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八十八回目の夏 〜ぜんぶ読んでいた人が、ひとりだけいた〜  作者: ざわん


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第25話「運び屋」

「坊主。乗るな」


猫の声だった。シャツの裾を、うしろからかまれていた。綱の端を、つかんだ直後に。


綴《つづり》さんを上げた綱は、長かった。袖が白の中に消えても、端は、まだ床に垂れていた。弦八《げんぱち》さんが、腕を組んで、それを見ていた。


頭《かしら》が、石から立った。空を、一度見た。


「わたしの番では、ありません」


坂へ。与太《よた》が、黙ってついていった。絣《かすり》も、坂の口で一度こっちを見て、「借り、忘れんなよ」と言って、下りていった。


床に残ったのは、ぼくと、弦八さんと、綱の端だ。立っていた。いつ立ったのか、覚えていない。


綱の先には、綴さんがいる。それだけ、分かってれば、いい。……こわい、と思った。いや。置いていかれたくない、だった。呼ばれてない。知ってる。それでも、つかんだ。乗るんじゃない。登るんだ。手を、上に。


右の手が、滑った。もう一度、握った。肩の手前まで冷えた腕は、どれだけ握っているのか、分からない。分からないまま、腕を引いた。足が、石を離れかけた。


そこを、かまれた。


ふり向いた。まだらの猫が、うしろ足で立って、ぼくの裾を、口にくわえていた。くわえたまま、しゃべった。


「呼ばれてねえ綱に乗ったやつは、帰ってこねえ。忘れんな」


「離して。綴さんが、上に。……ぼくは、帰ってきました。あの日、呼ばれてないのに」


「あれは、あれだ。今日は、おれがいる。離さねえ、坊主」


綱の端が、手の中で、上へ滑った。握った。滑る。冷えた指は、綱を、止められなかった。端が、頭の上を過ぎて、糸巻きの音の中へ、消えた。


手が、空を握った。足が、石に戻った。左の手のひらが、熱い。綱に、こすられたぶんだけ。右は、分からない。


弦八さんが、一歩、出かけていた。猫のほうが、早かった。


「なんで、猫さんが、ここに」


「おれは戸だ、坊主。戸が歩いて、なにが悪い」


猫は、ぼくの裾を離した。歯の跡が、布に、ついている。それから、坂のほうではなく、通路の口のほうへ、うしろ足で歩き出した。ついてこい、とは言わない。ついていった。


通路の板を踏んで、本の匂いを抜けた。戸の手前の敷居に、猫は座った。戸は、閉じている。隙間だけ、細く、明るい。


「坊主。おまえ、おれに、礼を言ったことがねえな」


「え。戸の、ことですか。開けてもらって」


「違う。もっと前だ。……この敷居な、昼はぬくいんだ。隙間から、向こうの日が来る。板が、吸う。こっちの日じゃねえ。寝るには、ここがいちばんいい。おれが決めた。で、なんの話だ。ああ。礼だ」


脱線した。猫が。自分で戻ってきた。


「いちばん古い感想、あったろ。はじめまして、ってやつ」


はじめまして。荷物を先に雨からよける場面が好きです。自分より、先に。


あの字を。この猫が、なんで。


「あの女が書いたもんを、おれが向こうへ運んだ。毎度な。はじめまして、も、会いませんか、もだ」


運んだ。向こうへ。こっちから、向こう岸へ。ぼくの画面に。……待て。猫だぞ。


「運ぶって。どうやって。だって、画面に、出てたんですよ。投稿したすぐあとに。時刻まで」


「どう画面に出すかは、訊くな。おれが猫だってことは、言ったな」


「猫だからって、なんでもできるわけじゃ」


「できる。おれはな。おまえの、最初の読者の字は、おれが運んだ。感謝しろ、坊主」


胸を張った。張りすぎて、敷居から、尻が半分落ちた。前足で、板をつかんで、戻った。胸は、張ったままだった。


「なんですか、それ」


笑った。ぼくが。腹の底から、声が出た。綴さんは上だ。ぼくは、猫に笑ってる。


「ありがとう、ございます」


頭が、下がっていた。敷居の猫に。深く。あの一行を、去年、はじめて読んだ夜のことを、まだ覚えてる。……猫に、頭を下げてる。


「春は? 春の終わりで、止まった。猫さんが、運ばなくなった?」


「寝てた、坊主」


「寝てた、って」


「寝てた。猫は寝る」


尻尾が、一度、振られた。訊くな、の尻尾だ。


訊きたいことが、口の中に、いくつもあった。並んだ。順番を、つけられない。先に出たのは、これだった。


「綴さんの目は、開きますか」


猫は、答えなかった。尻尾だけが、もう一度、板を打った。


「運んでください、もう一回。綴さんが書いたら。書けなくても、言ったら。ぼくが、向こうで、読みますから」


「向こうで、な」


猫は、ぼくを、下から見た。


「おれは、帰れねえ。おまえは、帰れる。それだけだ」


帰れない。猫が。両方の岸にいる、この猫が。


手が、のびていた。猫の背中へ。毛に、指先が、触れた。あたたかい。……猫は、敷居の奥へ、一歩ずれた。手は、板の上に残った。


「帰れないって、どこに」


「書くもんも、ねえ。あの女には、いまは」


答えじゃない。別のことを言って、目を閉じた。


帰れないものが、いる。ここに。上に行った人が、戻ってこなかったら。……それを、ずっと、考えないでいた。あの日、戻ってくるのか、と訊けなかったのは、そのせいだ。


太い音が、通路の口から、入ってきた。


綱だ。下りてくる音。


走った。通路の口を出て、石だけの床へ。


綱が、下りてくる。その先に、袖。薄い袖が、白の中から、下りてくる。


戻ってきた。


足が、石に着いた。弦八さんが、腰の輪をほどく。綴さんは、立っていた。倒れなかった。弦八さんは、輪を持ったまま、綴さんの隣に、いた。


「綴さん」


顔が、ぼくのほうを向いた。閉じたまぶた。


「上は。手の糸は、戻るって、言いましたか」


「……」


袖が、長く見えた。上がる前より。袖が伸びたんじゃない。中が、減ったんだ。見えなくても、分かる。


減った。……なんで。上で、なにを、置いてきたんだ。


「綴さん。上で、なにを置いてきましたか」


訊いた。訊いてしまった。


「……言えません。まだ」


まだ。言える日が、あるってことだ。それとも。……それとも、は、考えない。聞きたい。こわい。両方、いっぺんに来た。


綴さんの手が、袖の中から、ぼくのシャツを探して、肘の上を引いた。戻ってきた。手は、ここにある。


「帰ります。今日は、もう。……綴さんは、土間まで、帰れますか」


「弦八さんが、います」


弦八さんが、綴さんの手を取った。ぼくの、シャツから。坂へ。ふり向かなかった。


通路の口へ、ひとりで歩いた。


敷居に、猫がいた。丸くなって、腹だけが、ゆっくり、上がったり、下がったりしている。


そばに立っても、猫は、目を開けなかった。目を開けないまま、背中で、戸を押した。隙間が、広がる。夕方の色が、板の上に、のびた。


あの夜の、戸の前と、同じだった。


敷居を、またいだ。ふり返った。猫の背中が、まるい影で、暗がりに残っていた。


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