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八十八回目の夏 〜ぜんぶ読んでいた人が、ひとりだけいた〜  作者: ざわん


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第16話「二人」

糸巻きの太い音が、横を過ぎていった。


綱が上がっている。腰の輪が食いこんで、まぶたは閉じたままだ。隣で、綴《つづり》さんの袖が鳴っている。袖の音のすぐ下で、もう一つの輪が、綱にこすれている。


音が、止んだ。綱も、止まった。


頬に、あたたかいものが当たる。束の光だ。前に来たとき、目の高さに並んでいた、あの巻かれた話の束。いまも、同じ高さに、ある。きれいだった。まぶたの裏に、形だけ、浮いた。


床の奥から、声が来た。まんなかの人の、低い声だ。


「読んだのは、二人か」


二人。綴さんと、ぼく。来た。来た来た来た。綴さんが読んだからだ。ぼくの一行を、声に出して。目はもう閉じてるんだぞ。この人のまで、閉じるのか。


「読んだ子は、こっちだ」


読んだ子は、目を閉じさせる。この人たちは、前にそう言った。ぼくのまぶたが落ちた、あの言い方だ。


隣で、綴さんの息が、一度、止まった。袖が、鳴らなくなった。


閉じた。いま、閉じた。綴さんの目だ。見てない。見えない。息の止まり方で、決めた。


細い指が、ぼくの手の甲に当たって、探って、つかんだ。骨が、じかに当たる。


「綴さん。目、」


「……います。ここに」


声は、震えていなかった。それだけかよ。それだけなのかよ。


「書いた子は、そっちだ」


そっち。ぼくだ。読んだのは二人、と言ったくせに、分けた。読んだ子は綴さん。書いた子は、ぼく。耳の奥が、一瞬、熱くなった。……違う。いまは、手だ。次は手だって、この人たちは言った。


「書く手は、切る」


右の手首に、なにかが張った。


糸だ。手首から、上へ。一本。細くて、まっすぐ。いまはじめて、そこにあると分かった。


乾いた音がした。紙を、鋏《はさみ》で切る音。底で、何度も聞いた音だ。手首の上で、鳴った。


軽い。


右の腕が、肩から先まで、ふっと、浮いた。なにも持っていない腕の、軽さだ。息が、深く入った。……待って。なんで。切られたんだぞ、いま。なんで、楽なんだ。隣で、この人は、目を取られたばかりなのに。


与太《よた》の「軽くなるぜ」が、頭の中で鳴った。


「人を書いたな」


声は、手を止めないまま続けた。糸を巻く、太い音の中で。


「人には、入れん。それは、残る」


残る。あの一行。はしをわたりはじめた、の。ぼくの手もとに。


「綴さんの目は、いつ」


糸を巻く音が、答えだった。


綱が、下へ動いた。束のあたたかさが、頬から離れていく。綴さんの手は、ぼくの手を離さなかった。


石に、サンダルの底が着いた。隣で、綴さんの足音が、少し遅れて着いた。節の太い指が、ぼくの腰の輪を外す。隣でも、同じ音がした。その指が、ぼくの背を押して、向きを変えた。


