第19話「頭」
空が、薄くなりはじめていた。坂の下から、綱が木をこする音が、上がってきた。
きのうの音だ。霧の奥で鳴っていた、あの綱が、岸まで来ている。来た。来たんだ。頭が。
与太より上の人だ。与太より大きくて、もっと黙る男だ。たぶん。見たい。……見たい、で、いいのか。足は、もう坂を下りていた。綴さんの手を引いて。うしろから絣が「で? 誰。で?」と言いながら、ついてくる。
「石、下がります。次」
「はい」
板の岸に、弦八さんが立っていた。杭に通した綱を、手でたぐっている。腕を引く。止まる。引く。綱の先は、白の中だ。
「舟、ですか」
「荷じゃねえ」
弦八さんは、それだけ言って、また引く。人を、引いてるんだ。荷の舟は、ひとりで来た。人は、ひとりでは来ないのか。
白が、ふくらんだ。舟の先が、出てきた。弦八さんが引く分しか、進まない。
人が、乗っていた。
座っている。小さい。背の低い、おばあさんだった。膝に手を置いて、まっすぐ前を向いている。
え。……おばあさん? 与太の、上が?
坂の上から、足音が下りてきた。与太だ。ぼくの横を抜けて、岸の端に立つ。舟に向かって、首を少し折った。与太が。
「舟です。人が、乗ってる。小さい、おばあさんです。……与太が、来ました。首を、下げてます」
綴さんの指が、ぼくの手を、握り返した。
舟が、板の岸にこつ、と当たる。おばあさんは、弦八さんの手を待たない。自分で立って、自分で、板に足を置いた。足もとは、しっかりしている。
腰に、鋏があった。与太のと、同じ大きさだ。ただ、柄のところに、紐が十字に、固く結んである。刃が、開かないように。母さんが帳面を縛った、あの結び方だった。
「頭」
与太が、岸の端で言った。それだけだった。
おばあさんは、ぼくを見た。
「書いた子は、あなたですね」
声が、丁寧だった。この町で、こんなふうに丁寧に頼まれるのは、初めてだ。喉の奥が、乾いた。
「……はい」
「上がりましょう。坂を。お話が、あります」
頭が先に、坂を上る。与太が続く。ぼくと綴さんと絣は、そのあとに。弦八さんは、舟を杭に結んでから、最後に来た。
土間には、人が集まっていた。
屋根の上の人たちだ。霧の中へ、下りてきている。板の床に、座っている。匙を持った手が、いくつも、動いていた。お甲さんは火のそばで、背中を向けていた。
戸口で、綴さんの手を離した。離すと、指が、ぼくの袖に移った。
頭は、板の上に座る。膝をそろえて。与太は、戸口に立ったままだ。
「霧のことです」
匙の音が、ぜんぶ、止んだ。
「霧は、底が水を押すと、出ます。あなたの底です。あなたの底が、重くなった。それだけです」
匙を持った手の上で、顔が、ひとつずつ、こっちへ向いた。
は? ぼくの、って。底って、ぼくの、あの。
「ぼく、手を切られてから、なにも書いてないです。消しても、ない」
「ええ。重さは、数ではありません」
言わない。それ以上、言わない。ぼくの底。ぼくのせいだ。霧も。
胃が、縮んだ。
袖に、綴さんの指が、強く来た。その指を、上から握った。握っていないと、立てない気がした。
言われたとおりに、受け取る。直すな。直さない。……直したい。「あなたの底です」を、「底です」に。できなかった。
「底を、切っていただけませんか。あなたの手で。ぜんぶ、まとめて」
「まとめて、って」
声が出た。頭は、こっちを見たまま、うなずいた。
「わたしたち切り屋は、一つずつしか、切れません。まとめて切れるのは、書いた人の手だけです」
書いた人の手。右の指を、握って、開いた。
「切ったら、霧は」
「引きます」
訊いてる。ぼくが。この人に。
「灯りは」
「そのままです。巻かれたものは、巻かれたままです。底だけが、なくなります」
頭は、ひとつも、言い直さなかった。
訊くことが、ある。ぼくのことじゃない。
「綴さんの目は、開きますか」
頭が、綴さんのほうを見た。初めて、少し、間があった。
「底で生まれたものは、底と一緒に、覚えたものを置いていきます」
袖の指が、強くなった。
「……置けば、開きます」
開く。開くって、言った。いま。……置いていく。なにを。
訊きかけて、袖の指が、震えているのが分かった。震えてる。うれしいんだ。そうだよな。開くんだ。
「ぼくの手は、もう切られてます。上に。だから、ぼくじゃ」
「はい。上が切った手は、底に沈めると、底を切ります。まとめて。ほかには、なにも、切りません。あなたの手だけが、できます」
逃げ道が、塞がる。この人の口で。
頭が、両手を板に置いた。額が板に近づくまで、身を折った。
「あなたのものですから」
ぼくは、下げられた白い髪を見ていた。見ていて、自分の首も、下がっていた。勝手に。なんで。ぼくが下げる側じゃ、ないだろ。
「え、あの。顔、上げてください。……ぼく、まだ、なにも」
言ってから、口を手で押さえた。土間の人たちが、こっちを見ている。首のうしろが、熱い。
火のそばから、皿が来た。お甲さんが、頭の前に置いた。握り飯。
「食ってから、言え」
「いただきます」
頭は、小さく割って、食べた。ぼくの分は、ない。
言え、と言った。ぼくにじゃない。でも、聞こえたのは、ぼくだった。
開けたい。この人の目を。霧も、晴らしたい。町の手を、動かしたい。……でも、まとめて、は。直してきた夜の、消した行の、ぜんぶを。前の形の、ぜんぶを。ぼくの手で、いっぺんに。こわい。それは、いやだ。
「……切らないです」
小さかった。頭の前で、それだけだった。膝が、震えている。
袖から、指が、離れた。
綴さんの顔は、ぼくのほうを向いている。目は、閉じたまま。なにも、言わない。
頭は、握り飯を置いた。身を、また、低くした。
「はい」
怒らない。それが、いちばん、重い。
頭が立って、戸口の与太に、小さく何か言う。与太が、顎を上へ振る。坂の上の外れへ、みんなで、上がった。弦八さんも、ついてくる。綴さんの手は、絣が引いている。ぼくの手は、空いていた。
坂の上の、石だけの床。霧の上だ。空に、糸巻きが見える。灯りのひと並びが、薄い空の中で、まだ色を持っていた。
頭が、床のまんなかに立った。空を見た。
太い音がした。綱が、下りてきた。おばあさんの、真上に。
うわ、来た。あの人に。え、ぼくじゃ、なくて。足が、半歩、出た。
「上が、受けたな」
絣が、ぼくのうしろで言った。ふり向いた。
「受けた、って、なにを」
「ばあさんの頼み。綱は、上が受けた奴にしか下りねえんだよ。……なにを頼んだかは、おれには分からねえ」
弦八さんが、綱の先の輪を、頭の腰に通した。節の太い指で、結ぶ。
頭が、ぼくを見た。
「あなたの手で。……お急ぎになりませんよう。わたしは、待てます」
綱が、張った。頭の足が、石を離れた。
「待って。上に、行くんですか。ひとりで? 戻って、くるんですか」
答えは、来なかった。
小さい体が、糸巻きの音の中へ、上がっていく。腰で、鋏が揺れていた。紐で縛った、開かない鋏が。




