第21話「開かない」
灯りが、霧の中に並んでいた。
坂の段の上から見ると、白の底に、光が、いくつか、にじんでいる。土間の火の色と、屋根の下の明かりだ。霧は、きのうより高い。段の下まで、来ている。
見上げた。空の灯りのひと並びは、白の上に、まだある。数えなかった。数えなくても、分かる。増えていない。手首の糸を切られてから、書いたぶんの灯りを、あそこに見つけたことがない。
与太は、来ていない。鋏の音が、今日は、ない。
段を下りて、白の中に入った。土間の戸口に、綴さんが座っていた。指が、ぼくの袖に来る。肘のところで、袖をつまむ。きのう、戻ってきた指だ。
「で? 今日は、なに書くの」
絣が、戸口の柱にもたれて言った。ついて来る気配は、ない。
「橋の先、です。影たちの、屋根」
言ってから、自分で驚いた。決めてなかった。口が、決めた。
見たい、が、先に立っている。あの人たちが、どこへ行ったのか。橋の先の、白の中。こわい、は、あとから来る。肘の次は、肩の手前だと、綴さんが言った。今日、現れれば、そこへ行く。それでも、下りる。
「綴さん。今日、歩けますか。坂」
「はい。……ゆっくりなら」
「ゆっくりって、どのくらいですか」
「……ゆっくりです」
はぐらかされた。
坂を下りる。綴さんの手を引いて。石を下がるたびに、この人の手が、ぼくの手に、きのうより、遅れて来る。ゆっくり、って、こういうことか。
板の岸。きのう晴らした水の上に、白が戻っていた。坂より、濃い。橋が、その白の中へ伸びている。
打つ前に、橋の先を聞いた。板を踏む音は、しない。影は、鳴らない。奥に、誰かいるのか、いないのか。音では、分からない。
打った。送った。
〝霧の奥に、影たちの屋根があった。〟
白のままだ。
知ってた。この人が先にへりに出ないと、開かない。知ってて、打った。
綴さんが、ぼくの手を離した。足の先で、板を探る。板のへりのほうへ。
一歩。
次の足が、出た。へりまで、まだ、ある。
肩が、揺れた。膝が、折れた。
「綴さん。え、待って、綴さん」
無理、間に合わない、間に合え。
抱えた。間に合ったのは、腕だけだ。目は、まだ、橋の先を探していた。見たかったんだ、ぼく。この人が折れるときまで。
軽い。
この人、こんなに。
「……すみません」
綴さんが、ぼくの腕の中で言った。
「いいです。立たないで。いいです」
ぼくは、そう言った。橋の先を、見た。白いままだ。屋根は、現れていない。
開かない。
書いた。送った。……へりまで、届かなかった。この人が。
「立てますか」
「……少し、休めば」
「少しって、どのくらいですか」
「……少しです」
少し、の長さを、この人は言わない。
「休みましょう。土間まで、ぼくが。……いいですか」
「重いです」
綴さんの唇が、そう動いた。
「軽いです」
黙られた。
抱え直した。腰のところと、膝の裏。坂を、上った。石を、足だけで探る。この人のかわりに、ぼくが探る。石の、どこが低いか。
軽い。また、思った。
知ってる、この軽さ。手首の糸を切られたとき、腕が浮いた、あれだ。なにも持っていない腕の軽さ。いま、腕には、人がいるのに。
霧の中の灯りが、近づいてくる。土間の火だ。
「お甲さん」
お甲さんは、火のそばから立って、なにも言わずに、板の床を手で払った。そこに、綴さんを下ろした。お甲さんが、綴さんの頭の下に、たたんだ布を入れた。
「置け。そこに」
匙の先が、火から少し離れた板を指した。ぼくに、だ。ぼくの場所だ。飯は、来ない。でも、場所は、来た。
座った。言われた板に。
あの戸口で、置かん、と言われた。今日は、置け。置かん、が、置け、になった。そのぶん、座った板が、あたたかかった。
綴さんは、横になったまま、閉じた目を天井に向けていた。息は、ある。袖口から、指の先が、半分しか出ていない。
ぼくのせいだ。書いたから。見たかったから。
立った。椀を取って、水を汲みに行った。土間の奥の、水の桶まで。汲んで、戻って、綴さんの口のそばに置いた。それしか、思いつかなかった。
スマホを出した。画面に、一行が、ある。
〝霧の奥に、影たちの屋根があった。〟
現れていない。ここから見えるところには、なにも。この一行は、画面にだけ、ある。この人がへりに出れば、現れる。出れば。
消したい。……前は。前は、どうしてた。送ったものを、消したことはない。上書きは、した。消すのは、送る前の版だった。いつも。
前の形なら、ぜんぶ、ぼくの頭にある。ぼくの頭にしか、ない。
親指が、一行の上に、いる。
見たい。まだ、見たい。影たちの屋根。この一行は、現れれば、ぼくの話だ。
……また、へりまで行かせたら、次は、起きないかもしれない。こわい。こわいが、先に来た。置け、と言われた板の上で、この人を、もう一回、倒すのか。
消した。
これで、この一行も、ぼくの頭の中にしかない。
「書かないです。今日は」
声に出した。綴さんに向けて。聞こえているかは、分からない。この人のために書いたことなら、何度もある。消したのは、初めてだ。
絣が、戸口の柱から離れて、こっちを見た。
「で? 書かねえの」
「書かないです。消しました」
絣は、鼻で息を吐いて、また柱に戻った。
綴さんの口が、動いた。
小さい声だった。目は、閉じたままだ。でも、寝言じゃない。顔が、ぼくの声のほうを向いている。ぼくは、顔を、口のそばまで下げた。
「……ほどいてから、結んだ。そのほうが、好きでした」
ほどいて。
結び直す場面だ。荷運び係の。剣士の荷の紐を、黙って結び直して、渡す。送った版には、ほどく、がない。
ほどいてから結ぶ形は……頭の中で、組んだ。組んで、長い、と思って、やめた。指は、動かしていない。誰にも、言っていない。前の形が見えていることも。
なんで、知ってる。
綴さんのまぶたは、閉じたままだった。口だけが、もう一度、動いた。
「打たなかったのに」




