第25話「運び屋」
「坊主。乗るな」
猫の声だった。シャツの裾を、うしろからかまれていた。綱の端を、つかんだ直後に。
綴さんを上げた綱は、長かった。袖が白の中に消えても、端は、まだ床に垂れていた。弦八さんが、腕を組んで、それを見ていた。
頭が、石から立った。空を、一度見た。
「わたしの番では、ありません」
坂へ。与太が、黙ってついていった。絣も、坂の口で一度こっちを見て、「借り、忘れんなよ」と言って、下りていった。
床に残ったのは、ぼくと、弦八さんと、綱の端だ。立っていた。いつ立ったのか、覚えていない。
綱の先には、綴さんがいる。それだけ、分かってれば、いい。……こわい、と思った。いや。置いていかれたくない、だった。呼ばれてない。知ってる。それでも、つかんだ。乗るんじゃない。登るんだ。手を、上に。
右の手が、滑った。もう一度、握った。肩の手前まで冷えた腕は、どれだけ握っているのか、分からない。分からないまま、腕を引いた。足が、石を離れかけた。
そこを、かまれた。
ふり向いた。まだらの猫が、うしろ足で立って、ぼくの裾を、口にくわえていた。くわえたまま、しゃべった。
「呼ばれてねえ綱に乗ったやつは、帰ってこねえ。忘れんな」
「離して。綴さんが、上に。……ぼくは、帰ってきました。あの日、呼ばれてないのに」
「あれは、あれだ。今日は、おれがいる。離さねえ、坊主」
綱の端が、手の中で、上へ滑った。握った。滑る。冷えた指は、綱を、止められなかった。端が、頭の上を過ぎて、糸巻きの音の中へ、消えた。
手が、空を握った。足が、石に戻った。左の手のひらが、熱い。綱に、こすられたぶんだけ。右は、分からない。
弦八さんが、一歩、出かけていた。猫のほうが、早かった。
「なんで、猫さんが、ここに」
「おれは戸だ、坊主。戸が歩いて、なにが悪い」
猫は、ぼくの裾を離した。歯の跡が、布に、ついている。それから、坂のほうではなく、通路の口のほうへ、うしろ足で歩き出した。ついてこい、とは言わない。ついていった。
通路の板を踏んで、本の匂いを抜けた。戸の手前の敷居に、猫は座った。戸は、閉じている。隙間だけ、細く、明るい。
「坊主。おまえ、おれに、礼を言ったことがねえな」
「え。戸の、ことですか。開けてもらって」
「違う。もっと前だ。……この敷居な、昼はぬくいんだ。隙間から、向こうの日が来る。板が、吸う。こっちの日じゃねえ。寝るには、ここがいちばんいい。おれが決めた。で、なんの話だ。ああ。礼だ」
脱線した。猫が。自分で戻ってきた。
「いちばん古い感想、あったろ。はじめまして、ってやつ」
はじめまして。荷物を先に雨からよける場面が好きです。自分より、先に。
あの字を。この猫が、なんで。
「あの女が書いたもんを、おれが向こうへ運んだ。毎度な。はじめまして、も、会いませんか、もだ」
運んだ。向こうへ。こっちから、向こう岸へ。ぼくの画面に。……待て。猫だぞ。
「運ぶって。どうやって。だって、画面に、出てたんですよ。投稿したすぐあとに。時刻まで」
「どう画面に出すかは、訊くな。おれが猫だってことは、言ったな」
「猫だからって、なんでもできるわけじゃ」
「できる。おれはな。おまえの、最初の読者の字は、おれが運んだ。感謝しろ、坊主」
胸を張った。張りすぎて、敷居から、尻が半分落ちた。前足で、板をつかんで、戻った。胸は、張ったままだった。
「なんですか、それ」
笑った。ぼくが。腹の底から、声が出た。綴さんは上だ。ぼくは、猫に笑ってる。
「ありがとう、ございます」
頭が、下がっていた。敷居の猫に。深く。あの一行を、去年、はじめて読んだ夜のことを、まだ覚えてる。……猫に、頭を下げてる。
「春は? 春の終わりで、止まった。猫さんが、運ばなくなった?」
「寝てた、坊主」
「寝てた、って」
「寝てた。猫は寝る」
尻尾が、一度、振られた。訊くな、の尻尾だ。
訊きたいことが、口の中に、いくつもあった。並んだ。順番を、つけられない。先に出たのは、これだった。
「綴さんの目は、開きますか」
猫は、答えなかった。尻尾だけが、もう一度、板を打った。
「運んでください、もう一回。綴さんが書いたら。書けなくても、言ったら。ぼくが、向こうで、読みますから」
「向こうで、な」
猫は、ぼくを、下から見た。
「おれは、帰れねえ。おまえは、帰れる。それだけだ」
帰れない。猫が。両方の岸にいる、この猫が。
手が、のびていた。猫の背中へ。毛に、指先が、触れた。あたたかい。……猫は、敷居の奥へ、一歩ずれた。手は、板の上に残った。
「帰れないって、どこに」
「書くもんも、ねえ。あの女には、いまは」
答えじゃない。別のことを言って、目を閉じた。
帰れないものが、いる。ここに。上に行った人が、戻ってこなかったら。……それを、ずっと、考えないでいた。あの日、戻ってくるのか、と訊けなかったのは、そのせいだ。
太い音が、通路の口から、入ってきた。
綱だ。下りてくる音。
走った。通路の口を出て、石だけの床へ。
綱が、下りてくる。その先に、袖。薄い袖が、白の中から、下りてくる。
戻ってきた。
足が、石に着いた。弦八さんが、腰の輪をほどく。綴さんは、立っていた。倒れなかった。弦八さんは、輪を持ったまま、綴さんの隣に、いた。
「綴さん」
顔が、ぼくのほうを向いた。閉じたまぶた。
「上は。手の糸は、戻るって、言いましたか」
「……」
袖が、長く見えた。上がる前より。袖が伸びたんじゃない。中が、減ったんだ。見えなくても、分かる。
減った。……なんで。上で、なにを、置いてきたんだ。
「綴さん。上で、なにを置いてきましたか」
訊いた。訊いてしまった。
「……言えません。まだ」
まだ。言える日が、あるってことだ。それとも。……それとも、は、考えない。聞きたい。こわい。両方、いっぺんに来た。
綴さんの手が、袖の中から、ぼくのシャツを探して、肘の上を引いた。戻ってきた。手は、ここにある。
「帰ります。今日は、もう。……綴さんは、土間まで、帰れますか」
「弦八さんが、います」
弦八さんが、綴さんの手を取った。ぼくの、シャツから。坂へ。ふり向かなかった。
通路の口へ、ひとりで歩いた。
敷居に、猫がいた。丸くなって、腹だけが、ゆっくり、上がったり、下がったりしている。
そばに立っても、猫は、目を開けなかった。目を開けないまま、背中で、戸を押した。隙間が、広がる。夕方の色が、板の上に、のびた。
あの夜の、戸の前と、同じだった。
敷居を、またいだ。ふり返った。猫の背中が、まるい影で、暗がりに残っていた。




