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八十八回目の夏 〜ぜんぶ読んでいた人が、ひとりだけいた〜  作者: ざわん


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第24話「ひとりでいい」

太い音が、白の上から下りてきた。


底にいても、分かる。糸巻きの音だ。綱が、動いている。影たちの顔が、上がったまま、空のほうへ少しずれた。綴《つづり》さんの顔も。


「綱です。……外れに、来ます」


坂を上った。底から、霧の中を、霧の上へ。絣《かすり》が先で、綴さんの手はぼくが引いて、ぼくの右の腕は、肩の手前まで、ひやりとしたままだ。


坂の上の、石だけの床。霧の上だ。空に、糸巻き。灯りのひと並び。


綱は、もう下りていた。床のまんなかに。その先に、小さい人が、石の上に、足を着けていた。腰で、鋏《はさみ》が揺れている。紐で縛った鋏。


頭《かしら》だ。


弦八《げんぱち》さんが、頭の腰の輪に、指をかけていた。節の太い指が、結び目に親指を入れる。一度では、ほどけない。もう一度。輪が、小さい腰から、落ちた。綱が、軽くなって、揺れた。


与太《よた》が、床の端に立っていた。鋏に手をかけたまま、なにも言わない。


頭が、ぼくを見た。前と同じ、丁寧な、小さい顔で。


「上は、受けました。あなたの手で、と」


やっぱり、それか。あの日、受けた、とだけ聞いた。中身は、これだ。底を、ぼくの手で、まとめて。


「ぼくは、切らないって言いました」


「はい。わたしは、待てます」


与太が、鋏の柄を、指で叩いた。音だけ。


待たれてる。切れって言われてるのと、どこが違うんだ。……でも、待つなら、時間はある。綴さんと、ふたりで、別の道を探せばいい。


綱が、上がっていった。空になった輪が、糸巻きの音の中へ、戻っていく。


綴さんの手が、ぼくのシャツを引いた。肘の、上を。


「……わたしの、言ったことは」


底で、この人は言った。巻かれて、灯りになって、残ってほしい。わたしだけが覚えているのは、いやです。答えなかった。形が、なかった。


いまは、ある。……いや。ずっと、あった。去年の夏から。言う相手が、いなかっただけだ。いまは、いる。


この人だけに、読まれていたい。それで、この人がへりに立って、指が減っていく。それが、こわい。こわいのに、ほかの誰かに読まれるほうが、もっと、こわい。言わないと、この人は、また、黙って列のほうを向く。


「ひとりでいい」


声が、出た。


「ひとりだけ、読んでくれる人がいたら、それで」


それで、の先が、出なかった。去年の夏は、よかった、まで言えた。ぼくの中でなら。いまは、それで、で止まる。止まった先を、この人が、聞いている。


「……それが、いやです」


綴さんの顔が、まっすぐ、ぼくを向いた。


いや、って。なんで。口が、勝手に動いた。


「いやって。綴さんが、読んでくれてる。ぼくの、消したのまで。それで、足りてる。足りてるんですよ、ぼくは。ほかに、誰が」


「足りていません」


綴さんの声は、低くならなかった。いつもの高さのまま、はっきり言った。


「足りてます」


「あなたの話は、わたしひとりには、大きすぎます」


大きすぎる、って。褒められた。……いや、これ、褒めてるのか。腹の底が、熱い。


「大きくないです。ぼくの話は、ひとりぶんです。ひとりに、読まれれば」


「わたしは、消えます」


息が、詰まった。消える、って。この人が。いま、ぼくのシャツを、引いてる、この人が。


「わたしが消えたら。……あなたの消した話を、覚えている人が、いなくなります」


「消させない」


「切る、切らないは、あなたのものです。わたしのものでは、ありません」


ぼくのもの。ぼくのものばっかりだ。手も、底も、この人も。ぼくのだって言うなら、なんで、ぼくの言うこと、聞いてくれないんだ。


袖が、薄い。言い返す途中で、目が、そっちへ行った。袖から、指が出ていない。底で引っこんだまま、出てこない。この人は、へりに立つたび、減ってる。


「じゃあ、どうしろって」


「わたしが、上へ行きます」


綴さんが、綱の消えた空を向いた。


「手の糸を、戻してもらいに。あなたの手の」


「戻るんですか。切られたのが」


「戻らないと、言われるかもしれません。戻れば、あなたの話は、また、巻かれます」


巻かれる。この人の欲は、そこにつながってる。ぼくの手に。


「それでも、訊きます。わたしが」


わたしが、って。訊かないのは、ぼくだ。訊いたら、答えが来る。来る答えが、こわい。それだけだ。


「待って。待ってください。上に、綴さんが。ひとりで? 呼ばれてないのに。綱は、上が受けた人にしか」


「おれが言いに行く」


絣だった。頭のほうを見て、顎を上げた。


「借りだぞ。でかいやつな。頭。綱、もう一回、来るか」


頭が、絣を見た。それから、空を見た。


「わたしの用は、済みました。あなたの頼みなら、上は、聞くかもしれません。聞かないかもしれません」


絣は、答えを待たなかった。床のまんなかで空を見上げて、両手を口に当てて、吸った。


「おい、上! 下の者だ! 頼みがある!」


声が、糸巻きの音の中へ、吸われた。音は、太さを変えない。……変えた。綱が、下りてくる。輪が、石の上で、一度跳ねた。


絣が、輪を自分の腰に回した。弦八さんが、黙って、結んだ。


「言ってくる。待ってろ」


綱が、張った。絣の足が、石を離れて、上がっていった。


待った。糸巻きの音は、何度か、太くなって、戻った。頭は、石の上に、座った。小さく。与太は、立ったまま。


綴さんは、ぼくのシャツを、離さなかった。


「上で、ぼくの悪口、言わないでくださいね」


言ったのは、ぼくだ。言ってから、顔が熱くなった。なにを言ってるんだ、ぼくは。


「言いません」


短かった。短いのに、袖は、離れなかった。


太い音が、変わった。


綱が、下りてくる。絣が、ぶら下がって。石に足を着けると、弦八さんが、輪をほどいた。


「通った。借り、増えたからな」


弦八さんが、空いた輪を持ち上げた。綴さんが、シャツを離して、輪のほうへ歩いた。足の先で、石を探って。弦八さんの手が、綴さんの腰に、輪を回す。結ぶ。


「ぼくも」


言った。考えるより、先に。


綱の余りに、手を伸ばした。あの日、この人は、こうやって結んだ。ぼくの隣で。


節の太い指が、ぼくの手首を、押さえた。結ぶ前に。


「呼ばれてねえ」


「でも。あの日、ぼくは」


「あの日は、おれが乗せた。呼ばれてねえのを。……その手になった。二度は、せん」


手を、離された。綱を、引いた。動かない。上から、誰かが、押さえている。もう一度、引いた。同じだった。


呼ばれてない。……知ってた。あの日も、呼ばれてはいなかった。乗れたのに。


手を、離した。腰が、落ちた。石の上に、座っていた。頭と、同じ石だ。待てます、と言った人と、同じ高さ。


綱が、張った。綴さんの足が、石を離れた。


「綴さん。上で、なにを」


「訊いてきます」


戻ってくるのか、とは、訊けなかった。


袖が、上がっていく。薄い袖が、糸巻きの音の中へ。灯りのひと並びが、その上に、ある。増えていない。手首を切られてから、ずっと。


袖が、空に、消えた。


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