見ています。……いつもより、多く」
見られてる。見返せないのに。
足の先の空気が、急に湿った。顔に、冷たいものが貼りついた。霧だ。
「霧です。入ります」
「はい」
霧の中は、耳が変わった。屋根の音が、消えた。かわりに、水の音がする。近い。動かない水が、なにかに押されて、鳴っている。
「渡し場の脇です。板の岸が、あります。あなたの」
板を、サンダルの底で踏んだ。板は、少し傾いた。ぼくの板だと綴さんは言うけれど、サンダルの底には、ただの板だった。
「舟は」
「来ています。……もう、近いです」
水を割る音が、こっちへ来る。近づく。板が、足の下で、細かく震えた。
こつ。
板が、鳴った。足の裏まで、来た。短い音だった。
着いた。ぼくの岸に。いま。
「弦八さんが、荷を下ろしています」
布がこすれる音。重いものが、板に置かれる音。それを抱えて、板から石へ移る足音。石のほうから、別の足音も来る。何度も、往復している。
「荷が、下りました。……舟が、いま、離れました」
水を割る音が、遠のいていく。
離れた。ぼくの岸から。荷を下ろして、また、霧の奥へ。
見たい。……見せろよ。ぼくの岸だぞ。今日の荷が、どんな布に包まれているのか、この人が言わなければ、ぼくには残らない。ぼくが書いた岸に、ぼくの知らない荷が着いて、ぼくだけ、見てない。
大きい息が、ぼくの前で止まった。重い息だ。
「弦八さんが、荷を抱えて、あなたのほうを見て、行きました」
足音が、坂のほうへ行く。礼の言葉は、今日もない。それでも、ぼくの前で、一度、息が止まっていた。
「綴さん」
「はい」
「綴さんの指は、いま、どれくらい」
返事がなかった。手は、ぼくの手を握ったままだった。握る力も、変わらなかった。
指の骨を、親指でなぞった。細い。冷たい。薄いかどうかは、指では分からない。
なんで答えないんだよ。
水の音が、消えていった。動かない水に、戻ったんだ。握った手が、わずかに動いた。
「読んでいませんが、聞きました」
顔が、下から熱くなった。聞いた。なにを。
「……こつ、が、前より短かったです」
指のことは、言わないくせに。ぼくの岸のことは、言うんだ。前より、って。前のこつも、聞いてたんだ、この人。背中を向けたまま。
「岸が、慣れたのだと思います」
「ありがとう、ございます」
坂を上った。霧を出ても、頭の上の音は、しなかった。ぜんぶが、こっちを見ている気がした。
坂を上りきると、足の下が石から板に変わった。本の匂いがした。通路だ。
戸がある。この先に。向こう岸なら目が開くと思う、と綴さんは言った。試したことはない、とも。
「綴さん。戸は」
「猫が、いません。……あなたは、きのう、下りましたし」
「下りたら次の日の戸は開けねえ」と、猫は言った。開けた日もあった。でも、猫がいない。帰れば見えるかもしれないのに、帰れない。今日も、下りた。じゃあ、明日も。
「じゃあ、ぼく、いつまで」
綴さんの指が、ぼくの指から、ほどけていった。
「次は、わたしが読みます」




