第20話「晴れる」
町が、割れた。
次の日の土間に、人が、分かれて座っていた。火のそばに、お甲さんの側。戸口に近いほうに、舟の弦八さんの側。真ん中の板が、空いている。
底を、切るか。切らせないか。切るのは、ぼくの手だ。
ぼくは、その空いた板の端に、立っている。
「霧が高えと、舟が遅れる。荷が腐る」
弦八さんが言った。礼を言わない人が、こんな顔で言うのを、初めて見た。
「切るのは、書いた手だ。使わせん」
お甲さんは、火に向かったまま言う。匙を動かしたまま、弦八、と名だけ呼んだ。弦八さんは、答えない。
切る側と、切らせない側。どっちも、ぼくの手の話をしている。ぼくの前で。いや、ここにいるんですけど。手の、持ち主。
綴さんは、どっちの側でもなく、戸口の敷居に座っていた。いつも袖をつまんでいた指が、ぼくの袖に、ない。きのうから。
絣が、ぼくの横に来た。顎で、土間の屋根の隅を示す。梁の上に、ひとり、腰かけている人がいた。どっちの側にも、下りてこない。
「あいつ、名前忘れたんだよ。自分の」
「え?」
見上げた。梁の人は、こっちを見ない。
「で? あんた、どっちなの」
絣が、ぼくの顔を覗く。切らない、とは言った。でも、切らせない側に座る気も、ない。霧は、ここにある。
見せたい。切らなくても、できることがあるって。この手で。
……こわい。書いたから、手首が冷えた。たぶん。綴さんが触って、冷たい、と言った場所だ。次に書いたら、どこまで来るのか、知らない。
でも、見せたい、が、前にいる。
「ちょっと、岸まで、行ってきます」
誰も、答えなかった。戸口を、出た。
坂を下りる。白の中だ。足が、速い。考える前に、下りたいからだ。綴さんは、来ない。絣が、うしろから「で? どこ」と言って、ついてきた。
板の岸に立った。ここも、白の中だ。杭に、きのうの舟が結んである。杭からもう一本、綱が水の上へ張って、白の中へ消えている。水の上の白は、もっと濃い。足もとの板のへりから先は、なにも見えない。
スマホを出した。親指が、動く。迷ってない、って顔をしてる。指だけ。
〝入り江の霧が、晴れた。〟
打って、出した。
白は、白のままだ。
え。なんで。出したのに。……分かってる。綴さんが、先に立たないと、霧は開かない。きのう、指が離れた。
来てください。口の中で、言った。土間までは、届かない声で。
坂のほうを、見た。見てるだけだ。
石を探る足音が、下りてきた。綴さんだ。細い足。閉じた目。絣が「あ」と言った。
喉が、鳴った。
綴さんは、ぼくの横を、通った。なにも言わずに。板のへりまで、足の先で探って、立った。
ぼくも、へりに出た。この人の横に。
霧が、引いた。
水際から、向こうへ。白が、水の上を滑って、奥へ奥へ、退いていく。水の上の白だけが、引いていく。坂の白は、うしろに残ったままだ。
見える。水だ。灰色の、動かない水。こっち側の半分だけ、水がある。奥の半分は、暗い。暗いところで、白が動かなくなった。
半分。……ぼくの入り江は、ここまでなのか。
「晴れた。晴れました、綴さん。水が、見えてます。こっち側、ぜんぶ。奥は、暗いです」
言ってる。叫んでる。見えてます、って。この人に。見えない人に、ぼく、見えてますって叫んだ。口を、閉じた。
綴さんは、水のほうへ顔を向けたまま、動かない。
坂の上で、声がした。高い声。子どもたちだ。石を叩く足音が、いくつも、坂を下りてくる。ぼくの横を抜けて、板の岸の端まで走って、水を見て、動かなくなった。ふり向いて、ぼくを見た。
「舟、乗れる? あの舟、乗れる?」
「え。……あとで。たぶん。弦八さんに、訊いて」
坂の霧の中から、人が、岸へ下りてきた。戸口の側にいた人たちも、いる。板の岸に並んで、水を見た。弦八さんも、下りてきていた。
