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八十八回目の夏 〜ぜんぶ読んでいた人が、ひとりだけいた〜  作者: ざわん


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第22話「言えないなら」

空が薄くなるころに、猫が戸を開けた。


向こうの町の戸をくぐって、敷居をまたいだ。アーケードの空気が、顔に当たる。うしろで戸が閉まった。ふり向くと、汀書房《みぎわしょぼう》のガラスは、もう乾いていた。


濡れていれば、入れる。乾いていれば、入れない。


その夜、川のほうで、花火の音がした。窓は、開けなかった。


次の日も、乾いていた。その次の日も。


学校の始まる日が過ぎた。ぼくは、祖母の家にいた。母さんは、なにも言わなかった。ぼくは日が落ちる前に、ガラスを見に行って、戻る。それを、くり返した。


小説の続きを打とうとすると、土間の板の上で目を閉じていた人の、袖口が、頭に出てくる。出てきたところで、親指が止まる。


日曜の朝、ポケットが震えた。


——駅。昼前。


巴《ともえ》だった。


駅は、祖母の家からアーケードを抜けて、坂を越えたところにある。出入り口は、改札だけ。駅員はいない。ホームの向こうに、山がある。駅の裏で、バスが出ていく音がした。


電車が来て、人が降りた。


バスケ部の日焼けが、改札を抜けてきた。片手に、紙の束。


「お。汐見《しおみ》。生きてたか」


巴は、ぼくの前で止まらなかった。横に来て、肩を、紙の束で叩いた。


「課題。おまえのぶん。先生に、おれが持ってく、って言った。新幹線、高えんだよ。帰ったら、アイス、倍にして返せよ」


受け取った。重かった。


「おまえ、痩せた?」


口を開けた。痩せてない、でいい。出なかった。


巴は、ぼくの顔を見てから、駅前の店のほうへ歩いた。


「アイス。おれがおごる。帰ってきたらおまえが、って言ったけど、帰ってこねえから。高いやつじゃねえけどな」


袋を破って、片方を、ぼくの手に押しつけた。手の中で、かたい。袋のふちが、もう濡れている。右の肘の内側が、ひやりとした。アイスのせいじゃない。


「食え。溶けるぞ」


歩きながら、巴がしゃべった。


「学年主任な、集会で名簿読んで、おまえのこと『しおみず』って呼んだからな。おれ、訂正しといた。しおみ、です、って。おまえのかわりに」


ぼくは、アイスをかじって、うなずいた。かじりながら、口の端が動いたのが分かった。


坂を越えるとき、巴が、川のほうを見た。


「花火って、この川か。見たのか」


ぼくは、首を横に振った。それは、できた。


「見てねえのか。そっか」


巴は、スマホを出して、川を撮った。ふつうの川だ。花火の跡なんて、どこにもない。


「送っとく。おまえのかわりに、おれが撮った」


祖母の家の門の前で、隣の家の縁側から、声が来た。秋良《あきら》さんが、座っていた。じょうろは、足もとにある。


「友だちか」


秋良さんが、ぼくではなく、巴を見て言った。


巴が、うなずいた。


「汐見の、ただひとりの。こいつ、ほかにいないんで」


秋良さんは、なにもないところを、しばらく見ていた。それから、自分の麦茶のコップを、縁側の端に寄せた。


「飲んどけ。氷は、ひとつきりだがな」


巴は、隣の庭に入って、縁側には座らなかった。庭の石に片足を乗せて、麦茶を飲んだ。氷が、コップの中で鳴った。


「秋まで、って先生が言ってた。ほんとかよ。おまえの机、空けとく気ねえぞ、おれ。荷物置き場にする」


言い返したい。置くな、でいい。短い。口の中を、探した。形が、なかった。前は、形だけはあった。出口がないだけだった。


出ない口を、巴に見られるのが、こわい。


ポケットのスマホを出した。文字でなら。巴とのやりとりの欄を開いて、「お」と打った。置くな、の、お。次が、来なかった。画面を巴のほうへ傾けかけて、やめた。お、を消した。


スマホをポケットに戻した。指に、アイスの棒が当たった。握った。


巴は、麦茶を飲んだ。


「あらすじ、また変えてねえな。いいよ、それで」


小説を読まない奴が、あらすじだけは見ている。アイスのときに動いた口の端が、今度は、動かなかった。ぼくは、うなずいた。


垣根の向こうで、祖母の家の台所の戸が開いて、母さんが顔を出した。


「あら。お友だち?」


「巴です。汐見の、クラスの。おじゃましてます」


「ああ。……ごはん、食べる?」


巴は、麦茶のコップを縁側に置いた。


「食います」


母さんが、笑った。巴のほうを向いて。


飯のあいだ、巴がしゃべって、母さんが相づちを打った。巴は、焼いた魚を、頭から食べた。母さんが、骨を取る箸を止めて、それを見ていた。


「汐見、おまえの母さん、魚うまいな」


ぼくは、うなずいた。


「……おまえ、今日なんも言ってねえな」


巴が、茶碗を置いた。


「いいよ。言えないなら、聞かない。おれがしゃべる。聞け」


肩が、下がった。もう答えなくていい、と、体が先に楽になっていた。楽になったのが、いちばん、いやだった。


巴は、飯のあいだ、それきり、ぼくに訊かなかった。醤油を取るときも、ぼくの手もとだけを見た。


母さんは、ぼくの顔を見なかった。


夕方、駅まで送った。坂の途中で、巴が、川をもう一度見た。なにも言わなかった。


改札の前で、巴は、後ろ向きに歩きながら言った。


「次は、おまえがこっち来んの。新幹線代、自分で出せよ。おれは、もう来ねえから」


言いながら、改札に入った。


ホームで、巴が手を上げた。


ぼくも、上げた。声は、出なかった。巴は、それを見て、電車に乗った。電車が出ても、ぼくは、下ろさなかった。


坂を越えて、アーケードに入った。手は、いつ下ろしたのか、覚えていない。日は、まだ落ちていない。


抜けきる前に、汀書房のガラスが目に入った。


濡れている。


濡れたガラスに、手が映った。気がつくと、また、上げていた。


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