第23話「消された言葉」
「音を、言ってください。底へ」
通路の板の上に、綴さんが座っていた。前に来た日、土間の床で目を閉じていた人が、ここにいる。背中が、本棚についている。顔は、ぼくの足音のほうを向いた。
「立てるんですか。あの日、あんなに」
「立てます。……今日は」
袖から、指の先が出ている。あの日より、少しだけ。出てる。肩が、下りた。下りてから、ずっと上がっていたのが分かった。
「底、ですか。なんで、底」
「列を、戻せますか。橋の先から、岸へ」
橋の先。ぼくが、屋根を書こうとして、開かなかった先だ。
「聞きたいんですか。あの人たちの、音」
「はい」
坂を下りた。霧は、あの日と同じ高さだ。段の下から、白。この人の手を引いて、石を、足で数えずに下りる。
「石、下がります。次の石です。……段が、終わりました。白の中です」
言いながら、気づいていた。ぼくは、この人の目をやっている。見えない朝に、この人がぼくにやったことの、まねだ。
言ってから、首のうしろが熱くなった。
底に出た。
ここは、白が低い。頭のすぐ上に、白。足もとと、水際の縁は、見える。動かない水と、水際の陸。踏み抜かれた渡し場の板が、脇に傾いている。
水際の陸は、空いていた。縁に沿って、影たちが立っていた場所に、なにもない。奥の暗いところも、動かない。水は、黙っている。
遠くで、白が、動いた。橋の先だ。白の中で、白いものがゆっくり入れ替わるのだけが、見える。
「いる、と思います。橋の先に。白が、動いてます。聞こえません」
「……そこでは、遠すぎます」
綴さんの手が、ぼくの袖をつまんだ。肘の、少し上を。
戻したい。ここへ。この人に、聞かせたい。あの人たちの、ぼくの消した言葉を。
……こわい。書いて、現れれば、冷えが上がる。肘の次は、肩の手前だ。この人が言った。肩の、次は。……知らない。知らないのが、こわい。
それと、もう一つ。現れるには、この人が、へりに出る。へりまで行けずに倒れた人を、また、へりへ。
でも、聞かせたい、のほうが、前にいる。この人は、ぼくの消したものを、ぜんぶ、聞いていた人だ。
スマホを出した。
〝影たちは、橋を戻って、岸に並んだ。〟
打った。送った。
「送りました」
綴さんが、袖を離した。足の先で、陸を探る。水際の、へりまで。
「ゆっくり。前が、水です。……そこ。そこで、いいです」
あの日崩れた人が、へりに立った。立った。膝は、折れていない。
白が、割れた。
橋の先から、影たちが戻ってくる。顔を上げないまま、列のまま。足音は、来ない。
出てる。うわ、ほんとに戻ってくる。書いたら、戻るんだ。
「戻ってきた。綴さん、戻ってきます」
順に、陸に下りて、縁に並ぶ。手前に、立っている影。奥に、座っている影。その向こうが、ひとつぶん、空いている。荷を背負った肩は、いない。あの人は、坂を上ったままだ。
綴さんは、へりに立ったまま、動かなかった。列の端と、同じ並びに。指の先が、袖の中へ、引っこんだ。通路で、出ていたぶんが。
「並んでます。手前の人、顔を上げてないです。奥に、座ってる人。それから……」
綴さんが、こっちへ、来た。手が、ぼくの右の腕を、たどる。肘を過ぎて、上へ。止まった。
「……肩の、手前です」
言われた場所が、ひやりとした。肩の、手前。次は、肩。……え、次って。
訊きたい。この人のことを。訊いたら、この人は、自分のことは言わない。だから訊かない。……それは、嘘だ。嘘だけど、その先を、考えない。
「綴さん。あの、綴さんは」
「で? あんた、なんなの」
うしろから、声が来た。絣だ。底まで、下りてきている。すぐうしろに。手に、布に包んだものを持っている。綴さんのほうへ、顎を向けた。
「お甲さんが、言ってた。底から来た子だって。底から来た、って、なに」
綴さんは、絣のほうへ顔を向けなかった。列のほうへ、向けたままだった。
「わたしは、読まれないまま、消された言葉です」
「なにそれ」
「ここで、生まれました。底で」
列が、動いた。
影たちが、顔を上げた。手前の人も、奥の座っている人も、いっせいに。顔は、薄くて見えない。でも、上がった。綴さんの声のほうへ。
手前の影の、口のあたりを見た。言う? なにを? ……動かない。この人たちが言うのは、ぼくの書いた言葉だ。それ以外を、聞いたことがない。上げただけだ。
上げた。書いてない。ぼく、それ、書いてない。
「……上げました。みんな、顔。綴さんの、ほうに」
息を吐いて、言った。綴さんは、返事をしなかった。
「去年の夏の、はじめから。……あなたが消すたび、列が、増えました」
去年の夏。書きはじめた、あの夏。いちばん古い感想は、いつだった。
「あなたが、消したものです。わたしも、です」
「消してない。ぼく、綴さんなんか、書いてない」
声が、出ていた。言ってから、頭の中を探した。待って。いつ。どれだ。ぼくは、ぜんぶ、覚えてるはずだ。どの版で足して、どの版で引いたか。……この人の形をした行が、ない。
打たなかったのに、と、この人は言った。打たなかったものは、ぼくの頭の中にしか、ない。その頭の中に、この人が、いない。
ぼくの消したものが、この人。ぼくの橋を、先に歩いた人。ぼくの腕の中で、軽かった人。
知りたい。……知りたく、ない。
「じゃあ、綴さんは、ぼくが——」
訊きかけた。
「……訊きませんでしたね」
綴さんの顔が、列から、離れた。ぼくのほうへ向く。閉じたまぶたが、ぼくの顔の高さに来る。
「こわかったから、でしょう」
「……はい」
言ってしまった。はい、って。
知らないまま、この人に、やらせていた。へりに、立たせて。倒れさせて。ぼくの消したものに。
顔が、熱い。
絣が、布の包みを開いて、握り飯をぼくの手に押しつけた。
「食えよ。顔、ひどいぞ」
握った。半分、割った。半分を、絣に返した。もらいっぱなしは、なしだ。ここでは。絣は、受け取って、口に入れた。
「半分でも、つけとくからな。で? あんた、消された言葉なんだろ。じゃあ、なんで、あんたは濃いの。あいつらは、薄いのに」
綴さんは、答えなかった。
「……綴さんは、なにが、ほしいんですか」
訊けた。これは、訊けた。
「あなたの話が、巻かれて、灯りになって、残ってほしい」
巻かれて、って。切られたのに。ぼくの手。右の手首を見た。糸の跡は、ない。
「わたしだけが覚えているのは、いやです」
答えなきゃ。……形が、ない。巴の前と、同じだ。
列の顔は、上がったままだった。綴さんの顔は、また、そっちへ戻っていた。閉じたまぶたが向いていたのは、ぼくではなかった。列だった。