お甲さんが、岸の石のところで足をゆるめていた。腕を組んで、水を見て、ぼくを見た。
「晴れたね」
「はい。はい、晴れました」
くり返した。くり返す必要は、なかった。
弦八さんが、杭の舟の綱を解いていた。顎で、舟を示す。乗れ、ということか。
「ぼく、ですか」
「荷舟が、出てる。迎える」
暗いほうの手前で、荷舟が、動かずにいた。霧に、待たされていたのか。
綴さんの手を、取った。ぼくの手が前に出て、この人の手が、あとから来た。細い。……来てくれた。切らないって言ったのに。言ったのに、来た。
「で? おれは乗らねえよ」
絣は、杭のそばに残った。
板が、霧で濡れていた。
「綴さん、舟です。足もと、ひとつ下がります。揺れます」
舟が、揺れた。うわ。揺れる。初めてだ。水の上に、乗ってる。ぼく。足の裏が、床じゃない。座った。立っていられなかった。
「弦八さん、奥まで、行けますか。暗いほう」
弦八さんは、首を横に振った。綱から、目を上げない。
舟のへりに、杭からの張り綱が通してある。弦八さんが、それをたぐる。たぐると、舟が、進む。
進んでる。水を、割って。舟のときだけ、水が鳴る。
水の匂いだ。土と、冷えた鉄みたいな。……鉄みたいな、はやめよう。知らない匂いだ。
「この綱、誰が張ったんですか。いつから。荷舟って、毎日、来るんですか」
弦八さんは、たぐる手を止めなかった。答えは、それだった。
「綴さん。進んでます。弦八さんが、綱をたぐってます。岸は、もううしろです。水は、灰色です。奥は、暗いです」
「……音を、言ってください」
訊かれた。指が離れたときの、続きじゃない。ちゃんと、こっちを訊いてる。
「綱が、きしんでます。水が、へりで、鳴ってます。……遠くで、木がこすれてる。たぶん、荷舟」
左手を、水に入れた。ひやりとする。ガラスとは、違う。濡れる。すくって、綴さんの袖に、かけた。
「水、です」
袖が、濡れた。綴さんの指が、袖の濡れたところを、つまんだ。つまんだまま、離さなかった。
荷舟が、待っていた。荷が積まれている。誰も乗っていない。前と同じだ。……どこから来るんだろう。訊いたことが、ない。
弦八さんが張り綱を片手で押さえ、もう片方の手で荷舟のへりをつかんで、ぼくたちの舟に寄せる。
荷を、移した。弦八さんが持ち上げて、ぼくが受ける。重い。膝が、抜けそうになる。うしろの板に、置く。次を受けた。
右の腕だけ、震えた。左は、震えてない。……重いんだ、荷が。そういうことにした。弦八さんは、息を詰めて、持ち上げる。
綱をたぐって、岸へ戻る。子どもたちが、まだ、端にいる。舟のへりが板に当たった。
言うな。言わなくても、この人は分かってる。……いや。言いたい。ぼくが書いた水だ。
「弦八さん。……舟、着きましたよね」
弦八さんは、杭に綱を結ぶ。ふり向かずに言った。
「舟は、着いた。今日はな」
荷を担いで、坂を上っていく。
この人は前に、あんたの岸だ、と言った。見に来い、と。今日は、今日はな、だった。……前のほうが、よかった。直すのは、ぼくの仕事なのに。
晴れたのに。その背中を、霧の中へ入るまで、見ていた。
右の腕の、どこかが、ひやりとしている。どこかは、言いたくない。
訊きたい。どこまで、来たのか。……こわい。言われたら、本当になる。綴さんには、訊かなかった。
右の袖を、左手で押さえた。へりに、足をかけた。
綴さんの手が、ぼくの腕に来た。ぼくの左手を、どかした。袖の上を、手首から、上へ。指が、上がってくる。そこで落ち着け、と思った。落ち着いたら、そこだ。
肘の内側に、指が、置かれた。
「……肘です。次は、肩の手前です」