「戻れ」


弦八《げんぱち》さんの声だった。


綴さんの手を、ぼくは取り直した。石が板に変わって、本の匂いになるまで、二人で歩いた。足の裏で、床を探りながら。敷居のあたりで、尻尾が板を打つ音がした。


「下りたな、坊主」


猫の声だ。低いところから。


「上が、切った。上が始末したもんを、おれが閉めとく筋はねえ。出る戸は、開ける。入る戸は、知らねえ」


上が切らなかったから開ける、と、前に言った猫だ。今日は、切ったから、開ける。


「猫さん。綴さんは、このまま」


「おれは戸だ、坊主。あの女のことは、戸に訊くな」


戸って。猫だろ。


戸が動く音。向こうから、夕方の匂い。


帰りたい。目が開くなら、いますぐ。この手を離したら、次に来たとき、この人がどこにいるか、分からない。それが、こわい。


「綴さん。次に来たら、見えるもの、言います。ぜんぶ」


握った手が、一度、強くなった。


「……行って、ください」


手が、ぼくの手から、抜けた。ぜんぶ、って。言ったぞ、ぼく。


敷居をまたいだ。うしろで戸が閉まる音がして、アーケードの空気が顔に当たった。


まぶたが、上がった。


夕陽が、入ったときと同じ高さで差している。シャッターの錆。酒屋の自販機の光。首の付け根が、勝手にゆるんだ。


右の手首だけが、ひやりとしていた。


家に戻ると、冷蔵庫に母さんの字の紙があった。読める。ひらがなの、丸い字。ごはん、チンして。


その字を、ぼくは、立ったまま、しばらく読んでいた。


汀書房《みぎわしょぼう》のガラスは、次の日、乾いていた。その次の日も、同じだった。猫は、戸の前にいなかった。


日が落ちる前に行って、ガラスが乾いているのを見て、カーテンのすきまの奥を見て、戻る。それを、何日も、くり返した。


一度、ガラスの前で目を閉じてみた。アーケードの放送しか、聞こえない。続きの欄を開いても、親指は最後の行の下で、動かない。


蝉の声が、夜のほうへ移っていった。母さんは、新幹線の話をしなかった。


母さんの片付けは、進んだ。仏間の箪笥《たんす》が空になって、紺の表紙の帳面は、紐で十字に縛られて、箱のいちばん上に入った。母さんはそれを、両手で押さえてから、箱の蓋を閉めた。


花火の日に、家を見る人が来た。


朝のうちに、荷物をぜんぶ、庭に出した。段ボールと、布団と、箪笥の引き出し。右の手で持つたびに、手首の冷えが、荷の重さの下にあった。ぼくは黙って運んだ。


来た人は、家の中を、靴下で歩いた。


「風、通りますね」


「毎日、通してるんです」


母さんがそう答えて、来た人は、見て、帰った。


縁側で、母さんが麦茶を飲んだ。


「この家、まだ終わらないから。秋まで、いることにした」


ぼくは、母さんの顔を見た。


「あんたを一人で東京に置いとけないでしょ」


母さんは、コップを縁側に置いた。


「……ごはん、食べた?」


「食べた」


ぼくも、いたい。母さんが決めたからじゃなくて。そう言おうとした。舌が、上の歯の裏に貼りついた。言葉の形はできていて、出なかった。母さんは、ぼくが黙っているのを見て、麦茶をもう一口飲んだ。


空になったコップを、ぼくは流しへ持っていった。


夕方、ポケットが震えた。巴《ともえ》だった。


——花火、見た? まだか。

——見たら送れ。ブレたやつでいいから。


入力の線が、点いて、消えて、点いた。指は、どの返事も打たなかった。


川のほうで、低い音が鳴った。空は、まだ明るい。試しの音だ。


見たい。花火じゃない。


スマホをポケットに押しこんで、サンダルを履いた。


アーケードの天井に、足音が返った。汀書房の前で、足が止まった。


ガラスが、濡れていた。


濡れてる。来た。


戸の前に、まだらの猫が、座っていた。ぼくを、下から見た。尻尾が、一度、床を打った。それから猫は、背中で戸を押した。


通路の板を踏んで、本の匂いを抜けて、坂の上に出た。目は、開いたままだ。閉じない。書いた子、と言われたからだ。


白いものが、坂の半分まで、上がっていた。


息が、白に吸われた。家は、上の半分だけが、白の上に出ている。その屋根の上で、屋根の手が、どれも止まっていた。入り江も、ぼくの岸も、あの土間のあたりも、その下だ。


言わなきゃ。ぜんぶって、言ったんだ。


霧だ。


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