↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
八十八回目の夏 〜ぜんぶ読んでいた人が、ひとりだけいた〜  作者: ざわん


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
23/31

第23話「消された言葉」

「音を、言ってください。底へ」


通路の板の上に、綴《つづり》さんが座っていた。前に来た日、土間の床で目を閉じていた人が、ここにいる。背中が、本棚についている。顔は、ぼくの足音のほうを向いた。


「立てるんですか。あの日、あんなに」


「立てます。……今日は」


袖から、指の先が出ている。あの日より、少しだけ。出てる。肩が、下りた。下りてから、ずっと上がっていたのが分かった。


「底、ですか。なんで、底」


「列を、戻せますか。橋の先から、岸へ」


橋の先。ぼくが、屋根を書こうとして、開かなかった先だ。


「聞きたいんですか。あの人たちの、音」


「はい」


坂を下りた。霧は、あの日と同じ高さだ。段の下から、白。この人の手を引いて、石を、足で数えずに下りる。


「石、下がります。次の石です。……段が、終わりました。白の中です」


言いながら、気づいていた。ぼくは、この人の目をやっている。見えない朝に、この人がぼくにやったことの、まねだ。


言ってから、首のうしろが熱くなった。


底に出た。


ここは、白が低い。頭のすぐ上に、白。足もとと、水際の縁は、見える。動かない水と、水際の陸。踏み抜かれた渡し場の板が、脇に傾いている。


水際の陸は、空いていた。縁に沿って、影たちが立っていた場所に、なにもない。奥の暗いところも、動かない。水は、黙っている。


遠くで、白が、動いた。橋の先だ。白の中で、白いものがゆっくり入れ替わるのだけが、見える。


「いる、と思います。橋の先に。白が、動いてます。聞こえません」


「……そこでは、遠すぎます」


綴さんの手が、ぼくの袖をつまんだ。肘の、少し上を。


戻したい。ここへ。この人に、聞かせたい。あの人たちの、ぼくの消した言葉を。


……こわい。書いて、現れれば、冷えが上がる。肘の次は、肩の手前だ。この人が言った。肩の、次は。……知らない。知らないのが、こわい。


それと、もう一つ。現れるには、この人が、へりに出る。へりまで行けずに倒れた人を、また、へりへ。


でも、聞かせたい、のほうが、前にいる。この人は、ぼくの消したものを、ぜんぶ、聞いていた人だ。


スマホを出した。


〝影たちは、橋を戻って、岸に並んだ。〟


打った。送った。


「送りました」


綴さんが、袖を離した。足の先で、陸を探る。水際の、へりまで。


「ゆっくり。前が、水です。……そこ。そこで、いいです」


あの日崩れた人が、へりに立った。立った。膝は、折れていない。


白が、割れた。


橋の先から、影たちが戻ってくる。顔を上げないまま、列のまま。足音は、来ない。


出てる。うわ、ほんとに戻ってくる。書いたら、戻るんだ。


「戻ってきた。綴さん、戻ってきます」


順に、陸に下りて、縁に並ぶ。手前に、立っている影。奥に、座っている影。その向こうが、ひとつぶん、空いている。荷を背負った肩は、いない。あの人は、坂を上ったままだ。


綴さんは、へりに立ったまま、動かなかった。列の端と、同じ並びに。指の先が、袖の中へ、引っこんだ。通路で、出ていたぶんが。


「並んでます。手前の人、顔を上げてないです。奥に、座ってる人。それから……」


綴さんが、こっちへ、来た。手が、ぼくの右の腕を、たどる。肘を過ぎて、上へ。止まった。


「……肩の、手前です」


言われた場所が、ひやりとした。肩の、手前。次は、肩。……え、次って。


訊きたい。この人のことを。訊いたら、この人は、自分のことは言わない。だから訊かない。……それは、嘘だ。嘘だけど、その先を、考えない。


「綴さん。あの、綴さんは」


「で? あんた、なんなの」


うしろから、声が来た。絣《かすり》だ。底まで、下りてきている。すぐうしろに。手に、布に包んだものを持っている。綴さんのほうへ、顎を向けた。


「お甲《こう》さんが、言ってた。底から来た子だって。底から来た、って、なに」


綴さんは、絣のほうへ顔を向けなかった。列のほうへ、向けたままだった。


「わたしは、読まれないまま、消された言葉です」


「なにそれ」


「ここで、生まれました。底で」


列が、動いた。


影たちが、顔を上げた。手前の人も、奥の座っている人も、いっせいに。顔は、薄くて見えない。でも、上がった。綴さんの声のほうへ。


手前の影の、口のあたりを見た。言う? なにを? ……動かない。この人たちが言うのは、ぼくの書いた言葉だ。それ以外を、聞いたことがない。上げただけだ。


上げた。書いてない。ぼく、それ、書いてない。


「……上げました。みんな、顔。綴さんの、ほうに」


息を吐いて、言った。綴さんは、返事をしなかった。


「去年の夏の、はじめから。……あなたが消すたび、列が、増えました」


去年の夏。書きはじめた、あの夏。いちばん古い感想は、いつだった。


「あなたが、消したものです。わたしも、です」


「消してない。ぼく、綴さんなんか、書いてない」


声が、出ていた。言ってから、頭の中を探した。待って。いつ。どれだ。ぼくは、ぜんぶ、覚えてるはずだ。どの版で足して、どの版で引いたか。……この人の形をした行が、ない。


打たなかったのに、と、この人は言った。打たなかったものは、ぼくの頭の中にしか、ない。その頭の中に、この人が、いない。


ぼくの消したものが、この人。ぼくの橋を、先に歩いた人。ぼくの腕の中で、軽かった人。


知りたい。……知りたく、ない。


「じゃあ、綴さんは、ぼくが——」


訊きかけた。


「……訊きませんでしたね」


綴さんの顔が、列から、離れた。ぼくのほうへ向く。閉じたまぶたが、ぼくの顔の高さに来る。


「こわかったから、でしょう」


「……はい」


言ってしまった。はい、って。


知らないまま、この人に、やらせていた。へりに、立たせて。倒れさせて。ぼくの消したものに。


顔が、熱い。


絣が、布の包みを開いて、握り飯をぼくの手に押しつけた。


「食えよ。顔、ひどいぞ」


握った。半分、割った。半分を、絣に返した。もらいっぱなしは、なしだ。ここでは。絣は、受け取って、口に入れた。


「半分でも、つけとくからな。で? あんた、消された言葉なんだろ。じゃあ、なんで、あんたは濃いの。あいつらは、薄いのに」


綴さんは、答えなかった。


「……綴さんは、なにが、ほしいんですか」


訊けた。これは、訊けた。


「あなたの話が、巻かれて、灯りになって、残ってほしい」


巻かれて、って。切られたのに。ぼくの手。右の手首を見た。糸の跡は、ない。


「わたしだけが覚えているのは、いやです」


答えなきゃ。……形が、ない。巴《ともえ》の前と、同じだ。


列の顔は、上がったままだった。綴さんの顔は、また、そっちへ戻っていた。閉じたまぶたが向いていたのは、ぼくではなかった。列だった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。