第18話「歩く人」
桶の水が、小屋の床で揺れていた。
絣が置いたのだ。ぼくの膝の前に。前は、手探りでこの底をこそげた。今日は、米の粒が、指より先に目に入る。絣の親指の、ささくれまで。
「目、見えるんだろ。今日は、見えねえ、は通らねえぞ。で? 洗うの」
「洗います」
洗った。爪で、桶の底をこそげる。水が手首まで来て、右の手首だけ、水より冷えていた。
戸口に、綴さんが座っている。閉じた目を、桶の音のほうへ向けて。戸口の外は、白い。霧は、小屋の屋根より高い。
岸に、あの人がいるはずだ。きのう、荷を背負ったまま、板の岸に残っていた。ぼくの一行は、渡りはじめた、で終わっている。渡ったあとを、書いていない。
「綴さん。あの人、きのうから、あそこに」
「はい。朝、弦八さんが」
「下ろしたって。荷。朝、戸口で言ってた。礼も言わねえ奴が」
絣が、桶の縁を指で弾いた。下ろした。あの人が。
桶の水を、戸口の外へ捨てた。
坂を下りた。綴さんの手を引いて、絣がうしろから「で? おれも行くの」と言いながら、ついてくる。白の中で、絣の声が小さくなった。
板の岸に、肩が、荷の形のまま立っていた。荷は、足もとに下ろされて、布に包まれている。顔は、こっちを向かない。弦八さんが、岸の杭で、綱を巻いている。
霧の奥から、別の綱が木をこする音が、低く届く。弦八さんの手の綱じゃない。見えない舟だ。きのう、頭が来ると与太は言った。あの音の先に、いるのか。
「弦八さん。あの人、ずっと」
「立ってた。荷は、下ろさん。おれが、下ろした」
それだけ言って、綱に戻った。
スマホを出した。親指が、動く。
〝荷運び係は、荷を担いで、坂を上った。〟
打って、出した。
なにも、起きない。肩は、立ったままだ。
きのうと同じだ。ぼくが書いたものは、綴さんが先に立たないと、動かない。見たい。この人の背中が、動くところを。……綴さんを、また。こわい。こわいのに、口が先に、岸の端、と言った。
「綴さん。岸の端まで。石の上です。まっすぐ」
綴さんが、ぼくの手を離して、足を出した。足の先で石を探って、端に立つ。それだけだった。
肩が、動いた。
膝を使って、足もとの荷を持ち上げる。背に、乗せる。石を踏んで、坂のほうへ、歩き出した。
歩いてる。ぼくの書いた人が。橋じゃなく、人が。歩いてる。
弦八さんが、もう一つの荷を、ぼくの前に置いた。顎で、坂を示す。運べ、ということか。両手で持った。膝が、抜けた。腰までしか、上がらない。肩に乗せるまでに、息が切れた。綴さんの手は、絣が引いた。
あの人は、膝で、ひょいと上げた。ぼくは、これだ。
坂を上った。荷が、首の付け根に食いこむ。前を行く背中は、揺れない。
土間の戸口に、お甲さんが立っていた。匙を腰から抜いて、荷運び係の胸のあたりを指す。
「そこに、置け。食ってから、担げ」
板の上に、皿。握り飯。塩の匂いが、ここまで来た。
荷運び係が、荷を下ろした。皿の前に、座る。手が、握り飯を取った。顔は、下を向いたままだ。手だけが、動いている。
もらった。ぼくの書いた人が。この人の飯を。ぼくには、出さん、と言った人の。
綴さんの手を、引いた。板の皿の縁に、指先を触れさせる。なにも、言わなかった。綴さんの指が、皿の縁をなぞって、止まった。
「……あたたかい、です」
お甲さんの匙が、こっちを向いた。
「あんた。あの子を、使うな。あんたの話は、あの人の足で歩いている」
聞こえてたんだ。岸まで。坂の下まで。この人は、いつも、そうだ。
頭の中で、言葉を直した。使うな、じゃない。使いすぎるな、だ。……たぶん。
「分かりました」
綴さんの手を、握ったまま、言った。
お甲さんは、ぼくの手を見た。それから、背中を向けた。
「使ってください。わたしで、開きます」
綴さんの声は、その背中に当たった。お甲さんは、ふり向かなかった。火のほうへ、行った。
あんた、と言われた。叱られてるのに、耳が熱い。
荷運び係が、立った。食べ残しの握り飯を、懐に押しこむ。荷を背負う。坂を、上っていく。白の上へ。ぼくも、肩の荷を担ぎ直して、追った。
霧の際で、肩が白を抜けて、屋根の下に出る。屋根の手が、ぜんぶ、休んでいる。
息を、吸った。
言えるか。自分の口で。ぼくの一行を。前に、綴さんが声に出したら、上は、読んだ、と言った。それで目を閉じさせた。書いた子は、閉じない。でも、読んだら。読んだ子にも、なるのか。この目か。
こわい。でも、聞かせたい。読めないこの人に、ぼくの声で。
「荷運び係は、荷を担いで、坂を上った」
声が、屋根に返った。
息を詰めて、空を見た。糸巻きが、ある。灯りのひと並びが、ある。綱は、下りてこない。糸巻きの音は、太さを変えない。
来ない。
右の手首を、左手でつかんだ。冷えている。つかんだまま、もう一度、空を見た。
来ない。
閉じない。ぼくの目、開いてる。読んだのに。
「で? それだけ? おれ、読めねえけど、聞いたら言えんの。にはこびがかりは、おれの荷を担いで、おれより先に、坂を上った。おれ、えらくね?」
屋根の上で、誰かが、吹き出した。
ひとりじゃない。あちこちで。肩を揺らしてる。
「え、笑って……え、ぼくの? 絣さんの? どっち」
口走ってから、屋根の顔が、こっちに向いたのが分かった。顔が、熱い。頬が、ゆるんでる。
「おれ、うまくね?」
「うまくないです」
読む人は、書く側の人だ。そう思っていた。絣は、読めない。読めないのに、言った。……でも、書いたのは、ぼくだ。
荷運び係は、笑いの下を、顔を上げずに通った。弦八さんが追いついて、ぼくの肩の荷を取り、礼も言わずに、次の荷として差し出した。肩が、それも受け取る。弦八さんが、息を詰めた。
その背中を、ぼくは、見ていた。懐の、握り飯のふくらみ。もっと、歩かせたい。坂の上まで。坂の向こうまで。
「で? 次、なんて書くの」




