第17話「今日の分」
坂を半分下りたところで、霧に入った。顔に湿ったものが貼りついて、屋根も、干した糸も、消える。足の裏だけが、石を知っている。
白の底に、土間の戸口があった。人が座っている。
綴さんだ。膝に手を置いて、顔をこっちへ向けている。まぶたが、閉じている。
閉じてる。ほんとに。ぼくが読んでくださいって言ったから、この人が読んで。……いや。順番は、どうでもいい。閉じてるのは、いまだ。
「足音で、分かります」
声は、前と同じ高さだった。ぼくは戸口の前で膝を折って、この人の顔を、ぼくの顔の高さにした。まぶたの皮が、薄い。その下で、目が、動いていない。土間の奥から、土と、冷えた灰のにおいがする。
見せたい。
綴さんの手を取って、持ち上げた。顔の高さ。白い中へ、指を入れる。
「霧、ここまで来てます。坂の半分。上の屋根の手は、止まってました。ぼくは、ここです。目は、開いてます」
綴さんの指が、白の中で、少し開いた。顔が、わずかに上がる。
「……はい。あなたは、書いた子に、なりました」
親指が、ポケットの上で動いた。上に言われたときは、仕分けの札だった。この人の口だと、名前みたいだった。
土間の奥から、桶を抱えた絣が出てきた。ぼくの顔を、下から覗きこむ。
「で? 目、開いてんの。はっや。で? 向こうで開いたの? ずるいな、あんた。留守のあいだの水汲み、おれがやったんだぞ。つけとくから。で?」
「開きました。向こうで」
言ってから、まばたきを、わざと、してみせた。見せてから、恥ずかしくなった。絣は鼻で笑って、綴さんのほうへ顎を振り、それ以上は言わずに桶を抱え直した。
「鋏の音が、しました。下です」
綴さんが言った。顔は、ぼくのほうを向いたままだ。
与太だ。今日の分。
「行きます。綴さんも、来ますか」
綴さんが、膝に置いた手を、持ち上げた。
「はい。行きます」
歩けるのか、その目で。言いかけて、やめた。
綴さんの手を、取った。細い。骨が、近い。ぼくの手が前に出て、この人の手が、あとから来る。
「石、下がります。次の石です」
言ってから、あの朝の声だと分かった。
霧の中は、耳が変わる。入り江の水は、鳴らない。動かない水だ。
水際に出た。影の列が、縁に立っている。顔を上げない。その手前に、与太の背中。腰の鋏は、もう抜かれていた。
列の脇、板の岸に、荷を背負った肩が、黙って立っている。渡った人だ。残る、と上は言った。荷の布の柄だけが、白の中で、はっきり見えた。
「滑るなよ」
鋏に言う声。それから与太は、手前の影の前に立った。刃が、開く。
「今日の分だ」
減る。ぼくのが。いまから。
前は、間に入って、一緒に言った。それで上が呼んだ。今日は、上の綱を待たない。待てない。ぼくに、手がある。切られた手が。
切られてる。……でも、親指は、動く。
スマホを出した。親指は、こっちでは、動く。
〝板の橋は、霧の先まで伸びた。〟
打って、出した。
水の上に、ある。ぼくの橋。前からあった橋の、白に消えていた先に、板が、続いていた。白の中へ、まっすぐ。
「橋、書きました。霧の先まで」
声に出した。列は、動かない。影たちは、縁に並んだまま、顔を上げない。板は、そこにある。誰も、乗らない。
出たのに。出たんだぞ。……うれしい、が、先に来てる。いまじゃない。
前で、鋏が鳴った。乾いた、短い音。
やめろ。やめろって。出てるのに。なんで、動かない。
書いた橋だ。書いた人は、最初に入れない。前に、そう言われた。
隣で、袖が鳴った。
「……わたしです」
綴さんが、ぼくの手を離した。板の岸のほうへ、顔を向ける。見えないのに。
行かせたくない。見えない人を、水の上に。こわい。……でも、切らせたくない、のほうが、先に来た。
「綴さん。板の岸、まっすぐ前。すぐです。右に、水」
綴さんが、歩いた。足の先で、石を探る音。それから、板を踏んだ。
板は、鳴らなかった。
橋へ。一歩。足の先が、板の端にかかった。
「左! 綴さん、左、半歩」
綴さんの足が、左へ寄った。それから、まっすぐ。袖が、肘のところで、一度余って見えた。それきり、白の中へ、入っていく。背中が、薄くなる。
列が、動いた。
影たちが、顔を上げないまま、板の岸へ向かう。順に、橋に上がる。綴さんのうしろを、列のまま、白の中へ。荷を背負った肩だけが、板の岸に、残っていた。
与太の鋏が、空を切って、止まった。
「板、まっすぐ。右も左も、水。まっすぐ! そのまま!」
綴さんは、もう見えない。声だけだ。ぼくの声だけが、この人と、つながってる。叫んでる。ぼく。
ぼくの足も、板の岸の端まで出ていた。まばたきを忘れて、白の先を見た。なにも、見えない。板が出てるのか、この人がまだ歩いてるのか。声しか、ない。
「おい」
与太が、水際で足を止めた。板に、足を置かない。
「おめえ、こっち側の手になったな」
右の手首を見た。糸の跡は、ない。
「水の上は、おれの持ち場じゃねえ」
与太は鋏を腰に戻した。親指で、関節を押す。押したあと、首を振った。
「頭が来る。おれじゃ埒があかねえと」
坂のほうへ、上っていく。灰は、舐めなかった。
「かしらって、誰ですか!」
与太はふり向かなかった。鋏の柄を、一度、叩いた。それだけだった。
叫んだのを、聞かれた。顔が、熱い。
列の最後が白に溶けて、しばらくして、袖の音が戻ってきた。来たときより、少し、遅い。ぼくは板の岸の端で、手を出した。
「綴さん。ここです。右手、出してます」
この人の手が、ぼくの手に、当たった。
「……板は、鳴りませんでした」
握った。この人の手のほうが、と言いかけて、言わなかった。
綴さんの指が、ぼくの手首に、触れた。
「冷たいです。ここ」
書いたから、か。訊かなかった。訊いたら、この人は、自分の指のことは言わない。
握り直すと、袖口が手の甲にかぶった。布ごしに、指の骨が当たる。坂を下りたときより、細い。




