第24話「ひとりでいい」
太い音が、白の上から下りてきた。
底にいても、分かる。糸巻きの音だ。綱が、動いている。影たちの顔が、上がったまま、空のほうへ少しずれた。綴さんの顔も。
「綱です。……外れに、来ます」
坂を上った。底から、霧の中を、霧の上へ。絣が先で、綴さんの手はぼくが引いて、ぼくの右の腕は、肩の手前まで、ひやりとしたままだ。
坂の上の、石だけの床。霧の上だ。空に、糸巻き。灯りのひと並び。
綱は、もう下りていた。床のまんなかに。その先に、小さい人が、石の上に、足を着けていた。腰で、鋏が揺れている。紐で縛った鋏。
頭だ。
弦八さんが、頭の腰の輪に、指をかけていた。節の太い指が、結び目に親指を入れる。一度では、ほどけない。もう一度。輪が、小さい腰から、落ちた。綱が、軽くなって、揺れた。
与太が、床の端に立っていた。鋏に手をかけたまま、なにも言わない。
頭が、ぼくを見た。前と同じ、丁寧な、小さい顔で。
「上は、受けました。あなたの手で、と」
やっぱり、それか。あの日、受けた、とだけ聞いた。中身は、これだ。底を、ぼくの手で、まとめて。
「ぼくは、切らないって言いました」
「はい。わたしは、待てます」
与太が、鋏の柄を、指で叩いた。音だけ。
待たれてる。切れって言われてるのと、どこが違うんだ。……でも、待つなら、時間はある。綴さんと、ふたりで、別の道を探せばいい。
綱が、上がっていった。空になった輪が、糸巻きの音の中へ、戻っていく。
綴さんの手が、ぼくのシャツを引いた。肘の、上を。
「……わたしの、言ったことは」
底で、この人は言った。巻かれて、灯りになって、残ってほしい。わたしだけが覚えているのは、いやです。答えなかった。形が、なかった。
いまは、ある。……いや。ずっと、あった。去年の夏から。言う相手が、いなかっただけだ。いまは、いる。
この人だけに、読まれていたい。それで、この人がへりに立って、指が減っていく。それが、こわい。こわいのに、ほかの誰かに読まれるほうが、もっと、こわい。言わないと、この人は、また、黙って列のほうを向く。
「ひとりでいい」
声が、出た。
「ひとりだけ、読んでくれる人がいたら、それで」
それで、の先が、出なかった。去年の夏は、よかった、まで言えた。ぼくの中でなら。いまは、それで、で止まる。止まった先を、この人が、聞いている。
「……それが、いやです」
綴さんの顔が、まっすぐ、ぼくを向いた。
いや、って。なんで。口が、勝手に動いた。
「いやって。綴さんが、読んでくれてる。ぼくの、消したのまで。それで、足りてる。足りてるんですよ、ぼくは。ほかに、誰が」
「足りていません」
綴さんの声は、低くならなかった。いつもの高さのまま、はっきり言った。
「足りてます」
「あなたの話は、わたしひとりには、大きすぎます」
大きすぎる、って。褒められた。……いや、これ、褒めてるのか。腹の底が、熱い。
「大きくないです。ぼくの話は、ひとりぶんです。ひとりに、読まれれば」
「わたしは、消えます」
息が、詰まった。消える、って。この人が。いま、ぼくのシャツを、引いてる、この人が。
「わたしが消えたら。……あなたの消した話を、覚えている人が、いなくなります」
「消させない」
「切る、切らないは、あなたのものです。わたしのものでは、ありません」
ぼくのもの。ぼくのものばっかりだ。手も、底も、この人も。ぼくのだって言うなら、なんで、ぼくの言うこと、聞いてくれないんだ。
袖が、薄い。言い返す途中で、目が、そっちへ行った。袖から、指が出ていない。底で引っこんだまま、出てこない。この人は、へりに立つたび、減ってる。
「じゃあ、どうしろって」
「わたしが、上へ行きます」
綴さんが、綱の消えた空を向いた。
「手の糸を、戻してもらいに。あなたの手の」
「戻るんですか。切られたのが」
「戻らないと、言われるかもしれません。戻れば、あなたの話は、また、巻かれます」
巻かれる。この人の欲は、そこにつながってる。ぼくの手に。
「それでも、訊きます。わたしが」
わたしが、って。訊かないのは、ぼくだ。訊いたら、答えが来る。来る答えが、こわい。それだけだ。
「待って。待ってください。上に、綴さんが。ひとりで? 呼ばれてないのに。綱は、上が受けた人にしか」
「おれが言いに行く」
絣だった。頭のほうを見て、顎を上げた。
「借りだぞ。でかいやつな。頭。綱、もう一回、来るか」
頭が、絣を見た。それから、空を見た。
「わたしの用は、済みました。あなたの頼みなら、上は、聞くかもしれません。聞かないかもしれません」
絣は、答えを待たなかった。床のまんなかで空を見上げて、両手を口に当てて、吸った。
「おい、上! 下の者だ! 頼みがある!」
声が、糸巻きの音の中へ、吸われた。音は、太さを変えない。……変えた。綱が、下りてくる。輪が、石の上で、一度跳ねた。
絣が、輪を自分の腰に回した。弦八さんが、黙って、結んだ。
「言ってくる。待ってろ」
綱が、張った。絣の足が、石を離れて、上がっていった。
待った。糸巻きの音は、何度か、太くなって、戻った。頭は、石の上に、座った。小さく。与太は、立ったまま。
綴さんは、ぼくのシャツを、離さなかった。
「上で、ぼくの悪口、言わないでくださいね」
言ったのは、ぼくだ。言ってから、顔が熱くなった。なにを言ってるんだ、ぼくは。
「言いません」
短かった。短いのに、袖は、離れなかった。
太い音が、変わった。
綱が、下りてくる。絣が、ぶら下がって。石に足を着けると、弦八さんが、輪をほどいた。
「通った。借り、増えたからな」
弦八さんが、空いた輪を持ち上げた。綴さんが、シャツを離して、輪のほうへ歩いた。足の先で、石を探って。弦八さんの手が、綴さんの腰に、輪を回す。結ぶ。
「ぼくも」
言った。考えるより、先に。
綱の余りに、手を伸ばした。あの日、この人は、こうやって結んだ。ぼくの隣で。
節の太い指が、ぼくの手首を、押さえた。結ぶ前に。
「呼ばれてねえ」
「でも。あの日、ぼくは」
「あの日は、おれが乗せた。呼ばれてねえのを。……その手になった。二度は、せん」
手を、離された。綱を、引いた。動かない。上から、誰かが、押さえている。もう一度、引いた。同じだった。
呼ばれてない。……知ってた。あの日も、呼ばれてはいなかった。乗れたのに。
手を、離した。腰が、落ちた。石の上に、座っていた。頭と、同じ石だ。待てます、と言った人と、同じ高さ。
綱が、張った。綴さんの足が、石を離れた。
「綴さん。上で、なにを」
「訊いてきます」
戻ってくるのか、とは、訊けなかった。
袖が、上がっていく。薄い袖が、糸巻きの音の中へ。灯りのひと並びが、その上に、ある。増えていない。手首を切られてから、ずっと。
袖が、空に、消えた。




