第22話「言えないなら」
空が薄くなるころに、猫が戸を開けた。
向こうの町の戸をくぐって、敷居をまたいだ。アーケードの空気が、顔に当たる。うしろで戸が閉まった。ふり向くと、汀書房のガラスは、もう乾いていた。
濡れていれば、入れる。乾いていれば、入れない。
その夜、川のほうで、花火の音がした。窓は、開けなかった。
次の日も、乾いていた。その次の日も。
学校の始まる日が過ぎた。ぼくは、祖母の家にいた。母さんは、なにも言わなかった。ぼくは日が落ちる前に、ガラスを見に行って、戻る。それを、くり返した。
小説の続きを打とうとすると、土間の板の上で目を閉じていた人の、袖口が、頭に出てくる。出てきたところで、親指が止まる。
日曜の朝、ポケットが震えた。
——駅。昼前。
巴だった。
駅は、祖母の家からアーケードを抜けて、坂を越えたところにある。出入り口は、改札だけ。駅員はいない。ホームの向こうに、山がある。駅の裏で、バスが出ていく音がした。
電車が来て、人が降りた。
バスケ部の日焼けが、改札を抜けてきた。片手に、紙の束。
「お。汐見。生きてたか」
巴は、ぼくの前で止まらなかった。横に来て、肩を、紙の束で叩いた。
「課題。おまえのぶん。先生に、おれが持ってく、って言った。新幹線、高えんだよ。帰ったら、アイス、倍にして返せよ」
受け取った。重かった。
「おまえ、痩せた?」
口を開けた。痩せてない、でいい。出なかった。
巴は、ぼくの顔を見てから、駅前の店のほうへ歩いた。
「アイス。おれがおごる。帰ってきたらおまえが、って言ったけど、帰ってこねえから。高いやつじゃねえけどな」
袋を破って、片方を、ぼくの手に押しつけた。手の中で、かたい。袋のふちが、もう濡れている。右の肘の内側が、ひやりとした。アイスのせいじゃない。
「食え。溶けるぞ」
歩きながら、巴がしゃべった。
「学年主任な、集会で名簿読んで、おまえのこと『しおみず』って呼んだからな。おれ、訂正しといた。しおみ、です、って。おまえのかわりに」
ぼくは、アイスをかじって、うなずいた。かじりながら、口の端が動いたのが分かった。
坂を越えるとき、巴が、川のほうを見た。
「花火って、この川か。見たのか」
ぼくは、首を横に振った。それは、できた。
「見てねえのか。そっか」
巴は、スマホを出して、川を撮った。ふつうの川だ。花火の跡なんて、どこにもない。
「送っとく。おまえのかわりに、おれが撮った」
祖母の家の門の前で、隣の家の縁側から、声が来た。秋良さんが、座っていた。じょうろは、足もとにある。
「友だちか」
秋良さんが、ぼくではなく、巴を見て言った。
巴が、うなずいた。
「汐見の、ただひとりの。こいつ、ほかにいないんで」
秋良さんは、なにもないところを、しばらく見ていた。それから、自分の麦茶のコップを、縁側の端に寄せた。
「飲んどけ。氷は、ひとつきりだがな」
巴は、隣の庭に入って、縁側には座らなかった。庭の石に片足を乗せて、麦茶を飲んだ。氷が、コップの中で鳴った。
「秋まで、って先生が言ってた。ほんとかよ。おまえの机、空けとく気ねえぞ、おれ。荷物置き場にする」
言い返したい。置くな、でいい。短い。口の中を、探した。形が、なかった。前は、形だけはあった。出口がないだけだった。
出ない口を、巴に見られるのが、こわい。
ポケットのスマホを出した。文字でなら。巴とのやりとりの欄を開いて、「お」と打った。置くな、の、お。次が、来なかった。画面を巴のほうへ傾けかけて、やめた。お、を消した。
スマホをポケットに戻した。指に、アイスの棒が当たった。握った。
巴は、麦茶を飲んだ。
「あらすじ、また変えてねえな。いいよ、それで」
小説を読まない奴が、あらすじだけは見ている。アイスのときに動いた口の端が、今度は、動かなかった。ぼくは、うなずいた。
垣根の向こうで、祖母の家の台所の戸が開いて、母さんが顔を出した。
「あら。お友だち?」
「巴です。汐見の、クラスの。おじゃましてます」
「ああ。……ごはん、食べる?」
巴は、麦茶のコップを縁側に置いた。
「食います」
母さんが、笑った。巴のほうを向いて。
飯のあいだ、巴がしゃべって、母さんが相づちを打った。巴は、焼いた魚を、頭から食べた。母さんが、骨を取る箸を止めて、それを見ていた。
「汐見、おまえの母さん、魚うまいな」
ぼくは、うなずいた。
「……おまえ、今日なんも言ってねえな」
巴が、茶碗を置いた。
「いいよ。言えないなら、聞かない。おれがしゃべる。聞け」
肩が、下がった。もう答えなくていい、と、体が先に楽になっていた。楽になったのが、いちばん、いやだった。
巴は、飯のあいだ、それきり、ぼくに訊かなかった。醤油を取るときも、ぼくの手もとだけを見た。
母さんは、ぼくの顔を見なかった。
夕方、駅まで送った。坂の途中で、巴が、川をもう一度見た。なにも言わなかった。
改札の前で、巴は、後ろ向きに歩きながら言った。
「次は、おまえがこっち来んの。新幹線代、自分で出せよ。おれは、もう来ねえから」
言いながら、改札に入った。
ホームで、巴が手を上げた。
ぼくも、上げた。声は、出なかった。巴は、それを見て、電車に乗った。電車が出ても、ぼくは、下ろさなかった。
坂を越えて、アーケードに入った。手は、いつ下ろしたのか、覚えていない。日は、まだ落ちていない。
抜けきる前に、汀書房のガラスが目に入った。
濡れている。
濡れたガラスに、手が映った。気がつくと、また、上げていた。




