第15話「読者が、二人」
「朝です。起きてください」
綴さんの声で、目が覚めた。覚めても、暗い。まぶたは、きのうと同じ重さで閉じていた。
床は、通路の床板だ。本の匂いがする。手を上げると、本棚の棚板が、指のすぐ上にあった。
ぼくは床に座って、声のほうへ顔を向けた。
「戸の前に、いますか」
「います。猫も」
「まだいたか、坊主」
猫の声は、敷居のあたりの低いところから来る。それだけ言って、あとは黙った。
ポケットの中で、スマホの角が腿に当たっていた。最後に開いたのは、続きの欄だ。あの夜から、そのままのはずだ。
書く。……見えないのに、か。見えないまま、書く。
スマホを持つ手を、確かめた。右手。「手は、次だ」と、上は言った。書けば、この手だ。……書く。
スマホを出した。画面は、指の下で、ただの冷たい板だった。
「綴さん。ぼくの手を、見ていてください。画面は、見ないで」
「はい」
画面を、下から上へなぞった。数字の盤が出る、はずだ。親指で、いつもの場所を押した。位置は、指が覚えている。左の列の、いちばん下。まんなか。右の上。もう一度、左の下。指が、震えていた。
開いたのか。分からない。分からないまま、いちばん下の欄のあたりを、押した。
変換はしない。候補が選べない。ひらがなだけで、打つ。指の腹が、ガラスの上で、いつもの場所を探した。
にはこびがかりは。
指が、止まった。荷運び係は。出した版のこの人は、追い出される朝に、〝顔は、上げなかった。〟消した版のこの人は、峠の手前で、「荷は、あとで数える」と言った。
峠の手前までは、書けた。その先が、出なかった。決めてある。決めてあるのに、出なかった先だ。
目が閉じてて、坂の上に座ってて。それでも、打つ。この人の顔を、上げさせる。
打った。
〝にはこびがかりは、かおをあげて、はしをわたりはじめた。〟
右の下を押して、字を確定させた。指を画面から離した。ひらがなばかりの、一行。字の形は、頭の中にしかない。合っているか、分からない。一文字でも、違っていたら。
書いた。人を。……この人が、顔を上げた。
「綴さん」
「次は、わたしが読みます」と、綴さんはきのう言った。言わせたら、綴さんが勝手に払ったことになる。頼むのは、ぼくだ。
読んだ子は、目を閉じさせる。まぶたを指で引いても、皮が伸びるだけ。あれを、この人に。
八十八回、直すだけだった夜の先を、いま、この人に最初に読んでほしい。「誰も読まなくて、いいです」と、あの床の上でぼくは言った。上は、受け入れた。それを、ぼくが破る。
ひどい。ひどいよ、ぼく。最初に、この人の声で聞きたい。この人の目が、閉じる。……言う。
「綴さん。読んでください。最初に。見て、いいです」
綴さんの息が、一度、止まった。袖の布が、鳴った。指が、ぼくの手の中のスマホに触れた。取らなかった。触れただけだった。
「目、ですね。……はい」
この人も、分かっている。それでも、はい、と言った。
息を吸う音がした。それから、綴さんの声が、ぼくの一行を言った。
「にはこびがかりは、かおをあげて、はしをわたりはじめた」
聞いた。人の声で、ぼくの続きを。
うわ。声だ。ぼくの字が、この人の声になった。合ってた。一文字も、違わない。かおをあげて、のところで、この人の声が、ほんの少し、上がった。ぼくが書いた読点の位置で、この人は息をした。
もう一回。もう一回言ってほしい。……言えない。頼めない。一回で、この人の目だ。
息が、戻ってこなかった。口が、開いたままだった。
「……どの版にも、なかった続きです」
綴さんの手が、ぼくの手を握る。細くて、冷たい。読み終わったあと、長く、誰もしゃべらなかった。
その沈黙の中で、頭の上の音が、いっせいに止まった。
屋根の手が、止まっている。ぜんぶ。見ているんだ。坂の下を。いつからだ。打った、あのときからか。
「綴さん。下に、なにか。屋根の人が、見てる」
「見てきます。手を、離します」
綴さんの手が、ぼくの手から抜けた。足音が、坂を下りていった。ぼくは、通路の床に残った。
足が、敷居のほうへ出かけた。下りれば、近づける。橋に足を置けば、この一行は消える。……足を、引いた。
霧の中から、綴さんの声が上がってきた。屋根の音は、止まったままだ。
「渡っています。あなたの橋を。顔は、見えません。でも、あなたが、そう書いた。……渡る人です」
「渡る人は、まだ書いていませんね」と、この人は言った。板の橋が出た夜に。「渡る人を、読みたいです」と。
いま、渡っている。ぼくの橋を。
口の中で、一行を言った。一文字も欠けずに。消えていない。ぼくの中に、まだある。入らなかったから、だと思う。
足音が、坂を上ってきた。綴さんの手が、ぼくの手を、また取った。
「読者が、二人になりました。わたしと、あなた」
「ぼく?」
「……あなたの目を、上が閉じましたから」
上が。ぼくの目を閉じた、あの声が。「声にすれば、読んだのだ」と。ぼくは、あの床の高さで、読んだ子にされていた。
「最初は、ひとり、だったのに」
「はい。いまは、二人です」
通路の外、石だけの床のほうで、重いものが石に着く音がした。
前にも聞いた。綱だ。
「呼んどる」
坊主頭の低い声が、通路の外から来た。
「あんたも、だ」
あんたも。綴さんと、ぼく。手は、次だ。次が、来た。この人の目も。
「綴さん。ぼくが頼んだからです。ぼくが」
「行きます。……読みましたから」
綴さんの声は、読んだときと同じ高さだった。
「猫さん。戸を。帰りたい」
言ってしまってから、顔が熱くなった。この人を呼ばせておいて、ぼくだけ。敷居のところで、尻尾が板を打つ音がした。
「戸なら、おれのだ、坊主」
「下りたな、坊主。開けねえ。戻っても、開けねえ」
戻っても。
戸の向こうに、目が開くかもしれない場所がある。綴さんの、試したことのない推量だ。四畳半と、母さんの字の紙と、扇風機。開かない戸の向こうに。
綴さんの手が、ぼくを立たせた。通路を出て、石を踏んだ。坊主頭の手が、ぼくの腰に、輪を回した。輪が締まる。隣で、綱が回る音がした。
初めて綱に乗ったとき、ぼくは、呼ばれてもいないのについていった。この人は、自分で結んだ。今日は、この人が呼ばれている。ぼくが、呼ばせた。
「読みましたから」
綴さんが、もう一度、小さく言った。声が、上のほうへ向いていた。
綱が、張った。輪が、腰に食いこんだ。屋根の音は、まだ止まったままだ。
〝にはこびがかりは、かおをあげて、はしをわたりはじめた。〟




